魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第四十二話
空気を揺るがす爆発。耳にこびりつく、奇怪な笑い声。
崩れ落ちた学校。押し潰された家々。あちこちで揺れる、赤い炎。身体を貫くように吹きつける、雨と風。
避難所の外に出たまどかは、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなった。
ここは、見滝原ではないのかもしれない。
地獄というものがあるなら、きっとこういう場所なのだろう。希望と呼べるものが一かけらもない場所。
背中を冷たい汗が伝った。
怖い、と思った。
大蜘蛛の魔女に襲われたときとは比べものにならなかった。頭で考えて怖いのではなかった。身体の一番奥の、考えるより前のところが震えていた。
けれど、立ち止まってはいられなかった。
この先で、戦っている子たちがいる。
まどかは、歩き出した。
歩いたからといって、あの子たちと同じ場所に立てるわけではなかった。
守られる側と、守る側。そのあいだには、どうしようもない力の差がある。
それでも、まどかは歩いた。
瓦礫を踏み越えて、少しずつ、速く。
*
『弾が、尽きたわ』
ほむらの声が頭の中に響いた。
それが、合図だった。
最初に、マミの砲が吼えた。
十メートルを優に超える、黄色いリボンで編まれた大砲。その砲口から放たれた光の奔流がワルプルギスの夜の巨体を横から殴りつけた。逆さまの女の身体が大きく傾いだ。
次に、杏子の槍が唸った。
二十メートルはある、鎖で繋がれた槍の竜。赤い鱗の顎がワルプルギスの夜の頭に喰らいつき、その一部を抉り取った。
それから、さやかの剣が閃いた。
巨大化したサーベルが、ドレスの裾を根元から切り裂いた。
最後が、玲佳だった。
玲佳は宙に浮いたまま、左の手首に指をかけた。
袖口の下から、細いゴムを引き抜いた。
掌の上で見た。紺色のゴム。銀色の、角の欠けた星。
結ぶのは、まだ先。
杏子に、そう言った。
その先が、今だった。
あの子の朝の習慣としてではなく。そらの代わりとしてでもなく。自分が、自分の意思で、ここに立つために。
玲佳は雨に濡れた白い髪を、うなじのところで一つにまとめた。
星のゴムで、結んだ。
ぱちん、と小さな音がした。
雨と風の轟音の中で、その音だけがはっきりと聞こえた。
右手に、剣が生まれた。
細く、長い、青銅の剣。
混沌の海の女神ティアマトを討ち、その身体を二つに裂いて、天と地を造ったというマルドゥクの力。
玲佳は、それを握った。
空を、蹴った。
何もない宙を、足が踏みしめる。そこに見えない床でもあるように。一歩ごとに、足の下で空気が弾け、身体が前へ撃ち出されていく。玲佳は、雨の空を走った。
行く手を塞ぐものは、全部、壊した。
群がってくる使い魔を斬り刻んだ。宙を漂う瓦礫を叩き潰した。避けきれないものは、魔法で跡形もなく吹き飛ばした。
身体に流す魔力を限界まで引き上げた。
いや、限界の、その先まで。
今まで一度もここまで強くしたことはなかった。骨の芯が軋み、筋の一本一本が焼けるように熱くなる。その熱が力に変わって、身体の隅々まで満ちていった。
全部、出せ。一人でじゃなくて、あたしがいるところで。
観覧車の中で、杏子はそう言った。
杏子は、今、あそこにいる。自分の後ろで槍を振るっている。
残り、三百メートル。
空気が、破裂するような音を立てた。
音を、追い越した音だった。
玲佳は宙を蹴る脚に、さらに力を込めた。
残り、二百メートル。
ワルプルギスの夜の姿が細かいところまではっきりと見えてきた。焼け焦げたドレス。裂けた裾。杏子の竜が抉った頭。
その頭の、抉られた穴の縁で。
「アハハハハハハハハハッ!」
笑っていた。
この世のすべての夜の闇を、丸ごと背中に抱え込んだような巨体が、嬉しそうに、楽しそうに、歪んだ顔で笑っていた。
