魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜   作:LongLong

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番外編
番外編1 さやかの告白


番外編 さやかの告白

 

 十日は、とうに過ぎていた。

 駅前の喫茶店で仁美に、額がテーブルにつきそうなほど頭を下げた日から数えれば、もう三週間と少しになる。そのあいだに見滝原は半分ほどが瓦礫になり、通っていた中学校は、体育館の壁を何枚か残して崩れ落ちた。二年生の授業は、隣町の風見野の中学校から空き教室を借りて、午前中だけ開かれている。

 借り物の教室というのは、どうにも尻が落ち着かないものらしい。

 黒板の隅には、知らない生徒の書いた日直の名前が消し忘れてある。さやかの机の天板には、知らない誰かがコンパスの針で彫った相合い傘があって、傘の下に、知らない男子と知らない女子の名前が並んでいる。三時間目の数学のあいだ、さやかはずっと、この二人はその後どうなったのかを考えていた。答えが黒板に書いてあるわけでもないのに。

 

 四時間目の終わりのチャイムが鳴ると、教室はいっぺんに騒がしくなった。

 午後の授業がない代わりに、昼までに帰らなければならない子が多い。家の片づけがある子、仮の住まいへ戻る子、親の職場へ弁当を届けに行く子。みんな鞄を引っつかんで、それぞれの方角へ散っていく。まどかは今日も家の片づけを手伝うとかで、チャイムが鳴り終わる前に手を振って出ていった。ほむらの席は、気がつけばもう空いている。

 仁美は窓際の席で、鞄に教科書をしまっていた。

 一冊ずつ、角を揃えて。いつもの手つき。避難所の体育館で何日も寝起きしたはずなのに、仁美の髪には今日もきちんと櫛が通っていて、ブラウスの襟も白かった。お嬢様というのは、街が半分なくなっても、襟だけは白いままでいられるものなのかもしれない。

 さやかは、その机の前に立った。

 

「仁美」

「はい」

 

 仁美は、手を止めずに返事をした。

 それから顔を上げてさやかを見ると、教科書を持った手が、鞄の口の上で止まった。

 

「……決心は、つきましたの?」

 

 あの喫茶店で訊かれたのと、同じ言葉だった。

 

「うん。待たせて、ごめん」

「十日とおっしゃいましたのに」

「ほんっと、ごめん」

「冗談ですわ」

 

 仁美は、口元に指を添えて笑った。

 

「あれだけのことがあったんですもの。十日で済むほうが、おかしいですわ」

 

 あれだけのこと。

 仁美にとってのそれは、空から降ってきた嵐と、崩れた街と、避難所で過ごした何日かのことだろう。体育館の窓の外にそびえた氷の壁も、もしかしたら目にしたのかもしれない。そうして周りの大人たちと同じように、神様だとか天罰だとか、そういう言葉で片づけたのかもしれない。

 十日のあいだに、本当は何があったのか。仁美は、一度もそれを訊いてこなかった。

 

「今日、言ってくる」

「今日、ですの」

「今日。病院の面会、午後からだから」

 

 仁美は最後の一冊を鞄に入れて、留め金をぱちんと閉めた。

 

「わかりましたわ。わたくしは、その後で」

「いいの? あたしが先で」

「約束ですもの」

 

 二人で廊下に出ると、掲示板の前に、小さな人だかりができていた。

 画鋲で留められた紙が一枚。見滝原中学校、在校生の安否確認について。まだ連絡の取れない生徒の名前が、学年ごとに並んでいる。最初の週には三枚あった紙が、先週には一枚になり、今日はその一枚の下半分が白く空いている。

 三年の欄には、名前が一つだけ残っていた。

 

 三年 如月玲佳

 

「如月先輩、まだ見つからないそうですわね」

 

 隣で、仁美が言った。

 

「お話ししたことはありませんけれど、廊下ですれ違うと、皆さん振り返ってましたわ。あの髪ですもの。……ご家族の方も、ご心配でしょうね」

 

 ご家族、と聞いて、さやかの頭に浮かんだのは、瓦礫の上に座り込んでいる赤い髪の背中だった。左の手首に、紺色のゴムと、角の欠けた銀の星。

 見つからない、のではなかった。

 あの人は、自分で歩いていったのだ。雨の向こうで回る歯車のほうへ。杏子を、お願い、とだけ言って。さやかの両手に、銀行のカードと、一つの嘘を預けて。

 

