魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第三十八話
入場ゲートをくぐった瞬間、さやかが両手を突き上げた。
「うわあ、ひろーい!」
まどかも、思わず声を上げそうになった。
目の前にまっすぐ伸びる大通りの両側に、色とりどりの屋根の売店が並んでいて、その向こうで観覧車がゆっくりと回っていた。右手の奥では、白い骨組みのジェットコースターが、悲鳴を乗せて空の中を走っていた。
平日の昼過ぎで、人はそれほど多くなかった。
「さて、どこから回りましょうか」
マミが入口でもらった地図を広げた。
「あれ! あれ乗る!」
さやかがジェットコースターを指さした。
「杏子、行くよ!」
「おう。望むところだ」
杏子は、まだ半分眠そうな目をこすりながら、それでも、にっと歯を見せた。
二人は、どちらが先に着くかを競うように、並んで走り出した。
「もう、二人とも。……鹿目さん、私たちはどうする?」
「えっと……」
まどかは残った三人を見回した。
ほむらは地図を覗き込むマミの隣で、黙って立っていた。玲佳は、少し離れたところで、ジェットコースターのほうをぼんやりと見ていた。走っていく赤い髪の背中を、目で追っているようだった。
「あの、コーヒーカップ、乗りませんか。みんなで」
言ってから、まどかは少しだけ後悔した。ほむらと玲佳が、コーヒーカップに乗っているところが、どうしても想像できなかった。
マミがぱっと顔を明るくした。
「いいわね。行きましょう」
ほむらは何も言わずについてきた。
玲佳は、少しの間まどかの顔を見てから、小さく息をついて歩き出した。
大きなティーカップに四人で向かい合って乗ると、ベルが鳴って、床がゆっくりと回りはじめた。
「真ん中のハンドルを回すと、もっと回るのよ」
マミが楽しそうに言った。
「回さなくていい」
玲佳が、即座に言った。
まどかはつい、ハンドルに手をかけてしまった。
少しだけ、回した。
カップが、くるりと速くなった。
「……まどか」
「ご、ごめんなさい。つい」
玲佳が、じっとこちらを見ていた。
怒っているのかと思った。けれど、紅い目の奥で、何かがかすかに揺れていた。
まどかはもう少しだけ、ハンドルを回した。
カップが、また速くなった。景色が、ぐるぐると溶けて流れていく。マミが、声を上げて笑った。ほむらが表情一つ変えずに、カップの縁をしっかりと掴んでいた。
「まどか」
玲佳の声が少しだけ高くなっていた。
「わかった。あなたの勝ち。だから、もう、回さないで」
ほむらの口の端がほんのわずかに動いた。
笑ったのだ、とまどかは思った。ほむらが笑うところを、まどかは久しぶりに見た気がした。
回転が止まってカップから降りたとき、玲佳は少しだけ足元がふらついていた。
その横顔が、ほんの一瞬、笑っていた。
見間違いかもしれなかった。瞬きをしたときには、もういつもの顔に戻っていた。
*
売店の脇のベンチで、暁美ほむらは紙コップの紅茶を膝の上に載せていた。
隣に、玲佳が座っていた。
マミとまどかは、メリーゴーラウンドの列に並んでいた。杏子とさやかは、三度目のジェットコースターに向かったきり、戻ってこない。
「明後日、ね」
玲佳が、前を向いたまま言った。
「ええ。夜明けの前後。見滝原の西側から」
ほむらは紅茶を一口飲んだ。
作戦は、空港からのバスの中で、二人で詰めてあった。
避難所の守り。使い魔の掃討。ワルプルギスの夜の本体への攻撃の順番。持ち帰った武器の使いどころ。玲佳の手札。誰が、どこで、何をするか。
何度繰り返しても、これほど細かく作戦を立てられたことはなかった。これほど頼りになる手札が、揃ったこともなかった。
「ほむら」
「何?」
「今までに、一度でも、越えられたことはある?」
ほむらは紙コップを持つ手を止めた。
何を、とは問い返さなかった。
「……一度も」
「そう」
玲佳はそれだけ言った。
責めるでもなく、落胆するでもない声だった。ただ、確かめただけの声だった。
「今回は、越える」
玲佳はメリーゴーラウンドのほうを見ていた。
回る木馬の一つに乗ったまどかが隣の木馬のマミに何か話しかけて、笑っていた。
「約束は、覚えてる」
ほむらは玲佳の横顔を見た。
まどかを、あらゆるものから守って。ほむらの部屋で、そう頼んだ。小指を絡めて、玲佳は頷いた。
「……ありがとう」
言ってから、ほむらは自分がその言葉を口にしたことに、少しだけ驚いた。
礼を言うような場面ではなかった。まだ、何も終わっていないのだから。
玲佳は、答えなかった。
ただ、左の手首に、そっと指を当てていた。何かを確かめるように。
手首の紺色のゴムが何なのか、ほむらは知らなかった。
