魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十八話
廃ビルの非常口から外へ出ると、玲佳は地面を蹴った。
身体が、夜空へ跳ね上がった。脚に込めた魔力が、ビルの屋上を、電線を、街灯を、足の下に置き去りにしていく。
五十メートルほど昇ったところで、上昇が止まった。身体が、重力に引かれて落ちはじめる。
落ちなかった。
何もない宙を、足が踏んでいた。そこに見えない床でもあるように、玲佳の身体はぴたりと静止した。
膝まである長靴が、足を包んでいた。ふくらはぎを覆う、鱗のような三枚の板が、淡い橙色の光を放っている。暗い夜空の中でしか見えないほどの、かすかな光だった。
北の神話の、悪戯好きの神ロキが履いていたという靴。海の上も、空の上も、地面と同じように駆けることができる。
玲佳は眼下の街を見下ろした。
記憶と、建物の並びから、方角を割り出す。駅の北側。川の手前。目に魔力を流すと、遠くの景色が、望遠鏡を覗いたように引き寄せられた。
見覚えのあるマンションが、そこにあった。
十数階の、明かりの点いた窓。
玲佳は、宙を蹴った。
夜の空気が、顔を叩いた。街の灯りが、足の下を川の流れのように後ろへ飛んでいく。
それは、逃げです。
杏子ちゃんが、どうやって家族をなくしたのか、知ってますよね。
杏子ちゃんにとって、玲佳さんは、たった一人の家族なんですから。
まどかの声が、耳の奥で繰り返されていた。
杏子と初めて会った日のことを、思い出していた。ホテルの天井に向かって手を伸ばしながら、杏子は話した。父親の話を、みんなにちゃんと聞いてほしい。そう願った。願いは叶って、その結果、家族を全部失った。
知っていた。
全部、知っていたのに。
その杏子の前から、何も言わずに消えようとした。杏子が怯えずに済むように、などと自分に言い聞かせて。
蹴られて、首を絞められて。家族だと思っていた相手が、理由も言わずにいなくなったら。わざとではなかったとしても、杏子にとっては、何の違いもない。また、家族に置いていかれる。それだけだった。
ほんの数分前の自分を、玲佳は心の中で殴りつけた。
馬鹿。
何が、慣れてる、だ。
玲佳さんの中に、玲佳さんじゃない誰かが、いるんじゃないですか。
まどかのもう一つの問いが、風の音の向こうで鳴っていた。
覚えていない朝。回した覚えのない洗濯機。髪に引っかかっていた、桜の花びら。持っているはずのない、星の髪ゴム。そんな癖、あったか、という杏子の声。夜中に、頭の奥から寝ろと命じてきた何か。
ホテルの窓ガラスに映っていた、頬まで裂けた笑み。あのとき、それを自分の顔だと疑わなかった。自分の顔なのに、自分の笑い方ではなかった。
一つ一つは、ばらばらだった。だから、どれからも目を逸らしてこられた。
まどかの一言が、それを一本の糸で繋いでしまった。
自分の中に、自分ではない誰かがいる。
その誰かが、杏子の首を絞めた。
話そう、と玲佳は決めた。
自分の中に、もう一人いるらしいこと。その誰かが、杏子を傷つけたこと。全部、話す。
それで、杏子が自分に消えてほしいと言うのなら。
そのときは、今度こそ離れよう。自分の手が、二度と杏子に届かない場所まで。
マミのマンションの前に、音もなく降り立った。
変身を解いて、エントランスに入る。インターフォンのパネルに、マミの部屋番号を打ち込んだ。
呼び出し音が、二回鳴った。
『……如月さん?』
マミの声だった。
玲佳はパネルの小さなカメラを、まっすぐに見た。
「杏子と、話をさせて」
スピーカーの向こうで、マミが息を呑む気配がした。
それきり、声は途絶えた。
かすかな雑音だけが、スピーカーから漏れ続けていた。一分ほど、そうしていた。玲佳はパネルの前から動かなかった。
やがて、目の前のガラスの自動ドアが、静かに開いた。
エレベーターの中で、玲佳は自分の両手を見下ろしていた。
この手が、杏子の首を絞めた。
杏子は、その手の持ち主の家を出て、夜の路地裏に倒れていた。それからずっと、マミの家で、誰にも何も言わずにいた。首を絞めた相手が誰なのか、知っていたはずなのに。
