魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第三十話
背中に、硬くてざらついたものが当たっていた。
木の幹だった。
玲佳は巨大な樹の根元に寄りかかって立っていた。見上げても、梢が見えない。灰色の幹が、どこまでも空へ伸びていた。枝の一本一本が、ほかの森の木ほどの太さがあった。
足元から、澄んだ水の匂いがした。
樹の根元に、泉が湧いていた。水は恐ろしいほど透きとおっていて、底が見えない。どこまでも深く、どこまでも暗く、光だけが水面で揺れていた。
あたりの草木は、青々と茂っていた。風はなかった。音も、なかった。
杏子と、マミの家から一緒に帰ってきた。遅い夕食をとって、皿を洗って、杏子におやすみを言って、ベッドに入った。
そこまでは、覚えている。
玲佳はもう一度あたりを見回した。
この景色を、見たことはなかった。それなのに、知っていた。何度も読んだ。北の神話の本の、何度もめくったページ。世界を支える大樹、ユグドラシル。その根元に、知恵の泉がある。神々の王オーディンは、その水を一口飲むために、自分の片目を差し出した。
「……ミーミルの、泉?」
「正解」
背後で、声がした。
樹の幹の、向こう側からだった。
玲佳は幹から身を離した。振り向きざまに、変身しようとした。
「無駄」
何も、起きなかった。
指輪に魔力を流そうとしても、手応えがなかった。流すべき魔力が、どこにもなかった。
大樹の陰から、誰かが歩み出てきた。
真っ白な肌。腰の下まで届く、真っ白な髪。底の見えない、深い紅の目。
自分と、まったく同じ顔だった。
違うのは、服だけだった。光という光を吸い込んでしまいそうなほど黒い、ローブ。変身した姿だった。胸の真ん中には、円と五角形を重ねた紋様があった。首元の鎖の先で、銀の十字が揺れていた。自分が変身したときと、何もかも同じだった。
そして、その白い髪は、うなじのところで一つに束ねられていた。
銀色の、小さな星の飾りのついたゴムで。
「あなたが……!」
玲佳は、拳を握った。
踏み出しかけて、止まった。
向こうは、変身している。こちらは、変身すらできない。ここがどこなのかは、なんとなくわかった。自分の頭の中の、一番深いところだ。ここで倒れたら、どうなるのか。この身体を、目の前のこいつに明け渡すことになるのではないか。
だから、動くな。
自分に言い聞かせた。言い聞かせるほど、腹の底から、熱くて黒いものがせり上がってきた。握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込んだ。
「どうして、杏子を傷つけた」
声が、自分でも驚くほど低かった。
もう一人の自分は、玲佳の目を見返した。
それから、ふっと視線を逸らした。
「……死にたく、なかった。だから」
「どういう意味」
「本来のあなたが、幸せになったり、安心したりすると」
もう一人の自分は、泉の水面に目を落とした。
「私は、消える。……私は、あなたを守るために生まれたものだから。守る必要がなくなれば、いらなくなる」
玲佳は、息を詰めた。
「守るために、生まれた。……それは、わかった」
握った拳が、震えていた。
「でも、それが、どうして杏子を」
「あなたが、あの子と出会ったとき」
もう一人の自分は、静かに言った。
「私は、消えかけた。ホテルのベッドで、あなたがあの子に抱きしめられて眠った夜。あのとき、一瞬だけ、消えてもいいと思った」
その声が、少しだけ揺れた。
「でも、昔、生きることの温かさを教えてくれた子がいた。それを知ってしまった私は、黙って消えることが、できなかった」
玲佳はその髪を結んでいる星を見た。
角の一つが、欠けていた。
「……じゃあ、あなたはまた、杏子を——」
「違う」
言い終わる前に、もう一人の自分が首を振った。
紅い目が、まっすぐに玲佳を見ていた。
「本当は、あれで、あなたとあの子は離れ離れになるはずだった。あなたが自分から、遠くへ行くように。そうなるように、あなたの考えに手を加えたりもした」