「……さやかさん?」

「あ、ごめん。なんでもない」

 

 さやかは、紙から目を引き剥がした。

 

「じゃ、行ってくる!」

 

 仁美の返事を待たずに、階段を駆け下りた。よその学校の階段は、一段ごとの高さが見滝原のより少し低くて、三段目で、危うく踏み外しかけた。

 

*

 

 屋上へ上がるエレベーターで、顔なじみの看護師さんと乗り合わせた。

 看護師さんは、車椅子の取っ手を握るさやかと、膝にヴァイオリンのケースを抱えた恭介を見比べて、あら、と目を細めた。

 

「上条くん、今日は彼女とデート?」

「幼なじみです」

 

 恭介は、間を置かずに答えた。楽譜の音符を一つ読むのと同じくらいの速さだった。

 看護師さんは、あらそう、と笑って三階で降りていった。扉が閉まって、エレベーターがまた上がりはじめる。階数の数字が一つ増えるたびに、さやかは取っ手を握り直していた。

 

*

 

 見滝原総合病院の屋上には、白いシーツがずらりと干されている。

 風が吹くたびに、何十枚ものシーツが一斉に膨らんで、ぱたぱたと鳴る。その白い列のあいだを、さやかは車椅子を押して抜けていった。

 

「屋上なんて、久しぶりだな」

 

 車椅子の上で、恭介が言った。

 膝の上には、ヴァイオリンのケースが載っている。病室を出るとき、置いていけばいいのにと言ったら、手元にないと落ち着かないんだ、と返された。そういうところは、昔からちっとも変わらない。

 フェンスの手前で、さやかは車椅子を止めた。

 病院は、街の真ん中の少し小高いところに建っている。ここからだと、見滝原がよく見えた。見えすぎるくらいに。

 途中から折れたビル。屋根の代わりに青いビニールシートをかぶった家々。瓦礫の山のあいだを、黄色い重機がのろのろと動いている。三週間前まで、ここから見下ろす景色は、もっと高くて、もっと四角くて、もっとぴかぴかしていたはずだった。

 その灰色の真ん中に、一つだけ、傷のない屋根がある。

 避難所になった、市民体育館の屋根。

 

「あそこ、だったよね」

 

 恭介が、その屋根を指さした。

 

「僕も、あそこにいたんだ。病院の患者で、動かせる人は、みんな移されて」

「……そうだったんだ」

「さやかは、どこにいたの? あの夜」

「あたし? あたしは、あっちのほう。別のとこ」

 

 さやかは、適当な方角に手を振った。

 嘘が上手くなった、と自分では思う。本当のところは、怪しいものだ。杏子あたりなら、手を振った方角が三回変わったところで、とっくに見抜いているだろう。

 

「先週から、平行棒のあいだを歩く練習を始めたんだ」

 

 恭介は、自分の膝をぽんと叩いた。

 

「今は十歩。来月には、杖で廊下を往復できるようになるって」

「すごいね! 十歩って、あたしの家の廊下くらい?」

「さやかの家の廊下は、もっと短いよ」

「失礼な」

 

 恭介が笑った。

 入院してから、恭介はあまり笑わなくなっていた。CDプレーヤーに自分の手を叩きつけたあの夕方には、笑い方そのものを忘れてしまったように見えた。それが、手が動くようになってから少しずつ戻ってきて、今は、こうしてさやかの軽口に、子どもの頃と同じ顔で笑う。

 車椅子の握りを掴んださやかの左手の、中指に嵌まった指輪に、恭介はたぶん、一度も気づいていない。

 

「病室でもね、少しずつ弾いてるんだ。父さんがケースごと持ってきてくれて。リハビリ室を借りて、一日三十分だけ」

「看護師さんに怒られない?」

「最初は怒られた。今は、聴きに来る人がいる」

「へえ」

「入院してるおじいさんが、毎日来るんだ。いつも同じ曲をリクエストしてくる。たぶん、ほかの曲は知らないんだと思う」

 

