魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十七話
走りながら、まどかは携帯を耳に当てていた。
呼び出し音が、三回鳴った。
『鹿目さん? どうしたの、こんな時間に』
「マミさん、玲佳さんが……!」
息が切れて、うまく言葉にならなかった。
工場地帯で魔女の口づけを追ったこと。結界の中で、玲佳が叫びながら走り去ったこと。叫び声の中に、杏子の名前が混ざっていたこと。まどかは途切れ途切れにそれを話した。
「マミさん。杏子ちゃん、どこにいるか知ってますか」
電話の向こうが、しんとした。
長い沈黙だった。やがて、マミの小さなため息が聞こえた。
『……佐倉さんは、うちにいるわ』
まどかは足を止めそうになった。
『昨日の夜、路地裏で倒れているところを見つけたの。本人は、魔女にやられたって言っているわ。如月さんには、知らせないでほしいって』
マミはそこで一度言葉を切った。
『怪我は、もう治っているけど……。見つけたとき、首に、指の痕があったの』
まどかは、唇を噛んだ。
結界の中で、玲佳は何かを見ていた。杏子の名前を叫んでいた。自分の両手を、ありえないものを見るような目で見下ろしていた。
「マミさん、ありがとうございます。玲佳さんのところに、行ってきます」
『鹿目さん、待って。一人じゃ——』
まどかは、通話を切った。
そして、また走り出した。
*
薄暗い廊下に、自分の足音だけが響いていた。
あの日、玲佳に手を引かれて出てきた廃ビルだった。長いこと誰も使っていないらしく、壁も床も、埃と汚れにまみれている。割れた窓から、街灯の光がわずかに差し込んでいた。
床の埃の上に、足跡が続いていた。
引きずるような足跡だった。まどかは、それを追った。
廊下を抜けて、階段を上る。踊り場を曲がった先の、一枚の扉の前で、足跡は途切れていた。
ドアノブに、手をかけた。
鍵は、かかっていなかった。
「……玲佳さん」
扉を開けて、まどかは小さく言った。
「やっぱり、ここにいたんですね」
がらんとした部屋だった。コンクリートの壁と床。割れた窓。あの日、大蜘蛛の結界が崩れて、二人が放り出された部屋。
その隅に、白いものがうずくまっていた。
玲佳だった。
変身したままだった。白いローブの裾を床に広げて、膝を抱えて座り込んでいる。
まどかの声に、玲佳がゆっくりと顔を上げた。
その目を見て、まどかは足を止めた。
空っぽだった。
紅い色は、いつもと同じだった。それなのに、その奥に何もなかった。何も考えていない。何も考えられない。中身だけが、どこかへこぼれ落ちてしまった器のような目だった。
まどかは一歩ずつ近づいた。
「まどか」
玲佳の唇が、名前を呼んだ。
その瞬間、まどかの目の前の宙に、何かが現れた。
短剣だった。白い刃が、窓からの薄明かりを受けて鈍く光っていた。
「……玲佳さん?」
どうして、急にこんなものが出てきたのか、わからなかった。
玲佳は首元に両手をやった。
首に、ロザリオが掛かっていた。細い鎖に、小さな珠が連なっている。その先に、十字の形をした宝石が下がっていた。
ソウルジェムだった。
鏡のような銀色をしていたはずのそれが、ちょうど半分、黒く濁っていた。
玲佳は、それを両手で持ち上げるようにして、まどかのほうへ差し出した。
「お願い」
まどかには、その言葉の意味がわからなかった。
ソウルジェムを差し出される理由も、わからなかった。わかるのは、玲佳と杏子の間に何かがあった、ということだけだった。
まどかは宙に浮いた短剣を、とりあえず左手で掴んだ。見た目よりも、ずっと重かった。
それから、玲佳の右隣に腰を下ろした。
差し出されたソウルジェムには、手を伸ばさなかった。もし落としたら、どうなるのか。考えたくもなかった。よく見ると、ロザリオの珠の連なりは、玲佳のうなじのあたりで肌に溶け込むように繋がっていた。外せるものでは、ないようだった。
「殺して」
平らな声だった。
何の抑揚もない、冷たい声だった。
まどかの身体が、凍りついた。
そして、ようやくわかった。左手の短剣の重さの意味が。差し出されたソウルジェムの意味が。
「自分では、砕けなかった。何度やっても、手が止まった。だから、お願い。殺し——」
乾いた音が、部屋に響いた。
まどかの右手が、玲佳の頬を打っていた。
全力だった。真っ白な頬に、赤い手の形がくっきりと浮かび上がった。
まどかは打った手を握りしめた。
