魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第二十九話 雪が降る森で
第二十九話
新しい教室の窓からは、見滝原の空がよく見えた。
四月の空は薄く霞んでいて、昼間は青いのに、夜になるとこの街の空には星がほとんど見えなくなる。街の灯りが強すぎるせいだと、誰かが言っていた。
入学式から一週間が経っても、窓際の一番後ろの席で頬杖をつく彼女のまわりから、教室の囁き声が途切れることはなかった。
あの子でしょ。あの事件の。
髪、真っ白。目も赤いし。
病院にずっといたんだって。
聞こえないふりをする必要もなかった。聞こえていても何も感じないくらいには、そういう声に慣れていた。小学校のときは、もっとひどかった。
白ウサギ。化け物。机の中の、羽のある虫。
あの四人は、もういない。
今は、誰も手を出してこない。出させない。それだけの力が、自分にはある。
机の中には、図書室から借りてきた北の神話の本が入っていた。小さな頃からこういう本ばかり読んできたのは、閉じ込められた書斎の棚にそれしかなかったからだ。神々が戦い、巨人が攻め寄せ、世界が炎に呑まれていく話だけが、暗い部屋の中で息をさせてくれた。
三時間目は、体育だった。
着替えて校庭に出ると、トラックを何周か走らされた。彼女は列の一番後ろについて、前を行く同級生たちとのあいだに、いつも半周ほどの間を空けて走った。魔力を通さなくても、この身体は普通の子どもの身体よりずっと丈夫にできていて、息は少しも上がらなかった。
トラックの脇のベンチに、制服姿で座っている子が一人いた。
顎のあたりで切り揃えた桃色の髪の下で、目尻の少し下がった柔らかい顔が、遠目にもいつも笑っているように見えた。膝の上で手を揃えて、走っている同級生たちをにこにこと眺めていた。
花宮そら。
同じクラスの子だった。生まれつき身体が弱いらしく、体育の時間は、いつもああして見学していた。
そらの前を通り過ぎるとき、目が合った。そらが、小さく会釈をした。
彼女はそれ以上の興味を持たなかった。
前を向いて、また走った。
*
五月の、雨上がりの夕方だった。
見滝原総合病院の裏手の、細い坂道を下っていたとき、右手の薬指が熱を持った。
魔女の気配だった。すぐ近い。
坂の途中の、古い石段の上で、空気が歪んでいた。
彼女は人目のないことを確かめてから変身した。黒い布のローブが、湿った風にはためいた。胸の真ん中で、円と五角形を重ねた紋様が、鈍く光った。首元の鎖の先で、銀の十字が小さく揺れた。
結界に踏み込むと、そこは一面の花畑だった。色の褪せた造花が、どこまでも咲いている。花びらの一枚一枚に、小さな口がついていて、くすくすと笑っていた。
花畑の真ん中に、誰かが倒れていた。
制服を着た女の子だった。桃色の、短い髪。
花宮そらだった。
病院の帰りだったのだろう。手の先に、薬の袋が落ちていた。首筋に、魔女の口づけの印が浮かんでいる。花の蔓が、その細い手足に、ゆっくりと巻きつこうとしていた。
花畑の奥で、魔女が身を起こした。
彼女の背中で、何かが音もなく開いた。
翼だった。一対の、大きな翼。羽の一枚一枚が、雪よりも白かった。黒いローブの背から広がったその白さは、雨上がりの薄闇の中で、それ自体が光を放っているように見えた。神の玉座のそばに侍るという、最も高い位の天使。セラフィムの翼。書斎の本の挿絵でしか知らなかったものを、この身体は、自分のものとして背負うことができた。
彼女は、倒れているそらの前に降り立ち、片方の翼で、その小さな身体を覆った。
それから、もう片方の翼を、一度だけ打った。
風が生まれた。色の褪せた造花が、根こそぎ宙に巻き上げられる。くすくすと笑う花びらの群れを裂いて、見えない刃が、魔女の身体を幾重にも切り刻んだ。
風が止んだとき、花畑には何も残っていなかった。
結界が崩れると、雨上がりの石段の上だった。
花宮そらは、石段に横たわったまま、うっすらと目を開けていた。首の印は、もう消えていた。
焦点の合わない目が、彼女を見上げた。
「……如月、さん……?」
彼女は何も答えなかった。
落ちていた薬の袋を拾い上げて、そらの手の上に置いた。それから、背を向けて、坂道を下りていった。
翌朝、教室に入ると、桃色の髪が、彼女の席の前に立っていた。
「あの、如月さん。昨日は、ありがとう」
彼女は鞄を机に置いた。
「何のこと」
「昨日、病院の裏の坂で。助けてくれたよね」
