魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜   作:LongLong

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第三十二話 愛は無限に有限だよ

第三十二話

 

「だって」

 

 キリカがフェンスの前で言った。

 目が、笑っていた。口元も、笑っていた。その笑顔の奥で、何かが渦を巻いていた。

 

「愛は、無限に有限だよ」

 

 世界が、裏返った。

 空き地の雑草が、錆びたフェンスが、シャッターの降りた倉庫が、一斉に色を失ってねじれていく。夕方の空が赤黒く濁った色に塗り替えられていった。

 魔女の結界だった。

 ここまで近くに来るまで、気配に気づかなかった。

 

「え? へ?」

 

 キリカの声が上から聞こえた。

 見上げると、キリカの身体が、巨大な手のようなものに掴まれていた。指の一本一本が糸を吐き出している。キリカの手足に、腰に、首に、白い糸が巻きついていく。見る間に、その姿は白い繭に包まれて見えなくなった。

 繭の上に、魔女が乗っていた。

 人に似た身体。猫のような耳。顔が、二つあった。一つは泣いていて、一つは笑っていた。何本もの腕が身体のあちこちから生えていた。

 繭の中から、まだかすかに、何かを叫ぶ声が聞こえていた。

 生きている。

 

「少し待ってて」

 

 玲佳は、変身した。

 灰色のローブが赤黒い風にはためいた。胸の紋様が淡く光った。

 繭の中には、キリカがいる。大きな力を振るえば、繭ごと巻き込む。

 派手な力は、使えない。

 右手を開くと、そこに一本の槍が現れた。

 全体が、銀色だった。枝を一本削り出したような、細く長い槍。二メートルを優に超える。北の神々の王が携え、投げれば必ず的を射抜くという槍。

 グングニル。

 もう一人の自分が、一番よく手に取っていた槍だった。握った瞬間、掌が、その重さを覚えていた。

 

 玲佳が一歩踏み出すより先に、繭の中から声がした。

 

「……い……は……」

 

 最初は、くぐもって聞き取れなかった。

 

「……愛は、無限に有限なんだ。……だから」

 

 繭が、内側から裂けた。

 黒いものが、飛び出してきた。

 キリカだった。いつの間にか、変身していた。黒を基調とした衣装。片目を覆う眼帯。両手の甲から、鋭い鉤爪が三本ずつ伸びている。

 

「私は、彼女に、無限に尽くす」

 

 キリカは宙で身をひねった。

 鉤爪が魔女の二つの顔をまとめて掻き裂いた。

 魔女の身体が音もなく崩れはじめた。泣き顔と笑い顔が同時に歪んで、溶けていく。

 

「恩人を故人にするのも、無限の中の、有限に過ぎないよ」

 

 キリカは、崩れていく魔女の上から、まっすぐに玲佳めがけて跳んできた。

 振り下ろされた鉤爪を、玲佳は、半歩ずれてかわした。

 風圧が、頬を撫でた。

 キリカの顔に驚きが走った。かわされるとは、思っていなかったらしい。

 

 速い、と玲佳は思った。

 杏子より、二段は上だ。けれど、自分にとって特別に速いと言えるほどではない。

 負ける気が、しなかった。

 投げれば必ず的を射抜く槍の神も、火を司る天使も、竜を殺した英雄も。神々の力は、今、全部この手の中にある。どれを出すのかを決めるのは、自分だけだった。

 

「……あなたが」

 

 玲佳は槍を構え直した。

 

「あなたが、魔法少女狩り?」

「うんっ!」

 

 キリカは、にっと笑った。両手の鉤爪を、胸の前で交差させる。

 

「なら、あなたは私の敵」

 

 キリカが、跳んだ。

 上から、連続で浴びせてくるつもりだった。

 玲佳は、後ろへ滑った。身体の正面を、キリカに向けたまま。着地の瞬間を狙って、踵で地面を鋭く抉り、前へ蹴り出す。砕けた地面の破片が散弾のようにキリカの顔めがけて飛んだ。

