魔法少女まどか☆マギカ 〜純白の魔法少女〜 作:LongLong
第八話
見上げると、首が痛くなった。
白い壁の塔が、何本も輪を描くように並んでいた。数えると十本あった。どれも三十階はありそうで、上のほうでは空中の渡り廊下が、塔と塔を繋いでいる。
「……なんだ、これ」
「マンション」
玲佳は、それが当たり前のことのように言った。
A棟からJ棟まで、全部で十棟。棟ごとに入口があり、空中と地下の通路で繋がっていて、全体で一つの建物になっている。歩きながら玲佳がそう説明するのを、杏子は半分も聞いていなかった。
通り過ぎざまに、外壁を指の腹でなぞってみる。滑らかな白い壁だった。その一枚奥に、何か別のものが詰まっている手応えがあった。魔力で探るまでもない。ただの壁ではなかった。
「どんなマンションだよ……」
「私の部屋は、E棟の二十五階」
E棟の入口は、ガラスの自動ドアだった。透き通っていて、開放的に見える。その厚みを見て、杏子は口笛を吹きそうになった。爆弾くらいなら平気で弾きそうだった。
玲佳がラミネート加工のカードを取り出し、読み取り機にかざす。ドアが開いた。
「カードで開くのか」
「ってことになってる」
玲佳はカードを握った指先を、軽く持ち上げてみせた。
「本当に見てるのは、こっち。カードを持った人の指紋」
管理室で杏子の分のカードを作ってもらい、エレベーターに乗る。揺れも音もなく、表示の数字が見る間に増えていった。二十五階まで、数秒しかかからなかった。
「どうぞ」
玄関のドアの向こうは、杏子が見たこともないくらい広い部屋だった。
床は傷ひとつないフローリングで、窓の外には見滝原の街が小さく広がっている。一人暮らしだと聞いていたのに、どこにも物が散らかっていなかった。リモコンはテレビ台の上に、大きさの順に並べてある。壁際のアンティーク調の飾り棚には、なぜかワインのボトルとグラスが飾られていた。
杏子はリビングのソファに腰を下ろすと、背中から深く沈み込んだ。
「すっげ。玲佳、綺麗好きなのか?」
「そうでもないけど。杏子は、あの部屋を使って」
玲佳が指さしたのは、リビングの端にある木のドアだった。
「ベッドも机も、一通り揃ってるから」
「わかった。んで、明日からはどうすんの?」
「好きにしてていい。平日は学校に行ってるから、朝とお昼は適当に済ませて。作れる日は作るけど」
そう言うと、玲佳は自分の財布から一万円札を何枚か抜いて、予備の財布に入れた。それを杏子に差し出す。
「とりあえず、これで足りる? 足りなかったら言って」
杏子は財布を受け取って、中を覗いた。もう一度、覗いた。とりあえず、という額ではなかった。
「……あんた、本当に何者なんだよ」
玲佳が何か答えるより先に、別の声が部屋に響いた。
「やあ、杏子。この街に戻ってきたんだね。いや、玲佳が連れてきた、と言ったほうが正しいかな」
いつの間にか、飾り棚の上に白い獣が座っていた。赤い目が、二人を等分に見下ろしている。
「……だから?」
玲佳の声が、一段低くなった。
杏子は思わず、玲佳の横顔を見た。さっきまでと同じ顔だった。声だけが、背筋の冷えるような温度をしていた。キュゥべえのほうは、慣れているのか、尻尾を一度揺らしただけだった。
「連れてくるのは構わないよ。ただ、見滝原には玲佳のほかに、もう二人魔法少女がいる。そこに杏子まで加われば、ちょっと多すぎる」
「二人? 一人はマミだろ」
「そう、君もよく知っているね。それから、マミのそばには素質のある子が二人いる。いつ契約してもおかしくない」
キュゥべえは、首を少しだけ傾げた。
「もう一人は、とびきりのイレギュラーだ。僕には、あの子と契約した覚えがない」
「はあ? そんなことあるのかよ」
「だからイレギュラーなんだよ。暁美ほむら。あの子には気をつけたほうがいい」
杏子は鼻を鳴らした。
マミの顔が、頭に浮かんだ。最後に会ったのは、もうずいぶん前だった。あの頃のことは、あまり思い出したくない。
杏子はソファから身体を起こし、ポケットのプレッツェルを一本くわえた。
「ふん。ま、いいさ。要するに、全部ぶっ潰しちまえばいいんだろ」