「知らない」
彼女は椅子に座って、神話の本を開いた。
そらはしばらくそこに立っていた。それから、小さく笑って、自分の席に戻っていった。
それで終わりだと、思っていた。
*
終わらなかった。
次の日も、そらは話しかけてきた。その次の日も。昼休みになると、弁当を持って、彼女の前の席の椅子を引いた。
「一緒に食べてもいい?」
「だめ」
「じゃあ、ここで勝手に食べるね」
彼女は黙って購買のパンをかじった。
そらはにこにこしながら、小さな弁当箱を開けた。黄色い卵焼きが、きれいに並んでいた。
「卵焼き、一個いる? お母さんの、甘いやつなんだけど」
「いらない」
「そっか」
そらは少しも気にした様子を見せなかった。
図書室に行けば隣の席で星の図鑑を広げ、帰り道には少し離れて後ろをついてきて、体育の時間にトラックを走っていると、見学のベンチから周回のたびに手を振ってきた。
「ついてこないで」
ある日、彼女は振り返って言った。
そらは、足を止めた。少しだけ、困ったような顔をした。
「如月さん、わたしのこと、嫌い?」
「……別に」
「嫌なら、嫌って言ってくれたら、やめるよ」
彼女は、口を開いた。
嫌、と言えばよかった。それで、全部終わる。
言葉が、出てこなかった。
そらは、何も言わない彼女の顔をじっと見て、それから、ほっとしたように笑った。
「よかった。……ねえ、玲佳さんって呼んでもいい?」
いつからだったのか、わからない。
弁当の蓋の上に、卵焼きが一切れ載っているのを、黙って食べるようになった。図書室の隣の席が空いていると、落ち着かなくなった。帰り道、後ろの足音が聞こえないと、振り返るようになった。
そらの声が、教室の囁きよりも、よく聞こえるようになった。
*
七月の夜、二人は、川沿いの土手に寝転んでいた。
湿った夜の草が、背中の下で青く匂っていた。雨上がりの土と、踏まれた草の、少し甘い匂い。
頭の上に広がる灰色がかった夜空には星がほとんど見えず、街の灯りに霞んだ明るいものが二つ三つ、ぼんやりと滲んでいるだけだった。
「見滝原の空って、星が見えないよね」
隣で、そらが言った。
「おじいちゃんの田舎はね、空が星でいっぱいなんだって。天の川も、ちゃんと見えるって。お父さんが、よく話してくれるの」
「行ったことは?」
「ないよ」
そらは少しだけ笑った。
「遠いから。わたしの身体じゃ、長い移動は無理だって、お医者さんに言われてるの」
彼女は何も言わなかった。
灰色の空を見上げながら、この空が星でいっぱいになったらどんなふうに見えるのだろう、と思った。本の中の神々はいつも満天の星の下で戦っていたのに、彼女は、それを一度も見たことがなかった。
「玲佳さん」
そらが、身体を起こした。
「ちょっと、じっとしてて」
そらの指が、彼女の髪に触れた。
彼女は身体を強張らせた。誰かに髪を触られるのは、いつ以来だったか。思い出そうとすると、胸の奥が冷たくなった。
柔らかい指が、腰まである白い髪を梳いて、うなじのあたりで一つにまとめた。ぱちん、と小さな音がした。
「はい、できた」
彼女は首の後ろに手をやった。
髪ゴムだった。指先に、何か小さな硬いものが触れた。
「星の飾りがついてるの。わたしのお気に入り。あげる」
「……いらない」
「玲佳さん、髪すごく綺麗なのに、いつもほどいてるでしょ。結んでるの、似合うよ」
そらは膝を抱えて、彼女の顔を覗き込んだ。
「明日の朝も、結んできてね」
彼女は、答えなかった。
次の日の朝、彼女は、鏡の前で、星の飾りのついたゴムで髪を結んだ。教室に入ると、そらが、ぱっと顔を輝かせた。
それから毎朝、髪を結ぶようになった。
*
秋の終わりに、白い獣が、そらの前に現れた。
放課後の、誰もいない図書室だった。星の図鑑を広げたそらの膝の上に、キュゥべえがちょこんと座っていた。
「花宮そら。君には、魔法少女の素質がある」
彼女は本棚の陰から飛び出した。
「そらに、近づかないで」
「やあ、玲佳。決めるのは僕じゃなくて、そらだよ」
キュゥべえは赤い目でそらを見上げた。
「どんな願いでも、一つだけ叶えてあげる。その代わり、魔女と戦ってもらうことになる」
そらはキュゥべえと彼女を、交互に見た。
その目が、彼女の顔の上で止まった。
「そら」
彼女はそらの前に膝をついた。
「契約しないで。魔女と戦うのは、遊びじゃない。痛いし、怖いし、死ぬかもしれない。あなたの身体じゃ、なおさら」
「玲佳さん、ずっと一人で戦ってきたんでしょ」
