魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
特等席
どれくらいそうしていたのか、杏子にはわからなかった。
玲佳の肩に押しつけた顔は、涙と鼻水でもうぐしゃぐしゃになっている。わかっていて、顔を上げられなかった。離れた途端に、腕の中がまた空っぽに戻るような気がしたのだ。この一か月、朝起きるたびにそうだったのだから、疑うなというほうが無理な話だろう。
先に腕をゆるめたのは、玲佳のほうだった。
「ご飯、できてる」
それが、一か月ぶりに帰ってきた人間の最初の用件か。
杏子は手の甲で目元をこすって、玲佳の顔を見た。紅い目はまだ濡れていたけれど、もういつもの静かな目に戻りかけていて、それが妙に腹立たしく、それ以上にほっとした。白い髪の先が一筋、杏子の上着の袖に引っかかっている。指でつまんで外してやると、玲佳は小さく瞬きをした。
部屋は、何も変わっていなかった。
玲佳がいない一か月、杏子が何ひとつ動かさなかったからだ。ソファのクッションの位置も、飾り棚の上の小皿も、書斎の本の並びも、全部あの日のままにしてあった。動かしたら、玲佳が帰ってきたときに困る。そう思っていたのか、帰ってこないと認めるのが怖かったのか、自分でもよくわからない。
ダイニングテーブルには皿が二枚とスプーンが二本、向かい合わせに並べてあった。
コンロの上で鍋が湯気を立てている。流しの横に畳んだレジ袋が一枚置いてあった。どこで買ってきたのだろう、と杏子は思う。駅前のスーパーは先週やっと半分だけ店を開けたところなのだ。腰の下まである白い髪のやつが野菜を籠に入れているところを、誰も見なかったのだろうか。見たとしても、まさかと思って目を逸らしたのかもしれない。
玲佳は皿にご飯を盛り、カレーをかけた。杏子の分は、自分の倍にした。
前にも、こうだった。この部屋で初めて玲佳が作ったのも、カレーだったのだ。スーパーの売り場で杏子が玉ねぎを見て目を輝かせたのが理由だと、あとになって聞いた。そんなことで決めたのかと笑ったら、玲佳は少しだけむっとした。
「……これ」
「とびきり美味いやつ、って言った」
「言ったけどさ」
「何がいいか、杏子は答えなかった。だから、最初に作ったもの」
椅子に座ると、両手がひとりでに胸の前で組まれた。
ガキの頃からの癖なのだ。親父の教会で食事の前には必ずそうさせられた。何もかもなくしたあとも、これだけは抜けなかった。
目を閉じかけて、杏子の手が止まった。
昼に、瓦礫の上で祈ったのだ。もう一回だけ会わせてくれ、と。命ならくれてやる、幸せなんて全部取り上げていい、と。
そうしたら、玲佳がここにいる。
組んだ指の先が急にかじかんだ。前に祈ったときのことを杏子は誰よりもよく知っていた。願いは叶った。叶ったぶんだけ、きっちり取り立てられた。親父も、母さんも、モモも、それで——
向かいで、玲佳がこちらを見ていた。
杏子は手をほどいて、スプーンを掴んだ。
「いただきます」
一口目で、目の奥が熱くなった。
味が、したのだ。玉ねぎを長く炒めた甘さがあって、その下から香辛料がじわりと追いかけてくる。じゃがいもが少し煮崩れてルーの中に溶けかけていた。熱くて、舌の先がひりひりする。
今朝、コンビニの菓子パンをかじったときには、紙を噛んでいるのと変わらなかったのに。
「……うめえ」
声が、半分泣いていた。
玲佳は何も言わずに、自分のスプーンを動かした。ほんの少しすくって口に運び、また杏子の皿に目を戻す。一皿目を空にすると、黙って立ち上がって二杯目をよそってきた。三杯目のときには、杏子が腰を浮かせるより先にもう鍋の前にいた。
「あんた、全然食ってねえじゃん」
「見てるほうが、いい」
「なんだよ、それ」
返事はなかった。答えるつもりがないときの、あの平らな目をしていた。
三杯目を半分ほど食べたところで杏子はポケットに手を入れた。
指先に、薄くて硬いものが当たる。この一か月ずっとそこに入れて歩いていたものだった。
テーブルの真ん中に銀行のカードを置いた。
「これ。返す」
玲佳の目がカードの上に落ちる。
「一円も使ってねえから」
「……使って、よかった」
「使えるかよ」
思ったより大きな声が出た。
玲佳の肩がほんの少しだけ動いた。
「頼ってくれって、あたし言ったよな。それがさ、こういうことかよって。通帳、見ちまったんだよ。あんたの机のいちばん下の引き出し。……あんなもん残されて、どうしろってんだよ」
言いながら、これは違う、と思った。文句を言いたいのではなかった。本当に言うべきことは別にあって、それがどこにあるのか、自分でも見つけられないだけなのだ。
玲佳は指先でカードを引き寄せた。表に返して眺めてから、テーブルの端に伏せて置いた。
「……ごめん」
「謝んなって。前にも言ったろ」
観覧車の中でも同じことを言った気がする。
あのときは、明後日の後にも明日はある、と言ったのだ。その明日に、玲佳はいなかった。一か月ぶんの明日がまとめて抜け落ちて、今日になってカレーの匂いと一緒に戻ってきた。
どこで、何をしていたのか。
訊きたいことは、さっき全部訊いた。答えは、まあ、いろいろ、の一言だった。あのときはそれで十分だと思ったし、そう思ったのは本当だった。十分でないのも、たぶん本当なのだ。
杏子はスプーンを持ち直して、残りのカレーを口に押し込んだ。
洗い物は、玲佳がした。
杏子はその隣に立っている。皿を拭く布巾を一応持ってはいたが手は少しも動かず、目は玲佳の手元と横顔から離れなかった。
「座ってて」
「やだ」
「すぐ終わる」
「だから、終わるまでここにいんだよ」
玲佳は水を止めて、杏子を見た。何か言いかけてやめ、また水を出した。
蛇口の下で白い指が皿の縁をなぞっていく。右手の薬指に細い銀の指輪が光っていた。泡が流れるたびに指輪がまた光る。杏子はそれを数えるみたいに眺めていた。
*
その夜、杏子は眠れなかった。
自分の部屋のベッドに仰向けになって、天井を睨む。部屋の中は静かで、壁の向こうも静かで、静かすぎて耳の奥がじんと痛むほどだった。