遠くに行く。誰もいないところに。
廃ビルの一室で、まどかにそう言った自分の声を、玲佳は思い出した。
「なのに」
もう一人の自分は、小さく笑った。笑ったように、見えた。
「あなたたちは、前よりずっと、強く結ばれてしまった。あの桃色の髪の子のせいで。あの子の、たった一言で」
目に、涙が溜まっていた。
「私は、もう……あなたたちを引き裂くことなんて、できない」
最後のほうは、ほとんど聞き取れないくらいの声だった。
涙が、白い頬を伝って落ちた。一粒、落ちると、止まらなくなった。顔をくしゃくしゃにして、それでも、もう一人の自分は、無理に口の端を持ち上げようとしていた。
廃ビルでまどかの胸に顔を埋めて泣いた自分と、同じ顔だった。
もう一人の自分は、手の甲で目元を乱暴に拭った。
それから、玲佳の顔をまっすぐに見た。
「一つだけ、訊かせて」
「……何」
「杏子のこと、大事?」
玲佳は答えるまでに一秒もかからなかった。
「大事」
「どれくらい」
「杏子がいなくなったら、私は、たぶん壊れる。……あなたも、見てたでしょ」
倉庫街の夜。佐倉さんのお仲間さん、という声。杏子が死んだと思い込んだ瞬間に、自分の中の何もかもが吹き飛んだ。
もう一人の自分は、小さく頷いた。
知っている、という顔だった。あの夜、同じ身体の奥で、同じものを見ていたのだ。
「じゃあ、もう一つ」
もう一人の自分の声が、少しだけ細くなった。
「今、幸せ?」
玲佳は口を開きかけて、止まった。
本来のあなたが、幸せになったり、安心したりすると、私は消える。
さっき聞いたばかりの言葉が、耳の奥で鳴った。
ここで幸せだと答えたら、目の前のこの子は。
「正直に答えて」
もう一人の自分が、静かに言った。
「嘘をつかれるほうが、ずっと痛い」
玲佳は泉の水面を見た。
杏子の、口の端についたクリーム。星空の下の、ありがとな。首を絞められてなお、魔女にやられたと言い張った、あの不器用な嘘。平気に決まってんだろ、と叫んで、骨が軋むほど抱きしめてきた腕。
目を上げて、自分と同じ顔を見た。
「……幸せ」
ほとんど、声にならなかった。
もう一人の自分は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと肩の力を抜いた。張りつめていた糸が、一本、切れたような顔だった。
「そう」
口の端が、今度は無理にではなく、持ち上がった。
「……よかった」
玲佳は、その顔を見ていられなかった。
「あなたは、それでいい?」
「いい。約束した子が、いるから。ずっと、待たせてる」
もう一人の自分は、うなじの星に、指先でそっと触れた。
欠けた角を、確かめるように。
「それと」
もう一人の自分は、目を伏せた。
「杏子に、ひどいことをした。……ごめんなさい」
声が、震えていた。
「あの子の首の感触が、まだ、この手に残ってる。息もできないのに、あの子、玲佳、って呼んでた。私のことじゃない。あの子の知ってる、あなたのことを。それでも、私は、手を離せなかった」
「謝るなら、杏子に」
「私には、もう、その時間がない」
もう一人の自分は、顔を上げた。
「だから、あなたが伝えて。あの子に。私の分まで」
玲佳は握りしめていた拳を開いた。
いつの間にか、腹の底の熱くて黒いものは、どこにもなくなっていた。
小さく、頷いた。
「最後に、言いたいことがある」
もう一人の自分が、一歩、こちらへ踏み出した。
玲佳は、動けなかった。足が、地面に縫いつけられたようだった。声も、出なかった。言いたいことは、あるのに。訊きたいことは、山ほどあるのに。
もう一人の自分が、目の前に立った。
同じ高さの目が、玲佳を見た。
「——絶対に、死なないで」
肩を、軽く押された。
それだけだった。
身体が、後ろへ傾いた。背中の下に、地面はなかった。
「待っ——」
冷たい水が、身体を包んだ。
玲佳は水の中で手を伸ばした。水面の向こうで、黒いローブの輪郭が、揺れながら遠ざかっていく。届かなかった。
