魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第三十四話
白と黒の市松模様が、見渡すかぎりに広がっていた。
美国織莉子は、その真ん中に立って、キリカだったものを見上げていた。
黒い靄の中から、何かが立ち上がろうとしていた。大きな鎌を携えた、ひょろ長い影。顔のあるべき場所に、ただ一つ、歪んだ目が開いていた。
あれは、もうキリカではない。
わかっていた。キリカが選んだことだった。自分が、それを許した。
流れるような銀の髪。誰もが振り返る顔立ち。学年で一番の成績。完璧な礼儀作法。市議会議員の、一人娘。
誰に会っても、同じことを言われた。なんて素晴らしいお嬢さんだろう、と。
良家の娘ばかりが集まる白女の中でさえ、それは変わらなかった。妬む生徒もいた。けれど、その生徒たちでさえ、織莉子の有能さだけは認めざるを得なかった。
さすがは、美国さんのお嬢さんだ。お父上の名に恥じぬよう、これからも精進したまえ。
ほら、あの人よ。生徒会長で、学年一番の、美国織莉子さん。
美国会長は、わが校の誇りですわ。
期待の全部を、一身に背負った。父の娘にふさわしくあろうとして、努力を重ねた。全国模試で、二番の成績を取った。悔しかった。一番は、名前も知らない見滝原中の誰かだった。生徒会長として、できることは全部やり遂げた。
それでも、崩れるときは、一瞬だった。
土砂崩れのように。止めようとする手など、何の意味もなかった。
本日未明、見滝原市議会議員の美国久臣氏が、自宅で首を吊っているのが発見されました。美国議員には、以前から経費をめぐる不正の疑惑があり、警察は、追及を逃れるための自殺の可能性が高いとみて——
前の晩、父は笑っていた。
織莉子。どんな逆風があっても、決して諦めない。父さんに、そう約束してくれ。
あんなに、晴れやかな顔で。
どん底にいた自分を拾い上げたのは、白い獣と、呉キリカという名の少女だった。
キリカは織莉子のためにこの身を捧げると誓った。織莉子は世界を救うと決めた。
世界を壊す少女を、殺す。鹿目まどかを。
この身が朽ちようとも。キリカの命を、使ってでも。
それが、キリカの望みで。
それが、自分の使命だった。
「……行きなさい、キリカ」
織莉子は黒い影に向かって、小さく言った。
一つ目の影が、白い魔法少女のほうへ、ゆっくりと首を巡らせた。
*
光が、弾けた。
魔女の一つ目から、光の矢の束が溢れ出していた。何百という細い光が、生き物のように身をくねらせて、まっすぐに玲佳の顔へ殺到してくる。
狙いは、目だった。
玲佳は腕で目を覆った。
遅かった。光が収まっても、視界は白く焼けたまま戻らなかった。目を開けているのに、何も見えない。
玲佳は前へ左手をかざした。
六角形の透明な板が、蜂の巣のように連なって、目の前に一枚の盾を形づくった。神々の王が娘に与えた、あらゆる災いを弾く盾。
アイギス。
何かが、盾にぶつかった。硬い音がして、それきりだった。
盾の向こうで、何かが弾き返されていく気配がした。
その間にも、目の奥の白い靄が、少しずつ薄れていった。
「オオオオオオオオオオッ!」
魔女が、吼えた。
視界が、戻った。
目の前に、巨大な鎌が迫っていた。
玲佳は盾を消して、真上へ跳んだ。鎌が、足の下を薙いでいく。風圧で、ローブの裾が千切れそうになった。
落ちながら、右手の炎の剣を、真下へ突き立てた。
刃が、魔女の一つ目を、まっすぐに貫いた。
焼ける音がした。歪な目が、内側から燃え上がって、黒く縮れた。
さっきのお返しだった。
着地と同時に、玲佳は炎の剣に、魔力をありったけ流し込んだ。
剣から、紅蓮の炎が溢れ出した。
刃渡りが、伸びた。伸びながら、形を変えた。花が開くように、刃が幾重にも裂けて広がり、渦を巻く炎の塊になっていく。
もう、剣とは呼べなかった。
玲佳の背丈の倍近い、燃え盛る炎の柱。楽園の門の前に置かれ、罪ある者を二度と通さないという、裁きの炎そのものだった。
本来なら、神の手にしか馴染まないもの。人の子が振るうには、あまりにも重すぎるもの。