玄関で、ただいま、と言ったのを思い出した。
誰もいない部屋に向かって、この一か月毎日言ってきた言葉だった。言わずに入ると、本当に誰もいないことになってしまいそうで、やめられなかったのだ。
今日は、返事があった。
おかえり、と。
杏子はがばりと身体を起こした。
逆ではないか。帰ってきたのは玲佳のほうなのだから、おかえりを言われるべきなのは玲佳で、言うべきなのは自分のほうだった。それなのに、泣いて、しがみついて、どこ行ってたんだと同じことを何度も訊いて、カレーを三杯食って、肝心のその一言をまだ一度も口にしていない。
今から言いに行けばいい。
廊下に出て玲佳の部屋の前まで行った。ドアを叩こうと拳を上げたところで手が止まった。夜中の一時に人の部屋を叩いて、おかえり、と言うのか。そのときの玲佳がどんな顔をするのか、想像しただけで耳が熱くなった。
杏子はドアに耳を寄せた。
何も聞こえなかった。
玲佳は、寝息を立てない。前からそうだった。眠っているのか起きているのか、すぐ横にいてもわからないことがある。それを知っているのに、何も聞こえないことが急に怖くなった。
ドアノブを、そっと回した。
細く開いた隙間から、窓の外の星明かりがベッドの上を青く照らしているのが見えた。枕の上に、白い髪が広がっていた。掛布団が、ゆっくりと、ほんの少しだけ上下していた。
杏子は音を立てないようにドアを閉め、廊下の壁に背中を預けて床に座り込んだ。
自分の部屋に戻れば、このドアは見えなくなる。それなら、ここにいればいい。理屈になっていないのはわかっていた。それでも、立ち上がる気にはなれなかった。
*
肩を揺すられて、目を開けた。
玲佳が目の前にしゃがんでいた。
廊下の窓から灰色の朝の光が差し込んでいる。身体の上にいつのまにか毛布が一枚かかっていた。杏子の部屋のものではない。玲佳の匂いがした。
「風邪、ひく」
「……あー」
頭が回らなかった。首が壁に預けた形のまま固まっている。
「いつから、気づいてた」
「三時くらい」
「起こせよ」
「起こしたら、杏子は部屋に戻る」
玲佳は当たり前のことのように言った。
それの何がいけないのか、と訊き返そうとして杏子は口を閉じた。訊けば、玲佳はきっと正直に答える。その答えを聞いたらまた顔が熱くなるに決まっていた。
「トイレ行こうとしたら、寝ちまっただけだし」
「そう」
玲佳はそれだけ言って、立ち上がった。
さやかは嘘が下手だと杏子はずっと思っていた。どうやら人のことは言えないらしい。
それから何日か、杏子は玲佳のそばを離れなかった。
離れなかった、というより、離れられなかったのだ。玲佳が書斎に入れば、ドアの前の廊下でスマホをいじった。ベランダに出れば、窓のこちら側に寝転がった。風呂の前までついていったときには、さすがに玲佳が振り返って無言でドアを閉めた。
その前で、杏子は膝を抱えた。
情けない話だった。そう思ったところで、足が勝手にそっちへ向くのだから、どうしようもないではないか。
四日目の午後、玲佳が玄関で靴を履きながら買い物に行く、と言った。
杏子はソファから跳ね起きた。
「あたしも行く」
「雨」
「知ってる」
玲佳は傘立てから傘を一本抜いて、もう一本に手を伸ばしかけた。
「あたし、いらない」
「濡れる」
「濡れたっていいんだよ」
傘は、昔から好きではなかった。片手がふさがるし、前がよく見えない。何より、いざというときに邪魔になる。そういう暮らしを長くしすぎたのだろう。
玲佳は一本だけ持ってドアを開けた。
六月の雨は、思っていたよりずっと冷たかった。
E棟のエントランスを出ると、水たまりだらけの道が駅のほうへ続いている。アスファルトのあちこちがひび割れて、ところどころ大きくへこんでいる。そのへこみに灰色の空がそのまま映っていた。
杏子は水たまりの真ん中を踏んで歩く。
ばしゃん、と水が跳ねて、靴の中まですぐに冷たくなる。構わずに次の水たまりを踏む。ばしゃん。
隣を歩く玲佳の足元からは、何の音もしない。
同じように濡れた地面を歩いているはずなのに、聞こえるのは傘を打つ雨の音だけなのだ。玲佳の靴は、水たまりのふちをするりと避けていく。
「あんたさ、足音しねえよな」
「そう?」
「昔からだよ。ホテルの廊下でも、全然しなかった。後ろにいんのか前にいんのか、わかんねえの」
玲佳は少し考えるように自分の足元を見下ろした。
「癖」
「どういう癖だよ、それ」
答えは、なかった。
訊いてから杏子は少しだけ後悔した。玲佳は子どもの頃、箪笥の中に隠れていたのだ。扉の向こうで親が殺されているあいだ、息を殺して。初めて会った夜に泣きながらそう話してくれた。音を立てないことが癖になったのがいつからなのか、訊かなくてもわかりそうなものだった。
杏子はわざと大きく水たまりを踏んだ。
ばしゃん。
「あたしの勝ち」
「……何の」
「足音。あたしのほうが、うるさい」
「それは、勝ち?」
「勝ちだよ。ほら、あんたもやってみな」
玲佳は立ち止まって目の前の水たまりを見た。
浅い水たまりだった。傘の柄を握り直して、片足を、そっと水面に下ろした。
ぴちゃ、と。
それだけだった。雨の音にまぎれてほとんど聞こえないくらいの音だった。
杏子は吹き出した。腹を抱えて雨の中で笑った。
「なんだよ、それ。猫かよ」
「……うるさい」
玲佳は傘で顔を隠すようにして先に歩き出した。
杏子は笑いながらその後を追った。ばしゃん、ばしゃんと、わざと派手に踏みながら。半歩先の白い背中が一度だけ振り返ったが、傘の下の顔は怒っているようには見えなかった。
駅前のスーパーは、相変わらず半分しか店を開けていない。
明かりのついていない棚の前にロープが張ってある。開いているほうの棚も、ところどころ歯が抜けたように空いていた。玲佳は籠を片手に野菜の棚を端から順に見ていった。人参を手に取り、裏返して、元に戻す。隣の人参を手に取る。人参の一本でこれなのだから、晩飯ができるまでに日が暮れるのではないか。