 恭介はケースの上で、指を動かした。弦のない場所で、弦を押さえる形に。

 その指の動きを、さやかは目で追っていた。小学校の発表会で、袖の暗がりから見ていたのと同じ動きだった。あのときは、指がこんなに長くなかった。今は、ケースの蓋の端から端まで、すうっと届いてしまう。

 

 風が止んで、シーツが一斉にしぼんだ。

 急に、屋上が静かになった。

 今しかない、と思った。

 明日がちゃんと来るなんて、誰も約束してくれない。さやかはこの三週間で、それを嫌というほど知った。

 

「恭介」

「うん?」

「あたしさ」

 

 声が、思ったより小さかった。

 さやかは、一度、大きく息を吸った。

 

「あたし、恭介のことが好き」

 

 恭介が、さやかを見上げた。

 

「幼なじみとか、そういうのじゃなくて。そういう、好き。ずっと前から」

 

 恭介の手が、膝の上のケースの留め金に触れて、止まった。

 細くて長い指だった。弦を押さえるための指。一度は、二度と動かないと言われた指。その指が、留め金を一度だけ、かちりと鳴らした。

 

「さやかは」

 

 恭介は、少しだけ目を伏せた。

 

「さやかは、僕の大事な人だけど」

 

 だけど。

 その先を聞く前に、わかってしまった。わかってしまう程度には、さやかは、恭介のことを長く見てきた。

 

「……ごめん。そういうふうに、考えたことがなかったんだ。一度も」

 

 また風が吹いた。

 シーツが膨らんで、さやかの背中を、ばさりと叩いた。

 

「あはは」

 

 笑い声が、出た。自分でも驚くくらい、大きな声だった。

 

「だよねー! 知ってた知ってた。言ってみただけ。恭介、あたしのこと女だと思ってないもんね」

「そんなことは……」

「あるでしょ。小学校のプールで、あたしの水着見て、なんて言ったか覚えてる?」

「……覚えてない」

「日焼けしすぎて、茄子みたいだって」

「言ってないよ、そんなこと」

「言いましたー。あたしは覚えてますー」

 

 恭介は、困ったように笑った。

 その笑い方が、さっきとは違っていた。子どもの頃の顔ではなくて、病室で看護師さんに向けるときの顔だった。気を遣われている。さやかは、それに気づかないふりをして、シーツの列の端に目をやった。洗濯ばさみが一つ、外れかけて、風のたびにぶらぶら揺れている。

 

「さやか。一つ、訊いてもいいかい」

「なに? まだ何かあるわけ?」

「あの日のこと」

 

 恭介は、自分の両手を見下ろした。

 

「僕が、CDプレーヤーを壊した日。さやか、言ったよね。奇跡も、魔法も、あるって」

 

 覚えていたのか、とさやかは思った。

 あんなに取り乱して、泣いて、シーツに血を散らしていたのに。

 

「次の朝、指が動いたんだ。先生たちは、説明がつかないって首をひねってた。僕も、わけがわからなかった。わけがわからないけど、動くんだからそれでいいやって、思うことにしてた」

 

 恭介の視線が、フェンスの向こうの、あの屋根へ移った。

 

「でも、あの夜。体育館の窓から、氷の壁が見えたんだ。屋根より高い、分厚い壁が、どこからともなく地面から生えてきて、僕たちを丸ごと囲ったのを。周りの人は、神様だとか、天罰だとか言ってた。床に座って、拝んでるおばあさんもいた」

 

 知っている。

 あの壁を誰が建てたのか、さやかは知っていた。建てた人が、今どこにいるのかは、知らなかった。

 

「僕は、さやかの言葉を思い出したんだ。奇跡も、魔法も、あるって」

 

 恭介が、さやかのほうへ向き直った。

 まっすぐな目だった。ヴァイオリンを構えるときと、同じ目。

 

「僕の手は、さやかが、何かしてくれたの?」

 

 屋上の音が、遠くなった。

 シーツの鳴る音も、重機の唸りも、どこかへ引いていった。

 言えば、いい。口を開けば、それで済む。あの夜、建設中のビルの陰でサーベルを振り回していたさやかなら、きっと迷わずに言っていた。

 

「もし、そうなんだとしたら」

 

 恭介の手が、膝の上で、ぎゅっと握られた。

 

「僕は、さやかに——」

 

