魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第四十話 夜の始まり
第四十話
黒く淀んだ空に、大粒の雨が混じりはじめていた。
見滝原気象観測所の窓から、中年の男は、荒れていく空を見上げていた。
「最悪だな……」
朝から、ひどい天気だった。警報が出るか出ないかの瀬戸際の風が、夜明け前からずっと吹き続けている。それが、昼を待たずに、手のつけられないものに変わろうとしていた。
雲の育ち方が、おかしかった。
隣の席の部下を振り返って、男は眉を上げた。いつもは何があっても顔色一つ変えない男が、モニターに顔を近づけて、唇を噛んでいた。
「これ……スーパーセルの兆候じゃないですか」
回転する上昇気流を抱えた、巨大な単一の積乱雲。条件が揃えば起こり得るとはいっても、見滝原のような場所で起こるはずのないものだった。
馬鹿な、と男は言いかけた。
その言葉は、観測所の壁に何か大きなものが叩きつけられた音で、途中で掻き消された。
「見てください! メソサイクロンです、間違いない!」
男は、モニターに並んだグラフと、屋上のカメラの映像を見比べた。
拳を、握りしめた。
遅すぎる。今から避難命令を出して、住民の避難が間に合うのかどうか。
市の全域に避難命令が出たのは、それから三分後のことだった。
*
突風が、街路樹を根こそぎ薙ぎ倒していった。
玲佳は、頑丈そうなオフィスビルの屋上の縁に立って、それを見下ろしていた。灰色のローブが、風に千切れそうなほどはためいた。
隣に、ほむらが立っていた。
「ほむら。どう?」
ほむらの顔色が、よくなかった。
「……今回のは、最悪かもしれない」
ほむらは一度あたりを見回してから、低く言った。
「今まで、ここまで天気が荒れたことはなかった」
「天気の荒れ方が、あれの強さを表しているなら」
「ええ。今回が、一番強い」
玲佳は奥歯に、わずかに力を込めた。
ほむらは気づかなかった。
二人で立てた作戦には、ワルプルギスの夜の強さも、当日の天候も、全部織り込んであった。何度も繰り返してきたほむらの記憶が、その土台だった。
その土台が、今日は崩れている。
ほむらは軽く言った。けれど、軽く流していい話ではなかった。
玲佳は屋上の反対側に目をやった。
杏子が、さやかと何か言い合いながら、槍の穂先の具合を確かめていた。マミが、二人に何か声をかけて、笑っていた。
杏子が、あそこにいる。
予想と違った、では済まされない。何か一つでも読み違えれば、成功の見込みは、一気に下がる。
杏子が死ぬことだけは、何があっても避けなければならなかった。
かといって、ここでそれを口に出して、皆の不安を煽るわけにもいかなかった。顔には出していなくても、誰にも、余裕などないのだから。
いざとなったら。
その先を、玲佳は考えなかった。考える前に、右手の指が、左の手首に触れていた。
変身する前に、手首に通しておいたものがあった。紺色のゴムに、角の欠けた銀の星。灰色の袖口の下で、それは、雨に濡れて冷たくなっていた。
「来るわ!」
ほむらが、叫んだ。
数キロ先の空に、巨大な影が現れた。
ここからでも、細かいところまで見えた。高さは、百メートルを優に超えているだろう。
巨大な歯車。その下に、逆さまに吊られた、ドレスの女の形をしたもの。顔のあるべきところで、口だけが、耳まで裂けて笑っていた。
笑い声が、聞こえた。
耳の奥に、べったりとこびりつくような声だった。ただでさえ張りつめた神経を、紙やすりで逆撫でされるようだった。
逆さまの女は、両腕を広げて、ゆっくりと一回転した。
街のビルが、根元から引きちぎられて、宙に浮かび上がった。一棟、二棟、十棟。瓦礫の渦が、女の周りを回りはじめる。
同時に、足元の街路という街路から、影が湧き出した。使い魔だった。百や二百では、きかなかった。千でも、きかないかもしれなかった。
玲佳はテレパシーを開いた。
全員と、常に繋いでおくことにしていた。誰がどこにいて、無事なのかどうか、いつでも確かめられるように。そうしようと言い出したのは、玲佳だった。
避難所は、まだ無事だった。
『持ち場へ』
ほむらの声が、頭の中に響いた。
屋上の上の気配が、四方へ散った。
『目と耳を、塞いで』
玲佳は両手で耳を覆って、目を閉じた。
*
瞼の裏が、真っ白になった。
一拍遅れて、音が来た。耳を塞いでいてもなお、頭蓋の内側を殴りつけてくるような轟音だった。巴マミの立つビルの窓という窓が、一斉に震えた。頬の肌が、びりびりと痺れた。
マミは、目を開けた。
ワルプルギスの夜の周りで、炎と煙の塊が、いくつもいくつも膨れ上がっていた。
暁美さんが、海の向こうから持ち帰ったもの。百発近い対艦ミサイル。燃料気化爆弾が数発。それから、とどめに、五トンもある爆弾。
一つの県を吹き飛ばせるくらい、と暁美さんは言っていた。
「……派手にやったわね」