杏子はそのあいだに菓子の棚へ回って、細長い箱を一つ籠の底にこっそり押し込んだ。
レジの女の人が、玲佳の髪を見て、それから顔を見て、もう一度髪を見た。玲佳は気にしたふうもなく財布を出した。籠の底の箱にも、気づいた様子はなかった。
帰りは袋を二つとも杏子が持った。
近道をしようと言い出したのは、杏子だった。
E棟の手前に、ビルが一つ丸ごと取り壊された空き地がある。瓦礫はもう運び出されて雨を吸った土が剥き出しになっていた。そこを斜めに突っ切れば信号を二つ待たずに済む。
足を踏み入れると靴がずぶりと沈んだ。
「うわ、最悪」
「戻る?」
「戻んねえよ、ここまで来て」
空き地の真ん中あたりに大きな水たまりが広がっていた。杏子が回り込もうとしているあいだに、玲佳は傘を差したまますっと一歩でそれを跨いだ。
跨いだ、と言っていいのかもわからない。歩いていた足が、ただ水の向こう側に着いていたのだ。泥も、ほとんど跳ねなかった。
杏子は袋を抱えたまま水たまりのふちを小刻みに回った。
向こう側に着いて、振り返る。
泥の上に、二人ぶんの足跡が並んでいる。
玲佳の足跡は、間が広かった。一つ、また一つと、迷いのない間隔で進んで、水たまりの手前で途切れ、向こう岸からまた始まっている。その横に、杏子の足跡がごちゃごちゃと詰まっていた。小さく、細かく、ときどき向きを変えながら、水たまりのふちに沿ってぐるりと弧を描いていた。
「脚の長さ、ずりいよ」
「そんなに変わらない」
「変わるだろ、これ見ろよ」
玲佳は杏子が顎で示した足跡を見た。
傘の縁から雨が細い筋になって落ちていた。玲佳は泥の上の二本の列を見下ろして、なかなか動こうとしない。
「杏子のほうが、多い」
「……それ、褒めてんの?」
「褒めてる」
杏子は眉を寄せた。何を褒められたのか、さっぱりわからなかった。
玲佳はもう前を向いて歩き出していた。
一歩が、遠い。
昔からそうだった、と杏子は思う。こいつは、いつも一歩で、ずっと先まで行ってしまう。杏子が回り道をしているあいだに、もう向こう側に着いていて、振り返りもしない。最後の日も、きっとそうだったのだろう。杏子が瓦礫の上で寝ているあいだに、あいつは一人で、誰も追いつけないところまで跳んでいったのだ。
それが玲佳の凄いところなのは、知っている。
知っているから、怖かった。
杏子は泥の中で靴を一つ鳴らした。それから、半歩先の白い背中に向かって、わざと大股で歩いた。
*
玄関に杏子の靴が転がっていた。
片方は横倒しで、もう片方は爪先を壁に向けている。泥が、甲のところまで跳ねている。玲佳はかがんで二つを拾い上げた。
洗面所から杏子の鼻歌が聞こえる。濡れた服を脱ぎ散らかしたところを、先に風呂に放り込まれたのだ。放り込んだのは玲佳だった。
靴を裏返すと、踵のところがすり減って薄くなっていた。
右の靴は、とくにひどかった。外側がななめに削れて、指で押すと、底の向こうの床の硬さが伝わってきそうなほどだった。爪先の縫い目も、少しほつれている。
一か月前、こんなふうではなかった。
ワルプルギスの夜の前の日に、玄関でこの靴を揃えたのを覚えている。新しくはなかったけれど、底はまだ厚かった。
この一か月で、杏子は、どれだけ歩いたのだろう。
どこを、何のために。
訊けば、答えてくれるのかもしれない。杏子は嘘が下手だから、ごまかそうとしてもきっとどこかでぼろが出る。
玲佳は、訊かなかった。
杏子のほうも、訊かないのだ。どこで何をしていたのか、あの夜しつこいほど訊いて、まあ、いろいろ、と答えたら、それきり一度も訊いてこない。本当は知りたいのだと、目を見ればわかった。朝食のとき、テレビのニュースで見滝原の名前が出たとき、玲佳が少し長く窓の外を見ていたとき。杏子の目は何度も同じことを訊いていて、口だけが動かなかった。
その一か月のことを、言葉にしようとしたことはある。
杏子が眠ったあとの、自分の部屋で。何度か口の中で組み立ててみた。どの言葉も、少しずつ違っていた。違う言葉で話せば、杏子はそれを本当だと思って、本当でないものを抱えて生きていくことになる。それなら、まだ話さないほうがいい。そう決めたのは自分なのに、杏子が訊かずにいてくれることに、毎日救われている。
ずるい、と思う。
そう思っても、まだ話す言葉はなかった。
あの日、玄関のドアが開く音を玲佳は台所で聞いていた。
鍋の火を弱めてリビングのドアのほうを向いたところだった。合鍵の回る音がして、ドアが開いて、少し間があって、それから声がした。
ただいま、と。
誰もいないはずの部屋に向かって杏子はそう言ったのだ。返事を待つ声ではなかった。返事がないことを知っている人の、平らな声だった。
何度、そう言ったのだろう。
一か月のあいだ、毎日、この玄関で。返事のない廊下に向かって、靴を脱いで、リビングまでの数歩を歩いて。そう思ったら、もう鍋の前には立っていられなかった。気がついたときには、ドアの前にいて、開いたドアの向こうの杏子を、抱きしめていた。
おかえり、と言ったのは、そのせいだった。
帰ってきたのは自分のほうだと、わかってはいた。それでも、あの声に返すことばは、それしかなかった。
玲佳は靴箱の下から古いタオルを出して、杏子の靴の泥を落とした。
甲の泥を拭い、縫い目に詰まった土を爪の先でかき出し、底の溝の小石を一つずつ取った。すり減った踵は拭いても元には戻らない。新しいのを買えばいい、と一瞬思って、すぐにそれは違う気がした。この靴は、杏子がこの一か月を歩いた靴なのだ。勝手に取り替えていいものではなかった。
揃えて、玄関の真ん中に置いた。爪先を、ドアのほうに向けて。
そのすぐ隣に自分の靴を並べる。
玲佳の靴は、ほとんどすり減っていなかった。
空き地の泥の上の二本の列を思い出した。自分のは、まばらで、まっすぐだった。杏子のは、ぎっしりと詰まって、水たまりのまわりをぐるりと回っていた。
まっすぐ行けるのは、行く先しか見ていないからなのだ。
