魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
番外編1 さやかの告白
番外編 さやかの告白
十日は、とうに過ぎていた。
駅前の喫茶店で仁美に、額がテーブルにつきそうなほど頭を下げた日から数えれば、もう三週間と少しになる。そのあいだに見滝原は半分ほどが瓦礫になり、通っていた中学校は、体育館の壁を何枚か残して崩れ落ちた。二年生の授業は、隣町の風見野の中学校から空き教室を借りて、午前中だけ開かれている。
借り物の教室というのは、どうにも尻が落ち着かないものらしい。
黒板の隅には、知らない生徒の書いた日直の名前が消し忘れてある。さやかの机の天板には、知らない誰かがコンパスの針で彫った相合い傘があって、傘の下に、知らない男子と知らない女子の名前が並んでいる。三時間目の数学のあいだ、さやかはずっと、この二人はその後どうなったのかを考えていた。答えが黒板に書いてあるわけでもないのに。
四時間目の終わりのチャイムが鳴ると、教室はいっぺんに騒がしくなった。
午後の授業がない代わりに、昼までに帰らなければならない子が多い。家の片づけがある子、仮の住まいへ戻る子、親の職場へ弁当を届けに行く子。みんな鞄を引っつかんで、それぞれの方角へ散っていく。まどかは今日も家の片づけを手伝うとかで、チャイムが鳴り終わる前に手を振って出ていった。ほむらの席は、気がつけばもう空いている。
仁美は窓際の席で、鞄に教科書をしまっていた。
一冊ずつ、角を揃えて。いつもの手つき。避難所の体育館で何日も寝起きしたはずなのに、仁美の髪には今日もきちんと櫛が通っていて、ブラウスの襟も白かった。お嬢様というのは、街が半分なくなっても、襟だけは白いままでいられるものなのかもしれない。
さやかは、その机の前に立った。
「仁美」
「はい」
仁美は、手を止めずに返事をした。
それから顔を上げてさやかを見ると、教科書を持った手が、鞄の口の上で止まった。
「……決心は、つきましたの?」
あの喫茶店で訊かれたのと、同じ言葉だった。
「うん。待たせて、ごめん」
「十日とおっしゃいましたのに」
「ほんっと、ごめん」
「冗談ですわ」
仁美は、口元に指を添えて笑った。
「あれだけのことがあったんですもの。十日で済むほうが、おかしいですわ」
あれだけのこと。
仁美にとってのそれは、空から降ってきた嵐と、崩れた街と、避難所で過ごした何日かのことだろう。体育館の窓の外にそびえた氷の壁も、もしかしたら目にしたのかもしれない。そうして周りの大人たちと同じように、神様だとか天罰だとか、そういう言葉で片づけたのかもしれない。
十日のあいだに、本当は何があったのか。仁美は、一度もそれを訊いてこなかった。
「今日、言ってくる」
「今日、ですの」
「今日。病院の面会、午後からだから」
仁美は最後の一冊を鞄に入れて、留め金をぱちんと閉めた。
「わかりましたわ。わたくしは、その後で」
「いいの? あたしが先で」
「約束ですもの」
二人で廊下に出ると、掲示板の前に、小さな人だかりができていた。
画鋲で留められた紙が一枚。見滝原中学校、在校生の安否確認について。まだ連絡の取れない生徒の名前が、学年ごとに並んでいる。最初の週には三枚あった紙が、先週には一枚になり、今日はその一枚の下半分が白く空いている。
三年の欄には、名前が一つだけ残っていた。
三年 如月玲佳
「如月先輩、まだ見つからないそうですわね」
隣で、仁美が言った。
「お話ししたことはありませんけれど、廊下ですれ違うと、皆さん振り返ってましたわ。あの髪ですもの。……ご家族の方も、ご心配でしょうね」
ご家族、と聞いて、さやかの頭に浮かんだのは、瓦礫の上に座り込んでいる赤い髪の背中だった。左の手首に、紺色のゴムと、角の欠けた銀の星。
見つからない、のではなかった。