 

「またかっ!」

 

 キリカは鉤爪を払って破片を砕いた。怯まずに、まっすぐ突っ込んでくる。

 今度は、避けなかった。

 鉤爪と槍の穂先が正面からぶつかった。金属と金属が擦れ合う、耳をつんざくような音が、赤黒い空に響いた。

 両腕に痺れるような重さが走った。細い身体のどこから出てくるのかわからない力だった。

 

「すごいね、止めた! 避けるしかできないのかと思ってたよ! でも、次もあるよ! 次、次、次、次っ!」

 

 キリカの猛攻が、始まった。

 右から。左から。上から。下から。六本の爪が息をつく間もなく襲いかかってくる。一本を柄で受ければ、その陰から二本目が来る。穂先で逸らせば、逸らした先で三本目が待っている。

 玲佳は、それを受け、逸らし、半身をずらしてかわしながら、考えていた。

 

 魔法少女が、何人も殺されている。

 キュゥべえはある魔法少女たち、と言った。

 一人ではない。

 このストラップは、恋人からの贈り物だと思っていた。違う。キリカが無限に尽くすと言った、彼女。この子と同じくらい、ことによるとこの子以上に危うい、誰か。

 そして、その誰かを、自分は一度だけ見たことがある。

 杏子の空き箱がキリカの頭に当たった朝。その隣にいた、白い制服の、銀色の髪の少女。

 

 ここで、この子を追い詰めれば。

 その少女は、来る。

 賭けだった。外れれば、その間にまどかが狙われるかもしれない。お守りが防げるのは、一撃だけだ。

 玲佳は賭けることにした。

 

 鉤爪が、頬をかすめた。

 さっきまでは、紙一枚の余裕を持ってかわせていた爪だった。

 玲佳は、槍の柄で次の一撃を弾き、大きく後ろへ跳んで距離を取った。

 着地した足がほんのわずかに重かった。

 おかしい。

 キリカが、速くなっているのではない。キリカの動きは、最初からほとんど変わっていない。変わったのは、自分のほうだった。腕を振る。脚を運ぶ。その一つ一つに、水の中で動いているような抵抗が、少しずつ、少しずつ増えていた。

 

 キリカが、また来た。

 玲佳は受けながら、キリカの肩越しに結界の空を見た。

 魔女は、もう死んでいる。結界は、崩れはじめていた。

 その崩れ方が、場所によって違っていた。

 遠くの空は、ガラスが割れるように、ばらばらと剥がれ落ちていく。剥がれた欠片がふつうの速さで地面に落ちて、砕けて消える。

 なのに、自分たちの頭の上の空だけが、崩れない。罅が入って、欠片が剥がれかけたまま、そこで止まりかけている。やっと剥がれた欠片も、雪のようにゆっくりと、いつまでも宙を漂っていた。

 遅いのは、ここだけだった。

 キリカの周りだけ。

 

「どうしたの? 反撃しないの? できないの?」

 

 キリカの声が、笑っていた。

 

「恩人は、慎み深いのかな? あはははははっ!」

「……狂ってる」

 

 口に出してから、玲佳は胸の奥で小さく笑った。

 人のことは、言えない。

 

「彼女のためなら、私は狂人にでも何にでもなれるよ!」

 

 キリカが、叫んだ。

 次の瞬間、キリカの身体が弾かれたように後ろへ跳んだ。

 玲佳の足元から紅蓮の炎が噴き上がっていた。

 

「あなた、さっき、反撃できないって言ったでしょ」

 

 炎が、蛇のようにうねって、キリカに襲いかかった。

 

「それは、正解じゃない」

「面倒なっ!」

 

