魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十六話
カーテン越しの西日が、寝室の床を橙色に染めていた。
巴マミは、ベッドの縁に腰を下ろした。布団の中で、杏子が目を閉じていた。
「佐倉さん。起きてる?」
「……ああ。起きてるよ」
杏子は目を開けて、天井を見つめた。しばらくそうしてから、また瞼を下ろした。
傷は、もうほとんど塞がっていた。けれど、杏子は今日一日、ほとんどベッドから出なかった。昼に作ったおかゆも、半分残した。あの杏子が、食べ物を残した。
「如月さん、とても心配していたわよ」
マミは膝の上で手を重ねた。
「お昼に、電話があったの。杏子を見ていないか、見かけたらすぐに知らせてほしいって。……声が、少し震えていたわ」
布団の中で、杏子の肩が小さく動いた。
「いつまでも、隠しておけることじゃないと思うの」
杏子は、黙っていた。
口を閉じたまま、奥歯を噛みしめているのが、頬の動きでわかった。
「……わかってるよ」
長い沈黙の後で、杏子はようやく言った。
「わかってる。あたしだって。……でも、もうちょっとだけ待ってくれ。覚悟が決まったら、ちゃんと玲佳と話をつけるからさ」
覚悟。
その言葉に、マミは何か引っかかるものを感じた。
玲佳に、自分が魔女にやられたと打ち明けるのに、覚悟などいるのだろうか。情けないところを見られたくない。それだけなら、覚悟という言葉は、少し重すぎる。
首の、指の形の痕が、頭をよぎった。
マミはその考えを途中で打ち切った。
わからなくていい。わかったところで、どうにもならない。それに、そんなはずはないのだから。
「……わかったわ」
マミは、立ち上がった。胸の奥の靄を、早く振り払ってしまいたかった。
「夕ご飯、作ってくるわね」
「あたしも行く。ずっと寝てるわけにもいかないしな」
杏子が、布団を押しのけて起き上がった。
台所で、鍋のスープがことことと音を立てはじめた頃、インターフォンが鳴った。
マミはコンロの火を弱めた。杏子と、目が合った。杏子の顔から、すっと血の気が引いていた。
マミは、唇に指を当ててみせてから、玄関の脇の画面の前に立った。
白い髪が、映っていた。
「あら、如月さん。どうしたの? 今日は、誰も来ていないわよ」
画面の中の玲佳は、まっすぐにカメラのほうを見ていた。
『杏子のこと。結局、見た?』
声が、スピーカーを通してざらついていた。
『いるとしたら、あなたの家かと思って』
マミは背筋に冷たいものを感じた。
この子は、ほとんど気づいている。
「もし来ていたら、真っ先に連絡するわ。私も今日、心当たりをずいぶん探してみたけれど、見つからなかったの」
声は、震えていないだろうか。
画面越しとはいえ、この子に半端な嘘が通じるとは思えなかった。
玲佳はしばらく黙っていた。紅い目が、画面の向こうからマミを見透かしているようだった。
『本当に?』
マミは、答えなかった。口を開けば、声が揺れる気がした。
『……いい。今のは、忘れて』
「そう? それじゃあ、切るわね。気をつけて帰って」
返事を待たずに、通話を切った。
画面が、暗くなった。
マミは壁に手をついて、長く息を吐いた。この画面越しの応対を、今まで面倒だと思っていた。今日、初めてありがたいと思った。
「……直接顔を合わせていたら、危なかったわ」
台所の入口で、杏子が、壁にもたれて俯いていた。
*
マミのマンションのエントランスを出て、玲佳は一度だけ上を見上げた。
十数階上の、マミの部屋の窓。明かりが点いていた。
杏子は、あそこにいる。
根拠は、なかった。マミの声は、落ち着いていた。嘘をついているようには、聞こえなかった。それなのに、玲佳にはわかった。
杏子がマミの家へ運ばれていくところを、どこかで見ていたかのように。
「っ……」
こめかみに、鋭い痛みが走った。
一瞬だった。痛みは、すぐに引いた。
玲佳はマミの部屋の窓から目を逸らして、歩き出した。
杏子が、自分から会いに来ない。マミに匿われていることを、自分に知らせようとしない。
それが何を意味するのか、考えたくなかった。
日が、沈みかけていた。
近くの公園のベンチに腰を下ろしてから、どれくらい経ったのか。右手の薬指が、熱を持った。
魔女の気配だった。
玲佳は、顔を上げた。南の方角。二キロほど先の、工場地帯のあたり。
立ち上がった。
「……行こう」
*
「さやかちゃん、あれって……」
「うん。魔女の口づけだね」