あの人は、自分で歩いていったのだ。雨の向こうで回る歯車のほうへ。杏子を、お願い、とだけ言って。さやかの両手に、銀行のカードと、一つの嘘を預けて。
「……さやかさん?」
「あ、ごめん。なんでもない」
さやかは、紙から目を引き剥がした。
「じゃ、行ってくる!」
仁美の返事を待たずに、階段を駆け下りた。よその学校の階段は、一段ごとの高さが見滝原のより少し低くて、三段目で、危うく踏み外しかけた。
*
屋上へ上がるエレベーターで、顔なじみの看護師さんと乗り合わせた。
看護師さんは、車椅子の取っ手を握るさやかと、膝にヴァイオリンのケースを抱えた恭介を見比べて、あら、と目を細めた。
「上条くん、今日は彼女とデート?」
「幼なじみです」
恭介は、間を置かずに答えた。楽譜の音符を一つ読むのと同じくらいの速さだった。
看護師さんは、あらそう、と笑って三階で降りていった。扉が閉まって、エレベーターがまた上がりはじめる。階数の数字が一つ増えるたびに、さやかは取っ手を握り直していた。
*
見滝原総合病院の屋上には、白いシーツがずらりと干されている。
風が吹くたびに、何十枚ものシーツが一斉に膨らんで、ぱたぱたと鳴る。その白い列のあいだを、さやかは車椅子を押して抜けていった。
「屋上なんて、久しぶりだな」
車椅子の上で、恭介が言った。
膝の上には、ヴァイオリンのケースが載っている。病室を出るとき、置いていけばいいのにと言ったら、手元にないと落ち着かないんだ、と返された。そういうところは、昔からちっとも変わらない。
フェンスの手前で、さやかは車椅子を止めた。
病院は、街の真ん中の少し小高いところに建っている。ここからだと、見滝原がよく見えた。見えすぎるくらいに。
途中から折れたビル。屋根の代わりに青いビニールシートをかぶった家々。瓦礫の山のあいだを、黄色い重機がのろのろと動いている。三週間前まで、ここから見下ろす景色は、もっと高くて、もっと四角くて、もっとぴかぴかしていたはずだった。
その灰色の真ん中に、一つだけ、傷のない屋根がある。
避難所になった、市民体育館の屋根。
「あそこ、だったよね」
恭介が、その屋根を指さした。
「僕も、あそこにいたんだ。病院の患者で、動かせる人は、みんな移されて」
「……そうだったんだ」
「さやかは、どこにいたの? あの夜」
「あたし? あたしは、あっちのほう。別のとこ」
さやかは、適当な方角に手を振った。
嘘が上手くなった、と自分では思う。本当のところは、怪しいものだ。杏子あたりなら、手を振った方角が三回変わったところで、とっくに見抜いているだろう。
「先週から、平行棒のあいだを歩く練習を始めたんだ」
恭介は、自分の膝をぽんと叩いた。
「今は十歩。来月には、杖で廊下を往復できるようになるって」
「すごいね! 十歩って、あたしの家の廊下くらい?」
「さやかの家の廊下は、もっと短いよ」
「失礼な」
恭介が笑った。
入院してから、恭介はあまり笑わなくなっていた。CDプレーヤーに自分の手を叩きつけたあの夕方には、笑い方そのものを忘れてしまったように見えた。それが、手が動くようになってから少しずつ戻ってきて、今は、こうしてさやかの軽口に、子どもの頃と同じ顔で笑う。
車椅子の握りを掴んださやかの左手の、中指に嵌まった指輪に、恭介はたぶん、一度も気づいていない。
「病室でもね、少しずつ弾いてるんだ。父さんがケースごと持ってきてくれて。リハビリ室を借りて、一日三十分だけ」
「看護師さんに怒られない?」
「最初は怒られた。今は、聴きに来る人がいる」
「へえ」
「入院してるおじいさんが、毎日来るんだ。いつも同じ曲をリクエストしてくる。たぶん、ほかの曲は知らないんだと思う」
恭介はケースの上で、指を動かした。弦のない場所で、弦を押さえる形に。
