魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第七話
目が覚めたとき、窓の外はすっかり明るくなっていた。
佐倉杏子は上半身を起こし、両腕を天井に向けて大きく伸びをした。背骨が小気味よく鳴る。枕元の時計は、八時を少し過ぎていた。
「……いいベッドだと、寝過ぎちまうな」
こんなに深く眠ったのは、いつ以来だろう。夢も見なかった気がする。腕の中に、クレーンゲームで取ったぬいぐるみが収まっていた。杏子はそれを、何となく枕の横に座らせた。
隣のベッドは、空だった。
一瞬、胸の奥がひやりとした。首を巡らせると、窓際の椅子に玲佳が座っていた。細い脚を組み、顎に指を当てて、膝の上の紙をじっと見下ろしている。朝の光が白い髪を透かして、輪郭が溶けたように見えた。
昨夜、この腕の中で泣きじゃくっていたのと、同じ人間とは思えなかった。
「……次は、ここ」
玲佳が小さく呟いて、紙にペンを走らせた。耳を澄ますと、ほかにも何か言っている。まねー、なんとか。聞き慣れない言葉だった。紙には住所のようなものがびっしりと並んでいて、いくつかに赤い印がついている。
昨夜ファミレスで見た、玲佳の財布の厚みを思い出す。あの紙が、あの金と関係があるのかもしれない。自分が魔法を使って店から食い物をくすねていたのと、似たようなものだろうか。
そう考えて、杏子は小さく笑った。そういうことなら、責める筋合いはない。
ベッドから降りて、もう一つの椅子にどさりと腰を下ろす。その音で、玲佳が顔を上げた。
「おはよう」
玲佳はそれだけ言って、また紙に目を戻した。昨夜のことなど、何もなかったような顔だった。
「……お、おう。おはよう」
返した声が、少し上擦った。
誰かと朝の挨拶をするのは、ずいぶん久しぶりだった。あの日から、一度もしていなかったかもしれない。
玲佳は紙を畳んで鞄にしまうと、代わりにコンビニのビニール袋を取り出した。いつの間に買いに行ったのだろう。袋の中から弁当を二つ出して、テーブルの上に並べる。
「どっちがいい?」
「……何が」
「朝ごはん」
見ると、どちらも鮭弁当だった。
杏子は二つを見比べた。蓋の上から見る限り、何も違わない。
「わざわざ訊く意味ねえだろ!」
「そうだけど。ほら、ここ」
玲佳の白い指が、ラベルの一点を示した。杏子は顔を近づける。原材料名の最初の行に、小さな文字が並んでいた。
「こっちが紅鮭で……こっちが、銀鮭?」
「そう」
「……で?」
「どっちがいい?」
玲佳は、じっと杏子を見ていた。口の端が、ほんの少しだけ持ち上がっている。持ち上げ方に慣れていない人間の、ぎこちない形だった。
冗談のつもりなのだ、と杏子は気づいた。気づいた途端に、力が抜けた。
「……もういいや。銀鮭」
銀鮭の弁当が、杏子の前に滑ってくる。玲佳は紅鮭の蓋を開けて、黙々と食べはじめた。
十五分ほどで、二人とも食べ終えた。
荷物をまとめてチェックアウトを済ませ、ホテルの正面玄関を出る。朝の通りは、通勤と通学の人でそれなりに混んでいた。
玄関脇に、ゴミ箱が置いてあった。玲佳は空になった弁当の箱を、五メートルほど手前から軽く放った。箱は緩やかな弧を描いて、ゴミ箱の口にすとんと収まる。
「へえ、やるじゃん」
杏子も真似をして、自分の箱を放った。
途中までは、同じ弧だった。そこへ、ビルの谷間から風が吹き込んだ。軽い箱はあっけなく軌道を変え、ゴミ箱の上を通り過ぎて、その先を歩いていた誰かの頭に、こつんと当たった。
「いっ……」
見滝原中の制服を着た、黒い髪の少女だった。頭を押さえて振り返り、足元に落ちた空き箱と、杏子の顔とを見比べる。その隣には、別の学校の白い制服を着た、銀色の髪の少女が立っていた。
「わりい」
杏子は片手を上げて、それだけ言った。黒い髪の少女が何か言い返そうと口を開いたが、玲佳は足を止めずにその横を通り過ぎていく。杏子も後を追った。
しばらく歩いてから、何となく振り返った。
黒い髪の少女は、もう銀色の髪の少女のほうを向いて、何か文句を言っている。銀色の髪の少女だけが、まだこちらを見ていた。視線の先にいるのは、杏子ではなかった。玲佳の白い背中だった。
市役所の前を過ぎたあたりで、玲佳が不意に足を止めた。
