魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第四十四話
遠くで、誰かが誰かを呼んでいた。
「……上級……じょう……!」
声は、少しずつ近づいてきた。
少女の声だった。誰を呼んでいるのか、よくわからなかった。頭の中に、濃い靄がかかっていた。何かを考えようとしても、考えが形になる前に、靄の中へ溶けていった。
「上級生……! 上級生ってば!」
今度は、はっきり聞こえた。
上級生。自分のことだ。
わかったが、どうすればいいのかは、まだわからなかった。
「起きなさいよ、上級生!」
頬を、張られた。
乾いた痛みが、靄を一気に吹き払った。
玲佳は、目を開けた。
両方の目が、開いた。
灰色の空が、見えた。雲は、まだ低かった。雨は、小降りになっていた。
仰向けに、寝かされていた。
杏子の上に、うつ伏せに倒れていたはずだった。
「っ……」
頭が、割れるように痛んだ。
玲佳は手で頭を押さえながら、上半身を起こした。
起こせた。
腹に、力が入った。
玲佳は自分の身体を見下ろした。
灰色のローブの裾が、ちゃんと、脚の上に掛かっていた。その下に、二本の脚があった。左腕も、まっすぐに戻っていた。指も、五本あった。頬に触れると、柔らかく崩れていたはずの肌が、滑らかに閉じていた。
身体中に、魔力が満ちていく感覚があった。
こんなことができるのは、一人しかいない。
「……あなたが」
右を見ると、さやかが、瓦礫の上に座り込んでいた。
全身、泥と血にまみれていた。肩で、大きく息をしていた。
「上級生が一番に起きるとか。……残念」
口ではそう言いながら、さやかの声は、どこか弾んでいた。
「……あたしが降りなくて、よかったでしょ」
さやかは泥だらけの顔で、にっと笑ってみせた。
明後日の戦いから、降りていい。マミの部屋で自分がそう言ったのを、玲佳は思い出した。
玲佳は、小さく頷いた。
さやかの後ろに、マミとほむらが寝かされていた。二人とも、目を閉じていた。胸が、上下していた。
「マミさんも、ほむらも、治したんだけど起きないの。ソウルジェムは、二人とも無事。……ただ、だいぶ濁ってる」
玲佳は、首を巡らせた。
すぐ横に、杏子がいた。
瓦礫の上に、さやかのマントを敷いて、寝かされていた。額の傷は、塞がっていた。目は閉じたまま、静かな寝息を立てていた。
「……よかった」
それだけ言って、玲佳は、さやかに向き直った。
「ワルプルギスの夜は」
「……向こう」
さやかが、右斜め前を指さした。
雨の向こうに、それがあった。
三重の歯車だけが、宙に浮かんで、ゆっくりと回っていた。逆さまの女の姿は、もう、どこにもなかった。
笑い声も、なかった。
笑い声がないのに、そのまわりの空気が、ぐにゃりと歪んで見えた。絶望そのものが、あそこで回っている。そう思えた。
殺さないと。
玲佳は膝に手をついて、立ち上がった。
膝が、かすかに震えていた。
怖いのか。力が足りていないのか。それとも、ほかの何かなのか。たぶん、そのどれでもあって、どれでもなかった。
杏子を、あれは、傷つけた。
意識を失う前は、杏子が生きているのを確かめるだけで、精一杯だった。
今は、違った。
腹の底から、熱いものが、ふつふつと、それでいて激しく湧き上がってきた。
杏子をこんな目に遭わせた、あれに対して。
あれを、生み出した世界に対して。
それから、何より、自分に対して。
頭が本体だと、ほむらは言った。何度も繰り返してきたほむらの記憶が、あのときだけ、間違っていた。
落ちていく女の顔に、笑みが貼りついていた。何かがおかしい、と思った。思ったのに、確かめなかった。
気づけたはずだった。
玲佳は杏子のそばに膝をついた。
眠っている杏子の顔を、しばらく見下ろしていた。
それから、自分のうなじに手を回した。
星のゴムを、ほどいた。
濡れた白い髪が、背中に落ちた。
玲佳は杏子の左の手首を、そっと持ち上げた。
その手首に、紺色のゴムを通した。角の欠けた、銀の星が、杏子の手首の内側で、小さく光った。
杏子の手を、元の場所に、そっと戻した。
「じゃあ。杏子を、お願い」
さやかを一瞥して、玲佳は歩き出した。
「……待ちなさいよ!」
背中に、さやかの声が刺さった。
玲佳は顔だけで振り返った。
「……何?」
