魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第四十一話
玲佳は、右手を振った。
炎が、百の使い魔を焼き尽くした。氷が、百の使い魔を叩き潰した。風が、百の使い魔を貫いた。
地面を蹴った。百メートル先の地面が、内側から弾けた。砕けた破片が竜の爪のように四方へ飛び散り、周りにあるものを片端から粉々にしていく。
まだだ。
まだ、足りない。
杏子も、マミも、さやかも、それぞれの持ち場で使い魔を狩り続けている。それなのに、湧いてくる数が少しも減らなかった。倒しても倒しても、瓦礫の陰から、崩れたビルの中から、黒い影が溢れ出してくる。
まだ、八千は残っている。玲佳はそう見積もった。
遠くで火薬の爆ぜる音がした。
ほむらの武器は、まだ尽きていない。それが尽きてから、全員で本体に総攻撃をかける。そういう手筈だった。
けれど、何もかもが計画どおりには進んでいなかった。使い魔の数も。ワルプルギスの夜の硬さも。何もかもがほむらの記憶を上回っていた。
「……次から次へと、湧いてこないで!」
叫んでいた。
叫びながら、玲佳は振るう力を一段、また一段と荒くしていった。
街への被害を考えている余裕は、もうどこにもなかった。
玲佳の炎がガスの貯蔵タンクに燃え移った。
施設ごと吹き飛ぶほどの爆発が起きた。その爆炎を、玲佳は自分の炎として掴み取った。
玲佳の氷が貯水施設の水を巻き上げた。何千トンもの水が宙で凍りつき、より大きく、より凶悪な氷塊に育っていく。
玲佳の風が、猛り狂った。丘の上に並ぶ送電鉄塔を、根元からあっさりとへし折った。倒れた鉄塔が電線を引きちぎりながら、その下の使い魔の群れを押し潰した。吹き荒れる嵐はもはや街の一角を丸ごと呑み込む竜巻になっていた。
背中が、熱くなった。
白い髪を掻き分けて、翼が生まれた。
三対、六枚。背丈の倍ほどもある、青白く輝く翼だった。天の最も高いところにあって、光を掲げる者と呼ばれ、やがて天を追われた天使。ルシフェルの翼。
羽ばたくと、抜け落ちた羽が雨の中に散って、あたりを淡く照らした。
一度羽ばたいただけで、玲佳の身体は五百メートル近く上空へ跳ね上がった。
炎が、氷が、風が、玲佳の後を追うようにして、螺旋を描きながら昇ってきた。
玲佳は右手を、頭上に掲げた。
三つの力が、手のひらの先のはるか上空へ集まっていく。絡み合い、よじれ合い、一つの巨大な球になった。
碧と、赤と、白。その奥で、深紅の光が脈打っていた。
混ざってはいなかった。
玲佳には、わかっていた。三本の糸を力ずくで撚り合わせて、一つの球の形に束ねただけだ。糸と糸の間には、まだ継ぎ目がある。本当の意味で一つの力にするやり方を、自分はまだ知らない。
それでも、今は、これで足りる。
奇妙な光を放つ巨大な球の下で、玲佳は街を見下ろした。
雨に煙る見滝原が足の下に広がっていた。
玲佳は右手を振り下ろした。
球が、弾けた。
束ねられていた三つの力がばらばらに解き放たれて、雨のように地上へ降り注いだ。炎の雨。氷の雨。風の刃の雨。見渡すかぎりの街を、端から端まで隙間なく叩いていく。
遅れて、衝撃が来た。地面そのものが轟音を上げて揺れた。
杏子のいる場所。さやかのいる場所。マミのいる場所。ほむらのいる場所。避難所と、そこを守る竜。
そこだけを、よけた。
「……これで、使い魔は、あらかた」
玲佳は額に浮いた冷たい汗を、袖で拭った。
これほど広い範囲を、これほど一度に壊したことはなかった。どこまで力を込めればいいのかわからず、ずいぶん無駄にしてしまった。
壺から、グリーフシードを取り出した。首元のロザリオに当てる。黒く濁りかけていた銀の十字から濁りがグリーフシードのほうへ吸い出されていった。
十字が、鏡のような銀色を取り戻した。
ちょうどそのとき、頭の中に、声が響いた。
『玲佳さん!』
*
ある人は、超常現象だと騒いでいた。ある人は、神様が助けてくれたのだと言った。ある人は、天罰だと震えていた。
避難所の窓から外を覗いた人たちが口々に同じものの話をしていた。
分厚い、氷の壁のことを。
初めのうちは、誰もその話を本気にしていなかった。自分の目で見るまでは。見た人たちは、しばらく言葉を失って、それから、静かになった。