 キリカは鉤爪を振るって炎をかき消そうとした。すぐに諦めて、身を翻す。

 炎の蛇は、キリカに近づくほど、動きが鈍くなった。のたうつ速さが落ち、揺らめく炎の舌が、蝋で固めたようにゆっくりと形を変える。キリカはその脇を、悠々とすり抜けた。

 正しい判断だった。

 玲佳が地面を踏みしめた瞬間、キリカの背後の地面が、塔のように盛り上がっていた。尖った岩の柱が、キリカの背中を貫こうと突き上がる。

 その岩も、キリカの背に近づいたところで、急に重たくなったように伸びが鈍った。

 キリカは、ゆっくりと迫ってくる岩の先端を蹴って、さらに高く跳んだ。

 

 炎は、神の前に立つ四人の天使のうち、火を司るミカエルの力。大地は、光と土を司るウリエルの力。

 ほんの数日前までの自分には、決して扱えなかった力だった。借りていた力の、その奥にあったもの。もう一人の自分から、受け継いだもの。

 その力でさえ、キリカの周りでは、泥の中を進むように鈍っていた。

 

 宙に跳んだキリカを、玲佳は見上げた。

 右手の槍を、握り直した。

 投げた。

 銀の槍がまっすぐにキリカの胸へ飛んだ。投げれば必ず的を射抜く、神々の王の槍。

 キリカの手前で、槍が、目に見えて遅くなった。

 キリカは宙で身をよじった。止まりかけた槍の柄を、鉤爪で横から払う。

 逸らされた槍は、キリカの身体の脇をかすめて、その向こうへ抜けた。

 その瞬間だった。

 槍が元の速さを取り戻した。

 空気を裂く音を立てて、槍はキリカの後ろの倉庫の壁に突き刺さり、壁を貫いて、向こう側へ消えた。一拍遅れて、壁が大きく崩れ落ちた。

 玲佳は、目を細めた。

 必中の槍が、外れた。必ず当たるはずの結果が、たどり着く前に遅らされて、その間に逸らされた。

 そして、キリカのそばを離れた途端、速さが戻った。

 

 キリカの周りには、見えない輪がある。

 輪の中に入ったものは、何でも遅くなる。自分も、槍も、炎も、崩れていく空の欠片も。輪の外に出れば、元に戻る。

 そして、輪の中に長くいればいるほど、遅さは増していく。

 さっきから、少しずつ身体が重くなっていたのは、ずっと輪の中で戦っていたからだ。

 キリカが速いのではない。

 こちらが、遅くされていた。

 

 宙から、キリカが降りてきた。

 玲佳はそれを迎えなかった。

 後ろへ、跳んだ。一度。二度。三度。キリカから、二十歩、三十歩と離れる。

 三度目の着地で、身体がふっと軽くなった。

 水から、上がったような感じだった。

 ここが、輪の外だ。

 

「逃げるの?」

 

 キリカが、首を傾げた。

 玲佳の右手に、銀の槍がもう一本、音もなく形を結んでいた。

 

「今度は、どんな魔法が飛び出してくるのかな?」

 

 キリカが爪を構えて言った。

 

「楽しみだ」

 

 強がりだった。声の端が、わずかに震えていた。

 玲佳が輪の外に出たことに、キリカは気づいていた。だから、声が震えた。

 

 玲佳の背後の空間に黒い穴が開いた。

 一つ、二つ。十、二十。数十の穴が玲佳の後ろに、壁のように並んだ。

 虚空に穿たれた穴の奥から、燃える矢が降り注ぐという古い伝承。プテウス。

 

「そんなあなたに、お応えして」

 

 黒い穴の奥で火が灯った。

 燃え上がる矢が数十の穴から一斉に放たれた。

 

 炎の矢は、まっすぐにキリカへ飛んだ。

 輪に入ったところで、一本残らず遅くなった。

 キリカが、鼻で笑った。遅くなった矢など、どうということはない。そう思ったのだろう。鉤爪を振るって、目の前の数本を叩き落とす。残りの矢の間を、身体をひねってすり抜けていく。