身体が、沈んでいく。水の中とは思えない速さで、深く、深く。
*
どれくらい沈んだのか、わからなかった。
下のほうに、何かがあった。
黒かった。靄のように揺らいで、形が定まらない。
前に一度、夢の中で見たものだった。あのときは、見ているだけで胸がざわついた。近づきたくないと思った。
今は、違った。
今なら、わかった。あれが何なのか。
自分が、知らなければならないもの。
本当の、記憶。
玲佳は、手を伸ばした。
指先が、触れた。
黒いものが、指先から、身体の中へ流れ込んできた。
頭の中にあった景色が、上から塗り潰されていく。
幸せな家。優しい両親。夕食の食卓の笑い声。
全部、剥がれていった。
角材を振り上げる男の腕。
押し入れの襖の、細い隙間から漏れる光。
うるせえんだよ、と怒鳴る声。
小さな書斎。鍵のかかる扉。棚に並んだ、北の神話の本。暗い部屋で、何度も何度もめくったページ。神々の戦い。燃え落ちる世界。空を裂いて降りてくる、翼を持つもの。
お父さんとお母さんを殺せる、神様みたいな力が、ほしい。
押し入れの暗がりの中で、白い獣に向かって、そう言った。
もう、痛いのは嫌だった。誰にも、この身体を傷つけさせたくなかった。自分を閉じ込めた二人を、誰よりも強い力で、この世から消してしまいたかった。
殺したかったのでは、なかったのかもしれない。
二度と、誰にも決められたくなかった。誰にも、支配されたくなかった。いつ殴られるのか。いつ閉じ込められるのか。何を食べて、いつ眠って、どこにいていいのか。全部、あの二人が決めていた。
誰にも奪われないものが、ほしかった。自分のことを、自分だけで決められる力が。
その暗い願いの底に、ほんの少しだけ、別のものが混じっていた。
書斎の本の中の、光の翼への、憧れ。
それから、夜の居間。
二つの胸に、刃を突き立てた。それだけだった。何年も抗えなかったことが、嘘のように簡単だった。あまりにも呆気なくて、声を上げて笑ってしまった。
そのあと、四人のところへ行った。
机の中に、羽のある虫を仕込んでいた四人。蓋を開けると、虫が顔めがけて飛び出してくるように。誰がやっているのかは、ずっと前から知っていた。
その先は、ところどころ、黒く塗り潰されていた。一人目の顔は、覚えている。二人目も、たぶん。そこから先が、うまくつながらなかった。
白い病室。白いベッド。ひび割れた笑い声。
長い、長い入院。
病院を出たあとの、夜の路地。
縄張りを奪いに来た魔法少女たち。いきなり刃を向けてきた子。背中から撃ってきた子。最初から、話をするつもりなどなかった子。
武器を捨てて、地面に膝をついた子もいた。もう来ない、この街には二度と近づかない、だから、と。泣きながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。
一人残らず、殺した。
退けた、と覚えていた。強くなかった自分が、考えて、考えて、どうにかしのいできたのだと。
違った。
追い払うだけで、済んだはずだった。力の差は、向き合った最初の一瞬でわかっていた。脚を折るだけでも。武器を取り上げるだけでも。二度とこの街に近づくなと、言い聞かせるだけでも。
手は、いくらでもあったはずだった。
それでも、あの子は殺した。そのほうが、早かったから。
窓際の席。囁き声。
トラックの脇のベンチで、会釈をした桃色の髪。
雨上がりの坂道。
黄色い卵焼き。
湿った草の匂い。星のない空。うなじに触れた、柔らかい指。ぱちん、という小さな音。
明日の朝も、結んできてね。
星が、空いっぱいに広がった夜。
雪の森。掌の中で、ぱきりと砕けた、桃色の硬いもの。
雪の上に投げ出された、小さな手。
そら。
名前が、胸の奥から浮かび上がってきた。
知らなかったはずの名前だった。それなのに、口の中で転がすと、涙が出るほど懐かしかった。
花宮そら。
二年前に、この手で死なせた子。
記憶は、それからも流れ込み続けた。