 その手を見て、さやかにはわかった。

 何かを、返そうとしている手だった。受け取ったものの重さを量って、同じ重さのものを、自分の中から探しはじめている手。さっき、一度も、と言ったその口で、恭介が次に何を言おうとしているのか。

 

「そうだよ」

 

 さやかは、恭介の言葉の上に、自分の声をかぶせた。

 胸を張って、顎を上げた。片目をつぶって、左手でピースまで作ってみせた。

 

「さやかちゃんが、魔法で治してあげたの。だから、一生感謝しなさいよね」

 

 立てた中指の根もとで、指輪が、曇り空の光を拾って小さく光った。

 

 恭介は、ぽかんと口を開けた。

 それから、肩を揺らして吹き出した。

 

「……なんだよ、それ」

「なによ。信じないわけ?」

 

 恭介は、笑いながら首を振った。

 信じないという意味なのか、まいったという意味なのか、その振り方からは読みとれない。

 

「信じるよ」

 

 笑いの残った声で、恭介は言った。

 本当に信じたのか、冗談に付き合ってくれたのか。どちらとも、見分けがつかなかった。見分けがつかないように言ったのだから、当たり前だった。

 

「じゃあ、一生感謝する」

 

 恭介の手が伸びてきて、ピースをしていたさやかの左手を、そっと包んだ。

 弦を押さえるための、細い指だった。温かかった。

 

「ありがとう、さやか」

 

 さやかは、包まれた手を引っこめなかった。そうしたら、何かが指のあいだから零れてしまいそうだった。

 

「……よろしい」

 

 それだけ言って、さやかはもう一度、顎を上げてみせた。

 

 病室まで車椅子を押して戻り、ベッドに移るのを手伝って、またね、と手を振った。

 エレベーターの扉が閉まると、さやかは左手を目の前に持ち上げた。

 握られたのは手のほうだったのに、熱がいつまでも引かないのは、中指の指輪のほうだった。

 

*

 

「振られた」

 

 翌朝、借り物の教室で、さやかは仁美の机に両手をついて言った。

 仁美のシャープペンが、ノートの上でぴたりと止まった。

 

「……え」

「大事な人だけど、そういうふうに考えたことがない、だって。一度も、だよ? 十年以上一緒にいて、一度も。逆にすごくない? ある意味、才能だよね」

「さやかさん」

「あ、泣いてないよ。昨日の夜、ちょっとだけ枕に八つ当たりしたけど。羽毛の枕だったから、羽根が出てきて大変だった」

 

 嘘ではない。今朝、母親に、部屋に鳥でも飼い始めたのかと訊かれた。

 仁美は、さやかの顔を下から覗き込んだ。それから、シャープペンを置いて、膝の上で両手を握った。

 

「上条君、それはあんまりですわ」

「いいの、いいの。本当のことなんだから」

「本当のことでも、言い方というものが」

「恭介に言い方なんて期待しちゃだめだって。あいつ、譜面の読み方以外は、たいてい間違えるんだから」

 

 軽く言うと、仁美は唇を噛んで、窓のほうへ目を逸らした。

 朝の光が、仁美の横顔に当たっている。何かを決めかねている顔だった。

 

「……わたくし、今日は、やめておきますわ」

「は?」

「さやかさんが振られた次の日に、わたくしが、のこのこと病院へ行くなんて。そんなの、まるで火事場泥棒ですわ」

「泥棒って」

 

 さやかは、思わず吹き出した。

 

「恭介は、盗まれるほど高いもんじゃないから。安心して」

「そういうことではありませんの!」

 

 仁美が机を叩いた。音が、思ったより大きく響いて、前の席の男子が振り返った。仁美は咳払いを一つして、声を落とした。

 

「さやかさんのお気持ちを考えたら、とても」

「仁美」

 

 さやかは、仁美の机の上の、閉じたノートに指を置いた。

 

「あたしが十日待たせたんだよ。仁美、すっごい勇気出して、先に言ってくれたのに。それで、ここで仁美が言わなかったら、あたし、何のためにあんなに頭下げたのか、わかんなくなっちゃうでしょ」

 

 仁美は、さやかの指を見ていた。それから、さやかの顔を見た。

 

「……行っておいでよ。仁美の番」

 

