魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十五話
暗い水の中を、沈んでいた。
上も下も、わからなかった。ただ、身体が重かった。見えない手に、四方から押し潰されているような重さだった。それなのに、頭の中だけは、妙に澄んでいた。
ここがどこなのか、わからなかった。
どうしてここにいるのかも、わからなかった。
わからなくても、構わなかった。潜らなければならない。沈まなければならない。それだけは、なぜか知っていた。
鉛のような腕で、水をかいた。身体が、さらに深く沈んでいく。深くなるほど、重さが増していく。
どれくらい、そうしていたのかわからない。
小さく息を吐くと、泡が一つ生まれて、もう見えなくなった水面のほうへ昇っていった。
下のほうに、何かがあった。
黒かった。暗い水の中でも、それがさらに黒いことだけはわかった。靄のように揺らいで、形が定まらない。見ているだけで、胸の奥がざわついた。近づきたくない。近づきたい。どちらの気持ちも、同じくらい強かった。
動かない腕を、無理やり伸ばした。
指先が、その黒いものに触れて——
*
弾かれたように、目が覚めた。
玲佳はリビングのソファに横たわっていた。部屋は暗く、壁の時計の針だけが、窓から差す街の光を受けて鈍く光っていた。
午前二時を、回っていた。
どうして、ソファにいるのか。
路地裏で、杏子と歩いていた。杏子が、髪の話をした。星の飾りのゴム、と言った。そんな癖、あったか、と。
そこから先が、なかった。
杏子が、運んでくれたのだろうか。
そう考えて、玲佳は首を傾げた。部屋の中に、杏子の気配がしなかった。
起き上がって、部屋を一つずつ見て回った。杏子の部屋のドアを開ける。ベッドは、空だった。枕元のぬいぐるみが、暗がりの中でこちらを向いていた。洗面所にも、浴室にも、誰もいなかった。
こんな時間に、出かける用事などないはずだった。
玲佳はリビングに戻った。
探しに行かなければ、と思った。杏子は強い。一人で夜の街を歩いたところで、滅多なことはない。それはわかっている。わかっていても、探しに行くべきだった。
立ち上がろうとして、膝から力が抜けた。
身体が、急に重くなった。さっきの暗い水の中と、同じ重さだった。瞼が、勝手に下りてくる。
寝ろ。
頭の、ずっと奥のほうから、誰かにそう命じられたような気がした。
玲佳はソファの上に倒れ込んだ。抗う間もなかった。夢も見ない、深い眠りだった。
次に目を開けたとき、窓の外は白んでいた。
玲佳は、跳ね起きた。
部屋の中は、しんとしていた。玄関に、杏子の靴はなかった。
「……まだ、帰ってない」
髪をかき上げようとして、指が何かに引っかかった。
髪が、束ねられていた。
寝る前に、束ねた覚えはなかった。玲佳はうなじの結び目に指をかけて、ゴムを引き抜いた。
掌の上に、見覚えのない髪ゴムが載っていた。
細い紺色のゴムに、小さな星の飾りが一つ、ついていた。銀色の、五つの角を持つ星。角の一つが、少しだけ欠けていた。
星の飾りのついたゴム。
杏子が言っていたのは、これだった。
玲佳はそれを握りしめた。手のひらに、欠けた星の角が食い込んだ。
こんなものは、知らない。持っていない。どこで手に入れたのかも、いつ髪を結んだのかも、何一つ覚えていない。
それなのに、確かにここにある。
玲佳は髪ゴムを上着のポケットに押し込んだ。考えるのは、後だった。今は、杏子を探さなければならない。
夜が明けたばかりの街を、玲佳は走り回った。
昨日の路地裏。杏子がよく行くゲームセンター。駅前のファストフード店。二十四時間営業のスーパー。川沿いの土手。どこにも、赤い髪はなかった。
手がかりすら、見つからなかった。
始業のベルが鳴る前に、玲佳は学校へ来ていた。自分の席に座り、深く息を吐く。
マミの家に、いるのかもしれない。
考えられるのは、そこしかなかった。杏子がマミの家に行く用事など、思いつかない。それでも、ほかにもう心当たりがなかった。
学校で、マミに直接訊けばいい。
玲佳は壁の時計を見た。ホームルームまで、まだ三十分以上あった。
席を立って、教室を出た。
隣の教室の扉を開ける。朝の早い教室には、まだ半分ほどしか生徒がいなかった。
金色の巻き髪は、どこにもなかった。