その指の動きを、さやかは目で追っていた。小学校の発表会で、袖の暗がりから見ていたのと同じ動きだった。あのときは、指がこんなに長くなかった。今は、ケースの蓋の端から端まで、すうっと届いてしまう。
風が止んで、シーツが一斉にしぼんだ。
急に、屋上が静かになった。
今しかない、と思った。
明日がちゃんと来るなんて、誰も約束してくれない。さやかはこの三週間で、それを嫌というほど知った。
「恭介」
「うん?」
「あたしさ」
声が、思ったより小さかった。
さやかは、一度、大きく息を吸った。
「あたし、恭介のことが好き」
恭介が、さやかを見上げた。
「幼なじみとか、そういうのじゃなくて。そういう、好き。ずっと前から」
恭介の手が、膝の上のケースの留め金に触れて、止まった。
細くて長い指だった。弦を押さえるための指。一度は、二度と動かないと言われた指。その指が、留め金を一度だけ、かちりと鳴らした。
「さやかは」
恭介は、少しだけ目を伏せた。
「さやかは、僕の大事な人だけど」
だけど。
その先を聞く前に、わかってしまった。わかってしまう程度には、さやかは、恭介のことを長く見てきた。
「……ごめん。そういうふうに、考えたことがなかったんだ。一度も」
また風が吹いた。
シーツが膨らんで、さやかの背中を、ばさりと叩いた。
「あはは」
笑い声が、出た。自分でも驚くくらい、大きな声だった。
「だよねー! 知ってた知ってた。言ってみただけ。恭介、あたしのこと女だと思ってないもんね」
「そんなことは……」
「あるでしょ。小学校のプールで、あたしの水着見て、なんて言ったか覚えてる?」
「……覚えてない」
「日焼けしすぎて、茄子みたいだって」
「言ってないよ、そんなこと」
「言いましたー。あたしは覚えてますー」
恭介は、困ったように笑った。
その笑い方が、さっきとは違っていた。子どもの頃の顔ではなくて、病室で看護師さんに向けるときの顔だった。気を遣われている。さやかは、それに気づかないふりをして、シーツの列の端に目をやった。洗濯ばさみが一つ、外れかけて、風のたびにぶらぶら揺れている。
「さやか。一つ、訊いてもいいかい」
「なに? まだ何かあるわけ?」
「あの日のこと」
恭介は、自分の両手を見下ろした。
「僕が、CDプレーヤーを壊した日。さやか、言ったよね。奇跡も、魔法も、あるって」
覚えていたのか、とさやかは思った。
あんなに取り乱して、泣いて、シーツに血を散らしていたのに。
「次の朝、指が動いたんだ。先生たちは、説明がつかないって首をひねってた。僕も、わけがわからなかった。わけがわからないけど、動くんだからそれでいいやって、思うことにしてた」
恭介の視線が、フェンスの向こうの、あの屋根へ移った。
「でも、あの夜。体育館の窓から、氷の壁が見えたんだ。屋根より高い、分厚い壁が、どこからともなく地面から生えてきて、僕たちを丸ごと囲ったのを。周りの人は、神様だとか、天罰だとか言ってた。床に座って、拝んでるおばあさんもいた」
知っている。
あの壁を誰が建てたのか、さやかは知っていた。建てた人が、今どこにいるのかは、知らなかった。
「僕は、さやかの言葉を思い出したんだ。奇跡も、魔法も、あるって」
恭介が、さやかのほうへ向き直った。
まっすぐな目だった。ヴァイオリンを構えるときと、同じ目。
「僕の手は、さやかが、何かしてくれたの?」
屋上の音が、遠くなった。
シーツの鳴る音も、重機の唸りも、どこかへ引いていった。
言えば、いい。口を開けば、それで済む。あの夜、建設中のビルの陰でサーベルを振り回していたさやかなら、きっと迷わずに言っていた。
「もし、そうなんだとしたら」
恭介の手が、膝の上で、ぎゅっと握られた。
「僕は、さやかに——」
その手を見て、さやかにはわかった。
何かを、返そうとしている手だった。受け取ったものの重さを量って、同じ重さのものを、自分の中から探しはじめている手。さっき、一度も、と言ったその口で、恭介が次に何を言おうとしているのか。