「私の家に住む?」
「はあ?」
あまりに唐突で、杏子は間の抜けた声を出した。
「杏子、帰る家がないって言ってたでしょ」
「……まあ、そうだけどさ」
「だから。私の家に来ない?」
玲佳は、いつもと同じ表情のない顔で言った。弁当のときの、あのぎこちない笑みはない。だから、本気なのだとわかった。
杏子は頭の後ろで手を組み、空を見上げた。屋根のある場所で寝るのは、悪くなかった。一人ではない朝も、悪くなかった。
「まあ、家があるに越したことはないか」
「……ありがとう」
「なんでそっちが礼言うんだよ。普通こっちが言うとこだろ」
玲佳は答えなかった。ただ、ほんの少しだけ歩く速さを落として、杏子の隣に並んだ。
*
四時間目の体育が終わり、着替えを済ませて一人で廊下を歩いていたとき、後ろから名前を呼ばれた。
「まどか」
振り返ると、暁美ほむらが立っていた。
「ほむらちゃん。どうしたの?」
「お昼、一緒に食べられないかしら。話があるの」
まどかは少し驚いてから、笑って頷いた。
「うん、いいよ。じゃあ、さやかちゃんたちには内緒にしといたほうがいい?」
「そうしてもらえると助かるわ」
屋上には、ほかに誰もいなかった。春の風が、フェンスの網目を鳴らして吹き抜けていく。見上げると、雲ひとつない空が、どこまでも青く続いていた。
ベンチに並んで腰を下ろす。まどかは膝の上で弁当の包みを解いたが、ほむらの手には何もなかった。
「ほむらちゃん、お弁当は?」
「もう食べたわ」
「そっか」
いつ食べたのだろう、と思った。けれど、ほむらの横顔が早く本題に入りたがっているように見えて、まどかは口をつぐんだ。
「それで、話って?」
「魔法少女の、本当のことよ」
箸を持つ手が、止まった。
本当のこと。その言い方が、嫌だった。魔法少女ではない自分だけを呼び出して、人のいない場所で話すような本当のことが、いい話であるはずがない。
「魔法少女は、希望の象徴だと言われている。でも、そうじゃない」
ほむらは淡々と話しはじめた。
ソウルジェムは、魔力の源などではない。契約したときに身体から抜き取られた、その子の魂そのものだという。だから、ソウルジェムから百メートル以上離れると、身体は動かなくなる。死んでしまう。
まどかの背中を、冷たい汗が伝った。
マミの掌の上で光っていた、蜂蜜色のソウルジェム。あれが、マミ自身なのだ。
ソウルジェムが濁りきったとき、それはグリーフシードに変わる。魔女の卵に。
つまり、魔法少女は、いつか魔女になる。
「……そんなの」
声が掠れた。弁当の卵焼きが、箸の先で崩れていた。
「そんなの、ひどいよ。だって、みんな、誰かのために願って……」
「ええ。ひどい話よ」
ほむらは、否定しなかった。
「マミさんは、知ってるの?」
「知らないわ。……知ったら、あの人はきっと耐えられない」
風が吹いて、まどかの結んだ髪を揺らした。
ほむらの声は、最後まで抑揚がなかった。それなのに、何度も同じことを言ってきた人の声のように聞こえた。
「まどか、大丈夫?」
「……うん。大丈夫」
それきり、二人とも黙った。
まどかは、崩れた卵焼きを口に運んだ。それから、ご飯を。唐揚げを。味は、よくわからなかった。弁当箱が空になるまで、黙って箸を動かし続けた。そうしていないと、胸の中で膨らんでいくものに押し潰されそうだった。
最後の一口を飲み込んで、水筒のお茶を飲む。蓋を閉めてから、まどかは顔を上げた。
「ほむらちゃん。わたしに、手伝えることないかな」
ほむらが、わずかに目を見開いた。
「ほむらちゃんは、みんなを助けるために動いてるんだよね。だから、わたしに話してくれたんだよね」
少しの沈黙があった。ほむらは、まどかから目を逸らして、青い空のほうを見た。
「……一つ、お願いしてもいいかしら」
ほむらが話したのは、作戦だった。
細かいところはわからなかったけれど、要するにそれは、ほむらと、マミと、さやかと、みんなが仲良くなるための作戦だった。
「任せてよ、ほむらちゃん!」
まどかが胸を叩くと、ほむらは小さく息を吐いた。
笑った、のだと思う。ほんの一瞬、口元が緩んだだけだった。それでも、この転校生が笑うところを、まどかは初めて見た。
予鈴が鳴った。二人は、同時に立ち上がった。