魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第三十三話
学校から帰ると、まどかはリビングのソファに膝を抱えて座り込んだ。
制服のポケットに、手を入れる。指先にひんやりとしたものが触れた。
取り出して、天井の照明にかざした。
直径三センチほどの、青い石。どこまでも透きとおっていて、照明の光が石を通ると、まどかの頬がほんのりと青く染まった。
最初は、サファイアか何かだと思った。けれど、宝石なら、こんなふうにいつまでも冷たいままでいるはずがない。
「これ、何なのかな……。ずっと冷たい」
一日じゅう、ポケットに入れていた。授業の間も、昼休みも。ずっと身体のそばにあったのに、少しもぬるくならなかった。氷なら、とっくに溶けているはずだった。それに、氷と呼べるほど冷たいわけでもなかった。ただ、いつまでも、ひんやりとしている。
見つめていると、胸の奥が、ほんの少しだけ押されるような感じがした。注意していなければ気づかないくらいの、かすかな圧。
怖くはなかった。むしろ、誰かにそっと肩を抱かれているような感じだった。
「綺麗な石だね」
キッチンから父が顔を出した。エプロン姿で、手には布巾を持っていた。
「あ、パパ」
「誰かからのプレゼント?」
「プレゼントっていうか……学校の先輩から、もらったの」
どう呼べばいいのか、まどかにもわからなかった。父はソファの肘掛けに腰を下ろした。
「今朝の、あの子だね」
「うん。如月玲佳さん」
父は、少しだけ目を細めた。
「すごく綺麗な子だったけど、なんだか、張りつめた顔をしてた」
まどかは青い石を両手で包んだ。
「玲佳さんね、すっごく強い先輩なんだ。わたしも、何回も助けてもらったの。だけど……」
「心配なんだね」
「うん」
まどかは膝の上に顎を載せた。
「今朝これをもらってから、電話がずっと繋がらないの。さやかちゃんから、杏子ちゃんが玲佳さんを探して走り回ってるって連絡もあって。……杏子ちゃんっていうのは、玲佳さんと一緒に住んでる子なんだけど」
父は、しばらく黙っていた。
それから、まどかの肩にそっと手を置いた。
「玲佳さんって人は、とっても強い人なんだろう?」
「うん」
「それなら、信じてあげなくちゃ。絶対に帰ってくる、って」
父は、魔女のことも、魔法少女のことも知らない。玲佳が今どこで、何と向き合っているのかも知らない。
それでも、そう言ってくれた。
玲佳の強さを、父よりもずっとよく知っている自分が、信じられなくてどうするのだろう。
「……パパ、ありがとう」
まどかは青い石を、もう一度ぎゅっと握りしめた。
冷たかった。
その冷たさが、なぜか、少しだけ心強かった。
*
二つの殺意が崩れかけた結界の中でぶつかり合っていた。
一方は、どんなものでも切り裂く、細く研ぎすまされた刃物のような。
もう一方は、どんなものでも叩き潰す、重く巨大な鉄槌のような。
形は違っても、その底にあるものは、同じだった。
「あなたの存在は、前々から危ぶんでいましたが」
銀色の髪の少女が、口を開いた。
ゆっくりと、一語ずつ、確かめるような話し方だった。
「まさか、鹿目まどかの側についていたとは」
冷たい声だった。
その冷たさの奥に、玲佳は少女の覚悟を見た。この子は、目的のためなら、手段を選ばない。自分の手を汚すことも、仲間を使い潰すことも。
「まどかを狙う目的は?」
「救世のためですわ」
少女は迷わずに答えた。
「鹿目まどかは、いずれ魔女になります。これまでのどんな魔女とも比べものにならない、最悪の魔女に。世界は、それで終わる。私は、それを見ました」
「……あなたは、大のために、小を切り捨てる」
「あなたは、鹿目まどかのために、大を切り捨てようとしている」
少女の目が、細められた。
「それが、世界を壊すことになっても」
玲佳は喉の奥で小さく笑った。
「……っは」
少女の顔に、歪んだものが浮かんだ。
「世界を壊す? 杏子がいる世界を、私が壊すわけがない」
「ならば、どうすると? 彼女は魔女になり、世界を破壊します」
「そんなの、決まってる」
玲佳は唇の端を吊り上げた。
「魔法少女にしなければいいだけ。あなたは、こんな簡単なことにも気づけない愚か者?」
喉を震わせて、嗤った。
人を、底の底まで見下した嗤いだった。
怒らせれば、隙が生まれる。玲佳は、それを待った。
少女は一瞬だけ唇を噛んだ。けれど、それだけだった。
「……そんな見え透いた挑発には、乗りませんわ」
少女はぼろぼろになったキリカのそばに歩み寄り、その身体を抱え上げようとした。
「では、ごきげん——」
「待ってくれ、織莉子」
キリカが少女の腕を押しとどめた。
織莉子。それが、この子の名前らしかった。
「奴は、ここで私が仕留める」
キリカは焼け焦げた身体で、織莉子の腕の中から抜け出した。
ふらつきながら、玲佳の前に立った。
「ここまで織莉子をコケにされて、黙って帰るわけにはいかないよ」
織莉子はキリカの背中を見ていた。
それから、静かに目を閉じた。
「……そうね。ここで、仕留めておきましょう」
「了解っ!」
キリカが、地面を蹴った。
怪我人とは思えない速さだった。いや、さっきよりも、速い。
見えない輪は、戻っていなかった。玲佳の身体は、軽いままだった。それなのに。
玲佳は槍で鉤爪を弾き、返す動きで石突きをキリカの腹へ突き出した。
キリカは紙一重でかわした。脇腹の布が、裂けた。
二度、三度、槍を繰り出した。どれも、紙一重でかわされた。まるで、槍がどこを通るのか、突き出す前から知っているかのように。
そして、キリカの爪は最初とは比べものにならないほど正確になっていた。
狂ったような笑い声も、もう聞こえなかった。
右の頬に、熱いものが走った。
鉤爪が、かすめていた。頬を伝って、血が一筋、顎の先へ流れた。
かわしたはずだった。かわした先に、爪が置かれていた。
玲佳は大きく後ろへ跳んだ。
掌に風を集めて、塊にして撃ち出す。キリカはそれが放たれるより先に、横へ半歩ずれていた。風の塊はキリカの背後の倉庫の壁を、跡形もなく吹き飛ばした。
気持ちが昂っただけで、ここまで正確になるはずがない。
玲佳はキリカの肩越しに、織莉子を見た。
織莉子は少し離れたところに立って、目を閉じていた。唇が、かすかに動いていた。
声は、聞こえない。
テレパシーだ。
それから、もう一つ。
まどかが魔女になる。この子は、それを見た、と言った。予想ではなく、決まったことのように。どうして、そこまで確信できるのか。
最初に浮かんだのは、ほむらの顔だった。
時間を、遡っている?