「そうだよ」
さやかは、恭介の言葉の上に、自分の声をかぶせた。
胸を張って、顎を上げた。片目をつぶって、左手でピースまで作ってみせた。
「さやかちゃんが、魔法で治してあげたの。だから、一生感謝しなさいよね」
立てた中指の根もとで、指輪が、曇り空の光を拾って小さく光った。
恭介は、ぽかんと口を開けた。
それから、肩を揺らして吹き出した。
「……なんだよ、それ」
「なによ。信じないわけ?」
恭介は、笑いながら首を振った。
信じないという意味なのか、まいったという意味なのか、その振り方からは読みとれない。
「信じるよ」
笑いの残った声で、恭介は言った。
本当に信じたのか、冗談に付き合ってくれたのか。どちらとも、見分けがつかなかった。見分けがつかないように言ったのだから、当たり前だった。
「じゃあ、一生感謝する」
恭介の手が伸びてきて、ピースをしていたさやかの左手を、そっと包んだ。
弦を押さえるための、細い指だった。温かかった。
「ありがとう、さやか」
さやかは、包まれた手を引っこめなかった。そうしたら、何かが指のあいだから零れてしまいそうだった。
「……よろしい」
それだけ言って、さやかはもう一度、顎を上げてみせた。
病室まで車椅子を押して戻り、ベッドに移るのを手伝って、またね、と手を振った。
エレベーターの扉が閉まると、さやかは左手を目の前に持ち上げた。
握られたのは手のほうだったのに、熱がいつまでも引かないのは、中指の指輪のほうだった。
*
「振られた」
翌朝、借り物の教室で、さやかは仁美の机に両手をついて言った。
仁美のシャープペンが、ノートの上でぴたりと止まった。
「……え」
「大事な人だけど、そういうふうに考えたことがない、だって。一度も、だよ? 十年以上一緒にいて、一度も。逆にすごくない? ある意味、才能だよね」
「さやかさん」
「あ、泣いてないよ。昨日の夜、ちょっとだけ枕に八つ当たりしたけど。羽毛の枕だったから、羽根が出てきて大変だった」
嘘ではない。今朝、母親に、部屋に鳥でも飼い始めたのかと訊かれた。
仁美は、さやかの顔を下から覗き込んだ。それから、シャープペンを置いて、膝の上で両手を握った。
「上条君、それはあんまりですわ」
「いいの、いいの。本当のことなんだから」
「本当のことでも、言い方というものが」
「恭介に言い方なんて期待しちゃだめだって。あいつ、譜面の読み方以外は、たいてい間違えるんだから」
軽く言うと、仁美は唇を噛んで、窓のほうへ目を逸らした。
朝の光が、仁美の横顔に当たっている。何かを決めかねている顔だった。
「……わたくし、今日は、やめておきますわ」
「は?」
「さやかさんが振られた次の日に、わたくしが、のこのこと病院へ行くなんて。そんなの、まるで火事場泥棒ですわ」
「泥棒って」
さやかは、思わず吹き出した。
「恭介は、盗まれるほど高いもんじゃないから。安心して」
「そういうことではありませんの!」
仁美が机を叩いた。音が、思ったより大きく響いて、前の席の男子が振り返った。仁美は咳払いを一つして、声を落とした。
「さやかさんのお気持ちを考えたら、とても」
「仁美」
さやかは、仁美の机の上の、閉じたノートに指を置いた。
「あたしが十日待たせたんだよ。仁美、すっごい勇気出して、先に言ってくれたのに。それで、ここで仁美が言わなかったら、あたし、何のためにあんなに頭下げたのか、わかんなくなっちゃうでしょ」
仁美は、さやかの指を見ていた。それから、さやかの顔を見た。
「……行っておいでよ。仁美の番」
仁美の肩が、小さく上下した。
長い睫毛が、一度だけ伏せられて、また上がった。
「わかりましたわ」
その返事を聞いたとき、さやかの手の中で、シャープペンの芯がぽきりと折れた。