 すり抜けた矢は、キリカの背後で輪の外へ抜けた途端、元の速さを取り戻した。

 キリカの後ろの倉庫の列に炎の矢が次々と突き刺さった。シャッターが、爆ぜるように吹き飛んだ。

 

 二斉射目。

 キリカが叩き落とせなかった矢は、輪の中で、止まりかけたまま宙に浮いていた。燃えながら、ほとんど動かずに。

 その間を縫って、二斉射目の矢が飛び込んでくる。それもまた、輪に入って遅くなる。

 三斉射目。四斉射目。

 キリカの周りの宙に、燃える矢が、少しずつ溜まっていった。

 叩き落としても、叩き落としても、次の矢が来る。来た矢は、遅くなって、そこに残る。

 遅くされた矢は、消えないのだ。

 キリカの顔から、笑みが消えた。

 気づいたときには、もう遅かった。キリカの周りの、前にも後ろにも、上にも横にも、燃える矢の穂先が、ぎっしりと並んで宙に浮かんでいた。どこへ身体をひねっても、その先に火があった。

 自分の魔法が、自分を閉じ込める檻になっていた。

 胸の奥が、じんと熱くなった。

 楽しい、と思った。

 見えない輪の形を読み、遅さの決まりを暴き、その決まりそのもので、相手を詰ませる。解けていく謎の手触りが、指先まで痺れるように心地よかった。

 思ってから、背筋が冷えた。

 夜の居間で、二つの胸に刃を突き立てて、声を上げて笑ったあの子。あの熱と、同じ温度だった。

 

 五斉射目が、放たれた。

 それが輪に届いたとき、キリカの周りの宙を埋めていた炎の矢が、ゆっくりと、けれど一斉に、中心のキリカへ向かって進みはじめた。

 遅くても、止まってはいない。

 逃げ場は、どこにもなかった。

 

 炎が、キリカを呑み込んだ。

 

 煙が、ゆっくりと晴れていく。

 キリカは、立っていた。

 全身が火傷と裂傷で覆われていた。黒い衣装は、あちこちが焼け焦げて、裂けていた。眼帯の紐が片方ちぎれて垂れ下がっていた。

 それでも、二本の足でしっかりと地面を踏みしめて、立っていた。

 玲佳は槍を握る手に、わずかに力を込めた。

 恐ろしいほどの意志だった。何があっても倒れない、倒れるわけにはいかない、という。その意志が、身体を支えているだけだった。これ以上動く力は、もう残っていないはずだった。

 キリカは、動かなかった。

 キリカの頭の上で、止まりかけていた空の欠片が、ぱらぱらと、ふつうの速さで落ちはじめた。

 見えない輪が、消えていた。

 

「……さようなら」

 

 玲佳はキリカに歩み寄り、槍を振り上げた。

 

 頭の上で、風を切る音がした。

 考えるより先に、身体が後ろへ跳んでいた。

 一瞬前まで玲佳が立っていた地面を、何かが砕いた。硬い球体だった。拳ほどの大きさの、白く光る珠。それが、地面に深々とめり込んでいた。

 キリカの爪ではなかった。

 玲佳は珠が飛んできた方角を見た。

 崩れかけた結界の縁に、誰かが立っていた。

 白かった。

 豪奢な白い衣装。帽子の下から銀色の長い髪が流れ落ちていた。その周りに、いくつもの白い珠が、衛星のように浮かんでいた。

 杏子の空き箱が、キリカの頭に当たった朝。その隣に立っていた、銀色の髪の少女。

 

「……やっと、来た」

 

 玲佳は槍を握り直した。

 銀色の髪の少女は、ぼろぼろになったキリカを一瞥してから、玲佳に目を向けた。冷たい目だった。何もかもを、先に見てきたような目だった。

 

「私のことは、ご存じのようですね」

 

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