 仁美の肩が、小さく上下した。

 長い睫毛が、一度だけ伏せられて、また上がった。

 

「わかりましたわ」

 

 その返事を聞いたとき、さやかの手の中で、シャープペンの芯がぽきりと折れた。

 いつの間に握っていたのか、自分でも覚えていなかった。折れた芯の先が、机の相合い傘の、ちょうど傘の柄のところに転がった。

 

「その代わり、と言ってはなんですけれど」

 

 仁美は、膝の上で指を組み直した。

 

「終わったら、お会いしていただけます? ひとりで帰れる自信が、ありませんの」

「いいよ。病院の前のバス停で待ってる」

「振られる前提ですのね」

「あ、いや、そういう意味じゃなくて」

「わかってますわ」

 

 仁美は、少しだけ笑った。

 その膝の上で、指が白くなるほど固く組まれている。勇気というものの量を比べることができるなら、たぶん仁美のほうが、さやかよりずっと多い。十日待たされて、昨日の結末を聞かされて、それでも今日行くと言えるのだから。

 

*

 

 病院前のバス停のベンチで、さやかは缶のオレンジジュースを三本空けた。

 一本目は、仁美が正面玄関に吸い込まれていくのを見送りながら。二本目は、一本目とまったく同じ味がするのを確かめながら。三本目は、もう味なんかどうでもよくて、何もすることのない手に、何かを持たせておきたかっただけだった。

 時刻表によれば、ここのバスは十五分に一本来るらしい。そのあいだにバスが四台来て、四台とも、乗らないさやかを置いて走り去っていった。四台目の運転手など、さすがに不審そうな顔でこちらを見ていたではないか。

 自動ドアが開いて、仁美が出てきた。

 背筋が、まっすぐ伸びていた。歩幅も、乱れていなかった。鞄を両手で前に提げて、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。

 その歩き方で、さやかには、もうわかった。

 昨日の自分も、たぶん、ああいう歩き方で病院を出たのだ。誰にも何も悟らせまいとして、かえって、全身で白状してしまうような歩き方で。

 仁美は、さやかの隣に腰を下ろした。

 鞄を膝に置いて、その上に両手を重ねた。

 

「振られてしまいましたわ」

 

 きれいな声だった。国語の時間に、仁美が教科書の詩を朗読したときと同じ声。

 

「今は、ヴァイオリンのことしか考えられない、と。それに、志筑さんのことを、僕はまだほとんど知らないから、と」

「……そっか」

「とても丁寧に、断ってくださいましたわ。丁寧すぎて、言い返す隙もありませんでしたの。お持ちしたお花は、ちゃんと受け取ってくださいましたけれど」

「お花?」

「紫陽花ですわ。うちの庭に咲いていたのを、今朝、切ってまいりましたの。……花瓶がないからって、看護師さんがペットボトルを切って、活けてくださいましたわ」

 

 ペットボトルに活けられた紫陽花を、さやかは思い浮かべた。恭介のことだから、それが誰の家の庭から来たのかも、たぶん明日には忘れている。

 

 仁美はそう言って、膝の上の鞄の留め金を、指でなぞった。開けるでもなく、閉めるでもなく、ただ、なぞった。

 

「上条君、ずいぶん、お痩せになりましたわね」

「うん」

「わたくし、お見舞いに伺ったの、今日が初めてでしたの。……おかしいですわね。好きだと言いに行ったのが、初めてのお見舞いだなんて」

「おかしくないよ」

「おかしいですわ。さやかさんは、毎日のように通ってらしたのに」

 

 五台目のバスが、停留所に滑り込んできた。扉が開いて、誰も降りず、誰も乗らずに、また閉まった。

 走り去るバスの音が消えてから、さやかは言った。

 

「仁美」

「はい」

「がんばったね」

 

 仁美の唇が、一度だけ、震えた。

 仁美は鞄から、レースの縁取りのついたハンカチを取り出した。それを膝の上で丁寧に広げて、角と角を合わせて三角に折り、もう一度折って、それから目元に当てた。

 泣くときまで、きちんとしている。

 さやかは笑いそうになって、笑ったら、たぶん自分も一緒に崩れる気がして、空き缶を握りしめた。アルミが、手の中でぺこりとへこんだ。

 

「……よし」

 