いつの間に握っていたのか、自分でも覚えていなかった。折れた芯の先が、机の相合い傘の、ちょうど傘の柄のところに転がった。
「その代わり、と言ってはなんですけれど」
仁美は、膝の上で指を組み直した。
「終わったら、お会いしていただけます? ひとりで帰れる自信が、ありませんの」
「いいよ。病院の前のバス停で待ってる」
「振られる前提ですのね」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて」
「わかってますわ」
仁美は、少しだけ笑った。
その膝の上で、指が白くなるほど固く組まれている。勇気というものの量を比べることができるなら、たぶん仁美のほうが、さやかよりずっと多い。十日待たされて、昨日の結末を聞かされて、それでも今日行くと言えるのだから。
*
病院前のバス停のベンチで、さやかは缶のオレンジジュースを三本空けた。
一本目は、仁美が正面玄関に吸い込まれていくのを見送りながら。二本目は、一本目とまったく同じ味がするのを確かめながら。三本目は、もう味なんかどうでもよくて、何もすることのない手に、何かを持たせておきたかっただけだった。
時刻表によれば、ここのバスは十五分に一本来るらしい。そのあいだにバスが四台来て、四台とも、乗らないさやかを置いて走り去っていった。四台目の運転手など、さすがに不審そうな顔でこちらを見ていたではないか。
自動ドアが開いて、仁美が出てきた。
背筋が、まっすぐ伸びていた。歩幅も、乱れていなかった。鞄を両手で前に提げて、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
その歩き方で、さやかには、もうわかった。
昨日の自分も、たぶん、ああいう歩き方で病院を出たのだ。誰にも何も悟らせまいとして、かえって、全身で白状してしまうような歩き方で。
仁美は、さやかの隣に腰を下ろした。
鞄を膝に置いて、その上に両手を重ねた。
「振られてしまいましたわ」
きれいな声だった。国語の時間に、仁美が教科書の詩を朗読したときと同じ声。
「今は、ヴァイオリンのことしか考えられない、と。それに、志筑さんのことを、僕はまだほとんど知らないから、と」
「……そっか」
「とても丁寧に、断ってくださいましたわ。丁寧すぎて、言い返す隙もありませんでしたの。お持ちしたお花は、ちゃんと受け取ってくださいましたけれど」
「お花?」
「紫陽花ですわ。うちの庭に咲いていたのを、今朝、切ってまいりましたの。……花瓶がないからって、看護師さんがペットボトルを切って、活けてくださいましたわ」
ペットボトルに活けられた紫陽花を、さやかは思い浮かべた。恭介のことだから、それが誰の家の庭から来たのかも、たぶん明日には忘れている。
仁美はそう言って、膝の上の鞄の留め金を、指でなぞった。開けるでもなく、閉めるでもなく、ただ、なぞった。
「上条君、ずいぶん、お痩せになりましたわね」
「うん」
「わたくし、お見舞いに伺ったの、今日が初めてでしたの。……おかしいですわね。好きだと言いに行ったのが、初めてのお見舞いだなんて」
「おかしくないよ」
「おかしいですわ。さやかさんは、毎日のように通ってらしたのに」
五台目のバスが、停留所に滑り込んできた。扉が開いて、誰も降りず、誰も乗らずに、また閉まった。
走り去るバスの音が消えてから、さやかは言った。
「仁美」
「はい」
「がんばったね」
仁美の唇が、一度だけ、震えた。
仁美は鞄から、レースの縁取りのついたハンカチを取り出した。それを膝の上で丁寧に広げて、角と角を合わせて三角に折り、もう一度折って、それから目元に当てた。
泣くときまで、きちんとしている。
さやかは笑いそうになって、笑ったら、たぶん自分も一緒に崩れる気がして、空き缶を握りしめた。アルミが、手の中でぺこりとへこんだ。