そらのいない、長い一年。星の空の下を、一人で歩いた夜。毎朝、鏡の前で、星のゴムで髪を結んだ。結ぶたびに、少しずつ自分が薄くなっていった。押し入れの中の子どもが、少しずつ目を覚ましていった。
そして、ある朝。
窓から差す光の中で、白い髪の少女が、ベッドの上で目を覚ました。
銀の指輪を、不思議そうに見下ろしていた。昨夜のことも、その前のことも、何も覚えていなかった。
杏子と出会う、数日前の朝だった。
記憶の全部が、見えたわけではなかった。
ところどころに、黒く塗り潰されたままの夜があった。手を伸ばしても、指先が滑って、その先へは届かなかった。
それが何の夜なのか、玲佳にはわからなかった。
*
目を開けると、天井があった。
自分の部屋の、見慣れた天井だった。カーテンの隙間から、白い朝の光が差し込んでいた。雲一つない、澄んだ青空が、窓の向こうに広がっていた。
玲佳はゆっくりと上半身を起こした。
身体は、どこも痛まなかった。頭も、痛まなかった。あれほど頭の奥に潜んでいた痛みが、どこにもなかった。
代わりに、胸の真ん中が、ぽっかりと空いていた。
自分の半分が、どこかへ行ってしまったような感じだった。
いや、違う。
半分は、ここにある。自分の中に、溶けて、混ざって、もう区別がつかないだけだ。だから、もう、向こうから話しかけてくることはない。
玲佳は自分の掌を見下ろした。
わかった。
なぜ、魔法を使うたびに頭が痛んだのか。なぜ、誰かに何かを言われるたびに痛んだのか。
契約したのは、自分ではなかった。あの子だった。自分は、あの子の力の一部を、借りていたにすぎない。その分を超えた力に手を伸ばすたび、頭の奥で、何かが軋んでいたのだ。
今は、違う。
全部、自分のものになった。
神話や伝承の武具を写し取るだけの力ではなかった。そのずっと奥に、もっと大きなものがあった。神々の力そのものを、この手で振るうための力。書斎の暗がりで、幼いあの子が憧れた、光の翼。
背中の奥で、それが静かに息づいているのがわかった。
玲佳はベッドから降りた。
指輪に、魔力を流した。
光が、身体を包んだ。
変身が、終わった。玲佳は姿見の前に立った。
鏡の中の自分は、ローブを纏っていた。フードのない、飾りのないローブ。
胸の真ん中に、紋様があった。魔法円の中に、五角形。その内側に、ルーン文字が一つ。イチイの木を表す、エイワズ。死と再生の境に立ち、持ち主を守るとされる文字だった。
首元の鎖の先で、鏡のように磨かれた銀の十字架が、朝の光を映していた。
それは、何も変わっていなかった。
変わっていたのは、布の色だった。
白ではなかった。
黒でも、なかった。
灰色だった。雨上がりの空のような、淡い灰色。
玲佳はしばらく鏡の中の自分を見つめていた。
変身を解いて、枕元に目をやった。上着が、椅子の背に掛けてあった。ポケットに手を入れると、指先に、小さな硬いものが触れた。
星の飾りのついた、紺色の髪ゴム。
欠けた角を、指の腹でなぞった。
うなじの髪を、片手でまとめかけた。
そこで、手が止まった。
これは、あの子の朝だった。明日の朝も結んできてね、と言われて、あの子が一日も欠かさずに続けてきたことだった。自分がそれをなぞったところで、あの子の代わりにはなれない。そらの隣にいたのは、自分ではない。
今は、まだ、結べなかった。
玲佳は髪ゴムを掌の中に包んで、それから、左の手首に通した。
ありがとう。
守ってくれて。
これが、あなたへのお礼になるのかはわからない。
でも、今度は、誰かに頼まれたからじゃない。私が、私の意思で。
杏子を。まどかを。
守り抜いてみせる。
それから、もう一つ。
玲佳は窓の外の青空を見上げた。夜になれば、あの空は、また数えきれないほどの星で埋まる。
そら。
あなたの星は、まだ、一つも消えていない。
「玲佳」
足元で、声がした。
玲佳は視線を落とした。
ベッドの下から、白い獣が、するりと這い出してくるところだった。赤い目が、まっすぐに玲佳を見上げていた。
「君にとって、有益な情報を持ってきたよ」