「それが、杏子のためになるって、思ってるの?」
さやかが、玲佳を睨みつけていた。
玲佳は少しの間、さやかの目を見ていた。
「違う」
玲佳は身体ごと、さやかに向き直った。
「杏子のためじゃない。……私の、ため」
さやかの顔が、歪んだ。
「みんなが起きるまで、待てばいいじゃない!」
「いつまた暴れ出すかわからないのに?」
玲佳は雨の向こうの歯車を見た。
「今この瞬間にも、さっきのが来るかもしれない」
「だったら、あたしも連れてって!」
「あなたに、もう戦う力は残ってない」
玲佳は、静かに言った。
「傷は治っても、見ればわかる。私とあなた以外、誰も目を覚ます余力すら残ってなかった。あなたは、ここにいる全員を治した。私も含めて」
さやかが、口を開いた。
何かを言おうとして、言葉にならなかった。
唇が、震えていた。
「あんたが死んだら、悲しむ人がいるのよ!」
さやかが、叫んだ。
悲鳴だった。
「杏子だって、まどかだって! みんな、誰も死なない明日を望んでるのよ! それを、一人で勝手に決めて、何様のつもりよ! そういうのこそ、偽善じゃない!」
玲佳は黙って聞いていた。
「あんたのしたこと、あたしは許してない。人殺しだって、今でも思ってる。でも……っ」
さやかの目から、涙が溢れていた。
「杏子が生きてるうちは、死なないんでしょ! あの夜、あんた、あたしにそう言ったじゃない!」
建設中のビルの陰だった。鞘に納めたままの刀で、さやかの刃を一太刀ずつ受けながら、確かに、自分はそう言った。人殺しと罵られて、否定もせずに。
「死ぬあんたは、それで納得できるのかもしれない! でも、残されるあたしたちは、どうすればいいのよ!」
雨の音だけが、しばらく続いた。
玲佳は掌の先に、壺の口を細く開いた。さやかの魔力が、そこへ届く力まで戻してくれていた。
一枚の、薄いものを取り出した。
それを、さやかに向かって、軽く放った。
さやかは慌てて両手で受け止めた。
「……カード?」
「銀行の。杏子に、渡して。きっと、役に立つ」
玲佳はさやかから目を逸らした。
「それと。私は、ワルプルギスの夜に殺された、って伝えて。あれを倒したのは、あなたってことにしていい」
さやかが、歯を食いしばる音がした。
玲佳は、もう振り返らなかった。
地面を、蹴った。
*
歯車が、噛み合う音を立てた。
玲佳が近づいてくるのに、気づいたのだろう。きしり、きしりと、耳障りな音が、雨の空気を震わせた。笑い声に負けないほど、不快な音だった。
最初から、全部出す。
出し惜しみなど、できる相手ではなかった。
歯車が、一段と激しく回った。
その周りに、炎が噴き上がった。歯車の姿が、炎の壁の向こうに隠れた。
ただの炎ではなかった。
世界中の絶望を、一か所に掻き集めて、無理やり炎の形に押し固めたら、こうなるのかもしれない。そういう炎だった。一欠片でも触れれば、骨も残らない。
その炎が、玲佳に向かって放たれた。
玲佳の身体が、ひとりでに震えた。
全身の力を、限界の、その先まで引き上げた。魔力が、骨の髄まで満ちていく。
右手に、青銅の剣があった。混沌を裂いて、天と地を造った剣。
炎が、迫ってきた。雨を蒸発させ、風を焼き払いながら、竜のように獰猛に、雨のように容赦なく。
「……っ、あああああっ!」
玲佳は、炎に向かって跳んだ。
狙ってくれと言っているような、無謀な跳躍だった。
歯車が、それを見逃すはずがなかった。いくつもの炎が絡み合い、互いの熱を高め合いながら、一本の炎の奔流になって、玲佳めがけて殺到した。
玲佳は、息を呑んで、剣を構えた。
奥歯を噛みしめた。全身の筋肉を、一つ残らず動かした。
「はああああああああっ!」
全身で、全霊で、振るった。
剣と炎が、正面からぶつかった。
炎が、裂けた。
裂かれて、歯車の手を離れた炎が、玲佳の左右を流れ落ちていった。地面に届いたところで、アスファルトごと、その下の地盤まで抉り取った。
玲佳は、裂けた炎の間を、白い流星のように駆け抜けた。
炎の終わりが見えたところで、ひときわ大きく剣を振るった。残っていた炎が、まとめて吹き飛んだ。
次に来たのは、嵐だった。
炎だけで終わるとは、思っていなかった。備えは、してあった。
歯車の嵐は、右回りに。
玲佳の嵐は、左回りに。
二つの嵐が、ぶつかり合った。雨粒が、横殴りに砕け散った。
