魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第三十五話
「暁美さんが帰ってくるまで、あと三日ね」
マミがティーポットを傾けながら言った。
マミの部屋の低いテーブルを、五人で囲んでいた。床に直接クッションを敷いて座る、いつもの形だった。こうして全員で集まるのは、三日ぶりだった。
玲佳と杏子が、並んで座っている。そのせいか、今日のマミはいつもより少しだけ嬉しそうだった。
「ほむらちゃん、大丈夫かなあ……」
まどかは湯気の立つカップを両手で包んで呟いた。
「大丈夫っしょ! ほむらの魔法、あたしもよくわかんないけど……たぶん」
さやかの声は、最初の勢いのわりに、最後のほうでしぼんでいった。
まどかは思わず笑ってしまった。さやかはわざとそう言ったのかもしれなかった。
「あれ?」
まどかは、首を傾げた。
玲佳がカップの取っ手に手を伸ばしたところだった。その左手の甲に、細い傷が一本、走っていた。かさぶたになりかけていて、まわりがうっすらと青黒く腫れている。
まどかの声に、皆の視線が、玲佳の手に集まった。
玲佳は、眉をひそめた。見られるのが、嫌そうだった。
「何?」
「その傷、どうしたのかなって……」
「傷?」
玲佳は手を顔の前に持ってきて、甲をまじまじと眺めた。初めて気づいた、という顔だった。
隣で、杏子が口の中で何か呟いた。そっちも、あったのかよ。そう聞こえた気がした。
「料理のとき、少し失敗しただけ」
昨日の朝、玲佳は、まどかの家の前に来た。青い石を渡して、一度だけ守ってくれると言った。何かあったのかと訊いたら、少しだけ、と答えた。今日中に、終わらせる、と。
料理の失敗では、ないと思った。
「手の甲を、ですか? 料理で、そんなところ……」
「そう? 大きな食材を料理しているときなら、あると思うけど」
玲佳はなんでもないことのように言って、紅茶を一口飲んだ。
マミが、ああ、と小さく頷いた。
「大物だったのね。魔女」
「そんなところ」
まどかは玲佳の横顔を見た。
魔女、ではない気がした。何が違うのかは、わからなかった。ただ、玲佳の目が、マミのほうを見ていなかった。
さやかは、紅茶のカップに目を落としていた。
杏子は黙ったまま、菓子をかじっていた。何か知っているのだ、とまどかは思った。知っていて、何も言わないことにしているのだ。
その杏子が、ふと顔を上げた。
「今さらだけどさ。なんで玲佳は、治す魔法がほとんど使えないんだ? 素質的には、問題ないはずなんだろ」
「そうね。私も、それは前から不思議だったの」
マミが頷いた。
玲佳はカップを置いて、少し考える素振りを見せた。
「願い事の性質のせいで、攻撃のほうに全部偏ったんだと思う」
「如月さんの願い事って……?」
「どうせ、自分のためでしょ」
さやかがぶっきらぼうに言った。
さっきから話に入れずにいたのが、面白くなかったらしい。
「おい、さやか。ふざけんなよ」
「それで、合ってる」
杏子の声に被せるように、玲佳が言った。
杏子が玲佳のほうを振り向いた。
「……両親を天国に送る、じゃなかったのか?」
玲佳は杏子の目を見た。それから、少しだけ目を伏せた。
「ごめん、杏子。あれは、本当の願いじゃなかった。私が、そう思い込んでいただけ。いつか、ちゃんと話そうと思ってた」
「なら……」
「私の願いは」
玲佳はテーブルの上のカップに目を落とした。
何かを言いかけて、一度、唇を結んだ。飲み込んだ言葉が、喉のあたりで止まったように見えた。
「……神様みたいな力が、ほしい」
誰かが、息を呑む音がした。
まどかは玲佳の顔を見た。
玲佳の口元が、見えない糸に引っ張られたように皮肉な形に歪んでいた。
「どうして、って思うでしょ。あのときの私は、力に飢えてた。そうするしかなかった、っていうのもあるけど」
自分のことを話しているはずなのに、どこか、知らない誰かの話をしているような口ぶりだった。
マミとさやかは、それに気づいていないようだった。杏子だけが黙って、玲佳の横顔を見ていた。
まどかも、何も言わなかった。
玲佳さんの中の、もう一人の、玲佳さん。
廃ビルの一室で、まどかがそう訊いたとき、玲佳はしばらく答えずに、何かを一つずつ数えていた。それから、私じゃない、と言った。
今、玲佳が話しているのは、その人の願いなのだと、まどかは思った。
「なんで、こんなにしんみりしてるのよ。はい、この話は、やめやめ!」
さやかが、ぱんぱんと手を叩いた。
重たくなりかけていた空気が、それで少し軽くなった。
「こういう話は、ワルプルギスの夜を倒してからにしようよ。今日は、せっかくのお茶会なんだからさ。ね、マミさん?」
「ええ、そうね」
マミがほっとしたように微笑んだ。
さやかはごろんと床に仰向けに寝転がった。