そらは、静かに言った。
「病院の裏の坂で、わたしを助けてくれたときも。一人で。その後も、何回も、一人で夜に出かけてるの、知ってるよ」
「それは、私が——」
「わたし、玲佳さんの隣にいたいの」
そらは、笑った。いつもの、目尻の下がった柔らかい笑顔だった。
「玲佳さんのこと、大好きだから。ずっと、一緒にいたいから。見てるだけじゃなくて、隣で」
彼女は何も言えなかった。
言葉を探しているうちに、そらは、キュゥべえのほうを向いていた。
「願い事は、もう少しだけ考えさせて。決めたら、呼ぶね」
その夜、二人は、また土手にいた。
灰色の空の下で、そらは、キュゥべえを膝に乗せていた。
「願い事、決めたよ」
「聞かせてくれるかい」
そらは隣に座る彼女を見て、それから空を見上げた。
「この街の空を、満天の星空にしてほしいの」
そらの声は、少しも震えていなかった。
「わたしの身体じゃ、星のいっぱい見える場所には行けない。だから、ここを、そういう場所にしてほしい。もっと綺麗な景色を、玲佳さんと一緒に見たいの」
胸元で、光が弾けた。
桃色の、柔らかい光だった。
彼女は、空を見上げた。
灰色の夜空が、霞の晴れるように端のほうから少しずつ澄んでいき、薄い膜の剥がれた下から、光の粒が一つ、また一つと現れた。
十、百、千。
数えきれなかった。
空一面に散った星のあいだを、白く霞んだ光の帯が川のように流れていて、本の中でしか知らなかった景色が、見滝原の夜空いっぱいに広がっていた。
遠くの団地の窓が次々と開いて、誰かがベランダで何か叫んでいるのが見えた。
そらの指に、桃色の指輪が光っていた。
「ほら」
そらが、彼女の手を握った。
「一緒に、見られたね」
彼女はそらの手を握り返した。
草の匂いがした。湿った、青い、少し甘い匂い。
星空の下で笑っているそらを見ていると、胸の奥が、じわりと温かくなった。
それから、ほんの少しだけ、どこかが薄くなった気がした。
*
冬になるころには、二人で魔女と戦うようになっていた。そらの魔法は星の光で、指先から放たれる小さな光の矢は、威力こそ弱かったけれど、狙いは誰よりも正確だった。
「玲佳さん、右!」
そらの声が飛ぶより早く、彼女の翼が起こした風が使い魔を払う。そらの光の矢が、その後ろの一体を射抜く。
背中を預けられる誰かがいるのは、初めてだった。
戦いが終わると、そらは決まって少し息を切らしながら笑い、玲佳さん、すごかったね、と手を叩いた。
幸せだ、と思った。
思ってしまった。
その夜、夢を見た。
暗い場所だった。狭くて、カビ臭い。押し入れの中だ、とすぐにわかった。
小さな女の子が、膝を抱えてうずくまっていた。
白い髪。赤い目。自分と、同じ顔。
女の子は、泣いていた。痛い、やめて、と、声にならない声で繰り返していた。細い腕に、痣が浮いていた。指が、ありえない方向に曲がっていた。
その子を、知っていた。
ずっと前から、知っていた。
あの押し入れの中で、この子がもう耐えられなくなったとき、自分は生まれた。痛みを代わりに引き受けるために。怖いものから、この子を守るために。この子が眠っている間、代わりに生きるために。
女の子が、顔を上げた。
泣き腫らした赤い目が、まっすぐにこちらを見た。
その目が、少しずつ、焦点を結びはじめていた。
目を覚ますと、そらの家の居間だった。
いつ来たのか、覚えていなかった。
窓の外はもう明るく、ソファに横たわった身体には毛布が掛けられていて、台所からトーストの焼ける匂いが漂ってきていた。
「あ、起きた?」
そらが、マグカップを二つ持って、台所から出てきた。心配そうな顔をしていた。
「玲佳さん、大丈夫?」
「……私、どうしてここに」
「覚えてないの?」
そらはマグカップをテーブルに置いて、彼女の隣に座った。
「夜中に、うちに来たんだよ。玄関の前で、しゃがみ込んで泣いてた。ここ、どこ、って。痛いの、やめて、って。……なんだか、すごく小さな子みたいだった」
彼女は自分の手を見下ろした。
震えていた。
「今朝の玲佳さん、いつもの玲佳さんじゃないみたいだった」
そらは小さな声で言った。
彼女は答えられなかった。
わかってしまったからだ。
押し入れの中のあの子が、目を覚まそうとしている。痛みも、怖いものも、もうない。代わりに、星空がある。卵焼きがある。隣で笑ってくれる誰かがいる。守られる必要が、なくなりかけている。
あの子が、完全に目を覚ましたら。