まどかが魔女になる結末を一度その目で見て、そこから戻ってきた。ほむらが、何度もそうしてきたように。
違う、と玲佳は思った。
それでは、説明がつかない。
この戦いを一度通ってきたのなら、キリカは、炎の矢の檻に自分から閉じ込められたりはしなかった。最初の一撃をかわされて、驚いたりもしなかった。キリカの動きが変わったのは、織莉子がここに現れて目を閉じてからだ。それまでのキリカは、何も知らなかった。
過去を、覚えているのではない。
今、この場で、少し先を見ている。
未来が、見えている。
見えた未来を、一つ残らずキリカに伝えている。自分がどこへ槍を突き出すのか、どこへ身をかわすのか、それを先に知ったうえで、キリカは爪を置いている。
もっと早く、気づくべきだった。
長引かせれば、負ける。
玲佳は身体に流す魔力を、一段引き上げた。骨が、筋が、内側から軋むほどに。
グングニルを、手放した。
代わりに、右手に炎が集まった。燃え盛る火を、無理やり押し固めて、剣の形に鍛え上げたもの。刃渡りは、腕の長さほど。小さく、そのぶん熱を一点に凝らした、炎の剣。
キリカが、来た。
右腕を、振り下ろしてくる。
玲佳はそれを避けなかった。未来が読まれているなら、避けた先には必ず爪がある。避けずに、正面から、炎の剣を振り上げた。
予知されていても、かわしきれない速さで。
キリカは、腕を引いた。寸前だった。
間に合わなかった。
「っ、ああああっ!?」
「キリカっ!」
白い蒸気が、噴き上がった。
キリカの右手の鉤爪が三本とも、根元から断ち切られて宙を舞っていた。焼き切られた断面が、赤く溶けていた。
玲佳は返す刃で、キリカの左腕を薙いだ。
肘から先が、地面に落ちた。
血は、流れなかった。あまりの熱に、切り口が一瞬で炭になっていた。
キリカはよろめきながら後ろへ下がった。
織莉子の隣まで戻って、そこで止まった。
左腕の、肘から先がなかった。右手の爪は、一本も残っていなかった。
倒れは、しなかった。
「……私は、もうだめだ。戦えない」
キリカは自分の両腕を見下ろして、言った。
「このままだと、織莉子の足手まといになるだけだ。色々、言いたいこともあったんだけど」
空気が、変わった。
キリカを中心に、何かがぎりぎりと音を立てて塗り替えられていくようだった。玲佳の背筋を冷たいものが這い上がった。
この感覚を、知っていた。
濁りきったソウルジェムが、グリーフシードに変わるときの。
「キリカ? 何をするつもりなの」
織莉子の声が、揺れた。
キリカは織莉子を見て、にっと笑った。
「つまり、このままだと、私は織莉子の足を引っ張るってことだよ。だから」
織莉子の顔に、驚きが走った。
その驚きは、すぐに消えた。織莉子は唇を強く引き結んで、元の凛とした顔に戻った。
「……キリカ。本当に、それでいいのね?」
「ああ、もちろん。それでこそ、織莉子だ」
キリカは、笑った。
何もかもを下ろしたような、晴れやかな笑顔だった。
それから、玲佳のほうへ向き直った。
「恩人が……いや、敵人が、待ちかねてる」
「キリカ……。あなたの犠牲は、絶対に無駄にしない!」
織莉子の叫びを合図にしたように、結界の中の景色が次々に変わっていった。
赤黒い空が、白と黒の市松模様に塗り替えられていく。崩れかけた倉庫の壁が、モノクロームの格子に変わる。地面から、白と黒の縞模様の細い柱が、何本も何本も突き出してくる。
キリカのソウルジェムが、真っ黒に染まっていた。
そこから、途方もない量の何かが噴き出してきた。
魂が、終わっていく。
終わりながら、なお形を変えて、廻り続けようとしていた。
愛は、無限に有限。
キリカの言葉が、耳の奥で鳴った。