扉のそばにいた生徒に訊くと、巴さんなら今日は休みだって先生に連絡があったらしい、と教えてくれた。
*
前の日の、夜七時だった。
巴マミは、一人で街を歩いていた。魔女を探して、もう一時間近く経っている。ソウルジェムは、まだ一度も反応していなかった。
見上げると、星が出ていた。この街の空には、いつも星が多い。
暁美さんの言葉を、マミは思い出していた。
魔法少女が魔女になるのなら、いっそ死んだほうがいいじゃない。部屋の隅で膝を抱えてそう言った自分に、暁美さんは言った。
あなたが魔女を倒すことで、救われる命がある。それは、何も変わらない。
何のために戦ってきたのか。どうして、戦い続けてきたのか。あの言葉で、それを思い出すことができた。
「……そうよね」
呟いたとき、指輪が熱を持った。
魔女の気配だった。遠くない。マミは人通りの絶えた道を走り出した。
気配をたどった先に、路地の入口があった。
マミは暗い路地へ踏み込んだ。何歩か進んだところで、足を止めた。
地面に、何かが横たわっていた。
暗くて、よく見えなかった。人の形をしていた。長い髪が、アスファルトの上に広がっていた。
赤い髪だった。
「佐倉さん!?」
駆け寄って、膝をついた。
杏子だった。目を閉じて、ぐったりとしている。呼んでも、返事がなかった。口元に手をかざすと、かすかに息があった。
すぐ横のコンクリートの壁に、大きな亀裂が走っていた。
魔女の気配は、いつの間にか消えていた。マミはそれを追わなかった。杏子の身体を背負って、路地を出た。
家のベッドに寝かせて、マミは杏子の傷を診た。
息を呑んだ。
左半身が、ひどいことになっていた。肋骨が何本も砕けていて、その奥の臓器まで傷ついている。右の脇腹にも、打たれたような痣があった。
右から、とてつもない力で一撃を受けて、左へ吹き飛ばされた。そして、あの壁に叩きつけられた。そういう傷だった。
マミは杏子の身体に掌を当てた。黄色い光が、傷の奥へ染み込んでいく。
治しながら、マミは杏子の首に目をやった。
首のまわりに、赤黒い痕が残っていた。指の形をしていた。
一時間ほど経って、杏子が目を開けた。
「う……あ……なんだ……?」
「佐倉さん。痛いところは、ない?」
杏子はぼんやりと天井を見上げていた。それから、ゆっくりと首を巡らせて、部屋の中を見た。
「……マミん家か。……ああ。ない、よ」
「よかった」
マミはほっと息をついた。
「ねえ、佐倉さん。どうして、あんなところに倒れていたの?」
「どうしてって——」
杏子の言葉が、途切れた。
息が、詰まったようだった。杏子の目が、大きく見開かれて、何かを見ていた。天井ではない、どこか別の場所を。
長い沈黙があった。
杏子はマミから顔を背けた。
「……情けない話だよ。油断して、魔女にやられた。結局、魔女も取り逃がしちまったし」
声が、震えていた。
マミは杏子の首の痕を見た。指の形の、赤黒い痕。
魔女は、首を手で絞めたりしない。
どこかの魔法少女にやられたのだろう、とマミは思った。縄張り争いか何かで、負けたのかもしれない。それを口にしないのは、杏子の意地だろう。
それなら、訊かないでおこう、とマミは決めた。首の痕のことは、自分の胸にしまっておく。
「如月さんに、連絡しておくわね。心配しているでしょうから、来てもらって——」
「やめてくれ!」
杏子が、叫んだ。
マミは驚いて杏子の顔を見た。
「……玲佳には、言わないでくれ」
杏子は掛け布団を握りしめていた。
「こんな情けないとこ、見られたくないんだよ。前にも言ったろ。玲佳には、迷惑かけたくないって」
マミはしばらく杏子の顔を見ていた。
それが本当の理由のすべてではないことは、なんとなくわかった。けれど、それを口に出すのは、やめておいた。
「……わかったわ」
杏子はほっとしたように目を閉じた。
しばらくして、杏子が、布団の中から小さな声で言った。
「なあ、マミ。……手、握っててくれないか」
マミは、目を丸くした。
「震えて、止まんないんだよ」
布団の端から、杏子の手が出ていた。
マミはその手を両手でそっと包んだ。
冷たかった。細かく、ずっと震えていた。
「怖いの?」
杏子は何も言わなかった。
ただ、小さく一度だけ、頷いた。
マミは握った手に力を込めた。昔、二人で一緒に戦っていた頃にも、こうしてこの子の手を握った夜があった。