魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
エピローグ
あれから、一か月が経った。
杏子はもうほとんど街の形をしていない見滝原を、一人で歩いていた。
役所や病院のような街の真ん中のものはどうにか動き出して、最低限の暮らしはできるようになった。建物の倒れ方が不自然だったとかで、ときどき国から調査の人たちがやって来た。
瓦礫の間を縫うように歩きながら、ときどき瓦礫を蹴飛ばして、その下に何もないことを確かめた。
何の意味もないことだと、わかっていた。
わかっていて、やめられなかった。
玲佳が死んだなんて、信じられなかった。
たぶん誰よりも強かった玲佳が、死んだなんて。信じたく、なかった。
歩いて、歩いて、歩き続けて。
その場所に、たどり着いた。
さやかから聞いた、自分が倒れていた場所だった。崩れたビルの壁が、まだ半分そこに残っていた。
気を失っていた自分の上に、玲佳が覆いかぶさっていたのだという。
腹から下を、失くしたまま。
「……なあ。なんで、死んじまったんだよ」
呟いて、杏子はポケットから一枚のカードを取り出した。
銀行のカードだった。杏子に渡して、と玲佳がさやかに預けたものだった。
さやかはそれを渡すとき、泣いていた。ワルプルギスの夜を倒したのは自分だ、と言った。玲佳はあれに殺されたのだ、と。
嘘だと、すぐにわかった。さやかは嘘が下手だった。
このカードの口座の通帳を、杏子は一度だけ見たことがあった。
玲佳がいなくなって一週間ほど経った夜、眠れなくて玲佳の部屋に入ると、机の引き出しの一番下に、それが入っていた。
開いて、最後に印字された行を見た。
数字が、並んでいた。
桁を、指でなぞって数えた。一、十、百、千。万。十万、百万。
指が、途中で止まった。
もう一度、端から数え直した。何度数えても、同じだった。
一生、暮らしに困らないくらいの数字だった。
遡って、ページをめくった。同じ金額の入金が何年分も、ずらりと並んでいた。百九十万円。百九十万円。百九十万円。日付だけが違って、どれも同じ数字だった。
明け方、雨の匂いをさせて帰ってきた玲佳の上着から、封筒の角がのぞいていたことがあった。指一本分の厚み。あれと同じ厚みだ、と思った。
玲佳が夜にどこかへ出かけて、何をしていたのか。杏子はちゃんと訊いたことがなかった。
通帳を、閉じた。
引き出しに、戻した。
一円も、使っていなかった。使えるわけが、なかった。
杏子はカードを握りしめた。
「頼ってくれ、とは言ったけどさ……こういう意味じゃ、ないんだよ……」
左の手首で、角の欠けた星が小さく揺れた。
目を覚ましたときには、もう、そこにあった。誰がつけたのか、訊かなくてもわかった。
あの朝、玲佳は言った。持っていく。結ぶのは、まだ先。
その先が、どこだったのか。
杏子は手首を握りしめた。
立ち尽くしていると、声がした。
「早く、金出せよ」
振り向くと、瓦礫の陰で、大きな男が線の細い少年を殴りつけていた。
胸の奥で何かがかっと燃え上がった。
弱い者いじめが、許せなかったのではない。そんな、まっとうな正義感ではなかった。もっと、どうしようもなく、個人的なものだった。
気がついたときには、男の横面を拳で殴り飛ばしていた。
「もう一回言ってみな。殺すぞ」
言いながら、杏子はわかってしまった。
玲佳が死んで、こういう奴がのうのうと生きている。それが、許せないのだ。
わかったら、もう、止まらなかった。
倒れた男を、何度も蹴った。何度も、何度も。
男が呻き声しか上げなくなって、ようやく足が止まった。
少年はいつの間にか、いなくなっていた。
あたりには、誰もいなかった。
後悔と、虚しさだけが残った。
二つが胸の中で渦を巻いて、混ざり合っていった。
今日の街は、いつにも増して色が褪せて、薄汚れて見えた。
試しに、コンビニの菓子パンを食べてみた。
何の味も、しなかった。
前なら、食べるだけで身体の奥から力が湧いてきたのに。食べれば食べるほど、胸の中の空っぽが広がっていくだけだった。
理由は、わかっていた。今さら、言葉にするまでもなかった。
二週間ほど前に一度だけ、マミの家に行ったことがあった。
マミのマンションは、崩れずに残っていた。窓ガラスが何枚か割れて、ベランダの植木鉢が落ちて砕けていたほかは、何も変わっていなかった。行かない、と言った杏子の腕を、さやかが無理やり引っ張っていった。