「殺してなんて、言わないでよ!」
悲鳴のような声だった。自分の声だとは思えなかった。
玲佳の目が、大きく見開かれた。
その紅い目の奥に、何かが戻ってくるのが見えた。
「う……あ……」
玲佳の喉から、かすれた音が漏れた。
それを皮切りに、紅い目から、涙が溢れ出した。止まらなかった。玲佳は子どものように顔を歪めて、声を上げて泣いた。
まどかはその身体を、力いっぱい抱き寄せた。
細い身体だった。震えていた。まどかの胸に顔を埋めて、玲佳は泣き続けた。
「杏子を……」
嗚咽の合間に、玲佳は言った。
「杏子を、殺そうとした。首を、絞めた。覚えてなかった。でも、画面に映ってたのは、私の手だった。思い出した。全部、私の中にあった」
まどかは何も言わずに、玲佳の背中を撫でた。
「杏子を傷つけた私に、生きてる資格なんて、ない」
違う、とまどかは思った。
玲佳が、自分の意思で杏子を傷つけたのだとは、どうしても思えなかった。
自分の意思でやったのなら、なぜ、覚えていないのか。なぜ、こんなふうに泣くのか。なぜ、生きている資格がないなどと言うのか。
玲佳ではない誰かが、玲佳の身体を動かしたのなら。
それなら、あり得るのかもしれない。
でも、玲佳ではない誰かとは、誰なのか。
二重人格。
どこかで聞いた言葉が、ふっと頭に浮かんだ。
「違いますよ」
まどかははっきりと言った。
胸に顔を埋めていた玲佳が、ゆっくりと顔を上げた。涙は、もう枯れていた。
「あれは、今の玲佳さんがしたことじゃないんですよね」
問いかけだった。けれど、答えは、もうわかっていた。
まどかは、息を吸った。
「玲佳さんの中に、玲佳さんじゃない誰かが、いるんじゃないですか」
玲佳の目が、大きく見開かれた。
紅い目が、まどかの顔を通り越して、どこか遠くを見ていた。唇が、声を出さずに小さく動いていた。何かを、一つずつ数えているような動きだった。
やがて、その目がまどかの顔に戻ってきた。
玲佳はしばらくまどかの顔を見ていた。
それから、小さく唇を動かした。
「私じゃ……ない」
まどかは、頷いた。
「だったら、玲佳さん。杏子ちゃんと、話をしてください。ちゃんと事情を話せば、杏子ちゃんだって、きっとわかってくれます」
「違う」
「え?」
「そういう問題じゃない」
玲佳はまどかの両肩に手を置いた。そっと身体を離して、まどかの目の高さまで顔を下げる。
紅い目が、まっすぐにまどかを見た。
「まどか。杏子がいくら赦してくれても、私が、私を赦せない」
静かな声だった。
「それに、いつまた襲いかかってくるかわからない相手が、すぐそばにいるのは、嫌でしょ? 杏子が私を赦してくれたとしても、その怖さは消えない」
「……それで、どうするんですか」
自分の声から、力が抜けていくのがわかった。
「遠くに行く。誰もいないところに」
「玲佳さんは、それでいいんですか」
「杏子が怯えずに暮らせるなら、それが一番いい」
玲佳は少しだけ目を伏せた。
「大切な人と離れるのは、もう慣れてる」
「それは、逃げです」
まどかは、言い切った。自分でも驚くほど、硬い声だった。
「っ、それは——」
「違いません」
玲佳が何か言う前に、まどかはそれを遮った。
「玲佳さんは、杏子ちゃんのこと、知ってますよね。杏子ちゃんが、どうやって家族をなくしたのか」
玲佳の顔が、強張った。
俯いて、奥歯を噛みしめるのがわかった。
「杏子ちゃん、マミさんになんて言ったと思いますか」
まどかは玲佳の顔を覗き込んだ。
「魔女にやられた、ですよ。玲佳さんのことは、一言も言ってないんです。玲佳さんには知らせないでほしいって、マミさんに頼んだんです」
「……え?」
玲佳が、顔を上げた。
「杏子ちゃんにとって、玲佳さんは、たった一人の家族なんですから」
玲佳の目が、大きく揺れた。
まどかが次の言葉を探しているうちに、白い影は立ち上がっていた。ローブの裾が翻り、足音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。
まどかは開け放された扉を見つめていた。
左手に、まだ短剣を握っていた。見下ろしているうちに、白い刃は、少しずつ薄れて、手の中から消えていった。
「……わたしは、魔法少女じゃないから」
誰もいない部屋で、まどかは呟いた。
「一緒に、戦うことはできません」
だからこそ、せめて。
こんなふうに、誰かが崩れそうになったときには、そばにいたい。
右手の掌が、まだじんじんと熱かった。