魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第五話
「ティロ・フィナーレ!」
マミの声と同時に、夕暮れの空気が震えた。
川沿いの道は、見た目には何も変わっていなかった。錆びた街灯も、ガードレールも、土手の草も、元の形のままそこにあった。ただ、空の色だけが、夕焼けを水で薄めたような、くすんだ茶色に沈んでいた。車の音も、川の音も、ひどく遠い。使い魔の張った結界には、景色を作り替えるほどの力はなく、現実の上に薄い膜を一枚かぶせただけのものだった。
その膜の内側で、街灯の上に使い魔がまとわりついていた。
巨大な銃口から放たれた光の塊が、それを貫く。黒い煤のようなものが弾けて、風に散った。
膜が剥がれるように、空に夕焼けの色が戻ってきた。車の音と川の音が、一度に耳へ流れ込んでくる。あとには、錆びた街灯の柱と、ようやく灯りはじめた電球だけが残っていた。
「いやあ、やっぱマミさんってかっこいい!」
「もう。見世物じゃないのよ?」
リボンがほどけるように黄色い衣装が消え、マミは見滝原中の制服に戻る。
まどかは、使い魔が消えたあたりの地面を見た。何も落ちていない。
「あ……今日は、グリーフシード、なかったですね」
「今のは使い魔だからね。グリーフシードは持っていないんだ」
まどかの足元で、キュゥべえが言った。さやかが大げさに肩を落とす。
「最近ずっとハズレじゃん」
「いいえ、ハズレなんかじゃないわ」
マミは穏やかに首を振った。
「使い魔だって、放っておくわけにはいかないの。人を襲って育てば、いずれ元の魔女と同じものになるから」
三人は、川沿いの道を歩いた。
西日が水面に砕けて、目を細めるほど眩しい。毎日のように見ている景色のはずなのに、今日は少し違って見えた。死ぬかもしれない場所を、一度くぐり抜けたからだろうか。
マミが数歩先を歩き、まどかとさやかがその後ろをついていく。
「二人とも、何か願い事は見つかった?」
マミは振り返らずに訊いた。
さやかは答えず、まどかのほうを見た。まどかは黙って首を振る。何も思いつかないのが正直なところだったし、魔法少女になるということに、まだどこか怖さが残っていた。
「マミさんは、どんな願い事をしたんですか?」
ふと気になって、まどかは訊いた。
マミの足が止まった。
その背中が、ほんの少しだけ強張ったように見えた。まどかは慌てて言葉を継ぐ。
「あ、あの、どうしても聞きたいってわけじゃなくて……」
「私の場合は、考えている余裕がなかった、っていうだけ」
考える余裕がなかった。それがどういう意味なのか、まどかにはわからなかった。
「後悔しているわけじゃないのよ。今の生き方は、あそこで終わってしまうよりはずっとよかったと思ってる」
マミは川面に目を投げて、小さく息を吐いた。
「でもね。選べる人には、ちゃんと考えてから決めてほしいの」
少しの沈黙のあと、口を開いたのはさやかだった。いつもの調子ではなかった。
「願い事ってさ、自分のためじゃないとダメなのかな」
マミが振り返った。
「例えば……例えばの話なんだけど。自分より、ずっと困ってる人がいてさ。その人のために願い事を使うのって——」
「それって、上条君のこと?」
「だから、例え話だってば!」
まどかの足元で、キュゥべえが首を傾げた。
「願いの対象が、契約する本人である必要はないよ。前例もある」
「感心できる話ではないわね」
マミは、今度はまっすぐにさやかを見た。
「他人の願いを叶えるなら、なおさら自分の気持ちをはっきりさせておかないと。美樹さん。貴女は、彼の夢が叶ってほしいの? それとも、彼の夢を叶えてあげた人になりたいの?」
「……それ、同じじゃないの?」
「似ているけれど、全然違うことよ」
さやかの拳が、スカートの横で握りしめられた。
「その言い方は……ちょっと、ひどいと思う」
「ごめんなさいね。今のうちに言っておかないと。そこを取り違えて先に進んだら、きっと後悔するから」
さやかは長いあいだ黙っていた。それから、ようやく小さく頷いた。
「……うん。そうかも」
西日が、三人の影を長く引き伸ばしていた。
*
日が落ちると、公園には誰もいなくなった。
噴水の水は止められ、街灯の白い光だけが芝生の上に丸く落ちている。その光の輪の外側に、暁美ほむらは立っていた。
待ち伏せされていたことに、巴マミは驚かなかった。そろそろ来る頃だと思っていた。
「わかっているの?」
先に口を開いたのは、暁美ほむらのほうだった。
「あなたは、無関係な一般人を危険に巻き込んでいる」
「あの子たちは、キュゥべえに選ばれたのよ。もう無関係じゃないわ」
「あなたは、あの二人を魔法少女に誘導している」
「それが面白くない?」
「ええ、迷惑よ。特に、鹿目まどかは」
マミは、目の前の少女の横顔をじっと見た。
「貴女も気づいていたのね。あの子の素質に」
「あの子だけは、契約させるわけにはいかない」
声の温度は変わらなかった。それなのに、その一言にだけ、何か硬いものが混じっていた。
自分より強い魔法少女が生まれるのが怖いのだろう、とマミは考えた。そう考えるのが一番わかりやすかった。
「自分より強い子が増えるのは困る、ということ? いじめられっ子の発想ね」
わざと棘のある言い方をした。彼女の眉が、わずかに寄る。
