魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第六話
箪笥の中は、古い紙の匂いがした。
膝を抱えた腕の中で、ロザリオの鎖が指に食い込んでいる。扉の隙間から、細い光が一本だけ差し込んでいた。その向こうで、父の声がした。母の声がした。声は途中で形を失い、悲鳴になり、それから、何も聞こえなくなった。
床が軋む。誰かが歩いている。
息を止めた。握りしめたロザリオの、十字架の角が掌に刺さって、痛かった。痛いということだけが、自分がまだ生きていることの証拠だった。
足音は、箪笥の前で止まらなかった。
いつまで待っても、扉は開かなかった。
自分で扉を押し開けたのは、外の光が変わってからだった。家の中は静かだった。床の上に、さっきまで父と母だったものが、冷たくなって横たわっていた。
四年前だったか、五年前だったか。それとも、もっと前だったか。
玲佳は、その日の日付を覚えていない。覚えているのは、箪笥の暗さと、紙の匂いと、掌の痛みだけだった。
何もできなかった。一人だけ隠れて、一人だけ生き残った。
箪笥の暗がりには、もう一つだけ覚えていることがある。
静かになった後、膝の先に、白い獣が座っていた。赤い二つの目が、暗がりの中からこちらを見ていた。キュゥべえは、どんな願いでも一つだけ叶えると言った。その代わりに、魔女と戦ってもらうと。
お父さんとお母さんを、天国に連れていってあげて。
ロザリオを握りしめて、そう願った。その言葉を口にした自分の声だけは、どうしても思い出せない。残っているのは、掌の十字架が急に熱を持った感触と、指の間から溢れ出した銀色の光だけだった。
扉を開けたのは、その後のことだった。
あの日から、悪い人間を見つけては、消してきた。悪い人間がいなくなれば、同じことは起こらない。そう信じたかった。人と関わるのをやめ、泣くのをやめ、ただ消し続けた。
それが正しいのかどうかを、考えるのもやめた。
*
ゲームセンターの中は、光と音で溢れていた。
画面の中で、矢印が下から上へ次々と流れていく。杏子はその矢印に合わせて、足元のパネルを踏み鳴らしていた。軽く踏んでいるように見えて、一つも外さない。赤い髪の尻尾が、リズムに合わせて左右に跳ねる。
曲が終わると、画面に大きな文字が躍った。周りで見ていた男子高校生たちが、どよめく。
「どうだ、見てたか?」
「見てた。すごかった」
本当にすごかったので、玲佳はそう言った。杏子は鼻を鳴らして、得意げに笑った。
魔女の結界を出てから、もう何時間も経っていた。
事務所の前の路地でプレッツェルを一本もらい、杏子に連れられるままに歩いた。クレーンゲームで杏子が三度失敗し、四度目で玲佳が代わって一度で取った。ぬいぐるみを渡すと、杏子は「いらねえよ、こんなの」と言いながら、それを小脇に抱えて離さなかった。
「ありがとう、佐倉……さん。……さっきの、プレッツェル」
「苗字とかさん付けとか、むずがゆいからやめろって。杏子でいいよ。あたしも玲佳って呼ぶし」
玲佳は、少しだけ迷ってから、口の中でその名前を転がした。
それから、ファミリーレストランに入った。杏子は、玲佳の三倍は食べた。会計のとき、玲佳が財布から一万円札を抜くと、杏子は目を丸くした。
「あんた、金持ちなんだな」
「そうでもないけど」
嘘だった。杏子はそれ以上訊かなかった。
店を出たとき、時計は十一時を回っていた。
「杏子は家に帰らなくていい?」
何気なく訊いたつもりだった。杏子は少しだけ間を置いてから、肩をすくめた。
「帰る家なんか、ないよ」
泊まる場所もない、と杏子は言った。いつもは空いている部屋を適当に見つけて寝ている、と。
玲佳は、駅前のホテルを見上げた。
チェックインの手続きは、玲佳が済ませた。フロントの男は、差し出された現金の厚みを見て、二人の年齢を訊かなかった。
十五階の部屋は、ベッドが二つ並んだだけの、簡素な部屋だった。窓の外に、見滝原の夜景が広がっている。杏子はぬいぐるみを片方のベッドに放り投げ、自分もその上に倒れ込んだ。
「うわ、ふかふか。何ヶ月ぶりだろ、こういうの」
天井を見上げたまま、杏子は言った。
「あたしさ、親父が教会やってたんだ」
唐突だった。玲佳は、窓際の椅子に腰を下ろして、黙って聞いた。
「新しい教えってやつを説いてたんだけど、誰も聞いてくれなくてさ。家は貧乏で、妹と二人で、いつも腹空かしてた。だから、キュゥべえに頼んだんだよ。みんなが親父の話を聞いてくれますようにって」
杏子の声は、他人の話をするときのように平らだった。
「叶ったよ。信者がいっぱい来た。でも、それが全部、あたしの魔法のせいだって親父にばれてさ。魔女だって言われた。それで親父は、母さんと妹を道連れにして死んだ」
杏子は、天井に向かって小さく笑った。
「あたしが祈ったせいで、家族が全部なくなったってわけ。笑えるだろ」
玲佳は、笑わなかった。
何か言うべきだと思った。けれど、何を言っても、杏子の声の平らさを壊してしまう気がした。
杏子は、天井に向かって片手を伸ばし、その掌を眺めていた。
「だから、決めたんだ。魔法は、とことん自分のためだけに使う。他人のためになんか、二度と使わない」
杏子は、それきり黙った。しばらくして、規則正しい寝息が聞こえはじめた。
*
部屋の明かりは、枕元の小さな灯りだけになっていた。