 さやかは立ち上がって、へこんだ缶をごみ箱へ放った。

 外れた。

 拾って、入れ直した。

 

「慰め会、しよう」

「なぐさめ、かい……?」

「振られた者どうしの。ぱーっと。風見野の駅前のファミレス、まだやってるから」

「わたくし、今日はお琴のお稽古が」

「今日だけ。ね」

 

 仁美はハンカチを目元から外して、さやかを見上げた。目の縁が赤かった。それから、鞄の中から携帯電話を取り出して、どこかへかけた。

 

「もしもし、わたくしです。今日のお稽古、お休みさせていただけますか。……ええ、さやかさんと。……なぐさめかい、ですの」

 

 電話の向こうで、相手がなんと言ったのかは聞こえなかった。仁美は携帯電話を耳から少し離して、それから、そっと電話を切った。

 

*

 

 風見野の駅前のファミレスは、平日の夕方だというのに、ほとんど満席だった。

 見滝原から流れてきた人たちだろう。作業着の男の人たちが、大盛りのハンバーグを黙々と口に運んでいる。隅のテーブルでは、小さな子どもを二人連れた母親が、壁のテレビをぼんやり見上げている。

 窓際の二人席に通されると、仁美はメニューを両手で開いて、端の小さな文字を指でなぞった。

 

「ドリンクバー、というのは」

「うん」

「飲み物を、自分で取りに行くんですの?」

「そう。何杯でも飲み放題」

「何杯でも……」

「仁美、もしかして、ドリンクバー初めて?」

「お恥ずかしながら」

 

 志筑家の娘は、どうやら、自分で飲み物を注いだことがないらしい。

 さやかは仁美の手を引いて、ドリンクバーの機械の前まで連れていった。グラスの取り方から、氷の入れ方、ボタンの押し方まで、一つずつ教えた。仁美は、新しい楽器の弾き方を習うような真剣な顔で、いちいち頷く。たかがジュースである。

 

「で、ここからが慰め会の本番」

 

 さやかは、自分のグラスにメロンソーダを三分の一入れた。そこへオレンジジュースを足し、最後にカルピスを注いだ。グラスの中で、緑と橙と白が、どれにも決まらない色に濁っていく。

 

「さやかさん、それは」

「全部混ぜると、失恋の味になるの」

「……本当ですの?」

「本当。さやかちゃん調べ」

 

 仁美は少し迷ってから、同じ順番で、同じように混ぜた。席に戻って、二人で同時に一口飲んだ。

 仁美の眉が、きゅっと寄った。

 

「……これが、失恋の味ですの」

「そう。甘くて、ちょっと酸っぱくて、色が汚い」

「確かに、色は最悪ですわね」

 

 仁美は、もう一口飲んだ。眉はまた寄ったけれど、グラスは置かなかった。

 

 ポテトとパンケーキとチョコレートパフェを注文した。多すぎますわと仁美は言ったけれど、慰め会なんだから頼みすぎるくらいでちょうどいいの、とさやかは言い張った。店員を呼び止めて、ポテトをもう一つ、持ち帰りで追加した。

 

「どなたに?」

「腹ペコの野良猫」

「さやかさん、猫を飼ってらっしゃいましたの?」

「飼ってない。勝手に寄ってくるだけ」

 

 パフェが来ると、仁美は長いスプーンをグラスの縁に立てかけて、溶けかけたアイスの山を見下ろした。

 

「さやかさんは、いいですわ」

「なにが?」

「大事な人だと、言っていただけたんですもの。わたくしなんて、まだほとんど知らない、ですわよ」

「仁美のほうがいいよ。あたしなんか、一度も考えたことない、だよ? 十年以上一緒にいて、一度も。仁美は、まだ知らないだけなんだから。これから知ってもらえるかもしれないでしょ」

「ヴァイオリンのことしか考えられない、とも言われましたわ」

「あたし、それ言われてない」

「え」

「ヴァイオリンに負けたって、言ってもらえてないの。あたしは、ヴァイオリンと勝負する前に、土俵にも上がってなかったってこと」

 

 二人は、顔を見合わせた。

 それから、同時に吹き出した。

 

「わたくしたち、楽器に負けたんですのね」

「仁美はね。あたしは、楽器にも負けてない。不戦敗」

「それは、負けるより悪いですわ」

「でしょ?」

 