「あなたとは、戦いたくないのだけれど」
「なら、二度と会わないように気をつけて。話し合いで済むのは、たぶん今夜が最後よ」
ほむらは何も答えず、背を向けかけた。
その背中に、マミはもう一つだけ言葉を投げた。
「あの日、モールの上の階。私たちのほかに、もう一人いたわね」
ほむらの足が、止まった。
「貴女の仲間?」
「……何の話?」
振り返ったほむらの顔には、ほんの一瞬だけ、はっきりとした戸惑いが浮かんでいた。この子にも、こういう顔ができるのだ。マミはそれを見て、嘘ではないとわかった。
「知らないなら、いいのよ」
ほむらは数秒マミを見つめ、それから今度こそ闇の中へ消えていった。
一人になった公園で、マミはしばらく街灯の下に立っていた。
本当は、あんな言い方をするつもりではなかった。同じ魔女と戦っているのだから、並んで戦えたらいいと、心のどこかで思っている。それを口にした瞬間に、断られる。断られるくらいなら、先に突き放しておいたほうが楽だった。
いつから、そういう話し方しかできなくなったのだろう。
マミは首を振って、公園を後にした。
*
笑い声がしていた。
自分の声だと気づくまでに、少しかかった。
「あは……あはは」
玲佳は、部屋の真ん中に膝をついていた。
床も、壁も、天井の一部まで、赤かった。事務机は潰れ、応接セットのソファは背もたれから裂けている。奥の壁際では、据えてあった金庫が扉ごと砕け、中に詰まっていた札束と一緒に床一面に散らばっていた。
倒れている男たちの数を、玲佳は数えなかった。
その上で、三つの黒い影が蠢いている。高架下で捕らえ、しまっておいた使い魔たちだった。檻から放たれた三つの影は、喰うごとに輪郭を濃くし、膨らんでいく。
事務所の四隅が、陽炎のように薄く揺らいでいた。使い魔たちが張った、まだ頼りない結界だった。窓の外の街の明かりが、その揺らぎを通して、水の底から見上げたように歪んで見えた。
暴力団の事務所だったはずだ、と玲佳は思った。駅の反対側の、古いビルの三階。どうやってここまで来たのか、階段を上った記憶がない。
それでも、やったのが自分だということはわかった。掌が、まだ魔力の熱を持っている。
思い出す。こういうことを、何度もしてきた。家族を殺された夜から、悪いことをしている人間を見つけては、消してきた。復讐だと言い聞かせてきた。死んだ家族のためだと。
床に散らばった札束を見下ろす。
自分なら、金庫をこんなふうには壊さない。中身ごと粉々にするようなやり方は、しない。
では、これは誰のやり方なのか。
そこまで考えて、玲佳はもう一度、乾いた声で笑った。どうでもよかった。復讐も、家族のためも、最初から意味などなかったのだ。自分はただ、殺してきただけだった。
空気がねじれた。
四隅の揺らぎが、一気に濃くなった。事務所の壁が、内側へ向かって剥がれていく。天井が溶けて、鈍い銀色の空が広がる。三つの影は、もう使い魔の形をしていなかった。その一つは、磨かれた鉄のような身体をしている。
魔女の結界だった。
立ち上がれば、一秒もかからずに片づけられる相手だった。わかっていて、玲佳は膝をついたまま動かなかった。指一本持ち上げるのさえ、ひどく億劫だった。
一番近くにいた魔女が、大きく口を開けた。牙が並んでいる。その奥の暗がりが、ゆっくりと近づいてくる。
これで、終わるのなら。
牙は、玲佳に届かなかった。
視界の外から飛んできた五本の槍が、魔女の頭を真横から貫いたからだ。
「おい、あんた。魔法少女だろ。何ぼーっとしてんのさ」
赤い髪の少女が、瓦礫の上から玲佳を見下ろしていた。長い髪を後ろで一つに束ね、手には槍を握っている。
「……あなたは」
「名乗んのは後。先にこいつら片づけるよ。立てるだろ?」
少女は答えを待たずに、残る二体のうちの一体へ跳んでいった。
玲佳は、最後の一体に目を向けた。鉄の身体を持った、銀色の魔女だった。
膝に力を込めて、立ち上がる。さっきまであれほど重かった身体が、なぜか動いた。
右手を横に払う。虚空から、一振りの剣が滑り出てきて掌に収まった。ケルトの海神が光の神に与えた剣、フラガラッハ。いかなる鎧も、この刃を防ぐことはできない。
踏み込んだ。
行く手を塞ごうとした使い魔たちは、玲佳が通り過ぎた後で崩れ落ちた。銀色の魔女の鉄の胴に、刃を横から当てる。手応えは、ほとんどなかった。熟れた果実を切るように、鉄が二つに分かれた。
振り返ると、赤い髪の少女も、ちょうど最後の一突きを入れたところだった。
結界が崩れていく。銀色の空が剥がれ、元の事務所の天井が戻ってくる。床の赤も、倒れた男たちも、散らばった札束も、全部そこにあった。
赤い髪の少女は、部屋をぐるりと見回した。倒れている男たちの上で、一瞬だけ視線が止まる。
「派手にやったね」
責めるでも、怯えるでもない声だった。少女は小さく舌打ちすると、踵を返した。
「ここ、臭いね。出よ」
ビルの外に出ると、夜風が火照った頬を冷やした。
路地の街灯の下で、少女は立ち止まり、振り返った。
「あたしは佐倉杏子。あんたは?」
「……如月玲佳。さっきはどうも」
杏子と名乗った少女は、ポケットから細長い箱を取り出した。一本抜いて、口にくわえる。それから、箱ごと玲佳のほうへ差し出した。
チョコレートのかかった、プレッツェルだった。
「食うかい?」
杏子は、にやりと笑った。