魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第三話
巴マミの部屋は、モールから十分ほど歩いたマンションの、ずいぶん上のほうにあった。
リビングの壁の一面が窓になっていて、見滝原の夜景が、部屋の続きのように広がっている。真ん中に三角形のガラスのテーブルが置かれ、その上で、淹れたばかりの紅茶が湯気を立てていた。
玄関に並んでいた靴は、マミのものだけのようだった。
「遠慮しないで。ケーキもあるのよ」
白い皿の上で、苺のショートケーキが切り分けられていく。スポンジの断面が、店で売っているものよりずっと細かく揃っていた。
「これ、マミさんが作ったんですか?」
「ええ。一人だと、つい作りすぎてしまうの」
さやかが一口食べて、目を丸くした。まどかも続いた。甘さが舌の上でほどけて、さっきまで身体の芯に残っていた冷たさが、少しだけ溶けていく気がした。
テーブルの端では、キュゥべえがクッションの上に丸くなっている。後ろ脚の傷は、もうどこにも見当たらなかった。
マミは紅茶を一口含んでから、左手を差し出した。指に嵌まっていた金色の指輪が、淡い光を帯びて膨らみ、掌の上で卵の形に収まる。蜂蜜を固めたような、黄色い宝石だった。
「これがソウルジェム。キュゥべえと契約した魔法少女の、魔力の源よ」
「僕は、君たちの願いを一つだけ叶えてあげられる」
キュゥべえがクッションの上で身体を起こした。
「どんな願いでもいい。その代わりに、君たちには魔女と戦ってもらうことになる」
「なんでも? ほんとになんでもいいの? 宝くじとか、一生遊んで暮らせるお金とか」
「美樹さん」
マミが苦笑して、ソウルジェムを指輪に戻した。
「魔女は、人の呪いから生まれるの。魔法少女が願いから生まれるのと、ちょうど反対ね。姿は普通の人には見えない。人知れず、不安や、怒りや、憎しみの種を街に撒いていく」
窓の外を、マミは一度だけ見やった。
「原因のはっきりしない自殺や、理由のわからない事件。そういうものの多くに、魔女が関わっているわ」
「多くって、どれくらい……」
「数えたことはないけれど、貴女たちが思っているよりはずっと多いと思う。……そうね。何年か前に、この街で一家が殺された事件があったでしょう」
さやかが、フォークを止めた。
「あ、あれ。見滝原市一家惨殺事件、だっけ。あたしたち、まだ小学生だったよね。しばらく集団下校になったやつ」
まどかも覚えていた。あの頃、母が玄関の鍵を二重にかけるようになった。理由を訊いても、はっきりとは教えてくれなかった。
「犯人は、今も見つかっていないわ。あれだけの事件なのに、手がかりが何ひとつ出てこない。そういうとき、魔女の仕業じゃないかと考えることがあるわ。証拠があるわけじゃないけれどね」
部屋が少し静かになった。紅茶の表面に、天井の照明が丸く映っている。
「だから、魔女と戦うのは命懸けよ。さっきみたいな場所に、自分から入っていくの。普通の人なら生きては帰れない」
マミは、まどかとさやかを順番に見た。
「願いを叶えられるチャンスがあるのは本当。でも、それは死と隣り合わせだってことも覚えておいて。……そこで提案なんだけど」
口調は柔らかいのに、声だけが少し改まった。
「しばらく、私の魔女退治についてきてみない? 戦いがどういうものか、自分の目で確かめてから決めればいいわ。急ぐことはないのよ」
まどかは、さやかと顔を見合わせた。さやかの目は、少しだけ輝いていた。
自分の目がどうなっているのかは、まどかにはわからなかった。
「あの、マミさん」
まどかは、帰り際になって、ずっと喉につかえていたことを口にした。
「ほむらちゃん……暁美さんも、魔法少女なんですか?」
「ええ。それも、かなり強い力を持っているみたい」
マミは少し考えるように、顎に指を添えた。
「どうしてキュゥべえを狙ったのかは、わからないわ。新しい魔法少女が増えるのを、よく思っていないのかもしれない。……しばらくは、一人にならないようにしてね」
