魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十四話
ほむらが海の向こうへ発って、何日か経った朝だった。
杏子が目を覚ましてリビングに出ると、玲佳は、もうダイニングテーブルについていた。
窓の外の、明るくなりかけた空を見ていた。手の中に、焼いていない食パンが一枚、端だけかじられて持たれていた。
「おはよ」
声をかけると、玲佳がこちらを向いた。
紅い目が、杏子の顔の上で止まり、しばらく動かなかった。知らない人の顔を、確かめているような目だった。
「……おはよう」
一瞬遅れて、返事があった。
杏子は冷蔵庫から牛乳を出しながら、玲佳の頭に目をやった。
髪が、結ばれていた。
うなじのところで一つに。紺色のゴムに、銀色の、小さな星の飾りがついている。星の角が一つ、欠けていた。
玲佳が髪を結ぶのは、寝るときと、体育のある日だけだった。朝は、洗面所でほどいてから出てくる。一緒に暮らしはじめてから、一度もそれが崩れたことはなかった。
それに、あんな飾りのついたゴムを、玲佳が持っているのを見たことがなかった。
パンを焼かずにかじるのも、杏子の癖だった。玲佳は毎朝それを見て、せめて焼けば、と眉をひそめるのに。
寝ぼけてるだけか、と杏子は思った。
向かいの椅子に座って、胸の前で手を組んだ。短く目を閉じて、それからパンに手を伸ばした。
目を開けると、玲佳が、じっとこちらを見ていた。
祈っている杏子を、珍しいものでも見るように。
玲佳はインスタントのコーヒーに、砂糖を三杯入れた。
杏子はパンをかじる手を止めた。玲佳はコーヒーに何も入れない。苦いはずなのに、平気な顔で飲む。
スプーンでかき混ぜて、一口すすって、玲佳は小さく、甘い、と呟いた。
懐かしそうな声だった。
夜になると、髪はほどけていて、コーヒーには何も入れず、杏子の顔を見ると、何も考えずに杏子、と呼んだ。
やっぱり、寝ぼけてたんだろう。
杏子はそう思うことにした。
次の朝も、同じだった。
星の飾りのゴムで、髪を結んでいた。砂糖を、三杯入れた。杏子のおはように、一瞬遅れて返事をした。
杏子はパンを持ったまま、訊いてみた。
「なあ、玲佳。その髪ゴム、どこで買ったんだ?」
玲佳の手が、うなじの星に触れた。
欠けた角を、指の腹でそっとなぞった。
「……もらった」
「誰に」
玲佳は、答えなかった。
窓の外を見ていた。明るくなりきった空には、もう星は一つも残っていなかった。
杏子が、冗談めかして何か言った。昨日のさやかの稽古の話だった。自分で言って、自分で笑った。
玲佳の顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
笑い声を聞いて、どこかが痛んだような顔だった。
玲佳はパンを半分残して立ち上がった。鞄を持って、玄関へ向かう。
いってきます、とは、言わなかった。
ドアが閉まる音を聞きながら、杏子は、テーブルの上の残されたパンを見ていた。
倉庫街の夜のことを、マミから聞いた。自分が死んだと思っただけで、玲佳はあそこまで壊れた。
何かが、おかしい。
訊けば、答えてくれるのかもしれない。
訊いたせいで、また何かが壊れるのかもしれない。
杏子は玲佳の残したパンを手に取った。
食べ物は、粗末にしない。
黙って、全部食べた。
*
結界の中は、湿った土の匂いがした。
玲佳はぬかるんだ道を歩いていた。右手に、剣を握っている。刃の形をしているのは、炎だった。燃え盛る火を無理やり押し固めて、剣の形に鍛え直したような代物。楽園の門の前に置かれ、命の木へ続く道を守っていたという、炎の剣。その、小さな写しだった。
足元の泥が、剣の熱で乾いてひび割れていく。
前方の茂みから、蛙のような姿の使い魔が二匹、跳びかかってきた。
玲佳は剣を横に払った。
鉄をも溶かす炎が、一匹目を上下二つに分けた。返す刃で、二匹目も焼き切る。焦げた匂いが、湿った空気に混じった。
「……っ」
こめかみの奥が、締めつけられるように痛んだ。
最近、ずっとこうだった。魔法を使うと、頭が痛む。誰かに、何かを言われたときにも。家の浴室で、パネルの時刻を見たあの夜から、この痛みは頭の奥のどこかに、ずっと潜んでいた。
玲佳は眉間に皺を寄せたまま、先へ進んだ。
泥の道の先に、魔女がいた。
異形とも、小柄な人の形ともつかない、ぐにゃりと歪んだ影。
玲佳は一歩踏み込んだ。二歩目で、地面を蹴った。砲弾のような速さで、間合いを詰める。魔女が何かをしようと身をよじったときには、もう、炎の剣がその身体を肩から斜めに断ち割っていた。
崩れ落ちた魔女の跡に、グリーフシードが一つ転がった。
玲佳はそれを拾い上げ、崩れていく結界から、夜の路地裏へ出た。
変身を解いた。
頭の痛みが、すっと引いた。
やっぱり、おかしい。今までにも、頭痛は何度かあった。けれど、いつも一瞬で消えた。今夜のは、変身している間じゅう、ずっと続いていた。
「玲佳か」
背後から、声がした。