「……よし」
さやかは立ち上がって、へこんだ缶をごみ箱へ放った。
外れた。
拾って、入れ直した。
「慰め会、しよう」
「なぐさめ、かい……?」
「振られた者どうしの。ぱーっと。風見野の駅前のファミレス、まだやってるから」
「わたくし、今日はお琴のお稽古が」
「今日だけ。ね」
仁美はハンカチを目元から外して、さやかを見上げた。目の縁が赤かった。それから、鞄の中から携帯電話を取り出して、どこかへかけた。
「もしもし、わたくしです。今日のお稽古、お休みさせていただけますか。……ええ、さやかさんと。……なぐさめかい、ですの」
電話の向こうで、相手がなんと言ったのかは聞こえなかった。仁美は携帯電話を耳から少し離して、それから、そっと電話を切った。
*
風見野の駅前のファミレスは、平日の夕方だというのに、ほとんど満席だった。
見滝原から流れてきた人たちだろう。作業着の男の人たちが、大盛りのハンバーグを黙々と口に運んでいる。隅のテーブルでは、小さな子どもを二人連れた母親が、壁のテレビをぼんやり見上げている。
窓際の二人席に通されると、仁美はメニューを両手で開いて、端の小さな文字を指でなぞった。
「ドリンクバー、というのは」
「うん」
「飲み物を、自分で取りに行くんですの?」
「そう。何杯でも飲み放題」
「何杯でも……」
「仁美、もしかして、ドリンクバー初めて?」
「お恥ずかしながら」
志筑家の娘は、どうやら、自分で飲み物を注いだことがないらしい。
さやかは仁美の手を引いて、ドリンクバーの機械の前まで連れていった。グラスの取り方から、氷の入れ方、ボタンの押し方まで、一つずつ教えた。仁美は、新しい楽器の弾き方を習うような真剣な顔で、いちいち頷く。たかがジュースである。
「で、ここからが慰め会の本番」
さやかは、自分のグラスにメロンソーダを三分の一入れた。そこへオレンジジュースを足し、最後にカルピスを注いだ。グラスの中で、緑と橙と白が、どれにも決まらない色に濁っていく。
「さやかさん、それは」
「全部混ぜると、失恋の味になるの」
「……本当ですの?」
「本当。さやかちゃん調べ」
仁美は少し迷ってから、同じ順番で、同じように混ぜた。席に戻って、二人で同時に一口飲んだ。
仁美の眉が、きゅっと寄った。
「……これが、失恋の味ですの」
「そう。甘くて、ちょっと酸っぱくて、色が汚い」
「確かに、色は最悪ですわね」
仁美は、もう一口飲んだ。眉はまた寄ったけれど、グラスは置かなかった。
ポテトとパンケーキとチョコレートパフェを注文した。多すぎますわと仁美は言ったけれど、慰め会なんだから頼みすぎるくらいでちょうどいいの、とさやかは言い張った。店員を呼び止めて、ポテトをもう一つ、持ち帰りで追加した。
「どなたに?」
「腹ペコの野良猫」
「さやかさん、猫を飼ってらっしゃいましたの?」
「飼ってない。勝手に寄ってくるだけ」
パフェが来ると、仁美は長いスプーンをグラスの縁に立てかけて、溶けかけたアイスの山を見下ろした。
「さやかさんは、いいですわ」
「なにが?」
「大事な人だと、言っていただけたんですもの。わたくしなんて、まだほとんど知らない、ですわよ」
「仁美のほうがいいよ。あたしなんか、一度も考えたことない、だよ? 十年以上一緒にいて、一度も。仁美は、まだ知らないだけなんだから。これから知ってもらえるかもしれないでしょ」
「ヴァイオリンのことしか考えられない、とも言われましたわ」
「あたし、それ言われてない」
「え」
「ヴァイオリンに負けたって、言ってもらえてないの。あたしは、ヴァイオリンと勝負する前に、土俵にも上がってなかったってこと」
二人は、顔を見合わせた。
それから、同時に吹き出した。
「わたくしたち、楽器に負けたんですのね」
「仁美はね。あたしは、楽器にも負けてない。不戦敗」
「それは、負けるより悪いですわ」