「玲佳。一つ、訊いてもいいかしら」
「何?」
「あなたが、四日前に戦った相手。美国織莉子」
玲佳の指が、手首の上で止まった。
「杏子から聞いたわ。あなたが討ったと。……彼女は、未来が見えたのでしょう。最後に、何か言っていなかった?」
長い沈黙があった。
メリーゴーラウンドの音楽が遠くで回り続けていた。
「……何も」
玲佳は、そう言った。
紅い目は、木馬の上のまどかから、一度も離れなかった。
嘘だ、とほむらは思った。
けれど、重ねては問わなかった。この子が言わないと決めたことを、言わせる方法を、ほむらは知らなかった。
*
観覧車のゴンドラが、ゆっくりと空へ昇っていった。
杏子は窓に額を押しつけて、下を見ていた。
さっきまで走り回っていた大通りも、売店の屋根も、ジェットコースターの骨組みも、玩具のように小さくなっていく。さやかとまどかとマミとほむらが、隣のゴンドラに乗り込むのが見えた。さやかがこっちに向かって手を振っていた。
「あいつ、最後まで元気だな」
向かいの席で、玲佳は窓の外の遠くを見ていた。
西の空が、橙色に染まりはじめていた。
二人きりになるように仕組んだのは、さやかだった。はい杏子と上級生はあっち、と言って、ほかの三人を引っ張って隣のゴンドラに押し込んだ。
余計なことしやがって、と思った。
それでも、断らなかった。
少しずつ高くなっていくゴンドラの窓から、遠くの見滝原の街が見えた。ビルの林と、川と、その向こうの丘。
明後日、あそこに嵐が来る。
「なあ、玲佳」
「何?」
「電話で言ったこと。覚えてるか」
玲佳は窓から目を離して、杏子を見た。
「……一人で、背負い込まないで。頼って」
「そう。それ」
杏子は膝の上で指を組んだ。
「あたしさ、あんたが本気出したとこ、見たことないんだよ。一回も」
玲佳は、黙っていた。
「さやかに言われたんだ。上級生は、全力出せば一瞬で終わるのに、出さない。自分が全部背負えば済むって顔してるって」
杏子は玲佳の目を見た。
「明後日は、出せよ。全部。一人でじゃなくて。あたしがいるところで」
ゴンドラが、軋んだ音を立てて揺れた。
玲佳は長いこと杏子の顔を見ていた。
それから、目を伏せた。
「……わかった」
「約束だぞ」
「ええ」
杏子は少しだけ息を吐いた。
それから、わざと明るい声を出した。
「で、終わったら、料理だろ。とびきり美味いやつ。忘れてないよな」
「忘れてない」
「何作る?」
玲佳は、少し考えた。
「……杏子が、食べたいもの」
「それ、答えになってねえよ」
杏子は、笑った。
玲佳の目も、ほんの少しだけ、笑っていた。
「杏子」
「ん?」
「もし——」
「言うな」
杏子は玲佳の言葉を遮った。
自分でも驚くほど、強い声が出た。
「もし、とか、言うな。明後日の後にも、明日はあるんだからな」
玲佳は、口を閉じた。
紅い目が、杏子を見ていた。何かを言いかけて、それを飲み込んで、最後に、小さく頷いた。
「……ごめん」
「謝んなって。前にも言ったろ」
ゴンドラが、てっぺんに差しかかった。
窓の外で、夕日が街の向こうの丘に沈みかけていた。橙色の光が、ゴンドラの中まで差し込んで、玲佳の白い髪を淡く染めていた。
玲佳はまた、左の手首に指を当てていた。
手首の髪ゴムが何なのか、杏子は知っていた。
角の欠けた、星。
玲佳が、手首からそれを外した。掌の上に載せて、夕日にかざした。欠けた角が、橙色の光を細く弾いた。
「これ。……そらって子の、だった」
杏子は玲佳の顔を見た。
初めて聞く名前だった。
「あの子の隣に、いた子。同じクラスで、身体が弱くて、体育はいつも見学してた。卵焼きが甘くて」
玲佳は掌の星を見下ろしたまま、静かに言った。
「星の見えない空が、嫌いだった。自分の身体じゃ、星のよく見える場所までは行けない。だから、願った。この街の空を、星でいっぱいにしてって」
杏子は、窓の外を見た。
夕焼けの色が、東のほうから、少しずつ群青に変わりはじめていた。あと一時間もすれば、あの空は、数えきれないほどの星で埋まる。
この街に来てから、何度も見上げた空だった。星空の下で、玲佳に、ありがとなと言った。
「……じゃあ、今夜の星は、その子のか」
「そう」
玲佳は星を握りしめた。
「まだ、一つも消えてない」
その子が、今どうしているのか。
玲佳の声の調子で、わかった。
「持っていく。結ぶのは、まだ先」
玲佳はあの朝と同じことを言って、星を手首に戻した。
まだ先、というのが、いつなのか。杏子は訊かなかった。訊けば、玲佳はきっと、正直に答える。その答えを、今は聞きたくなかった。
西の空の端に、黒い雲が一筋、湧き上がっていた。
杏子はそれを、どこかで降っている夕立の雲だと思った。