夕暮れの歩道を、何人もの大人たちが、同じ方角へ向かって歩いていた。スーツ姿の男の人も、買い物袋を提げた女の人も。みんな、首筋に同じ印を浮かべて、夢の中にいるような足取りだった。
まどかとさやかは、その後をつけていた。
見覚えのある光景だった。
あの夜、仁美も、こうして倉庫へ歩いていった。首筋に、同じ印をつけて。
「なんで……」
まどかの口から、呟きが漏れた。
あの夜の魔女は、さやかが倒したはずだった。
「まどか。着いたよ」
肩を叩かれて、まどかは我に返った。
工場地帯の外れの、古い倉庫の前だった。大人たちが、一人ずつ、開いたシャッターの暗がりの中へ吸い込まれていく。
「さやかちゃん。ここの魔女って、もしかして……」
「たぶんね」
さやかは倉庫の暗がりを睨んでいた。
「あたしが倒した魔女の、使い魔。……あいつが逃がしたやつが、育ったんだと思う」
まどかは何も言えなかった。
さやかが言う「あいつ」が誰のことなのか、訊かなくてもわかった。
「まどかも、入る?」
少し迷ってから、まどかは頷いた。
*
結界の中は、青かった。
壁一面に、四角い画面が浮かんでいた。何十も、何百も。その一つ一つが、ちらちらと明滅している。
玲佳はその真ん中に立っていた。
魔女の気配を追って、ここまで来た。けれど、魔女の姿を探すより先に、足が止まっていた。
目の前の画面に、何かが映っていた。
路地裏だった。
夜の路地裏の、アスファルトの上。誰かが、仰向けに倒れている。赤い髪が、地面に広がっていた。
杏子だった。
その首に、手がかかっていた。
二本の手が、杏子の首を、ぎりぎりと締め上げていた。杏子の顔が、苦しそうに歪んでいる。唇が、何かを言おうとして動いていた。
玲佳は、その手を見た。
白い手だった。
異常なほど、白い手だった。何年も前から見てきた。毎日、見慣れている手だった。
画面の中の視点は、その手の持ち主の目の高さにあった。
自分の、目の高さに。
「あ……」
違う。
そんなはずはない。そんなこと、あってはならない。
杏子を、自分が。
そう打ち消そうとしたとき、画面の映像ではないものが、頭の奥から溢れ出してきた。
掌の下で、脈打っていた杏子の喉の感触。
指に伝わってきた、骨の軋む感触。
杏子の頬に、自分の涙が落ちていく光景。
知らなかった。覚えていなかった。それなのに、それは全部、自分の中にあった。画面が見せているものを、自分の記憶が、一つずつ裏付けていった。
「え……あ……なんで。そんな。私が、杏子、を……?」
足元が、崩れていくような気がした。
自分の中の、何か一番大事な柱が、音を立てて折れた。
玲佳の喉から、叫び声がほとばしった。
自分の声だとは、思えなかった。
*
悲鳴が、結界の中に響き渡った。
まどかは画面の林の間を振り返った。
白いものが、こちらへ向かって走ってきた。
玲佳だった。
変身している。白いローブが、ちぎれそうなほど翻っていた。叫んでいた。まどかが今まで聞いたどんな声とも違う、喉を裂くような声だった。紅い目は、何も見ていなかった。
「玲佳さんっ!?」
まどかのすぐ横を、白い影が駆け抜けていった。風が、髪を巻き上げた。
追いかけようと、踏み出した。
目の前に、羽の生えた人形のようなものが立ちはだかった。球体の関節をかくかくと揺らして、へらへらと笑っている。
「きゃっ!」
「まどか、危ない!」
青い閃光が走った。
さやかのサーベルが、人形を上下に断ち割っていた。
「まどかは、上級生を追って!」
さやかはまどかの背中を押した。
「魔女は、あたしがやっとく!」
「うん!」
まどかは、走り出した。
玲佳が消えた方角へ。画面の林の間を、まっすぐに。
自分には、結界の出入り口を開けることも、閉じることもできない。出口が閉じてしまえば、それで終わりだった。
走った。
息が、すぐに上がった。心臓が、胸の中で暴れている。脚が、重い。それでも、止まらなかった。
結界の端に、ぼんやりと光る裂け目が見えた。
裂け目は、少しずつ狭まっていた。
「間に合って……っ!」
まどかは閉じかけた裂け目に、頭から飛び込んだ。
倉庫の外の地面に、転がり出た。
膝を擦りむいた。手のひらにも、砂利が食い込んでいた。
まどかは肩で息をしながら顔を上げた。
夕闇の中に、白い姿は、どこにもなかった。
「……どこ……?」
どこに、行ったのだろう。
どこを、探せばいい。
考えて。考えて。わかるはずだった。玲佳が一人で行きそうな場所。自分が、知っている場所。
あの人と、初めて会った場所。
「……もしかして」