怖がって騒ぐ人は、いなかった。
むしろ、その壁が避難所の人たちを落ち着かせていた。何かが、自分たちを守ってくれている。そう思えたのだろう。
まどかだけが、違った。
まどかは、知っていた。この壁を作った人のことを。
壁の向こうで、友達が、命を懸けて戦っていることを。
最強の魔女が、その友達の前に立ちはだかっていることを。
安心なんて、できるはずがなかった。
「ママ。……トイレ、行ってくるね」
座っていたマットから、まどかは立ち上がった。
ほむらが。玲佳が。マミが。さやかが。杏子が。みんなが、魂を懸けて戦っている。ここで、じっと待っていることなんて、できなかった。
出口へ続く廊下を、早足で歩いた。
人の気配が、少しずつ遠ざかっていく。
「まどか」
声がして、まどかは振り返った。
廊下の窓枠に、キュゥべえが座っていた。いつもと同じ、何も映さない赤い目でまどかを見ていた。
「ワルプルギスの夜が、どうしてあんなに強いのか、君は知っているかい?」
まどかは、足を止めた。
首を、横に振った。どうして急にそんなことを訊かれるのか、わからなかった。
「これは推測だけど、君の素質がこれほど大きいことと、関係しているんだ」
「……え?」
「暁美ほむらが、時間を何度も巻き戻して、君の素質を膨らませ続けている。時間遡行の副作用のようなものだね」
まどかはほむらの顔を思い出した。
遊園地から帰った夜、ほむらは自分の力のことを話してくれた。時間を、巻き戻せるのだと。まどかを助けるために、何度も、何度も、同じ時間を繰り返してきたのだと。
でも、どうして。
どうして、自分だけなのだろう。時間を巻き戻したなら、ほかの魔法少女たちの素質だって、同じように膨らんでいなければおかしいはずだった。
「なら、どうして、わたしだけ……?」
「それはね」
キュゥべえが、その理由を話した。
聞き終わる前に、まどかの足は、勝手に駆け出していた。
胸の奥を、何かに殴られたような気がした。殴られて、その痛みと一緒に、何かを背負わされたような気がした。
見届けなければならない。
ほむらの戦いを。ほむらが、自分のために、何度も繰り返してきた戦いの、その終わりを。
階段を、駆け下りた。
足元が、大きく揺れた。
踏み外した。身体が、前へ投げ出される。
「あっ——」
腕を、掴まれた。
ぐいと引き戻された。掴んだ手は、びくともしなかった。
振り返ると、そこに、母がいた。
「ママ……」
鹿目詢子の顔に怒りが浮かんでいた。
「どこ行こうってんだ。おい」
乱暴な言葉だった。その乱暴さがどれだけ心配しているのかを、何より雄弁に表していた。
まどかは、その目を、まっすぐに見返した。
「わたし、友達のところに、行かなきゃいけないの」
「消防に任せろ。素人が動くな」
いつもなら、言われたとおりに引き返していた。
今だけは、引き返せなかった。
「わたしじゃなきゃ、だめなの!」
まどかは、叫んでいた。
詢子の奥歯が、ぎりっと鳴るのが聞こえた。
「てめえ一人の命じゃねえんだぞ! あのなあ、そういう勝手をやらかしたら、周りがどれだけ——」
「わかってる」
まどかは母の手を、握り返した。
「ママとパパに、大事にしてもらってること。わたしも、パパとママが大好き。自分を粗末にしちゃいけないってことも、ちゃんとわかってる」
まどかは、母の目を見た。
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
「だから、違うの。みんな大事で、絶対に守らなくちゃいけないから。そのために、行かなきゃいけない場所があるの」
「……理由は、言えねえってか」
詢子は、目を閉じた。
何秒か、そうしていた。それから目を開けて、言った。
「なら、あたしも連れてけ」
「だめ」
まどかは、首を振った。
「ママは、パパとタツヤのそばにいて。二人を、安心させてあげて」
詢子は、黙った。
まどかは、続けた。
「前に、ママ、言ってくれたよね。まどかはいい子に育ったって。嘘もつかないし、悪いこともしないって」
まどかは母の手を、ぎゅっと握った。
「今も、そう思ってくれる? わたしのこと、正しいって、信じてくれる?」
二人の間に、沈黙が落ちた。
雨の音と、どこか遠くの地響きだけが、妙に大きく聞こえた。