 笑いすぎて、仁美の肘がグラスに当たった。失恋の味が、テーブルの上に少しだけこぼれて、紙ナプキンで拭くと、ナプキンが妙な色に染まった。それを見て、また笑った。

 

 パンケーキを半分ずつ分けながら、さやかは、恭介の話をした。

 五歳のとき、初めての発表会で、恭介が弓を落として泣いたこと。客席のいちばん前で見ていたさやかが、つられて泣いて、恭介の母親に二人まとめて抱えられたこと。小学校の帰り道、恭介が楽譜を風に飛ばされて、二人で田んぼに入って拾ったこと。泥だらけで帰ったら、さやかだけが怒られたこと。

 

「なんで、あたしだけ」

「さやかさんが、先に入ったからでは?」

「……そうかも」

 

 仁美は、去年の春の話をした。

 放課後、音楽室の前を通りかかったら、扉の隙間から、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。誰が弾いているのか確かめたくて、隙間から覗いたら、窓からの光の中で、上条君が目を閉じて弾いていた。

 

「それだけですの」

 

 仁美は、パフェの底のコーンフレークを、スプーンでかき集めながら言った。

 

「それだけで、わたくし、一年も。おかしいでしょう」

「おかしくないよ」

 

 さやかは、首を振った。

 

「あたしだって、似たようなもんだし。……あいつ、弾いてるときだけ、すっごいかっこいいんだよね。弾いてないときは、ただのぼーっとした奴なのに」

「そうなんですの。弾いてらっしゃらないときは、本当に、ぼんやりしてらして」

「でしょ? この前なんか、病院のスリッパ、左右逆に履いてたからね」

「まあ」

 

「さやかさんは」

 

 仁美が、スプーンを置いた。

 

「これからも、上条君のお見舞いに行かれますの?」

「行くよ」

 

 さやかは、迷わずに答えた。

 

「幼なじみだもん。CD持ってって、またいらないって言われて、それでも置いてくる。たぶん、ずっとそう」

「……わたくしも、たまにはご一緒してもよろしいかしら」

「いいよ。恭介、ぼーっとしてるから、二人で行ったほうが、何か一つくらいは覚えてもらえるかも」

「振られた二人が、並んでお見舞いに伺うんですのね」

「そう。不戦敗と、判定負け」

「判定負けのほうが、まだ格好がつきますわ」

 

 仁美は澄ました顔でそう言って、失恋の味をすすった。

 

 壁のテレビが、夕方のニュースに切り替わった。

 見滝原の映像。上空から撮った、灰色の街。途中から折れたビル。青いビニールシートの屋根。さっき屋上から見下ろしたのと同じ景色が、テレビの四角に収まると、どこか遠い国のことのように見えた。

 アナウンサーが、落ち着いた声で数字を読み上げている。亡くなった人の数。けがをした人の数。まだ行方のわからない人の数。

 隅のテーブルの母親が、子どもの口元をナプキンで拭う手を止めて、画面を見上げた。

 さやかも、見ていた。

 行方のわからない人の数は、先週より、また少しだけ減っていた。

 

「さやかさん」

 

 仁美の声で、さやかは我に返った。

 頬が、濡れていた。

 いつからだろう。拭こうとして、手が見つからなかった。どこに手を置いていたのかも、わからなかった。

 

「あれ……」

「……やっと、泣きましたわね」

 

 仁美が、さっきの三角のハンカチを差し出していた。

 

「ずっと、笑ってばかりいらっしゃるんですもの。わたくし、心配してましたのよ」

「違う、これは」

 

 さやかは、ハンカチを受け取って、目に押し当てた。

 

「恭介の、ばか。茄子とか言うから」

「それは、小学生のときのお話では」

「今思い出して、腹立ってきたの」

 

 ハンカチは、仁美の家の匂いがした。紫陽花ではない、知らない花の匂い。

 ニュースは、いつの間にか天気予報に変わっていた。明日から、梅雨入りらしい。

 

 ハンカチを返そうとしたとき、仁美の目が、さやかの左手に留まった。

 

「その指輪」

「……え」

「上条君の手が治ったころから、ずっとしてらっしゃいますわね」

 