残り、五十メートル。
巨大な腕が、振るわれた。
直撃すれば、いや、かすめただけでも、命はない。そういう一撃だった。
このまま進めば、ぶつかる。
あと少しだけ。あと少しだけ、近づけば。
腕が、真横に迫った。
玲佳は、剣を構えたまま、跳んだ。
腕が一瞬前まで玲佳のいた空間を薙いでいった。遅れて、途方もない衝撃の波が四方へ広がった。周りのビルが砂の城のように崩れていく。
その波が玲佳の両脚を、下から打ち砕いた。
骨が、何本も、まとめて折れる音がした。
構わなかった。
脚は、もう要らない。
身体の奥で燃えている熱も、身体を支えている魔力も、まだ何一つ失われていなかった。
嵐が、玲佳の身体を引き裂こうとした。炎が、焼き崩そうとした。使い魔の残りが、行く手を塞ごうとした。
どれも、もう遅かった。
そこはもう、玲佳の剣の届く場所だった。
「……っ、ああああああああっ!」
夜の闇を、斬った。
燃え盛る炎を、裂いた。
踊り狂う黒い悪魔を、断った。
果てのない嵐を、刻んだ。
青銅の刃が、走った。
「……アハ?」
一閃。
刃は、巨大な歯車と逆さまの女の胴とを繋いでいた軸を、真っ二つに断ち切った。
混沌を裂いて、天と地を造った、一太刀だった。
神の真似事ではなかった。
神の、一太刀だった。
「……終わった」
玲佳は、呟いた。
両脚は、もう使いものにならなかった。構わなかった。もう、使う必要はないのだから。
ほむらは、言っていた。あれの本体は、頭だと。
歯車から切り離された頭は、もう動かないはずだった。
この一太刀を受けて、なお立っていられるものなど、あるはずがなかった。ほむらの言葉を疑う理由も、自分の刃を疑う理由も、どこにもなかった。
これで、全部終わった。
地獄の主は、死んだ。
あとは、ゆっくりと落ちていくだけだった。
玲佳の身体が雨の中を、ゆっくりと落ちはじめた。
すぐそばを、切り離された逆さまの女の身体が同じように落ちていった。
その顔に、笑みが貼りついていた。
笑ったままだった。
何かが、おかしい。
頭上で、何かが軋んだ。
切り離されたはずの歯車が宙で、ゆっくりと動きはじめていた。回っているのではなかった。傾いでいた。
下に吊られていた女の重さが、消えたのだ。残ったのは、歯車の重さだけだった。その重さに引かれて、歯車が錘を付け替えられた振り子のように、大きく弧を描いていく。下を向いていた面が、上へ。上を向いていた面が、下へ。
逆さまだったのは、女ではなかった。歯車のほうだった。
正しい向きに、戻っていく。
落ちていく女の顔から、笑い声が消えた。代わりに、頭上の歯車が耳障りな音を立てて噛み合いはじめた。
玲佳の背筋を一本の氷が貫いた。
来る。
考えるより先に、左手を突き出していた。掌の先に六角形の透明な板が、一枚、また一枚と生まれていく。
アイギス。
キリカだった魔女の光の矢を、あっけなく弾き返した盾。自分の持つ守りの中で、最も硬い盾。
間に合わなかった。
蜂の巣の形が半分も組み上がらないうちに、光が来た。
正しい向きに戻った歯車から、途方もない何かがあらゆる方向へ溢れ出した。炎とも、風とも、水とも、土ともつかないもの。そのすべてだった。
組みかけの盾に、それがぶつかった。
六角形が端から一枚ずつ、音を立てて砕けていった。砕けた破片の隙間を光が貫いて、押し寄せてきた。
腹のあたりに、焼けた鉄の棒を押し当てられたような感触があった。
そこで、何もかもが白くなった。
*
階段を駆け上がった。
崩れかけたビルの、まだ崩れずに残っている屋上に出て、まどかはワルプルギスの夜のほうを見た。
「……え?」
その身体は、真っ二つに断たれて、落ちていくはずだった。
それで、みんなの戦いは、終わるはずだった。
それなのに。
空に残った巨大な歯車が、振り子のように大きく弧を描いて、ゆっくりと、上下をひっくり返していくのが見えた。