「……絶対に、下手打たないな」
詢子が、低く言った。
「誰かの嘘に、踊らされてねえな」
「うん」
詢子は長く息を吐いた。
それから、掴んでいた手を、放した。
「……行け」
「ありがとう、ママ」
まどかは階段を駆け下りていった。
一度も、振り返らなかった。
*
娘の背中が見えなくなるまで、鹿目詢子は、階段の上に立っていた。
それから、握りしめた拳を、壁に叩きつけた。
鈍い音がして、痺れが腕の骨を伝って耳の奥まで響いた。
いつかは、来ると思っていた。
あの子が、自分の足で、自分の決めた場所へ歩いていく日が。
「……嬉しいのか。寂しいのか」
詢子は壁に額を押しつけた。
「わっかんねえよ……」
*
避難所の出口の前で、まどかは立ち尽くしていた。
目の前に、氷の壁があった。
向こう側の景色が、透けて見えなかった。何重にも重なった氷が白く濁って、外の光だけをぼんやりと通していた。
この壁が、ここにいる何千人もの人を守っている。
そして、まどかを、ここに閉じ込めてもいた。
試しに、拳で叩いてみた。
「痛っ……」
壁には、ひび一つ入らなかった。
こんなことで壊れてもらっては困る。それでも、今だけは、壊れてほしかった。
どこかに、隙間はないかと見回した。
どこにも、なかった。
「玲佳に、頼めばいいんじゃないかな」
声がして、振り向いた。
キュゥべえが、出口の脇の窓枠に座っていた。
簡単に言う、とまどかは思った。ここから、壁の向こうの玲佳に、声が届くはずがない。それこそ、テレパシーでも使えない限り。
あ、と声が漏れた。
前に、キュゥべえが、テレパシーを中継してくれたことがあった。あのときも、まどかは魔法少女ではなかった。
「キュゥべえ。わたしでも、テレパシー、使える?」
「うん。僕が中継すればね」
即答だった。
*
『玲佳さん!』
頭の中に響いたのは、まどかの声だった。キュゥべえを通した、少しだけざらついた声。
張りつめていた。何か切羽詰まったことが起きたのではないか、と思わせる声だった。
玲佳は宙に浮いたまま、避難所のほうを振り返った。
ラードーンは、まだ役目を果たしていた。百の首が群がってくる使い魔を焼き払い続けている。氷の繭にも、傷一つ入っていない。
『まどか。どうかした?』
『玲佳さん。壁を、開けてもらえませんか』
玲佳は、眉をひそめた。
『どうして』
『わたし、ほむらちゃんたちの戦いを、見届けなきゃいけないんです』
言い切る声だった。
避難所の中で、何かあったのだろうか。それとも、最初からそのつもりで、今まで黙っていたのだろうか。
どちらにしても、はいそうですか、と通せる頼みではなかった。
『それは、だめ』
『どうしてですか』
答えるまでに、少しだけ間が空いた。
答えを探していたのではなかった。まどかにも、それはわかったはずだった。
玲佳の頭にいくつかの顔が浮かんでいた。
ほむらの顔。まどかを、あらゆるものから守って、と小指を差し出した顔。
それから、世界を救おうとして、自分がこの手で討った、二人の少女の顔。
『あなたにも、わかるでしょ。どうして、ほむらが、今、戦っているのか』
まどかは、黙った。
言いたいことは、伝わったようだった。
氷の壁と、ラードーン。それを作ってほしいと言ったのは、ほむらだった。万が一にも、まどかが傷つかないように。
これで、引き下がってくれる。
玲佳は、そう思った。
次のまどかの言葉で、その思いは、あっさりと裏切られた。
『もし、開けてくれないなら』
声が、震えていた。
『わたし、契約します』
玲佳は、息を止めた。
最後の手段だったのだろう。平気なふりをしようとして、少しもできていなかった。自分の口にした言葉の卑怯さと重さに、まどか自身が震えているのが手に取るようにわかった。
こんなことを言う子ではなかった。人を脅すようなことを、何があっても選ばない子だった。
その子が、ここまで言った。
河川敷で、自分に訊いたことを思い出した。
まどかが、心の底から何かを決めたとき。もう誰にも揺らがせられないほど、固く決めたとき。その決意を、自分は握り潰せるのか。
答えは、あのとき出なかった。
今、目の前にあった。
玲佳は、小さく笑った。
雨に打たれながら、声を出さずに。
『……わかった』