自分は、その間を、何も知らずに過ごしていた。杏子を探して街を歩き回りながら、探している相手を、自分の手が追い出したことも知らずに。
指を握りこんだ。爪が掌に食い込んでも、少しも痛くなかった。
部屋の前で、マミが待っていた。
玲佳の顔を見て、マミはほんの一瞬だけ目を見開いた。泣き腫らした目と、左の頬にうっすらと残る、赤い手の形。けれど、何も訊かなかった。
「佐倉さんは、奥の部屋にいるわ」
マミは廊下の突き当たりのドアを、目で示した。
「……ちゃんと、話してあげて」
玲佳は、頷いた。
*
玲佳が来た、とマミに言われて、杏子はベッドから這い出した。
マミの寝室の、小さな机の前の椅子に座る。膝の上で、両手を握りしめた。
何を言われるのだろう。
それから、自分は何をしてしまったのだろう。玲佳が、あそこまで怒るようなことを。
考えた。
不味い飯を食わせたからか。態度が悪かったからか。眠らせて、勝手に傷を治したからか。
どれも、違う気がした。何度考え直しても、答えは出なかった。
何を言われても、仕方がない。言われて当然のことを、自分はしたのだろう。何をしたのかは、わからなくても。
部屋の空気が、身体中に絡みついて、締め上げてくるようだった。
玄関のドアが開く音がした。
心臓が、跳ねた。
廊下を歩いてくる、小さな足音。マミの声が、何か短く言った。足音が、この部屋の前で止まった。
「っ……」
息が、勝手に漏れた。
ドアが、開いた。
白い髪。白い肌。どんな赤よりも深い、紅い目。
玲佳だった。
目元が、赤く腫れていた。頬に一筋、まだ乾ききっていない跡があった。左の頬には、うっすらと赤い手の形が残っていた。
心臓を、素手で握り潰されたような気がした。
ドアが、背後で閉まった。二人きりになった。
杏子は、目を閉じた。
来るものを、待った。
「本当に、ごめんなさい」
声は、思っていたよりずっと下のほうから聞こえた。
目を開けると、玲佳が、床に膝をついていた。両手を揃えて床につき、額がつくほど深く、頭を下げていた。
「なっ……やめてくれ!」
杏子は椅子を蹴って飛び出した。玲佳の肩を掴んで、無理やり上半身を起こさせる。
そんなことを、してほしかったんじゃない。
じゃあ、何がほしかったのか。
玲佳の、泣き腫らした目を見て、杏子にはわかった。
謝ってほしかったわけじゃない。罵られたかったわけでもない。
「なあ、玲佳。あたしが、何かしたんだろ」
杏子は玲佳の肩を掴んだまま言った。
「教えてくれよ。何をしたのか。わかんないままじゃ、謝ることもできないだろ」
「杏子は、何もしてない!」
玲佳が、叫ぶように言った。
「悪いのは、私。……だから、聞いて、杏子」
玲佳は杏子の目をまっすぐに見た。
紅い目が、揺れていた。怯えている、と杏子は思った。玲佳が、こんなふうに何かを怖がっているのを見るのは、初めてだった。
「言い訳に聞こえるかもしれない。でも……私の中に、誰かがいるみたい」
杏子は、瞬きをした。
玲佳は、話した。
覚えていない時間があること。朝、知らないうちに髪を結んでいたこと。回した覚えのない洗濯機のこと。夜中に眠らされるような、あの感覚のこと。
それから、上着のポケットから、何かを取り出した。
紺色の髪ゴムだった。銀色の、小さな星の飾りがついている。角の一つが、欠けていた。
「これ、私のじゃない。でも、今朝、私の髪を結んでた」
杏子は、その星を見た。
昨日の朝も、一昨日の朝も、玲佳の髪を結んでいた星だった。
玲佳は最後に、結界の中で見たものを話した。画面の中の、白い手のこと。杏子の首を絞めていた、自分の手のこと。
杏子は、全部聞いた。
聞き終わっても、しばらく何も言えなかった。
自分のせいじゃなかった。
その安堵よりも、もっと大きなものが、胸の底から湧き上がってきた。
嫌われて、なかった。
見捨てられて、なかった。
目の奥が、熱くなった。杏子は奥歯を噛みしめてそれを堪えた。
「そのうえで、杏子に訊きたい」
玲佳の声が、かすかに震えていた。
「杏子は、私がそばにいても、平気?」
堪えていたものが、そこで決壊した。