風が、吹き荒れた。
炎が、暴れた。
まどかのいるビルは、ワルプルギスの夜から二キロは離れていた。その距離を越えて、周りのビルが震えていた。生きているかのように、軋み、呻き、揺れていた。
「ああ……っ」
まどかの見ている先で、途方もない量の土砂が空へ噴き上がった。火柱が、雲を突き破った。どこから来たのかわからない水が津波のように四方へ溢れ出していった。
あそこで戦っていた子たちは、どうなったのだろう。
わからなかった。
何が起きたのかも、わからなかった。
目の前で起きていることの何もかもが、まどかの理解の外にあった。
「逆さまだったのは、歯車のほうさ。本来の向きに戻った彼女は、本当の力を発揮する」
声がした。
何の温度もない声だった。それなのに、耳の奥に、甘く、ねっとりと絡みついてきた。
「この世界のすべての魔女を束ねたもの。舞台装置の魔女として、ね」
振り向かなくても、わかった。
キュゥべえが、足元にいた。
「今の彼女に勝てる者は、誰もいない。でも」
その言葉が、まどかの胸の底に一つずつ沈んでいった。
考える力を、少しずつ削り取っていくように。
「君なら、倒せる。途方もない因果の行き着く先である君なら、一撃で倒せるだろう」
まどかは、唇を噛んだ。
ほむらの顔が、浮かんだ。
ほむらは、誰を魔法少女にさせないために、何度も何度も戦ってきたのか。その思いを、踏みにじるつもりなのか。
でも、と思う自分がいた。
ほむらが死んでしまったら。みんなが、死んでしまったら。それこそ、何の意味もなくなってしまう。
まどかは、決めた。
ほむらの思いを踏みにじる覚悟も、できた。
迷う理由も、迷っている暇も、もうなかった。
ごめんね、ほむらちゃん。
まどかは俯いて、心の中で謝った。
守りたかった。ほむらを。さやかを。玲佳を。マミを。杏子を。パパとママと、タツヤを。この街の、みんなを。
「わたし、契約——」
顔を、上げた。
言葉を、失った。
視界が、真っ黒だった。
ビルだった。さっきの爆発の余波で引きちぎられたビルの上半分が、まっすぐにこちらへ飛んできていた。
押し潰される。
粉々に、なる。
そのはずだった。そうでなければ、おかしかった。
轟音が、響いた。
何かが、崩れる音だった。
けれど、まどかの身体には、何も届かなかった。
光が、まどかを包んでいた。
その光が、少しずつ形を結んでいった。
「あれ……わたし……」
翼だった。
三対、六枚の、氷の翼。羽の一枚一枚が彫刻のように細かく彫り込まれて、透きとおっていた。その翼が繭のように、まどかの身体をすっぽりと包み込んでいた。
飛んできたビルは翼に触れたところから砕けて、まどかの周りに瓦礫の山を作っていた。
危険が去ると、翼はすぐに崩れはじめた。
氷が細かな光の粒になって、雨の中へ溶けていった。
まどかは、足元を見た。
キュゥべえが、いなかった。
さっきまで、そこに座っていた。赤い目でこちらを見上げて、君なら一撃で倒せる、と囁いていた。
その場所には、翼の外で砕けたコンクリートの塊がうずたかく積み重なっているだけだった。
翼が包んでいたのは、まどかの身体だけだった。
「キュゥべえ……?」
返事は、なかった。
瓦礫の下に埋もれたのか。どこかへ行ってしまったのか。わからなかった。
わたし、契約——。
言いかけた言葉の続きを受け取る相手は、もう、どこにもいなかった。
「……あ」
まどかは何かに気づいて、ポケットに手を入れた。
探った。
何も、なかった。
ずっとひんやりとしていた、あの青い石が、どこにもなかった。
一度だけ、どんなものからでも、まどかを守ってくれる。
玲佳はそう言っていた。
「……やっぱり、ない」
まどかは空っぽのポケットの上から、胸を押さえた。
胸の奥に、ひんやりとしたものがまだ残っていた。
あの石と、同じ冷たさだった。