 さやかの左手が、テーブルの下へ逃げかけた。

 

「よく見てるね、仁美」

「見てますわ。恋敵ですもの」

 

 仁美は、紙ナプキンの角をきちんと折りながら言った。

 

「十日のことも、その指輪のことも、わたくし、訊きませんわ。さやかさんが話したくなったら、そのとき聞かせてくださいな」

 

 それから、少しだけ首を傾げた。

 

「……一生、話したくならなくても、構いませんけれど」

 

 一生。

 昨日、屋上で、同じ言葉を聞いた。恭介の口から出たときには、手を包まれたまま、どこへも置けなかった言葉だった。それが仁美の口から出ると、膝の上に畳んで置いておけるくらいの、軽くて柔らかいものになっていた。

 さやかは、テーブルの下へ逃げかけた左手を、上に戻した。

 指輪のついた指で、グラスを持ち上げた。失恋の味は、氷が溶けて、さっきよりずいぶん薄くなっていた。

 

*

 

 ファミレスを出ると、外はもう暗くなりかけていた。

 駅前のロータリーに、黒くて長い車が一台、停まっていた。仁美が電話で呼んだ迎えらしい。運転席から降りてきた白髪の男の人が、後ろのドアを開けて、さやかにまで丁寧に頭を下げた。さやかも、慌てて頭を下げ返した。

 

「さやかさん」

 

 車に乗りかけた仁美が、振り返った。

 

「また明日、ですわ」

「うん。また明日」

「明日も、あの教室ですのね」

「あの相合い傘の机ね」

 

 仁美は、何のことかわからないという顔をして、それでも笑って、車に乗った。

 赤いランプが角を曲がって見えなくなるまで、さやかはロータリーに立っていた。

 

 風見野から見滝原へは、川を一本渡る。

 橋の上から見ると、川のこちら側には灯りが並んでいて、向こう側は、ところどころにしか灯りがない。その暗がりのほうへ、さやかは歩いていった。

 橋を渡りきったところで、土手に下りた。

 春の夕方、一度、ここに座ったことがある。気持ちを伝えるのは、ワルプルギスの夜を越えてから。そう決めて、勢いをつけて立ち上がった場所だった。

 あのときの若い草は、今は膝の高さまで伸びて、夜露を含みはじめている。さやかは草の上に腰を下ろして、ファミレスの袋を足元に置いた。

 伝えた。

 越えてから、ちゃんと伝えた。遅くはなかったのかもしれない。早くても、たぶん同じ答えだった。

 

 左手の指輪に意識を向けると、それは青い宝石の形になって、右の掌に転がった。

 青かった。

 底のほうに、うっすらと影が沈んでいた。まどかの部屋で目を覚ました朝に見たのと、よく似た影だった。

 あの朝は、黒い卵が届いた。まだ濁ってたら使って、という伝言といっしょに、まどかのパジャマのポケットから。

 今日は、誰からも、何も届かない。

 届けてくれた人の名前は、今日の昼、掲示板の紙の、三年の欄に一つだけ残っていた。

 

 振られたよ、と言ったら。あの人は、何と言うだろう。

 どうせ、そう、の一言に決まっている。眉一つ動かさずに。それから、余計なことを一つだけ言って、さやかを怒らせるに違いない。権利があるとかないとか、それはあなたが決めることじゃない。あの夜みたいに、言われたくないことを、いちばん言われたくない順番で。

 想像しただけで、腹が立ってくる。

 

「……ほんと、むかつく」

 

 呟いた声は、川の音に紛れて、どこにも届かなかった。

 さやかはソウルジェムを指輪に戻して、立ち上がった。スカートについた草を払い、足元の袋を拾い上げた。持ち帰りのポテトは、もうすっかり冷めているだろう。それでも、あの野良猫は、文句を言わずに全部食べる。前なら、きっとそうだった。

 

『杏子。どこにいるの』

 

 返事は、なかった。

 この三週間、杏子は呼んでも答えない。答えないくせに、探せば、たいてい同じ辺りにいる。崩れたビルの壁が半分残っている、あの場所のあたりに。

 さやかは土手を上がって、灯りの少ないほうへ歩き出した。

 手に提げた袋の中で、冷めたポテトの箱が、歩くたびに小さく揺れていた。

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