「平気に……決まってんだろ!」
杏子は、玲佳の身体を、正面から抱きしめた。
力いっぱい、骨が軋むほど強く。もう二度と、どこにも行かせないように。
玲佳の腕が、ためらうように宙をさまよって、それから、杏子の背中に回された。
耳元で、玲佳が息を詰める気配がした。
肩のあたりが、温かく濡れていった。
自分の頬も、とっくに濡れていた。
ドアを開けて入ってきたときの、あの腫れた目を作った涙とは違う。今、肩に落ちてくる涙が何でできているのか、杏子にはわかった。
しばらくして、玲佳がそっと身体を離した。
紅い目が、杏子の首元に落ちた。玲佳の指がゆっくりと持ち上がって、杏子の喉の手前で止まった。触れていいのかどうか、迷っているように。
「……ここ?」
「もう、治ってる」
杏子は自分から首を少しだけ傾けて、玲佳の指先に喉を預けた。
冷たい指だった。あの夜、この喉を締め上げた指だった。それでも、身体はどこも竦まなかった。
「……痛かったでしょ」
玲佳の声が、細く震えた。
「怖かったはずなのに。杏子は誰にも言わないで、一人で……。私は何も知らないで、杏子を探してた。私のせいで、出ていったのに」
それ以上は、言葉にならなかった。喉に触れた指先が、かすかに震えていた。
「……あたしもさ」
杏子は、玲佳の手を、上から自分の手で包んだ。
「あんたに、嫌われたと思ったんだ。何かして、怒らせたんだって。だから、出てった。あたしがいなくなりゃ、あんたが楽になると思って」
玲佳が、目を見開いた。
「……同じこと、考えてた」
「は?」
「私も、杏子から離れるつもりだった。杏子が、私に消えてほしいって言うなら」
二人は、しばらく黙って見つめ合った。
それから、杏子がぷっと噴き出した。
「……ばっかみてえ。二人して」
玲佳が、泣き腫らした目のまま、小さく息を漏らした。笑ったのだと、杏子にはわかった。
*
マミのマンションを出たときには、もう夜が更けていた。
玄関まで送ってくれたマミは、二人の赤い目を見比べて、気をつけて帰ってね、とだけ言った。
雨の上がった川沿いの道を、並んで歩いた。見上げると、切れた雲のあいだから、数えきれないほどの星が黒い空いっぱいに散らばっていた。
夜露に濡れた土手の草が、湿った青い匂いを立てていた。
どちらも、しばらく何も言わなかった。
言わなくてもいい気がした。
歩いているうちに、杏子の手の甲が、玲佳の手の甲に、こつんと当たった。
一度。
それから、もう一度。
三度目に当たったとき、杏子の指が、玲佳の指に絡んだ。
玲佳は横を見なかった。杏子も、こちらを見なかった。前を向いたまま、二人とも、ほんの少しだけ歩く速さを落とした。
杏子の手は、温かかった。
さっきまで、この手の持ち主の前から、消えるつもりでいた。誰もいないところへ行くつもりでいた。
今、その手を握って、同じ家へ帰っている。
「……なあ」
杏子が、前を向いたまま言った。
「そいつ。あんたの中の、もう一人」
「……ええ」
「今も、いるのか」
玲佳は自分の胸の奥に耳を澄ませた。
何も、聞こえなかった。頭も、痛まなかった。静かだった。静かすぎて、そこに誰かがいるのかどうか、わからなかった。
「わからない。……でも、今は、静か」
「そっか」
杏子は絡めた指に、少しだけ力を込めた。
マンションのエレベーターを降りて、玄関の鍵を開けた。
明かりの消えた部屋に先に入った杏子が、壁のスイッチを押して振り返った。
玲佳は、玄関に立ったまま、動けずにいた。
昨日の夜、この部屋に杏子はいなかった。今朝も、いなかった。杏子のいない部屋で、一人で目を覚ました。
杏子が、こちらを見ていた。
待っているのだと、わかった。
「……ただいま」
口にすると、喉の奥が、少しだけ詰まった。
杏子の顔が、くしゃりと崩れた。泣きそうなのを、無理やり笑いに変えたような顔だった。
「おかえり、玲佳」
第二十八話で、第一章はおしまいです。
次話から第二章に入ります。少しだけ時間を遡って、ある少女の話から始まります。
感想や評価をいただけると、とても励みになります。
引き続き、よろしくお願いします。