近づいてきた使い魔を、マスケット銃で撃ち抜きながら、マミは呟いた。
煙が、風に流されて、少しずつ晴れていった。
逆さまの女は、まだ、そこにいた。
ドレスの裾が、半分ほど焼け落ちていた。それだけだった。身体の表面が焦げているほかに、目に見える傷はなかった。
笑い声は、少しも途切れていなかった。
効いていないわけではない、とマミは思った。思おうとした。積み重なっていけば、いつかは。
マミは次の銃を生み出した。
自分の出番は、まだ先だった。
*
玲佳は杏子から預かっていた布の袋を開けた。
中に、グリーフシードが、ぎっしりと詰まっていた。暁美ほむらが、杏子との取引で前払いしたもの。それに、杏子が風見野で狩り集めてきたもの。
その中から、十個ほどを掴み出して、掌の先に壺の口を開いて、その中へ封じた。自分にしか開けられない、ソロモンの壺へ。
一つだけ残して、首元のロザリオに当てた。
銀の十字は、少しも濁っていなかった。構わずに、当てた。これから使う力の大きさを考えれば、先に満たしておくに越したことはなかった。
「……っ」
玲佳は両手を、避難所のほうへ向けた。
街の東の外れの、市民体育館だった。何千人もの人が、今、あの中にいる。
まどかも。
まどかの家族も。
音を立てて、空気が凍った。
避難所を取り囲むように、地面から、氷の壁がせり上がっていった。一枚ではない。何重にも。厚さは、二メートルを超えていた。壁は、体育館の屋根よりも高く伸びて、その上で内側へ弧を描き、閉じた。
巨大な、氷の繭だった。
風が、繭の表面を叩いて、白い飛沫を散らした。びくともしなかった。
繭が閉じた、その刹那。
避難所のすぐそばで、獣の咆哮が上がった。
地面が、盛り上がった。土と瓦礫を押しのけて、何かが立ち上がってくる。茶色い鱗に覆われた、巨大な胴。その胴から、首が生えていた。
一本ではない。十、二十。
百本の首だった。
黄金の林檎の木を守り、眠ることなくその番を続けたという、百の首を持つ竜。
ラードーン。
百の口が、一斉に開いて、炎を吐いた。避難所に近づこうとしていた使い魔の群れが、それだけで、黒い灰になって散った。
この竜は、守る場所さえ決めておけば、何も命じなくても動き続ける。取りこぼした使い魔は、この竜が焼き払う。短く見積もっても、二時間は保つはずだった。
胸の奥で、魔力が、ごっそりと削れていく感触があった。
玲佳は、壺から次のグリーフシードを取り出して、ロザリオに当てた。
それから、ワルプルギスの夜のほうへ向き直った。
「……さあ、行こう」
右手を、振った。
背後の空間に、黒い穴が開いた。十、百。数えるのを、途中でやめた。
その全部の奥で、火が灯った。
燃え盛る矢の群れが、一斉に吐き出された。
*
崩れかけたビルの外壁を蹴って、杏子は宙に跳んだ。
眼下の通りに、使い魔が群がっていた。槍を振り下ろす。節が外れて、鎖でつながった穂先が、鞭のようにしなって群れを薙ぎ払う。
着地した先の足場が、崩れた。
その下に、青い光の板が浮かんでいた。
さやかが張った障壁だった。杏子はそれを踏み台にして、もう一度跳んだ。
「できれば、玲佳と一緒に戦いたかったんだけどねっ!」
「あたしじゃ不満? 杏子!」
さやかが、隣のビルの屋上から叫び返してきた。
軽口を叩き合いながら、二人は、残っている建物を足場に、縦横に駆け回った。
ここは、使い魔の中でも、魔女に近い強さのものが湧いてくる場所だった。十匹に一匹くらいの割合で、二、三撃では倒れない奴が出てくる。そういう奴が出たら、二人で左右から挟んで、息を合わせて叩き潰した。
息は、合っていた。
稽古をつけるようになってから、何度も一緒に戦ってきた。さやかが次にどう動くのか、考えなくても身体が知っていた。
気分が、高ぶっていた。
さやかも、同じなのがわかった。
「ここんとこ、順調だね」
一帯の使い魔を片づけてから、さやかが言った。
肩で、少しだけ息をしていた。額に、雨と汗の混じった雫が伝っていた。
「嵐の前の静けさってやつ?」
杏子はわざと意地の悪い笑い方をしてみせた。
本気で言ったのではなかった。冗談のつもりだった。
杏子のほうは、少しも疲れていなかった。むしろ、身体が軽かった。いつもより、ずっと。
観覧車の中で、約束をした。
明後日は、全部出せ。一人でじゃなくて、あたしがいるところで。
それが終わったら、料理だ。とびきり美味いやつ。
それを思い浮かべるだけで、槍を握る手に、力が湧いてきた。
「ん。来たよ」
さやかが、通りの向こうを顎でしゃくった。
瓦礫の陰から、何かが五つ、這い出してきた。
使い魔ではなかった。いや、使い魔には違いない。けれど、その形は、魔女そのものだった。身体の奥に溜め込んだ魔力も、そこらの魔女より多いかもしれない。
苦戦しそうだった。
それでも、今なら、負ける気がしない。
杏子は心の中で、にやりと笑った。