守るために生まれた自分は、もう、いらなくなる。
消える。
そらの隣で幸せだと思うたびに、自分が少しずつ薄くなっていたのだ。星空の下で感じた、あの、どこかが薄くなるような感覚。
死にたくない。
その言葉が、胸の底から湧き上がってきた。
生まれて初めて、死にたくないと思った。
痛みしか知らなかった頃には、一度も思わなかった。消えたって、構わなかった。そらに出会うまでは。
生きることがこんなに温かいと知ってしまったから、消えるのが、怖くなった。
*
離れなければ、と思った。
そらから。この街から。
幸せでなくなれば、あの子は、また眠る。自分は、消えずに済む。
「遠くに、行く」
二月の、雪のちらつく夕方だった。
いつもの土手で、彼女はそらに言った。
「この街を出る。もう、会わない」
そらは、目を丸くした。
それから、ゆっくりと首を振った。
「どうして?」
「理由は、言えない」
「わたし、何かした?」
「してない。そらは、何も悪くない」
そらはしばらく黙っていた。
雪が、そらの桃色の髪の上に落ちて、溶けていった。
「じゃあ、わたしも行く」
「だめ」
「玲佳さんがどこに行っても、追いかけるよ」
そらは、笑った。いつもの、柔らかい笑顔だった。
「わたし、もう魔法少女だもん。身体が弱くたって、魔法を使えば、どこまでだって走れる。空だって、飛べるよ。玲佳さんがどんなに遠くに行っても、絶対に見つけて、追いかける」
彼女はそらの顔を見ていた。
この子は、本当に来る。
どこに逃げても、この笑顔で、追いかけてくる。そして、自分はまた、幸せになってしまう。
「……わかった」
彼女は、言った。
「最後に、一か所だけ、一緒に行きたい場所がある」
*
街外れの森は、雪に覆われていた。
木々の間から見える星は、そらの星だった。この一年で、見滝原の夜空は、すっかり星のあるものになっていた。
森の奥の、少し開けた場所で、彼女は足を止めた。
「綺麗だね」
そらが、空を見上げて言った。白い息が、星空に溶けていった。
「そら。ソウルジェム、見せて」
「ん? いいよ」
そらは、何の疑いもなく、指輪を宝石の形に戻して、掌の上に転がした。桃色の宝石が、星明かりを受けて、柔らかく光った。
彼女は、それを摘み上げた。
ソウルジェムがなくなれば、魔法は使えなくなる。
魔法が使えなければ、そらは、追いかけてこられない。身体の弱いそらに戻るだけだ。星空は残る。そらはこの街で、普通の女の子として生きていける。
そう、思っていた。
「玲佳さん?」
そらが、首を傾げた。
彼女は、掌を閉じた。
力を込めた。
硬いものが、掌の中で、ぱきりと砕けた。
そらの身体が、揺れた。
声は、なかった。
糸の切れた人形のように、そらは、雪の上に崩れ落ちた。
「……そら?」
彼女は、膝をついた。
そらは、目を開けていた。星空を映したまま、瞬きをしなかった。
頬に触れた。まだ、温かかった。温かいのに、何も返ってこなかった。
「そら。起きて。……そら」
揺すった。
そらの頭が、力なく揺れた。
雪の上に、そらの手が投げ出されていた。さっきまで、彼女の手を握っていた手だった。
「どう、して」
掌を開いた。
桃色の欠片が、雪の上にこぼれ落ちた。
「ソウルジェムがなくなっても、魔法が使えなくなる、だけなのに……」
「君なら、気づくと思ったんだけどな」
背後で、声がした。
振り返ると、雪の上に、キュゥべえが座っていた。赤い目が、動かなくなったそらを見ていた。
「ソウルジェムは、魂だよ。魔法少女の魂そのものを、取り出して、あの形にしたものなんだ。それを砕けば、どうなるかは、わかるだろう」
キュゥべえは、首を傾げた。
「君も、同じものを持っているのにね」
彼女は何も言わなかった。
言えなかった。
自分の指に、銀色の指輪が嵌まっていた。
そらの頬に、雪が一片、落ちた。溶けなかった。
どれくらい、そうしていたのかわからない。
気がつくと、キュゥべえはいなくなっていた。
彼女は自分の髪に手をやった。うなじのところに、星の飾りのついたゴムが結ばれていた。今朝も、結んできた。そらに言われたとおりに。
引き抜いて、握りしめた。
手の中で、星の角が一つ、欠けた。
彼女は動かないそらの隣に横たわった。
頭の上に、星空が広がっていた。
数えきれないほどの星だった。天の川が、白く流れていた。そらが願って、そらが見せてくれた空だった。
そらは、もう、それを見ていなかった。
それでも、星は消えなかった。
一つも、消えなかった。