魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第四十三話
雨の音で、目が覚めた。
顔に冷たいものが次々と落ちてきていた。瞼を開けようとして、片方しか開かなかった。
開いたほうの目に灰色の空が映っていた。低い雲がものすごい速さで流れていく。その雲の底を、ときどき赤い光が照らした。
どこかで、何かが燃えていた。
遠くで、笑い声がしていた。
あの声だ、と玲佳は思った。まだ、笑っている。
どれくらい、気を失っていたのか。
思い出そうとした。剣を振った。歯車と、女の胴を繋ぐ軸を断った。落ちていく女の顔に笑みが貼りついていた。何かがおかしい、と思った。
その先は切れ切れにしか残っていなかった。上下をひっくり返していく歯車。組みかけの、六角形の盾。端から砕けていく破片。その隙間から押し寄せてきた、光。
そこで、白く途切れていた。
起きなければ、と思った。
右手を、地面についた。濡れたコンクリートの感触があった。腕に力を込めて上半身を持ち上げる。
持ち上がった。
続けて、立ち上がろうとした。
立てなかった。
脚に、力が入らなかった。入らないのではなかった。力を入れるべき場所が、どこにもなかった。
玲佳は首を曲げて、自分の身体を見下ろした。
腹から下が、なかった。
灰色のローブの裾が途中で千切れていた。その先に続いているはずのものが、なかった。臍のあたりから下が、ごっそりと何かに持っていかれていた。
断ち切られたところから、赤黒いものがとめどなく溢れていた。雨に叩かれて薄まって、コンクリートの上に広がっていく。水たまりが、赤かった。
腹の中にあったはずのものが外に零れていた。灰色がかった、ぬめりのある管が雨に打たれて、ゆっくりと形を崩していく。
見ていた。
ただ、見ていた。
痛みは、どこか遠くにあった。痛すぎて身体がそれを受け取るのをやめてしまったのかもしれない。
魔法少女の身体は、ソウルジェムさえ無事なら、壊れても動く。それは知っていた。知っていたが、こんなふうに知りたくはなかった。
アイギスは、間に合わなかった。
半分しか組み上がらなかった盾でも、あの光の勢いをいくらかは削いでくれたのだろう。何も張っていなければ、今ごろ、この身体の欠片さえどこにも残っていなかった。
ほかの部分も、ひどかった。
左腕は、肘のところでありえない方向に曲がっていた。指が、何本か、足りなかった。胸のあたりのローブが裂けて、その下の肌が焼けただれていた。
右手で、顔に触れてみた。
ぬるりとした。左の頬のあたりが柔らかく崩れていた。触れた指先に硬いものが当たった。骨だろうか。わからなかった。
自分が今、どんな顔をしているのか、わからなかった。
わからないほうがいい、と思った。
首元に、手をやった。
ロザリオが、まだ、そこにあった。
指先で、十字を探った。欠けていなかった。割れてもいなかった。ただ、その光が、ひどく鈍っていた。雨の雫を透かして見ると、銀色の奥に黒いものが半分近く、泥のように溜まっていた。
ソロモンの壺を開こうとした。掌の先の、グリーフシードを封じてある、あの壺の口を。
開かなかった。
魔力を流そうとしても、指先から何も出ていかなかった。
うなじのあたりに、濡れた髪が重くまとわりついていた。
右手を回して、触れてみた。
星が、まだ、そこにあった。
角の欠けた、銀の星。雨と泥に汚れながら、髪をしっかりと結んで、まだそこに残っていた。
『……杏子』
テレパシーを、開いた。
全員と、繋いでいたはずだった。誰がどこにいて、無事なのかどうか、いつでもわかるように。
返事は、なかった。
『杏子。……マミ。さやか。ほむら』
一人ずつ、名前を呼んだ。
どの名前にも、何も返ってこなかった。
頭の中は、しんとしていた。雨の音だけが耳の外で鳴り続けていた。
『……まどか』
返事は、なかった。
玲佳は、目を閉じた。
繋がっていないのか。繋がっていて、誰も答えられないのか。
それとも。
その先を、考えるのをやめた。
考えたら、そこで、何もかもが止まってしまう気がした。
杏子は。
杏子は、どこにいた。
玲佳は片方しか開かない目で、あたりを見回した。
見覚えのある景色は、一つもなかった。ビルというビルが、崩れていた。道が、道ではなくなっていた。鉄骨と、コンクリートの塊と、ねじ曲がった車と、何だったのかわからないものが、見渡すかぎりに積み重なっていた。
ただ、方角だけは、わかった。
最後の総攻撃の前、杏子は自分の後ろにいた。自分から見て、東の方角。槍の竜を放って、女の頭に喰らいつかせた。その竜が伸びてきた方角。
あちらだった。
雨に煙る瓦礫の丘の、その向こう。
行かなければ、と思った。
*
右手を、前に伸ばした。
瓦礫の縁に、指をかけた。
引いた。
身体が、ずるりと、前へ動いた。
腹の断ち切られたところが濡れたコンクリートの上を擦った。遠くにあった痛みが、一瞬だけすぐそばまで戻ってきた。視界が、白く弾けた。
息が、止まった。
しばらく、動けなかった。
それから、もう一度、右手を伸ばした。
指をかける。引く。
身体が、ずるりと進む。
後ろに何かが引きずられていく感触があった。零れたものが、身体に繋がったまま、瓦礫の上を擦っている。