足元に何があっても、隣に誰がいても、跳んでしまえば関係がない。ずっとそうやって生きてきた。悪い人間を見つけては、一歩で近づいて消した。最後の日も、そうした。眠っている杏子の手首に星を通して、一歩で、あの歯車のところまで跳んだ。振り返らなかった。
杏子は、回り道をする。
水たまりを避けて、ちょこちょこと、文句を言いながら。そのぶん足跡が多くなって、多くなったぶんだけ、杏子はその地面をちゃんと踏んでいる。
玲佳には、それができなかった。
どうすればできるのかも、よくわからなかった。
「玲佳ー、タオルどこー」
洗面所から杏子の声がした。
「棚の、二段目」
「ねえよ」
「ある」
どたどたと何かを探す音がして、あった、と声がして、静かになった。
玲佳は立ち上がった。
膝を伸ばしたとき、靴箱の上の小さな鏡に自分の顔が映った。口の端が、少しだけ上がっていた。いつからそうなっていたのか、わからなかった。
風呂から上がった杏子は、髪を拭きながらまっすぐ台所に来た。
左の手首に紺色のゴムが巻かれていた。濡れて、色が少し濃くなっている。角の欠けた銀の星が、蛍光灯の光をちらりと弾いた。
「それ、お風呂でも外さない?」
訊いてから玲佳は自分が訊いたことに少し驚いた。
杏子はタオルを肩にかけて手首を持ち上げた。星を、目の高さで眺める。
「外したら、なくしそうじゃん」
「そう」
「……返せって言われても、返さねえからな」
「言わない」
杏子は、ふん、と鼻を鳴らして、冷蔵庫を開けた。
星は、そらのものだった。土手でそらが彼女の髪を結んで、あげる、と言ったもの。押し入れの中の子どもを守っていたもう一人の自分が、毎朝結んでいたもの。最後の日に、玲佳が、自分の意思で結んだもの。
今は、杏子の手首にある。
それでいいのだと、玲佳は思った。
あの星は、たぶん、ずっと行き先を探していたのだ。
*
廊下で寝てしまったあの夜から、杏子は自分の部屋のドアを開けたまま寝るようになっていた。
廊下の向こうの玲佳の部屋のドアも、気がつけば夜じゅう開いていた。頼んだわけではない。次の夜、玲佳が黙ってそうしたのだ。ベッドに寝転がって首だけ廊下に向けると、向こうの暗がりに白い髪の端がかろうじて見える。それを確かめてから目を閉じるのが、杏子の寝る前の決まりになった。
その朝、目を覚ますと、向こうのベッドが空だった。
掛布団が、きちんと畳まれていた。
杏子は跳ね起きた。台所にも、書斎にも、ベランダにも、いなかった。洗面所の電気も消えている。玄関に、玲佳の靴がなかった。杏子の靴だけが、爪先をドアに向けてたたきの真ん中にきちんと揃えてあった。
頭の中が、真っ白になった。
気がついたときには、裸足のまま廊下を走っていた。エレベーターの表示は一階で止まっていて、待っていられなかった。非常階段の扉を蹴り開けて、駆け下りる。二十五階ぶんの階段が足の裏で冷たく鳴った。途中で、変身すれば早いと思ったのに、指が言うことをきかなかった。
エントランスの自動ドアを抜けたところで、白い髪が見えた。
コンビニの袋を提げて玲佳が向こうから歩いてくる。
「……杏子?」
「どこ行って——どこ行ってたんだよ!」
自分でも驚くほどの声だった。植え込みのスズメが一斉に飛び立った。
玲佳は袋を少し持ち上げた。
「牛乳。切れてた」
「書いてけよ、紙に!」
「すぐ、戻るから」
「すぐでもだよ!」
玲佳の目が杏子の顔から、ゆっくりと足元へ下りた。
裸足の足の裏がエントランスの前の水たまりで黒く濡れていた。息が、まだ整わない。肩が、勝手に上下している。
「……ごめん」
「謝んなって。……いや、今のは謝れ」
「ごめん」
「二回言えとは言ってねえよ」
玲佳は袋を杏子に持たせると、くるりと背中を向けて少し身をかがめた。
乗れ、ということらしかった。
「乗らねえよ」
「足、汚れる」
「もう汚れてんだよ」
結局、乗らなかった。二人でエレベーターに乗って二十五階のボタンを押した。
扉が閉まると、急に静かになった。上へ昇っていく低い音だけがする。杏子は、袋の取っ手を握った自分の手が細かく震えているのに気づいた。止めようとしても、止まらなかった。
玲佳は、口を開かなかった。
ただ、杏子の手の上から、袋の取っ手を一緒に握った。
エレベーターの扉に、杏子の素足と玲佳の靴がぼんやりと映っている。杏子はそれを見下ろしていて、ふと玄関に揃えてあった自分の靴のことを思い出した。あの雨の日、泥だらけのまま蹴り脱いだはずの靴だった。甲の泥がきれいに拭われて、縫い目の土まで落としてあった。
誰がやったのかは、訊かなくてもわかった。
杏子は、訊かなかった。
次の朝、ダイニングテーブルの上に紙が一枚置いてあった。
パン、と一言だけ書いてあって、その下に時刻が添えてあった。七時十分。角ばった、几帳面な字だった。
杏子はその紙をしばらく指でつまんで眺めていた。それから四つに畳んで、ポケットに入れた。
玲佳は七時二十五分に帰ってきた。
それから、紙は毎朝置いてあった。牛乳、七時五分。郵便、八時。屋上、六時四十分。屋上に何の用があったのかは書いていなかったけれど、四十分後にはちゃんと玲佳は戻ってきた。杏子は一枚残らず四つに畳んでポケットに入れた。ポケットの中で紙は日に日にかさばっていく。洗濯の前に出し忘れて玲佳に一度怒られた。
*
マミの家に行こう、と言ったのは杏子だった。
玲佳はすぐには頷かなかった。ダイニングテーブルの上で紅茶のカップを両手で包んだきり、湯気の向こうを見ていた。
「さやかに、嘘をつかせた」
「知ってるよ。下手くそな嘘だった」
「あの子は、みんなにも、それを言った?」
「言った。ワルプルギスの夜を倒したのは自分だって。あんたは、あれに殺されたって」
玲佳の指がカップの縁で止まった。
「だからさ、行ってやんなよ。あいつ、あれからずっと、誰の顔も見ねえで喋ってんだ」
土曜の午後、二人でマミのマンションに向かった。
雨は上がって、雲の切れ目からときどき薄い日が差した。エレベーターの中で、玲佳はずっと右手の薬指を左の指でなぞっていた。指輪を回すみたいに、ゆっくりと。