「でしょ?」
笑いすぎて、仁美の肘がグラスに当たった。失恋の味が、テーブルの上に少しだけこぼれて、紙ナプキンで拭くと、ナプキンが妙な色に染まった。それを見て、また笑った。
パンケーキを半分ずつ分けながら、さやかは、恭介の話をした。
五歳のとき、初めての発表会で、恭介が弓を落として泣いたこと。客席のいちばん前で見ていたさやかが、つられて泣いて、恭介の母親に二人まとめて抱えられたこと。小学校の帰り道、恭介が楽譜を風に飛ばされて、二人で田んぼに入って拾ったこと。泥だらけで帰ったら、さやかだけが怒られたこと。
「なんで、あたしだけ」
「さやかさんが、先に入ったからでは?」
「……そうかも」
仁美は、去年の春の話をした。
放課後、音楽室の前を通りかかったら、扉の隙間から、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。誰が弾いているのか確かめたくて、隙間から覗いたら、窓からの光の中で、上条君が目を閉じて弾いていた。
「それだけですの」
仁美は、パフェの底のコーンフレークを、スプーンでかき集めながら言った。
「それだけで、わたくし、一年も。おかしいでしょう」
「おかしくないよ」
さやかは、首を振った。
「あたしだって、似たようなもんだし。……あいつ、弾いてるときだけ、すっごいかっこいいんだよね。弾いてないときは、ただのぼーっとした奴なのに」
「そうなんですの。弾いてらっしゃらないときは、本当に、ぼんやりしてらして」
「でしょ? この前なんか、病院のスリッパ、左右逆に履いてたからね」
「まあ」
「さやかさんは」
仁美が、スプーンを置いた。
「これからも、上条君のお見舞いに行かれますの?」
「行くよ」
さやかは、迷わずに答えた。
「幼なじみだもん。CD持ってって、またいらないって言われて、それでも置いてくる。たぶん、ずっとそう」
「……わたくしも、たまにはご一緒してもよろしいかしら」
「いいよ。恭介、ぼーっとしてるから、二人で行ったほうが、何か一つくらいは覚えてもらえるかも」
「振られた二人が、並んでお見舞いに伺うんですのね」
「そう。不戦敗と、判定負け」
「判定負けのほうが、まだ格好がつきますわ」
仁美は澄ました顔でそう言って、失恋の味をすすった。
壁のテレビが、夕方のニュースに切り替わった。
見滝原の映像。上空から撮った、灰色の街。途中から折れたビル。青いビニールシートの屋根。さっき屋上から見下ろしたのと同じ景色が、テレビの四角に収まると、どこか遠い国のことのように見えた。
アナウンサーが、落ち着いた声で数字を読み上げている。亡くなった人の数。けがをした人の数。まだ行方のわからない人の数。
隅のテーブルの母親が、子どもの口元をナプキンで拭う手を止めて、画面を見上げた。
さやかも、見ていた。
行方のわからない人の数は、先週より、また少しだけ減っていた。
「さやかさん」
仁美の声で、さやかは我に返った。
頬が、濡れていた。
いつからだろう。拭こうとして、手が見つからなかった。どこに手を置いていたのかも、わからなかった。
「あれ……」
「……やっと、泣きましたわね」
仁美が、さっきの三角のハンカチを差し出していた。
「ずっと、笑ってばかりいらっしゃるんですもの。わたくし、心配してましたのよ」
「違う、これは」
さやかは、ハンカチを受け取って、目に押し当てた。
「恭介の、ばか。茄子とか言うから」
「それは、小学生のときのお話では」
「今思い出して、腹立ってきたの」
ハンカチは、仁美の家の匂いがした。紫陽花ではない、知らない花の匂い。
ニュースは、いつの間にか天気予報に変わっていた。明日から、梅雨入りらしい。
ハンカチを返そうとしたとき、仁美の目が、さやかの左手に留まった。
「その指輪」
「……え」
「上条君の手が治ったころから、ずっとしてらっしゃいますわね」