低いテーブルに、紅茶のカップが五つ並んだ。
マミは棚からもう一つカップを出しかけて、手を止め、何も言わずに棚へ戻した。
ほむらが、坂の上の洋菓子店の箱を持ってきていた。
窓の外の瓦礫だらけの街を見ながら、ほむらはぽつりと言った。カレンダーを六月にめくったのは、初めてだと。何度繰り返しても、一度もたどり着けなかった月だった。
その声は、少しも嬉しそうではなかった。
まどかは膝の上で両手を組んでいた。その指に、指輪は嵌まっていなかった。ときどき、空っぽのスカートのポケットの上に、そっと手を当てていた。
さやかはいつもよりよく喋った。喋って、ときどき急に黙って、また喋った。ワルプルギスの夜を倒したのは自分だと言ったとき、さやかは誰の顔も見ていなかった。
誰も、玲佳の名前を口にしなかった。
口にしたら、この部屋のどこかが崩れてしまいそうだった。
マミが焼いたケーキを一口だけ食べた。それ以上は、フォークが進まなかった。帰り際、マミは何も言わずに、残りを箱に詰めて持たせてくれた。
マミの家に行ったのは、それきりだった。
「……もう一回だけ、会わせてくれよ、神様」
杏子は瓦礫の上に座り込んで、空を見上げた。
昼の空は、白く霞んでいた。夜になれば、この壊れた街の上にも、前と同じ数の星が出る。あの子の星は、この一か月、一つも減らなかった。
自分の命なら、いくらでもくれてやる。幸せなんて、全部取り上げてくれていい。
だから、玲佳を。
無理だとは、わかっていた。そんな願いが叶わないことくらい、誰よりもよく知っていた。
それでも、祈らずには、いられなかった。
胸の前で、両手を組んだ。
目を閉じた。
祈ったのは、何年ぶりだったろう。
*
エレベーターの扉が開いた。
目の前に、玲佳の家の扉があった。
合鍵を差し込んで、回した。ドアを開けて、中に入った。
「……ただいま」
もう、いなくなった人に向かって、言った。
返事など、あるはずがなかった。
靴を脱いで歩く廊下は、リビングまでほんの数歩のはずなのに、何時間も歩いているような気がした。
リビングのドアの前で、足が止まった。
匂いがした。
香辛料の、匂いだった。
玉ねぎを炒めた、甘い匂い。それから、煮込まれた人参と、じゃがいもの匂い。
カレーの、匂いだった。
杏子は、ドアを開けた。
身体が、ぐらりと揺れた。
倒れそうになって、踏みとどまった。
正面から、抱きしめられていた。
気づくまでに、時間はかからなかった。
「……杏子」
ずっと、聞いていなかった声だった。
目の端に、白いものが映っていた。腰の下まで届く、真っ白な髪。
とうとう、おかしくなったのかと思った。
夢を見ているのかと、思った。
違った。
腕の中の身体は、温かかった。確かに、息をしていた。
「う……あ……れい、か……?」
抱きしめているのが誰なのか、わかった瞬間だった。
言葉にならない何かが次々と、胸の中で弾けた。
杏子は玲佳の身体を、力いっぱい抱き返した。
声を上げて、泣いた。
責める言葉は、出てこなかった。文句も、言えなかった。
ただ、どこで何をしていたのかだけは、しつこいくらいに訊いた。
どこに行っていたのか。何をしていたのか。
まあ、いろいろ、と玲佳は言った。
それ以上は、言わなかった。杏子には、それで十分だった。
訊きたいことを全部訊き終えた頃、玲佳は杏子の身体を、もう一度、強く抱きしめた。
その手が、杏子の左の手首に触れた。
角の欠けた、星に。
玲佳の指が、その星をそっとなぞった。
それから、玲佳は杏子の顔を見た。
紅い目が、濡れていた。
白い頬が、ほんの少しだけ、赤かった。
杏子が今まで見た、どんなものよりも綺麗な顔で、玲佳は、笑った。
「おかえり」
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
『純白の魔法少女』は、これで完結です。
毎日読みに来てくださった方、評価やお気に入りをくださった方、ひとつひとつが本当に励みになりました。
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玲佳と杏子の物語に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。