インターホンを押したのは杏子だった。
ドアが開いてマミが顔を出した。
「佐倉さん、いらっしゃい。今日は来てくれたのね。みんな、もう——」
マミの目が杏子の肩の向こうで止まった。
ドアノブを握った指が、白くなっていくのが見えた。
「……如月、さん」
「マミ。……久しぶり」
玲佳の声は、少しかすれていた。
マミの唇が動いて、声にはならなかった。片手で口を覆い、その手で玲佳の腕に触れた。袖の上から確かめるように一度だけ握って、ようやく、長い息を吐いた。
リビングは、一瞬で静かになった。
さっきまで聞こえていたさやかの声が、途切れた。三角のテーブルを囲んでいた顔が一斉にこちらを向いて、そのまま動かなくなった。
最初に立ち上がったのは、さやかだった。
膝がテーブルの角に当たって、カップが一つソーサーの上で跳ねた。紅茶が少しこぼれた。さやかは構わずにまっすぐ玲佳の前まで歩いてきた。
平手が来る、と杏子は思った。
来なかった。
さやかは玲佳の肩を拳で叩いた。一回。それから、もう一回。力は、ほとんど入っていなかった。
「……あんたさ」
さやかの声が、震えていた。
「あたしの手柄、どうしてくれんのよ。あたしが倒したことになってたんだけど。みんなに、そう言っちゃったんだけど。どうすんのよ、これ」
「ごめん」
「ごめんで済むかっての、ばか」
さやかは玲佳の肩に額を押しつけて、泣いた。
玲佳の手が、さやかの背中の上で、行き場を探すように一度浮いた。それから、ぎこちなく背中に下りた。
部屋の奥で、まどかが立ち上がっていた。両手で口を覆って、それでも抑えきれない声が指のあいだから漏れていた。まどかはさやかの背中越しに玲佳の顔をのぞき込んで、ぐしゃぐしゃの顔のまま言った。
「玲佳さん……おかえりなさい」
玲佳が、小さく頷いた。
先を越された、と杏子は思い、すぐに自分で少し呆れた。何の競争をしているのか。それでも胸の奥に小石が一つ落ちたような感じが残った。あの一言は、まだ自分の喉のところで止まったきりなのだ。
杏子はドアの横の壁にもたれて、それを見ていた。
自分がこの一か月にやってきたことを、ここにいる全員がそれぞれのやり方でやってきたのだ。誰も玲佳の名前を口にしなかったのは、口にしたらどこかが崩れそうだったからで、崩れないように全員でそっと床を踏んで歩いてきた。その床の上に、今、玲佳が立っている。
マミが棚の前に立っていた。
ガラス戸を開けてカップを一つ取り出す。白地に、細い金の線が一本入ったカップだった。マミはそれをほんの少しのあいだ両手で持っていた。それから、テーブルに置いた。
五つ並んでいたカップの横に、六つ目が並んだ。
二週間前、マミがそれを出しかけて棚に戻したのを杏子は見ていた。何も言わずに、音も立てずに、戻したのだ。
「座って、如月さん。今、お茶を淹れるから」
マミの声は、いつもどおりだった。いつもどおりにしようとしている声だった。
玲佳が空いた席に座ると、杏子は何も言われないうちにその隣に腰を下ろした。
さやかが、向かいから睨んだ。目の縁が、まだ赤かった。
「なんで杏子がそこなのよ」
「ここ、あたしの特等席だから」
「いつ決まったのよ、そんなの」
「最初から」
さやかは何か言い返そうとして、鼻をすすって、やめた。
マミのケーキは、苺のタルトだった。
杏子は一口目でそれが美味いことを知った。二週間前に一口しか喉を通らなかったものと、たぶん同じ店の苺で、同じ焼き方なのだ。違うのは、隣に誰が座っているかだけだった。
二切れ目を皿に取るとマミが小さく笑った。
「佐倉さん、よく食べるわね」
「前の分」
「前の分?」
「前、残したじゃん。その分」
マミは一瞬、目を見開いた。それから手元のカップに目を落として、そうね、と言った。
ほむらが口を開いたのは二杯目の紅茶が配られてからだった。
「玲佳。一つだけ」
「何?」
「あれは、もう、来ないのね」
何が、と問い返す者はいなかった。
「来ない」
玲佳は、カップを置いた。
「全部、壊した」
ほむらは長いこと玲佳の顔を見ていた。それから、隣のまどかを見た。まどかは泣き腫らした目でほむらを見返して、少しだけ笑った。
ほむらはそれきり口をつぐんだ。膝の上で握りしめた両手が細かく震えていた。何度繰り返しても一度もたどり着けなかった月の、その先の話を、ほむらは今初めて聞いたのかもしれなかった。
いったい、どこにいたのか。
さやかがそれを訊いたのはタルトがなくなる頃だった。
「上級生、どこにいたのよ。一か月も。あたしたち、ずっと——」
「いろいろ」
「いろいろって何よ!」
さやかが身を乗り出した。玲佳はカップの縁を指でなぞった。言葉を探しているのが杏子には見えた。探して、見つからなくて、それでも何か言わなければと思っている。
その指の、薬指の指輪が、窓からの光を受けた。
銀の表面に、一瞬、髪の毛ほどの細い線が走ったように見えた。
杏子は瞬きをした。もう一度見ると、窓枠の影が指輪の上に落ちているだけだった。
「いいんだよ」
杏子は言った。
「いろいろで、いいんだよ。こいつがそう言うんだから」
さやかが、杏子を見た。睨むような目だった。
それから深く、長いため息をついた。
「……杏子が言うなら、まあ、いいけどさ」
さやかは椅子の背にもたれた。
「その代わり、いつか言いなさいよ。上級生」
「……いつか」
玲佳が、こちらを見た。
紅い目と、目が合った。
何か言おうとしたのか、何も言うつもりがなかったのか、それはわからない。ただ、目が合った途端に玲佳の目の端がほどけて、杏子のほうも勝手に頬がゆるんだ。何がおかしいわけでもないのに、二人で少しだけ笑っていた。
「……なに二人で笑ってんの。気持ち悪い」
さやかが言って、まどかが泣きながら吹き出した。
帰り際、玄関で靴を履いているとマミが後ろから声をかけた。
「如月さん」
玲佳が振り返った。
マミはスリッパのつま先をそろえて立っていた。手に、さっきの金の線のカップを持ったままだった。洗おうとして持ってきてしまったらしい。