さやかの左手が、テーブルの下へ逃げかけた。
「よく見てるね、仁美」
「見てますわ。恋敵ですもの」
仁美は、紙ナプキンの角をきちんと折りながら言った。
「十日のことも、その指輪のことも、わたくし、訊きませんわ。さやかさんが話したくなったら、そのとき聞かせてくださいな」
それから、少しだけ首を傾げた。
「……一生、話したくならなくても、構いませんけれど」
一生。
昨日、屋上で、同じ言葉を聞いた。恭介の口から出たときには、手を包まれたまま、どこへも置けなかった言葉だった。それが仁美の口から出ると、膝の上に畳んで置いておけるくらいの、軽くて柔らかいものになっていた。
さやかは、テーブルの下へ逃げかけた左手を、上に戻した。
指輪のついた指で、グラスを持ち上げた。失恋の味は、氷が溶けて、さっきよりずいぶん薄くなっていた。
*
ファミレスを出ると、外はもう暗くなりかけていた。
駅前のロータリーに、黒くて長い車が一台、停まっていた。仁美が電話で呼んだ迎えらしい。運転席から降りてきた白髪の男の人が、後ろのドアを開けて、さやかにまで丁寧に頭を下げた。さやかも、慌てて頭を下げ返した。
「さやかさん」
車に乗りかけた仁美が、振り返った。
「また明日、ですわ」
「うん。また明日」
「明日も、あの教室ですのね」
「あの相合い傘の机ね」
仁美は、何のことかわからないという顔をして、それでも笑って、車に乗った。
赤いランプが角を曲がって見えなくなるまで、さやかはロータリーに立っていた。
風見野から見滝原へは、川を一本渡る。
橋の上から見ると、川のこちら側には灯りが並んでいて、向こう側は、ところどころにしか灯りがない。その暗がりのほうへ、さやかは歩いていった。
橋を渡りきったところで、土手に下りた。
春の夕方、一度、ここに座ったことがある。気持ちを伝えるのは、ワルプルギスの夜を越えてから。そう決めて、勢いをつけて立ち上がった場所だった。
あのときの若い草は、今は膝の高さまで伸びて、夜露を含みはじめている。さやかは草の上に腰を下ろして、ファミレスの袋を足元に置いた。
伝えた。
越えてから、ちゃんと伝えた。遅くはなかったのかもしれない。早くても、たぶん同じ答えだった。
左手の指輪に意識を向けると、それは青い宝石の形になって、右の掌に転がった。
青かった。
底のほうに、うっすらと影が沈んでいた。まどかの部屋で目を覚ました朝に見たのと、よく似た影だった。
あの朝は、黒い卵が届いた。まだ濁ってたら使って、という伝言といっしょに、まどかのパジャマのポケットから。
今日は、誰からも、何も届かない。
届けてくれた人の名前は、今日の昼、掲示板の紙の、三年の欄に一つだけ残っていた。
振られたよ、と言ったら。あの人は、何と言うだろう。
どうせ、そう、の一言に決まっている。眉一つ動かさずに。それから、余計なことを一つだけ言って、さやかを怒らせるに違いない。権利があるとかないとか、それはあなたが決めることじゃない。あの夜みたいに、言われたくないことを、いちばん言われたくない順番で。
想像しただけで、腹が立ってくる。
「……ほんと、むかつく」
呟いた声は、川の音に紛れて、どこにも届かなかった。
さやかはソウルジェムを指輪に戻して、立ち上がった。スカートについた草を払い、足元の袋を拾い上げた。持ち帰りのポテトは、もうすっかり冷めているだろう。それでも、あの野良猫は、文句を言わずに全部食べる。前なら、きっとそうだった。
『杏子。どこにいるの』
返事は、なかった。
この三週間、杏子は呼んでも答えない。答えないくせに、探せば、たいてい同じ辺りにいる。崩れたビルの壁が半分残っている、あの場所のあたりに。
さやかは土手を上がって、灯りの少ないほうへ歩き出した。
手に提げた袋の中で、冷めたポテトの箱が、歩くたびに小さく揺れていた。