玲佳はそれを両手で握った。
どれほど尊い目的を持っていても。
どれほど、正しくても。
あなたたちが、まどかを殺すというのなら。
振るった。
迷いも、容赦も、なかった。いや、持つことができなかった。
炎の柱が、魔女の上半身を呑み込んだ。
炎に触れたところから、魔女は消えていった。灰さえ、残らなかった。
残された下半身が、ばらばらに砕けて、白と黒の床の上に崩れ落ちた。
悲鳴が、聞こえた。
織莉子だった。キリカの名前を、呼んでいた。
「どうして……どうして、あなたたちは、いつも!」
織莉子が、叫んだ。
さっきまでの冷たい声では、なかった。顔が、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。
白い珠が四つ、織莉子の周りから飛び出して、玲佳めがけて襲いかかってきた。玲佳は炎の柱を横に薙いだ。
重い手応えが、柄から腕へ突き抜けた。
四つの珠は、炎に呑まれても消えなかった。弾かれて宙で軌道を変え、何事もなかったように、織莉子の周りへ戻っていった。白い光は、少しも陰っていなかった。
焼けない。
拳ほどの大きさしかないのに、岩を殴ったような重さだった。
「私たちの邪魔を、するのっ!」
「私は、あなたを殺す」
玲佳は炎の柱を構え直した。
刃物のような殺意と、鉄槌のような殺意が、さっきとは比べものにならないほど膨れ上がって、真正面からぶつかった。
織莉子の珠は、どれも、玲佳が次に動く先へ飛んできた。
右へかわせば、右に珠がある。跳べば、着地する場所に珠が先に浮かんで、待っている。キリカの爪と、同じだった。いや、キリカのときより、ずっと正確だった。見た未来を誰かに伝える手間が、もうないからだ。
玲佳はかわすのをやめた。
予知されていても、かわせない攻撃をすればいい。
炎の柱で飛んでくる珠を片端から弾きながら、前へ出た。弾くたびに、腕の骨が痺れた。弾かれた珠は宙で向きを変えて、また戻ってくる。
炎の柱を、織莉子の胸へ突き込んだ。
届く手前で、珠が一つ、柱の先に割り込んだ。突きが来る場所を、知っていたように。炎の柱が珠に受け止められて止まった。
別の珠が玲佳の左手の甲をかすめて打った。皮膚が裂けて、骨が嫌な音を立てて軋んだ。柱を取り落としかけて、握り直した。構わずに、前へ出た。
炎の柱の先端が、珠と珠のあいだをすり抜けて、織莉子の衣装の裾を焼いた。
織莉子の顔に、焦りが浮かんだ。
織莉子が、後ろへ跳んだ。
距離を取りながら、両手を広げた。織莉子の周りに、珠が次々と生まれていく。十、二十。白く光る珠が、織莉子を中心に、幾重もの輪を描いて回りはじめた。
輪が、一斉に外へ弾けた。
珠が、四方八方から玲佳めがけて殺到した。正面からだけではない。背後から、頭上から、足元から。玲佳がどこへ動いても、そこへ届くように、あらかじめ撒かれた珠だった。
炎の柱一本では、捌ききれない。
玲佳は炎の柱を手放した。
背中が、灼けるように熱くなった。
翼が、開いた。一対の、燃え盛る翼だった。羽の一枚一枚が炎でできていて、揺らぐたびに火の粉が散った。神の前に立つ四人のうち、火を司る天使の翼。
殺到してきた珠が翼の熱に触れて、赤く色を変えた。速さが、鈍った。それでも、溶けなかった。
焼き損ねた一つが右の肩を打った。灰色のローブが裂けて、肩の骨に、鈍い痛みが響いた。
まだ、足りない。
背中の熱が、もう一段、深いところから噴き上がった。
一対の翼の下から、もう一対が開いた。
四枚の炎の翼が玲佳の背で大きく揺らいだ。
空気が、変わった。
結界の中の色が熱に揺らいで歪んだ。息を吸うと、喉の奥が焼けるように痛んだ。肌の上の汗が浮いたそばから乾いていく。白い髪の先が熱にあおられて、ちりちりと縮れた。
自分の炎が、自分を灼いていた。
宙で赤く光っていた珠が形を保てなくなった。とろりと崩れて、白い雫になって落ちていく。一つ、また一つ。落ちきる前に、雫も熱に呑まれて消えた。
織莉子が、腕で顔を庇った。銀色の髪が熱風に煽られて後ろへ流れた。
玲佳は翼を大きく広げた。
その瞬間、織莉子が動いた。