振り返ると、杏子が路地の入口に立っていた。
「なんだ、先越されたか。遅かったな、あたし」
「ごめん。杏子、グリーフシード、いる?」
「謝んなって。魔女倒したのは玲佳だろ。だったら、それは玲佳のもんだよ」
玲佳はグリーフシードを上着のポケットにしまった。
そのとき、二人の指輪が、同時に熱を持った。路地の、さらに奥からだった。
「今日は、やけに多いな」
「確かに」
並んで、路地の奥へ歩き出す。
街灯の間隔が、少しずつ広くなっていく。杏子が、ふと、思い出したように言った。
「そういや、玲佳さ。昨日の朝も今朝も、髪、結んだまま飯食ってたろ」
「寝るときは、前から結んでるけど」
「そうじゃなくてさ。起きてからも、ずっと。星の飾りのついたゴムで、きっちり結んでたじゃん。角が一個、欠けてるやつ」
玲佳は横を歩く杏子を見た。
星の飾り。角の欠けた、星。
自分の髪に、指を通した。そんなゴムは、持っていない。使っているのは、この前買った、飾りも何もない黒いゴムだけのはずだった。
寝るときに束ねる。体育のある日に束ねる。朝は、ほどいてから家を出る。
いつも、そうしているはずだった。
「いや——」
杏子の声が、続いた。
その瞬間、胃の底に、黒いものがじわりと広がった。心臓が、急に速く打ちはじめる。聞いてはいけない、と身体のどこかが叫んでいた。その先を、聞いてはいけない。
「——そんな癖、あったか?」
頭の中で、何かが割れた。
*
玲佳の身体が、糸の切れた人形みたいに崩れ落ちた。
杏子はとっさに腕を伸ばして、それを抱き止めた。
「お、おい! 玲佳!?」
腕の中の玲佳は、ぐったりとして動かなかった。目は開いているのに、どこも見ていなかった。
何が起きたのか、わからなかった。自分が、何か言ったからか。髪のことなんか、訊いたからか。
あたしのせいか。
その考えが頭に貼りついて、杏子の手足を重くした。
「わ……し……く……ない」
玲佳の唇が、動いていた。
声になっていなかった。唇だけが、何かの形を繰り返している。
「……し……たく……ない」
「なんだよ、玲佳。何て言って——」
「死に、たくない」
はっきりと、聞こえた。
次の瞬間、杏子の身体は横ざまに吹き飛んでいた。
蹴られた、とわかったのは、路地のコンクリートの壁に背中から叩きつけられた後だった。左の脇腹で、何かが砕ける嫌な音がした。息が、吸えなかった。後頭部を打ったせいで、視界が白く明滅する。
「死にたくない! 死にたくない、死にたくない!」
玲佳が、叫んでいた。
両手で頭を抱えて、腰の下まである白い髪を振り乱して。誰かに言い聞かせるように、同じ言葉を何度も繰り返していた。
杏子は壁にもたれたまま、ずるずると地面に崩れた。
何が。どうして。
その言葉だけが、頭の中を埋め尽くしていた。脇腹の激痛が、考えることを邪魔した。身体が、動かなかった。
玲佳が、こちらを向いた。
芯の抜けたような足取りで、ゆらり、ゆらりと近づいてくる。
その顔を見て、杏子は息を呑んだ。
玲佳の顔だった。けれど、玲佳ではない誰かが、その顔の内側から覗いているようだった。
「い……や……っ」
玲佳の喉から、かすれた声が漏れた。
仰向けに倒れた杏子の上に、玲佳が馬乗りになった。
紅い目に、涙が溢れていた。唇が、震えていた。怒っているのか、怯えているのか、悲しんでいるのか。全部がいっぺんに浮かんでは消えて、どれ一つとして形にならなかった。
白い両手が、杏子の首にかかった。
締まった。
万力で挟まれたような力だった。喉が潰れて、息も声も出なくなる。杏子は玲佳の手首を掴んだ。びくともしなかった。
「が……っ、は……れ、いか……」
玲佳の顔が、歪んだ。
首を絞める手の力は、少しも緩まなかった。それなのに、その顔は、首を絞められているのが自分であるかのように苦しそうだった。
大粒の涙が、杏子の頬に落ちてきた。
一粒。また一粒。
なあ、玲佳。
あたし、なんかしちまったか。
教えてくれよ。謝るからさ。
視界の端から、黒いものが滲んできた。玲佳の顔が、遠くなっていく。
最後に見えたのは、白い髪の向こうで泣いている、玲佳の顔だった。
*
首から、手を離した。
赤い髪の少女は、目を閉じて動かなくなっていた。首に、指の形が赤く残っている。胸が、浅く上下していた。
生きていた。
彼女は自分の両手を見下ろした。
白い手だった。震えていた。
死にたくない。
その気持ちは、確かに自分のものだった。この子がそばにいると、自分は消えてしまう。この子が笑うたびに、自分の輪郭が薄くなる。だから、遠ざけなければならなかった。それだけのはずだった。
それなのに、手が震えている。
傷つけたくなかった。
その気持ちも、確かに、どこかから溢れてきていた。自分のものなのか、そうでないのか、わからなかった。
死にたくない。
傷つけたくない。
どちらを取ればいいのか。どちらを、取りたいのか。
彼女には、もうわからなかった。
頬を伝った涙が、顎の先から落ちて、赤い髪の少女の頬の上で、先に落ちた涙と混ざり合った。