「もう、さやかちゃん。行儀悪いよ」
「だってさあ、なんも話題ないんだもん。上級生も、黙ってばっかりだし」
玲佳が気だるそうにさやかを睨んだ。
さやかは上半身を起こして、わざとらしく肩をすくめてみせた。外国の映画で見るような、大げさな仕草だった。
「そこは、なんで私っ!? って突っ込むところでしょ。冗談を本気にするとことか、上級生って、ほんと社交性ないよねー」
「あなたには、常識が足りてないようだけど」
さやかが、何か言い返そうと口を開いた。
まどかはそれを横目に、マミにこっそり話しかけた。
「ほんとに、仲悪いですよね」
「困ったものよね」
マミは、苦笑した。
「お互い、歩み寄ろうとしないから。……生き方が、正反対だものね。難しいのでしょうけど」
「けど、前よりはましになっただろ」
杏子が菓子を口に放り込みながら言った。
「前は、同じ部屋にいるだけでぴりぴりしてたしさ」
「だね」
まどかはテーブルの向こうの二人を見た。
さやかが、何か言って、玲佳が短く言い返す。さやかがむっとして、また言い返す。
握手をした日のことを、まどかは思い出した。二人とも、いい顔はしていなかった。けれど、悪い顔もしていなかった。
今も、そうだった。
「うぇひひ……」
これから、もっと仲良くなってくれたらいいのに。
まどかはカップの陰で、小さく笑った。
スカートのポケットの中で、青い石がひんやりと冷たかった。
*
マミの家を出たあと、まだ日が高いからと、さやかが稽古をせがんだ。
橋の下の河川敷で、さやかが大の字に倒れていた。
「もう無理……一歩も動けない……」
「だらしねえな。まだ三本目だろ」
「三本全部、あんたが勝ってんのよ……」
杏子は槍を消して、土手の斜面に腰を下ろした。
夕方の川面が橙色に光っていた。稽古をつけるようになってから、この場所に何度来たのか、もう数えていなかった。
脇に置いていた紙袋に、手を突っ込んだ。
赤いりんごが、三つ入っていた。帰りに玲佳にも一つ、と思って、今朝、多めに買っておいたものだった。
一つを掴んで、さやかのほうへ放った。
「ほら」
りんごは、夕日の中で弧を描いた。
さやかは寝転がったまま片手を伸ばして、それを受け止めた。
「……なにこれ」
「見りゃわかんだろ。食えよ」
「皮ごと?」
「文句言うな」
さやかはしばらく手の中のりんごを見ていた。
それから、上半身を起こして、服の裾で表面を拭いて、かぶりついた。しゃりっと、いい音がした。
「……甘い」
「だろ」
杏子も、自分の分のりんごをかじった。
「……まどかには、言ってないからね」
さやかがりんごの皮を指でなぞりながら言った。
「魔法少女狩りのこと。マミさんも、黙ってるって」
「おう。……助かる」
あの日、玲佳を見送ってから、杏子はマミとさやかに知らせた。魔法少女狩りが出たこと。まどかが狙われていること。それから、一つだけ付け足した。まどかには、言うな。
狙われているのが自分だと知ったら、まどかは、自分のせいで誰かが傷つくと考える。そうなったら、あいつがキュゥべえに何を願うか、わからなかった。
杏子は、手の中のりんごに目を落とした。
玲佳には、むいてやった。皮を一本で、途切れずに。こいつには、丸ごと投げた。
どっちがいいとか、そういうことではなかった。どっちも、同じくらい、食わせてやりたいと思っただけだった。
「……上級生の願い」
さやかがりんごを見下ろしたまま言った。
「神様みたいな力、ってやつ。あんた、知らなかったんだ」
杏子はりんごをかじる口を止めた。
「……ああ」
「そっか」
さやかはそれきり黙った。
杏子も、何も言わなかった。
手の中のりんごが、急に重たくなった気がした。
「杏子ってさ」
さやかがりんごを持った手を膝に載せて言った。
「なんで、いつも食べ物持ってんの。お菓子とか、パンとか」
杏子はりんごをかじる口を止めた。
少しだけ考えてから、答えた。
「……腹が減るのが、一番嫌いなんだよ」
さやかは何か言いかけて、やめた。
ただ、手の中のりんごを、もう一口、かじった。
川の向こうで、電車が鉄橋を渡っていった。がたん、ごとん、と、音が遠ざかっていく。
「あたしさ」
さやかが川面を見たまま言った。
「最初、あんたのこと、もっと嫌な奴だと思ってた。マミさんを襲いに来たし。あの上級生とつるんでるし」
「今は?」
「今は……」
さやかはりんごをかじって、口をもごもごさせた。
「……まあ、師匠だし」
「なんだそりゃ」
杏子は、笑った。
笑いながら、自分の手の中のりんごを見た。芯のまわりまで、きれいにかじってあった。
さやかのりんごは、まだ半分残っていた。
「芯まで食えよ。食い物は、粗末にすんな」
「芯は無理!」
さやかが、声を上げて笑った。
つられて、杏子も、声を出して笑った。
夕日が、二人の影を、河川敷の草の上に長く伸ばしていた。