拮抗は、長くは続かなかった。
片方は、ほとんど尽きることのない魔力を持つ、巨大な存在。もう片方は、限りのある魔力しか持たない、小さな存在。
どちらが勝つかは、わかりきっていた。
玲佳の嵐が、少しずつ、押し返されはじめた。
勝たなくていい。
突き抜けさえすれば。
玲佳は、目を見開いた。
渦巻く嵐の、一番薄いところを探した。風の流れを読んだ。雨粒の向きを読んだ。
見つけた。
針の穴ほどもない、隙間だった。
宙を、蹴った。
その隙間めがけて、剣を振るった。こじ開けた。開いた裂け目に、身体をねじ込んだ。
抜けた先に、歯車があった。
目の前に。
玲佳は、それに、しがみついた。
歯車が、暴れた。回転を速め、軋み、身をよじって、玲佳を振り落とそうとした。
離れなかった。
剣を歯車の隙間に突き立てた。脚を、歯と歯の間に食い込ませた。
離れない。離れては、いけない。
玲佳は、右手を掲げた。
掌の先に、ソロモンの壺の口を、大きく開いた。
残っていたグリーフシードが、八つ、零れ出てきた。玲佳の首元のロザリオのまわりを、衛星のように漂った。
ほむらが、杏子との取引で前払いしてくれたものだった。何度も繰り返した時間の中で、ほむらが一つずつ蓄えてきたもの。杏子が、風見野で狩ってきたものも、混じっていた。
持っているすべての知識を、掻き集めた。
持っているすべての魔力を、掻き集めた。
最も強いと語られた剣が。最も強いと語られた槍が。最も強いと語られた武具が、手の中に集まってきた。
武具だけでは、なかった。
ありとあらゆる神話の、神々の力が、そこに集まってきた。
左の肩口から、何かが噴き出した。
巨大な、獣の首だった。玲佳の左腕を呑み込むようにして、肩から生え出していた。神々さえも恐れて逃げ出したという、怪物の王。テュポーンの首。
背中から、翼が開いた。
一対ではなかった。一対の下から、もう一対。さらに、もう一対。
三対、六枚。
十メートルを優に超える六枚の翼が、雨の空いっぱいに広がった。一枚の翼の上で、炎が燃え、水が流れ、風が白く渦巻き、土が鈍い金に光り、氷が透きとおっていた。五つの力が、六枚のどの翼の上にも、まだばらばらに走っていた。
ロザリオが、軋んだ。
グリーフシードを当てた。一つ。黒く濁りきった。次を当てた。二つ。三つ。
追いつかなかった。
浄めても、浄めても、濁りのほうが速かった。八つ全部を使い切っても、銀の十字の奥で、黒いものが渦を巻き続けていた。
十字に、ひびが走った。
身体が、内側から砕けていくような痛みだった。
その痛みの中で、玲佳は、まだ誰も踏み入ったことのない場所に、手を伸ばした。
並べるのではない。束ねるのでもない。
一つにする。
力と力のあいだに、道を通した。すべての力をまとめ上げる、一つの形を思い描いた。細い糸を、一本の乱れもなく、互いに引き合う形に編み上げていく。
そこにあることは、わかった。
それが何なのかと訊かれたら、ぼんやりとしか答えられない。
そういう、魔法だった。
ばらばらに走っていた五つの力が、六枚の翼の上で、渦を巻きはじめた。炎が水に、水が風に、風が土に、土が氷に溶けて、互いの境目を失っていく。
白金。
どの色でもなく、すべての色を呑み込んだ、ただ一つの輝きだった。
降りしきる雨粒が、玲佳に触れる手前で、白金の光の中へほどけて消えていった。
ロザリオの奥に残っていた、最後の細い銀の筋が、震えた。
生まれて初めて、力が、混ざった。
「……っ、今!」
魔法が、形を結んだ。
玲佳は、それを、歯車の中心へ、力の限り突き立てた。
ひびの入ったロザリオの奥で、光が弾けた。
雨の音が、遠のいていった。
あなたは、ワルプルギスの夜で。
織莉子の最後の声が、どこかで聞こえた気がした。
あの先は、こうだったのかもしれない。
今なら、訊いてもいい気がした。もう、何も決まらないのだから。
杏子。
約束、守れなくて、ごめん。
全部出した。でも、あなたのいるところで、じゃなかった。料理も、まだ作ってない。
それから。
あなたとの約束も。
絶対に、死なないで。泉のほとりで、あなたは、そう言った。
守れなくて、ごめん。
でも。
「……ありがとう」
見滝原を、焼き尽くすほど強い光が、包み込んだ。
最後に、玲佳の頬を伝った雨粒は、しょっぱい味がした。
次話。エピローグです。