「来週も、土曜日にお茶会をするの。……次からは、最初から六つ出しておくわ」
玲佳はマミの手の中のカップを見た。それからほんの少しだけ頭を下げた。
「ええ。来る」
マミは笑って、カップを胸の前で両手に包んだ。
ドアが閉まる直前、その目の縁が光ったのを杏子は見なかったことにした。
*
星を見に行こう、と言ったのは、その夜だった。
マミの家から帰って、玲佳が作った雑炊を食べて、皿を洗い終えたあとだった。窓の外は昼間の曇り空が嘘のように晴れていた。
「観覧車で、言ったろ。まだ一つも消えてないって」
「言った」
「確かめに行こうぜ」
玲佳は窓の外を見た。
「ここからでも、見える」
「ここじゃだめなんだよ。川沿いの、前に歩いた道。あそこがいい」
ちゃんと見てほしかったのだ。
この一か月、杏子は毎晩、空を見上げていた。瓦礫の上で、ベランダで、帰り道の途中で。玲佳がいなくなっても、星は一つも減らなかった。それが腹立たしい夜もあったし、それだけが救いの夜もあった。あの空は、玲佳がいない間もずっとそこにあった。そのことを、玲佳に見せたかった。
川へ向かう道は、暗かった。
駅のまわりや役所のある通りにはもう街灯が戻っている。けれど一本裏へ入ると、そこから先は電柱が倒れたまま放ってあった。信号も消えている。窓に明かりのついた家は、ほとんどない。
空だけが、明るかった。
杏子は両手を頭の後ろで組んで半歩先を歩いた。
「すげえな。前より、多くねえか」
「街が暗いから」
「あ、そっか」
足元の瓦礫をつま先で蹴った。ころころとどこかへ転がっていく音がした。
ふと、後ろの気配が遠いことに気づいた。足音はもともとしないのだが、それとは違う気がして、杏子は振り返った。
玲佳が三歩後ろで立ち止まっていた。
「どうした」
「……何でもない」
「何でもないって顔じゃねえだろ」
玲佳の顔は、暗くてよく見えなかった。白い髪だけが星明かりを集めてぼうっと浮かんでいた。右手の指が上着の裾を軽く握っていた。
「暗いところは、あまり」
杏子はまじまじと玲佳を見た。
「あんたが? 魔女の結界ん中で、平気な顔してんのに?」
「結界は、明るい」
「明るいか、あれ」
「明るい」
言われてみれば、そうかもしれなかった。どの結界もどこかしら光っていて、色がうるさい。本当に暗いところで玲佳が戦っているのを、杏子は見たことがなかった。
箪笥の中は、暗かったのだろう。
杏子は頭の後ろで組んでいた手をほどいた。
「……そういや、あたしもさ、暗いのはともかく、お化けはちょっと嫌なんだよな」
「お化け」
「教会の娘が言うことじゃねえけどさ。こんだけ壊れてりゃ、一人や二人いそうじゃん」
「いない」
「わかんねえだろ」
「いない。いたら、私が先に気づく」
真顔だった。杏子は思わず笑った。
「頼もしいな、それ」
「虫のほうが、いや」
「それは知ってる。どっちも暗いとこにいるじゃん。で、どっちが嫌なんだよ」
「虫」
「即答かよ」
玲佳がゆっくりとまた歩き出した。杏子は、その隣に並んだ。今度は半歩先ではなく、ちょうど横に。
暗い道を怖いものの話をしながら歩いた。蛾と、蜂と、名前のわからない羽の生えたもの。誰もいない病院の廊下。夜中に鳴る電話。杏子が適当に並べるたびに、玲佳は、平気、とか、いや、とか、短く答える。いや、のときだけ声がほんの少し硬くなるのが、おかしくてたまらなかった。羽のある虫を三つ続けて挙げたら、玲佳は無言で杏子の脇腹を肘でつついた。
そのとき、顔の前を、何か小さなものが、ぶうん、と横切った。
玲佳の身体が音もなく半歩跳んで、杏子の背中の後ろに回り込んだ。
杏子は目の前の暗がりを手で払った。何に当たったのかもわからなかった。羽音はもうどこかへ消えていた。
「……今の、何」
「知らねえよ。カナブンかなんかじゃねえの」
「羽、あった」
「そりゃ飛んでたんだから、あるだろ」
背中の後ろで玲佳が息を詰めているのがわかった。
ワルプルギスの夜に一人で跳んでいったやつが、カナブン一匹で人の背中に隠れている。杏子はこらえきれずに肩を震わせた。
「笑わないで」
「無理だろ、これは」
壊れた歩道橋の下をくぐったところで話が途切れた。
杏子は自分の足元を見ながら言った。
「……あたしさ、本当に怖いのは、別のやつなんだよ」
「何?」
「あの日、瓦礫の上で、祈ったんだ」
言葉にした途端、夜の空気が少し重くなった気がした。
「もう一回だけ、会わせてくれって。命ならやるって、幸せなんか全部持ってけって。そしたら、その日にあんたがいた」
玲佳の足が止まりかけて、また動いた。
「前に祈ったときはさ、叶ったんだよ。ちゃんと。それで、全部なくした」
親父の教会に、人が来た。来すぎるほど来た。それが全部杏子の魔法のせいだとばれて、親父は母さんと妹を連れていった。叶ったぶんだけ、きっちり持っていかれたのだ。
だから、怖かった。
玲佳が帰ってきたのが、あの祈りのせいだったら。今度は、何を持っていかれるのか。持っていかれるのが自分なら、まだいい。もし、それが——
「違う」
玲佳の声が、暗がりを切った。
「杏子の祈りで、帰ってきたんじゃない」
「……なんで、わかんだよ」
「私が、帰りたかったから」
玲佳はまっすぐ前を見ていた。
「帰りたくて、帰ってきた。誰にも、頼んでない。だから、誰も、何も持っていかない」
言い切る声だった。
本当かどうか、杏子にはわからない。玲佳にも、本当はわからないのかもしれない。それでも、こいつが言い切るのなら、そうなのだろうと思えた。玲佳はこういうことで嘘をつかない。ごまかすときは、もっと下手くそに、目を逸らすのだ。
杏子は、長く息を吐いた。
「……あとさ、もう一個」
「何?」
「朝起きたら、あんたがいねえこと」
玲佳の返事は、なかった。
そのかわりに隣で、上着の裾から指が離れる気配がした。
「ほら」
杏子は照れ隠しに乱暴に手を差し出した。
「暗いの怖いんだろ。繋いでやるよ」
からかうつもりだった。玲佳はきっと、いらない、と言って、さっさと先に行ってしまう。そう思っていた。