玲佳が翼を打つより先に、織莉子は、崩れかけた結界の縁へ向かって走り出していた。
見えたのだ、と玲佳は思った。これから何が起きるのかを。
遅かった。
玲佳は、翼を一度だけ、打ち下ろした。
熱い風が、玲佳を中心に、輪になって広がった。
白と黒の市松模様の床が、端から燃え上がった。炎は、床を舐めるようにして走り、倉庫の残骸を呑み込み、崩れかけた結界の縁まで、一息に駆け抜けていった。
走っていた織莉子の足元が、火になった。
見渡すかぎり、燃えていない場所はどこにもなかった。
織莉子は、火の海の真ん中に取り残されていた。
織莉子は残った珠を足元に並べ、その上に跳び乗った。
珠が、熱に焼かれて、みるみる赤く色を変えていく。長くは保たない。
織莉子の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
呼吸が、荒くなっていた。額に、汗の粒が浮いていた。
未来を見るのは、ただではない。玲佳は、そう思った。一つ先を見るたびに、この子は何かを削っている。さっきから、キリカに未来を伝え続けて、今は自分の分まで見続けている。
見えていても、逃げ場がない。見えるぶんだけ、それがわかってしまう。
織莉子のソウルジェムが、薄く濁りはじめていた。
「あなたには、わからない」
織莉子が、焼けていく珠の上で叫んだ。
「どれだけのものを背負って、ここに立っているのか! 父の約束も、キリカの命も、私は——」
「わかりたくない」
玲佳は火の海に向かって、足を強く踏み下ろした。
炎の中から、岩の柱が突き上がった。
一本ではない。あちこちで、次々と。尖った岩の頂が、火の海を割って、空へ伸びていく。
火の海の上で、燃えていない場所は、その柱の頂だけになった。
織莉子の足元の珠が、音を立てて砕けた。
織莉子は一番近い柱の頂へ跳んだ。
着地した瞬間、その柱が、根元から崩れはじめた。
次の柱へ跳ぶ。また崩れる。次へ。次へ。
柱は、玲佳が立てたものだった。どれを残し、どれを崩すのか。どの柱の先に、どの柱を立てるのか。決めているのは、玲佳だった。
織莉子には、次にどの柱が残るのかが見えていた。
見えているから、そこへ跳ぶしかなかった。
残された柱は、少しずつ、一つの方向へ並んでいった。
その最後の一本の頂に、玲佳は、先に立っていた。
跳んでくる織莉子の目は、まっすぐに玲佳を見ていた。
その胸元の、白いソウルジェムを叩き潰すつもりで、玲佳は拳を振るった。
織莉子が、宙で身を捻った。
拳は、ソウルジェムのわずかに脇へ逸れて、織莉子の胸を打った。
鈍い音がした。
織莉子の身体が、隣の柱の頂に叩きつけられた。帽子が飛んで、火の海へ落ちていった。銀色の髪が、ばらばらに散った。
織莉子は岩の頂の上で身体を起こしかけて、崩れ落ちた。
咳き込んだ。唇の端から、血が一筋、流れた。
顔を、上げた。
その目は、まだ死んでいなかった。
周りに、珠は、もう三つしか残っていなかった。
織莉子はその三つを、玲佳にではなく、足元の岩へ向けた。叩きつけて、白い光で目を眩ませる。その隙に、火の海の向こうへ抜け出す。退くつもりだ、と玲佳にはわかった。
退かせるわけには、いかなかった。
ここで逃がせば、この子は、必ずまた来る。まどかのところへ。今度は、自分のいないときに。
玲佳は燃える翼をたたんだ。
右手に、銀の槍が生まれた。
投げれば、必ず的を射抜く槍。狙いではなく、結果が決まっている槍。キリカの見えない輪の中では遅らされ、逸らされた。ここには、もう、あの輪はない。
玲佳は、槍を放った。
織莉子の目が、見開かれた。
見えたのだ、と玲佳は思った。槍がどこを通り、どこへ届くのか。この子には、放たれる前から、全部見えていた。
見えていても、どこへも逃げられなかった。
槍の行き着く先は、もう決まっていたから。
織莉子の唇が、動いた。
「……見えましたわ」
槍が、宙を走っていた。
「あなたの、その先も。あなたは、ワルプルギスの夜で——」
銀の穂先が、織莉子のソウルジェムを貫いた。
澄んだ音がした。硝子が割れるような、小さな音だった。