振り返らなかった。
振り返っても、どうにもならなかった。
指をかける。引く。
また、少し進む。
左腕は、使えなかった。肘から先が身体の横で、他人のもののようにぶらぶらと揺れていた。瓦礫に引っかかるたびに、どこかで骨が擦れる音がした。
右手だけで、進んだ。
雨が、背中を叩き続けた。
身体の下を、自分の血が雨水と一緒に流れていった。赤い筋が瓦礫の隙間を伝って、後ろへ、後ろへと延びていく。
自分がどこを通ってきたのか、振り返らなくてもわかるだろうと思った。
崩れた壁が行く手を塞いでいた。
腰の高さほどの、コンクリートの塊だった。今の自分にとっては、崖だった。
右手を、塊の上に伸ばした。指をかけて、身体を引き上げようとした。
上がらなかった。
指が、滑った。
身体が、仰向けに崩れ落ちた。背中から瓦礫の上に叩きつけられた。
雨が、顔に降った。
片方の目に、灰色の空が映っていた。
しばらく、動かずに空を見ていた。
このまま、ここで。
そう思った。
目を閉じれば、それで終わる。雨は冷たかった。けれど、もう、寒さもよくわからなかった。
目を閉じかけた。
杏子の顔が、浮かんだ。
平気に決まってんだろ、と叫んで、骨が軋むほど抱きしめてきた腕。
一人で背負い込むな、と言った声。
明後日の後にも、明日はあるんだからな。
玲佳は、目を開けた。
右手で、瓦礫を掴んだ。
身体を、横に転がした。うつ伏せに戻る。零れたものが、身体の下で潰れる感触があった。構わなかった。
塊を、越えるのはやめた。
回り込んだ。
塊の端まで、這った。その角を掴んで、身体を引き寄せ、その向こうへ、ずるりと身体を押し出した。
指をかける。引く。進む。
指をかける。引く。進む。
それだけを、繰り返した。
右手の爪が、割れた。一枚、また一枚と、剥がれていった。指先の皮が裂けて、瓦礫に赤い跡が残った。
ガラスの破片が掌に食い込んだ。抜かなかった。抜いている暇はなかった。
途中で、何度か、意識が途切れた。
気がつくと、瓦礫に頬を押しつけて止まっていた。雨の音だけが聞こえていた。どれくらい止まっていたのか、わからなかった。
そのたびに、右手を伸ばした。
その手が何もない宙を掴んで落ちることもあった。距離がうまく測れなくなっていた。
これでは、まるで。
玲佳は自分の姿を思い浮かべた。
腹から下を失くして、はらわたを引きずって、片腕で瓦礫を掻きながら、雨の中を這っていく。顔も、どうなっているのかわからない。
死んだものが、這っている。
そういうものに、見えるだろう。
それでもよかった。
死んだものでも、這って行けるのなら。
ねじれた鉄骨の間を、くぐった。
ひっくり返った車の横を、過ぎた。車の窓ガラスに、何かが映った気がした。見なかった。
水の溜まった窪地に、半身を沈めて渡った。水が、赤く濁った。
雨の音の向こうで、また、あの笑い声がした。
遠かった。
さっきよりも、少しだけ遠くなった気がした。
*
瓦礫の丘を、越えた。
その向こうに、何かがあった。
赤い色だった。
灰色と茶色と黒ばかりの景色の中で、そこだけが、赤かった。
「……きょう、こ」
声が、出た。
自分の声だとは思えないほど、かすれて、濁っていた。
杏子は崩れたビルの壁に半分埋もれるようにして、仰向けに倒れていた。
変身は、解けていなかった。赤い衣装が泥と血に汚れていた。額が割れて、そこから流れた血が雨に流されて、頬を伝っていた。
目は、閉じていた。
動かなかった。
玲佳は、最後の距離を這った。
指をかけて、引いて、進んだ。杏子の身体の横まで、身体を引きずっていった。
右手を、伸ばした。
杏子の喉に、指先を当てた。
爪の剥がれた指先で、脈を探した。
雨が指の上を流れていった。何も、感じなかった。
指の位置を、ずらした。もう一度。
もう一度。
とくん、と。
指の下で、何かが、小さく打った。
とくん。
とくん。
弱かった。けれど、確かに、打っていた。
杏子の胸が、かすかに上下していた。
玲佳は、杏子の胸元に目をやった。
赤い宝石が、そこにあった。
杏子の、ソウルジェムだった。欠けていなかった。割れてもいなかった。光は、少し鈍っていた。けれど、黒く濁りきってはいなかった。
生きている。
身体の奥から、何かが、込み上げてきた。
それが何なのか、玲佳にはわからなかった。泣いているのかもしれなかった。顔が、どうなっているのかわからないから、涙が出ているのかどうかも、わからなかった。
雨が杏子の顔を叩いていた。
瓦礫の上から、小さな欠片がぱらぱらと落ちてきていた。
玲佳は右腕で、杏子の身体の向こうの地面を掴んだ。
最後の力で、自分の身体を、引き上げた。
杏子の上に、覆いかぶさった。
残っている胸と、肩と、右腕で。雨から。落ちてくる欠片から。この子を。
杏子の額に、自分の額が、触れた。
温かかった。
守る、と決めた。
ほむらと、指を絡めて。まどかを。
それから、自分で、決めた。杏子を。
約束の半分は、守れた。
そう思った。
杏子の息が、自分の首筋にかすかに触れていた。
その温かさだけを、感じていた。
雨の音が、遠くなっていった。
笑い声も、遠くなっていった。
杏子の鼓動だけが、最後まで、胸の下で聞こえていた。
とくん。
とくん。
玲佳の意識は、そこで、途切れた。