*
その夜、まどかはなかなか眠れなかった。
部屋の明かりを消しても、目が冴えている。ぬいぐるみを並べた棚の上では、キュゥべえが一緒になって丸くなっていた。家族には見えないのだと、帰り道で本人が言っていた。
天井を見ながら、まどかは今日一日のことを順番に思い出していった。
今朝、変な夢を見た。崩れた街で、黒い髪の女の子が、空に浮かぶ何か巨大なものと戦っている夢だった。教室で転校生が名前を名乗ったとき、まどかはその顔を夢の中で見たと思った。偶然なのか、そうでないのか、見当もつかない。
それから、結界。鋏の音。紙の空。
マミの銃が、あれを一瞬で薙ぎ払った光景。
「命懸け、かあ……」
声に出すと、胸の奥が冷たくなった。あの場所で感じた死の気配が、布団の中まで追いかけてくる。腕に鳥肌が立った。
それでも、マミのように戦える自分を、まどかは少しだけ想像してしまった。誰かの役に立てる自分。何の取り柄もない自分が、初めて誰かを守れるかもしれない場所。
まどかは首を振って、その想像を追い払った。
「だめだめ。まずは、見てから」
目を閉じる。窓の外で、風がカーテンを小さく揺らした。
今夜も、あの夢を見るのだろうか。そう思ったのを最後に、まどかは眠りに落ちた。
*
駅の裏手の雑居ビルは、午前一時を過ぎると、どの窓にも明かりがなかった。
玲佳は非常階段を四階まで上り、鉄の扉の前で足を止めた。錆の浮いたドアノブの上に、会社の名前を刻んだ小さなプレートが貼ってある。リストの五つ目の名前と、一字も違わなかった。
掌の上に、小さな鍵が生まれた。金色の、十字架の形をした柄の古い鍵。天の国の門を開くために、一人の使徒に授けられたという鍵。聖ペテロの鍵。
鍵の先を鍵穴に触れさせると、金色の光が扉の縁を一周した。音は、しなかった。
事務所の中は、コピー機と、事務机が四つと、古い応接セット。どこにでもある小さな会社を装っていた。壁際の防犯カメラが、赤い点を灯してこちらを見ている。玲佳はその前を通り過ぎるときに、レンズに向かって掌を掲げた。赤い点が消えた。
奥の部屋の床に、金庫が据えてあった。
ダイヤルを回す必要はなかった。金色の鍵を扉に当てると、光が縁を一周して、扉が内側から浮いた。
中には、茶封筒が束になって立てかけてあった。一つを抜いて中を見る。帯のついた札束と、端数の札。数えなくても厚みでわかった。百九十万円ずつ。どの封筒も同じ額に揃えてある。
棚には、ファイルが何冊も並んでいた。背表紙には取引先の名前と、「業務委託費」の文字。どの取引先にも、実際に委託された業務はない。それは、リストを作る前に調べてあった。
玲佳は封筒を五つ抜き取り、鞄に入れた。残りには手を触れず、金庫の扉を元の位置まで押し戻す。
ファイルにも、机の上の書類にも、何も残さなかった。事務所は、入る前と何ひとつ変わっていなかった。
この金がなくなっても、持ち主は警察には行かない。行けば、この金がどこから来たのかを説明しなければならなくなるからだ。
外へ出ると、夜風が首を撫でた。
見滝原の中心部を離れて、川沿いの道を歩く。街灯の間隔が広くなるにつれて、頭上の空が濃くなっていく。
この街の夜空には、星が多すぎた。
都市の空に、こんな数の星が見えるはずはない。気象の専門家が何度も調べて、結局理由はわかっていないと、何かで読んだことがある。見上げるたびに、玲佳はそれを思い出す。
思い出すだけで、何かを感じることはなかった。
今夜も同じだった。ただ、川面から上がってくる湿った草の匂いに、足が一瞬だけ遅れた。モールの三階で、同じ匂いを嗅いだような気がした。
部屋に戻ると、窓際の小皿は空になっていた。今朝置いたグリーフシードは、跡形もない。
玲佳は鞄から封筒を出して、書斎の棚の奥に並べた。それから、ローテーブルの上の紙を引き寄せ、赤いペンのキャップを外す。
五つ目の名前の横に、小さく印をつけた。