織莉子の身体から、糸が切れたように力が抜けた。白い衣装が、光に溶けて消えた。白女の制服を着た少女が、白と黒の床の上に、横ざまに崩れ落ちた。
言葉の続きは、なかった。
火の海が、少しずつ引いていった。焼け焦げた白と黒の市松模様が、あちこちで剥がれはじめていた。
玲佳は、柱の頂から頂へ渡って、倒れている少女のそばに降り立った。
目は、開いたままだった。剥がれかけた結界の隙間から覗く夕焼けを映して、瞬きをしなかった。
雪の森で、星空を映していた目と、同じだった。
玲佳は、膝をついた。手を伸ばして、その瞼をそっと閉じた。
指先に、まだ、かすかな温もりが残っていた。
足元の岩が、崩れはじめた。
市松模様の欠片が、一枚、また一枚と宙に浮かび、光の中へ溶けていく。岩の柱が崩れ、白と黒の縞の柱が崩れた。
最後の一枚が、消えた。
夕暮れの空き地が、戻ってきた。
玲佳の手の下には、もう、何もなかった。
結界の中で死んだものは、結界と一緒に消える。魔女に喰われた人も、魔女に敗れた魔法少女も。亡骸さえ、この世に残らない。誰にも見つけられず、誰にも弔われず、ただ、いなくなる。
知っていた。
錆びたフェンスの前の、雑草の上に、玲佳は一人で膝をついていた。
明日になれば、白女の生徒会長が一人、家に帰ってこなかったことになるのだろう。何日か経てば、行方不明の少女として、どこかの掲示板に写真が貼られるのかもしれない。
誰も、ここで何があったのかを知らないまま。
あなたは、ワルプルギスの夜で。
その先を、織莉子は言わなかった。言えなかった。
玲佳はそれを知りたいとは、思わなかった。知ってしまえば、何かが決まってしまう気がした。
玲佳は、変身を解いた。
少し離れた地面に、グリーフシードが一つ、転がっていた。
黒い、卵の形をしたもの。キリカだったもの。
玲佳はそれをしばらく見下ろしていた。
それから、拾い上げた。
*
夕日が、見滝原の街を斜めに照らしていた。
玲佳はゆっくりと歩いていた。決して、軽い足取りではなかった。
ガラスとコンクリートの林を抜けると、見晴らしのいい川沿いの道に出た。
整えられた河川敷の芝生の上で、小さな子どもが、声を上げて駆け回っていた。幼稚園に上がるかどうかという、まだ足元のおぼつかない子だった。
その少し後ろを、眼鏡をかけた柔らかい顔つきの男の人が、両手を広げてついて歩いていた。父親なのだろう。
「パァパ!」
子どもが振り返って、弾けるように笑った。
男の人が、その子を抱き上げた。高く掲げられて、子どもはきゃあきゃあと声を上げた。
玲佳は右の頬に指を当てた。
血は止まっていた。けれど、傷は塞がっていなかった。指でなぞると、電気が走ったような痛みがあった。思っていたより、深い。自分には、これを治す魔法はない。
魔法少女にしなければいいだけ。
織莉子にそう言ったとき、本気でそう思っていたわけではなかった。
まどかはソウルジェムが何なのかを知っている。魔法少女の最期がどうなるのかも。それを全部知ったうえで、それでもなお、まどかが心の底から奇跡を願うとしたら。
それは、まどかが、何かを決めたときだ。
もう誰にも、揺らがせられないほど、固く。
その決意を、自分に握り潰せるのか。
目を閉じると、瓦礫の街が浮かんだ。
ワルプルギスの夜が過ぎ去った後の、見滝原。家も、学校も、橋も、何もかもが崩れ落ちて、動くものは一つもない。杏子も、マミも、さやかも、まどかも。誰一人、残っていない。
杏子と出会う前の自分なら、何とも思わなかった景色だった。
今は、違った。
杏子には、居場所がある。この街に。マミの家のテーブルに。さやかとの稽古に。まどかの笑顔の隣に。家族を全部なくした杏子が、ようやく手に入れたものだった。
それを、もう一つも、失わせるわけにはいかない。
そのためなら、何を捨ててもいい。
まどかの命と、杏子の命と。まどかの決意と。
天秤に掛けるなら、答えは、とっくに出ているはずだった。
「……わからない」
声に出していた。
答えは出ているのに、それを選ぶことが、できなかった。まどかの決意を、言葉で、あるいは力ずくで、握り潰すことが。