玲佳は杏子の手を取ると、迷いなく指を絡めて、強く握った。
杏子のほうが、慌てた。
「お、おい」
「怖いから」
「……そうかよ」
玲佳の手は、冷たくて細くて、握る力だけがやけに強かった。初めて会った夜、ホテルの部屋で掴んだ手首と同じ強さだった気がする。あのときは、杏子のほうが掴んだのだ。部屋を出ていこうとした玲佳の手首を。
今は、玲佳のほうが離そうとしなかった。
絡めた指のあいだで、杏子の手首の星が玲佳の手首に当たって、こつん、と小さく鳴った。
*
川沿いの道は、半分崩れていた。
土手の上のアスファルトがところどころ川のほうへ削り取られて、柵ごとなくなっている。雨で水かさを増した川が、黒い帯になって流れている。その川面に、星が映っていた。流れに揺れてちぎれては、またつながる。
二人は崩れていないところを選んで、土手の草の上に腰を下ろした。
手は、繋いだままだった。どちらも、離そうとは言わなかった。
見上げると、空いっぱいに星があった。
前に見たときより、ずっと多かった。天の川は、うっすら見えるどころではなく、白い煙の帯になって頭の上をまっすぐ流れている。その両側に数えきれない光が砂をまいたように散らばっていた。小さいのも、大きいのも、青いのも、少し赤いのも。街の灯りがないぶん、どれも手を伸ばせば届きそうなほどくっきりしている。
湿った草の匂いが川のほうから上がってきた。
「……一つも、消えてない」
玲佳が言った。
「だろ」
杏子は空を見たまま答えた。
「あたし、毎晩見てたもん。あんたがいない間。一個も減んなかったよ。ムカつくくらい」
隣で、玲佳がこちらを向いた気配がした。
杏子は空から目を離さなかった。隣を見たら、また泣いてしまいそうだった。
「あんたさ、あたしの靴、拭いたろ」
「……ええ」
「あの空き地のさ。足跡が多いって、あれ、なんだったんだよ」
玲佳は、少し間を置いた。
「靴の底が、減ってた。一か月前は、減ってなかった」
「……ああ」
杏子は膝の上に顎を乗せた。
隠すようなことでもなかった。隠したところでこいつはもう靴の底から読んでしまっている。
「瓦礫、蹴ってたんだよ。毎日」
声に出すと思っていたよりも間の抜けた話に聞こえた。
「街じゅう歩いて、そのへんの瓦礫、片っぱしから蹴っ飛ばしてさ。下に、あんたがいねえかって。いるわけねえってわかってんのに、やめらんなくて。……ばかみてえだろ」
玲佳からは、言葉は返ってこなかった。
繋いだ手の中で、細い指に、ぎゅっと力がこもった。それだけだった。
それで十分だと、今度は本当に思えた。
「なあ、玲佳」
「何?」
「観覧車で、約束したじゃん。全部出せって。一人でじゃなくて、あたしのいるところでって」
「……ええ」
「あたし、寝てたんだよな」
言ってしまうと、胸の奥の、ずっと引っかかっていたところが、ぎしりと鳴った。
「あんたが全部出したとき、あたしは瓦礫の上で寝てた。さやかのマント敷いて、のんきにさ。目ぇ覚ましたら、手首にこれがついてて、あんたはどこにもいなかった」
杏子は繋いでいないほうの手で、手首の星に触れた。
「あたしのいるところで、って言ったのに。いたのに、いなかったんだよ、あたし」
玲佳はすぐには答えなかった。
川の音がする。どこか遠くで犬が一度だけ吠えた。
「杏子は、いた」
玲佳の声は、静かだった。
「さやかが来る前。私は、杏子の上に倒れてた。杏子の心臓の音が、ずっと、胸の下で聞こえてた。最後まで。それだけ、聞いてた」
杏子は、玲佳を見た。
初めて聞く話だった。さやかからは玲佳が覆いかぶさっていたとしか聞いていない。腹から下を、失くしたままで。そこで玲佳が何を聞いていたのかは誰も知らなかった。
「最後に、あれの真ん中に行ったときも。ありがとう、って思った。杏子に」
玲佳は、空を見上げていた。
「だから、杏子のいないところでは、なかった。……私は、そう思ってる」
杏子は何か言おうとして、言えなかった。
口を開くと息だけがふるえて漏れた。
ずるいだろ、それは、と思う。そんなことを言われたら、何も言い返せないではないか。寝ていた自分の心臓の音を、こいつは最後まで聞いていた。こっちは、こいつの最後の顔を、一つも見ていないのに。
「……そういうことじゃ、ねえんだよ」
やっと出た声は、ひどくかすれていた。
「あたしはさ、起きてたかったんだよ。あんたが死にそうなときも、泣いてるときも、笑ってるときも。いちばん近くで、あんたと同じように、息してたかったんだよ。寝てるんじゃなくて」
手を握る力が、勝手に強くなった。
「手、貸せとか言わねえよ。あんたが転んだって、あたしが起こすより先に、自分で立つだろ。優しいこと言ってくれとも言わねえ。あんたにそんなの期待してねえし」
「……ひどい」
「ひどくねえよ。事実だろ」
玲佳が、少しだけ笑った。暗くて顔は見えないのに、それがわかった。
「だから、さ。……一緒に行けるって、思っててくれよ。どこまででも。一人で、一歩で跳んでくんじゃなくて。あたしが隣にいて、一緒に行けるんだって。それだけ、信じててくれりゃいい」
言い終わってから顔が燃えるように熱くなった。
何を言っているのだろう。こんなことを誰かに言ったことはなかった。言うつもりも、なかったはずなのだ。
玲佳の返事は、すぐには来なかった。
繋いだ手の中で、玲佳の指が杏子の指を一本ずつ確かめるように動いた。
「次は」
「ん」
「次は、杏子を起こしてから行く」
杏子はぽかんと口を開けた。
それから、吹き出した。
「そういうことじゃ、……いや、そういうことか?」
「そういうこと」
「起こしてどうすんだよ」
「一緒に、行く」
当たり前のことのように、玲佳は言った。
杏子は笑いながら空いたほうの手で目元をこすった。笑っているのに、涙が出る。どっちが先に出たのかは、もうわからなかった。