杏子は、ぬいぐるみを抱えたまま眠っていた。寝顔は、昼間の生意気な顔よりずっと幼く見えた。
玲佳は、立ち去るつもりだった。
杏子と一緒にいた数時間は、楽しかった。自分がそう感じたことに、玲佳は驚いていた。楽しいと思ったのが、いつ以来なのか思い出せない。
だからこそ、これ以上一緒にいてはいけなかった。
この子は、あの事務所で何があったのかを見ている。それでも、何も言わずに隣を歩いてくれた。その隣に、人を殺すことしかできない自分がいていいはずがない。
玲佳は、杏子の眠るベッドの端に腰を下ろした。
さようなら、と。
その一言だけ言って、部屋を出るつもりだった。
口を開いた。声が出なかった。もう一度開いた。息が漏れるだけで、音にならない。
頬を、何かが伝った。
それは顎の先で雫になり、眠る杏子の頬の上に落ちた。
「……なに、これ」
指で触れると、濡れていた。
涙だった。
あの日から、一度も流れなかったもの。流れ方を忘れたと思っていたもの。
一粒で終わらなかった。次から次へと溢れて、止め方がわからない。視界が滲んで、杏子の寝顔が見えなくなる。
玲佳は立ち上がろうとした。
その右手首を、掴まれた。
細い指だった。細いのに、振りほどけないほど強かった。
「あんた、何して——」
杏子の声が、途中で止まった。
玲佳は、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ただ、杏子の目が大きく見開かれて、それからゆっくりと細くなっていくのが見えた。
「玲佳……あんた、何一人で泣いてんだよ」
杏子は身体を起こしたが、手首を掴んだ指は緩まなかった。
「そんなに辛いことがあんなら、ちっとは言えよ。……そんなに、あたしが頼りないか?」
その一言で、何かが壊れた。
声を上げて泣いたのは、生まれて初めてかもしれなかった。杏子の腕が、玲佳の頭を胸に引き寄せる。玲佳はそこに顔を埋めて、子どものように泣いた。
泣きながら、話した。
家族が殺されたこと。自分だけが隠れていたこと。箪笥の暗がりで、お父さんとお母さんを天国に連れていってほしいと、キュゥべえに願ったこと。それからずっと、悪い人間を消してきたこと。今夜も、そうしたこと。そんなことをしても、自分が家族を見捨てた卑怯者であることは、何も変わらないこと。
「……玲佳は、卑怯者なんかじゃない」
「私は卑怯者だ! みんな死んだのに、私だけ逃げた! 殺したのは私! 私さえいなければ——」
自分の口から出た言葉に、玲佳は一瞬、息を詰まらせた。
殺したのは、私。
なぜ、そんな言い方をしたのか。考えようとして、嗚咽がそれを押し流した。
杏子の腕に、力がこもった。
「違う。あんたは悪くない。悪いのは、あんたじゃない」
杏子の声も、少し震えていた。
「だからさ、もうやめろよ。なんでもかんでも自分のせいにして、苦しむなよ。……それでもまだ自分のせいだって言い張るんなら」
杏子は、玲佳の頭の上で、長く息を吐いた。
「あたしも一緒に、背負ってやるから。な?」
玲佳は、答えられなかった。答える代わりに、杏子の服の胸元を握りしめて、もう一度だけ大きく泣いた。
杏子、と名前を呼んだ気がする。
それが最後だった。
*
泣き疲れた玲佳は、杏子の腕の中で眠っていた。
杏子は、その白い髪をそっと指で梳いた。絹みたいだ、と思った。指の間を、引っかかりもせずに滑っていく。二度、三度と梳いてから、その手で玲佳の頭をゆっくりと撫でた。
変な奴だった。
魔女の結界の真ん中で、死ぬ気で膝をついていた。周りには、あの有様だった。ああいうことができる奴が、あんなふうに泣くとは思わなかった。
一緒に背負ってやる、と言った。
言ってから、自分で驚いていた。誰かのために何かを言ったのは、あの日以来だった。誰かのために祈った結果を、杏子は知っている。二度とやらないと決めていた。
それなのに、口が勝手に動いた。
杏子は、眠る玲佳の顔を見下ろした。涙の跡が、白い頬に筋になって残っている。
「……ばーか」
小さく呟いて、杏子も目を閉じた。
*
暗い場所で、小さな子どもが泣いていた。
白い髪の、小さな子どもだった。膝を抱えて、誰かを呼んでいる。その頭の上に、手が置かれていた。泣き止むまで、いつまでも撫で続けている。
その手が誰のものか、玲佳にはすぐにわかった。
わかった途端に、また涙が出た。
目を覚ますと、窓の外が白みはじめていた。
杏子は、玲佳の背に腕を回して眠っていた。その腕をそっと外して、玲佳はベッドから抜け出す。杏子は小さく唸って寝返りを打ち、ぬいぐるみを抱き直した。
玲佳は、その寝顔を見下ろした。
「ありがとう。……本当に」
囁くように言った。
「こんな殺すことしかできない化け物を受け入れてくれて」
笑っていた。自分でも、それがわかった。こんなふうに笑えることを、玲佳は知らなかった。
この子を守ろう、と思った。
こんな自分を受け入れてくれたこの子を。一緒に背負うと言ってくれたこの子を。何があっても、誰が相手でも、守り続ける。
窓辺に立つ。夜明け前の空を背に、ガラスが、部屋の中の自分をうっすらと映していた。
白い髪の少女が、笑っていた。
唇の両端が、頬の半ばまで吊り上がっている。さっきまでの笑みとは、似ても似つかない形をしていた。
それが自分の顔だということを、玲佳は不思議と疑わなかった。
「——杏子のためなら、どんな人間でも殺してやる」
ガラスの中の少女が、同じ形の口で、同じことを言った。