ただ、その決意が生まれないことを、祈るしかなかった。
情けない、と思った。
玲佳は河川敷に背を向けた。子どもの笑い声が、背中のほうで遠ざかっていった。逃げるように、早足になっていた。
*
マンションに着く頃には、苛立ちは、どこかへ消えていた。
カードをかざして、エントランスの扉を開ける。エレベーターに乗り、階数のボタンを押す。扉が閉まって、箱が静かに昇りはじめた。
鏡張りの壁に、自分の顔が映っていた。
右の頬に、赤い線が一本、走っていた。
「……何か、言われそう」
口に出すと、なぜか、笑いがこぼれた。
杏子に心配はかけたくない。それなのに、どこか可笑しかった。
もう、杏子に何かを隠す必要はない。どこへ行っていたのか。何をしていたのか。どうして電話に出なかったのか。そういう言い訳を、考えなくていい。それが、少しだけ嬉しいのかもしれなかった。
玄関の鍵を開けて、ドアを引いた。
目の前に、杏子が立っていた。
いつから、そこにいたのだろう。
「ただいま、杏子」
「……おかえり、玲佳」
杏子はほっとしたように息を吐いた。
それから、玲佳の頬に目を留めて、眉間に皺を寄せた。
「って、なんだよ、その傷」
玲佳は靴を脱ぎながら、少しだけ考えた。
「ああ、これは……」
玲佳は今日あったことを、杏子に話した。
キュゥべえの話。魔法少女狩り。キリカのこと。織莉子のこと。キリカが、自分から魔女になったこと。織莉子が、まどかを殺すと言ったこと。その織莉子を、自分の手で討ったこと。
全部、話した。
河川敷で、何を考えていたのかだけは、話さなかった。
話し終えても、杏子は、しばらく何も言わなかった。
それから、玲佳の前まで歩いてきて、右手を持ち上げた。
指先が、頬の傷に触れる寸前で、止まった。
「……治すぞ」
訊いているのではなかった。
それなのに、指は、そこで止まったまま動かなかった。
玲佳はその指先を見た。
ソファの上で、骨の折れた身体で、同じ手を拒んだ夜があった。私のために、魔法を使わないで。そう言った。杏子も、覚えているのだ。だから、止まっている。
「前は、断られたからな」
杏子が、ぼそりと言った。
玲佳は、目を閉じた。
それから、ほんの少しだけ、顔を傾けた。杏子の手のほうへ。
「……今は、断る理由がない」
頬に、指先が触れた。
温かかった。赤い光が、瞼の裏にまで透けて見えた。傷の奥で、ちりちりと細かいものが寄り集まっていく。痛みが、少しずつ遠ざかっていった。
「言っとくけど、あんたのためじゃないからな」
杏子の声が、すぐ近くで聞こえた。
「あんたの顔に傷が残ってたら、あたしが嫌なんだよ。だから、これは、あたしのためだ」
玲佳は目を閉じたまま、小さく笑った。
いつかの夜も、杏子はきっと、同じことを自分に言い聞かせていたのだろう。
指が、頬から離れた。
離れかけて、止まった。杏子の指が、玲佳の髪の一房をすくい上げていた。
「……焦げてんじゃねえか」
目を開けると、杏子の指先で、白い毛先がところどころ茶色く縮れていた。杏子がつまむと、乾いた音を立てて崩れた。
「熱かった、から」
「熱かった、じゃねえよ。どんだけ燃やしたんだ」
杏子は呆れたように息を吐いて、髪を放した。
「髪は治せねえからな。あとで、毛先だけ切ってやる」
玲佳は頷いて、上着を脱ごうと右腕を上げた。
肩の奥に、鈍い痛みが走った。顔には出さなかったつもりだった。
「肩も、か」
杏子の目は、ごまかせなかった。
「……少しだけ」
「少しだけ、って顔じゃねえだろ」
杏子の掌が、玲佳の右の肩に載った。服の上から、赤い光が滲んだ。骨の奥に溜まっていた重たい痛みが、掌の下で、ゆっくりとほどけていった。
「ほかは」
「ない」
杏子は玲佳の顔をしばらく見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らして、手を離した。
背を向けて、台所のほうへ歩いていく。耳の先が、少し赤かった。
「飯、できてるぞ。冷める前に食え」
玲佳は右の頬に、自分の指で触れた。
何の跡も、残っていなかった。