こいつは、本当にそうするのだろう。次に何かあったとき、真夜中でも明け方でも、杏子の肩を揺すって、行く、と言う。それで、杏子が起きるのをちゃんと待つ。あの朝の廊下で、毛布をかけてしゃがんで待っていたように。テーブルの上に、パン、と書いた紙を置いていったように。
二人で、空を見ていた。
流れ星が一つ、天の川を斜めに横切って消えた。どちらも、願い事は口にしなかった。そういうものに頼るのは二人とももう懲りていた。
「玲佳」
「何?」
「帰りたかった、って言ったじゃん」
「言った」
「なんで」
玲佳は、少し考えた。
「杏子が、明日はあるって言った」
観覧車のてっぺんで、橙色の光の中で。もし、と言いかけた玲佳を遮って、杏子はそう言ったのだ。
「明後日の後にも、明日はあるって。だったら、明日に、行かないといけない」
「……それだけ?」
「それと、料理。まだ、作ってなかった」
杏子は今度こそ声を上げて笑った。
笑い声が、暗い川面に転がっていった。
「結局、料理かよ」
「約束、してた」
「カレーのために帰ってくるやつがあるかよ」
「ある」
玲佳は真顔だった。たぶん、真顔だった。
「じゃあ、次は何作んだよ。カレーはもう作ったろ」
「考えてる」
「いつから」
「ずっと」
ずっと、というのがいつからなのか。杏子はそれを確かめるのはやめにした。
玲佳は空を見上げたまま、指を一本ずつ折っていった。
「明日の朝は、パンと、卵。卵は、杏子が焼くと焦がすから、私が焼く。昼は、雑炊の残り。夜は、まだ決めてない。杏子が、決めて」
「……そんだけ?」
「そう」
「もっと、こう、ないのかよ。世界を救うとかさ」
「もう、した」
玲佳は当たり前のことのように言った。
「あとは、明日の夜ご飯を決めるだけ」
杏子は、言葉に詰まった。
こいつが、一人で、誰も追いつけないところまで跳んでいって、全部出して、それでも戻ってきて、たどり着いた先がそれなのだ。パンと、卵と、雑炊の残りと、まだ決まっていない晩飯。
なんだよ、それ、と言おうとした。声にならなかった。代わりに、腹の底から笑いがこみ上げてきて、止まらなくなった。
杏子は笑いすぎて、腹が痛くなった。草の上に仰向けにひっくり返ると、繋いだ手に引かれて玲佳の身体も少し傾いた。
頭の上に、星があった。
視界の端から端まで、ぜんぶ星だった。
夢みたいだ、と思って、すぐに違うと思い直した。夢なら、この手はこんなに冷たくない。こんなに強く握り返してこない。
仰向けのまま、杏子は初めて会った夜のことを思い出していた。
魔女の結界の真ん中で、死ぬ気で膝をついていた白い髪の子を、杏子は見つけた。あの夜、見つけたのは自分のほうだと、ずっと思っていた。
本当は、どうだったのだろう。
帰る家なんかない、と言った杏子に、玲佳はホテルの部屋を取った。ふかふかのベッドで寝かせてくれた。泣きながら杏子の服の胸元を握りしめて、杏子、と名前を呼んだ。あの夜、一緒に背負ってやる、と口が勝手に動いたのだ。誰かのために何かを言ったのは、家族をなくしてから初めてだった。
空いている部屋を見つけては適当に寝ていた子どもを、見つけてくれたのは、玲佳のほうではなかったか。
見つけて、見つけられたのだ。たぶん、同じ夜に。
「……玲佳」
「何?」
杏子は、身体を起こした。
玲佳の顔を見た。暗がりに慣れた目に、星明かりの中の白い顔がぼんやりと浮かんでいる。
ずっと、喉のところで止まっていた言葉だった。
「おかえり」
玲佳の目が少しだけ見開かれた。
繋いだ手が、ぴくりと動いた。
「……あの日、言いそびれたんだよ。あたしがただいまって言って、あんたがおかえりって言って。逆だろ、普通。帰ってきたの、あんたなのに」
玲佳は、何度か瞬きをした。
それから、小さく言った。
「……ただいま」
その声が、少し震えていた。
杏子は繋いだ手に、もう片方の手を重ねた。
「あとさ。あんた、あのとき、笑っただろ。おかえりって言ったとき」
「……覚えてない」
「あたしは覚えてる」
杏子は、玲佳の目を見た。
今言わなければ、また言いそびれる。
「今まで見たもんの中で、いちばん綺麗だった。あの顔」
玲佳は、動かなかった。
星明かりでもわかるくらい、白い頬に、じわりと色がのぼっていった。
「あんたさ、最初の夜、自分のこと卑怯者だって言ったろ。私さえいなければ、とか」
「……言った」
「あれからずっと、あんた、自分なんかいなくていいみたいな顔してんだよ。最後の日だって、そうだったんだろ。カード渡して、さやかに嘘つかせて、一人で跳んでって」
玲佳は、目を伏せた。
「だからさ、言っとく」
杏子は重ねた手に力をこめた。冷たかった指が、杏子の掌の中で、少しずつ温かくなっていた。
「あんたは、ここにいんだよ。あたしの隣に。カレー作って、水たまりでぴちゃってやって、虫が嫌いで、暗いのが怖くて。そういうあんたが、ちゃんと、ここにいる。……あたしが、見てる」
川の音がした。
玲佳は、返事のかわりに、繋いだ手をゆっくりと持ち上げた。杏子の手首の、角の欠けた星のところまで。それから、その星に、自分の額を当てた。
白い髪が、杏子の膝の上にこぼれた。
「……ええ」
くぐもった声だった。
「いる」
杏子は、空いた手で、その白い髪を撫でた。
絹みたいだ、と、初めて会った夜にも思った。指の間を、引っかかりもせずに滑っていく。何度か撫でているうちに、玲佳の肩の震えが、少しずつおさまっていった。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
玲佳が顔を上げたとき、その目は濡れていて、それでも少しだけ笑っていた。
杏子は上着のポケットに手を入れた。
スーパーで、玲佳の籠の底にこっそり押し込んでおいた箱があった。細長い箱を開けて、一本抜いて、口にくわえる。チョコレートのかかった、プレッツェルだった。
それから、箱ごと、玲佳のほうへ差し出した。
「食うかい?」
玲佳は、箱を見た。杏子の顔を見た。
それから、一本、抜き取った。
「……ありがとう、杏子」
あの夜は、さっきはどうも、だったのだ。
杏子は、にやりと笑った。
そうだった。こうやって、始まったのだ。