ぽきり、と歯で折る。
「全員」
隣で、玲佳が小さく頷いた。
「杏子がそうしたいなら、そうする」
その声は、もう元の温度に戻っていた。
杏子はプレッツェルを噛みながら、玲佳の白い横顔を盗み見た。キュゥべえに向けたさっきの声と、今の声と。どちらが本当の玲佳なのか、杏子にはまだわからなかった。
*
「まったく、恭介の奴。せっかくさやかちゃんが来てやったってのに、都合が悪いってどういうことよ」
病院の正面玄関を出たところで、さやかは紙袋を振り回した。中には、恭介の好きなヴァイオリニストのCDが入っている。今日は渡せなかった。
肩の上で、キュゥべえが身体を揺らした。
「まどかはまどかで、最近ずっと転校生とこそこそ会ってるし」
「そういえば、まどかは暁美ほむらと話すようになってから、契約にはあまり興味がなさそうだね」
「そうなの? もう、何がどうなってんのよ……」
ぼやきながら、何気なく病院の外壁を見上げたときだった。
白い壁に、黒いものが突き刺さっていた。
遠目には、ただの汚れに見えた。近づくと、それが卵の形をしていて、下の端から針のようなものが壁に食い込んでいるのがわかった。表面から、黒い煙のようなものが細く立ちのぼっている。
つい先日、マミの掌の上で見たのと、同じ形だった。
「これ、グリーフシードじゃん……!」
「しかも、まずいことに孵化しかかってる」
キュゥべえの声は、いつもと同じ調子だった。それが、かえって怖かった。
「ど、どうしよう」
「マミを呼ぼう。僕が中継すれば、テレパシーが届く」
さやかは頷き、目を閉じて、頭の中で叫んだ。
『マミさん!』
『美樹さん? どうしたの、そんなに慌てて』
『病院に、グリーフシードがあるんです! 孵化しかけてる、とびきりヤバいやつ!』
『わかったわ。すぐに行く。そこで待っていて』
声が途切れた。さやかは、ごくりと唾を飲んだ。
壁の中の卵が、脈打つように揺れた気がした。
「そろそろ結界が広がる。さやかは離れていたほうがいい」
「……ううん。あたし、残る」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「ここには恭介がいるの。恭介だけじゃない、病気の人がいっぱいいる。あたしが見張ってないと、マミさんが来たとき、どこにあるかわかんなくなるでしょ」
「危険だよ」
「わかってる。いざとなったら、あんたと契約すればいいんでしょ」
キュゥべえは、何も言わなかった。
次の瞬間、足元の地面が溶けるように形を失った。白い壁が、甘い匂いのする何かに塗り替えられていく。さやかとキュゥべえの身体は、その中へ呑み込まれていった。
*
結界の中は、お菓子の匂いで満ちていた。
床は板チョコのように四角く区切られ、壁からはクッキーの柱が生えている。天井からは、包み紙にくるまれた飴玉が、いくつも吊り下がって揺れていた。
巴マミは、足音を殺して歩いた。魔力に反応すると、卵が早く孵ってしまう。
一歩ごとに、足が軽かった。
すぐ後ろを、鹿目まどかがついてくる。息を詰めて、マミの背中だけを見て歩いている。その視線が、背中にくすぐったかった。
誰かが後ろにいる。それだけで、結界の甘ったるい空気さえ、少しも重く感じない。一人で魔女を狩るようになってから、こんなふうに歩いたことは一度もなかった。
今の自分なら、どんな魔女が相手でも負ける気がしない。
「マミさん」
まどかが、囁くような声で言った。
「わたし、すごく嫌な予感がするんです。だから……ほむらちゃんと、一緒に戦ってもらえませんか」
マミは足を止めた。
振り返ると、まどかは真剣な顔をしていた。冗談で言っているのではなかった。
「……私一人じゃ、心配かしら」
笑って言ったつもりだった。笑えていたかどうか、自分ではわからなかった。
よりによって、あの子と。あの夜、公園で、二度と会わないように気をつけてと言った相手だった。キュゥべえを撃った。鹿目さんだけは契約させないと言った。何を考えているのか、今も一つもわからない。
「鹿目さん。あの子は——」
「ここよ」
すぐ後ろで声がして、マミは危うく声を上げるところだった。振り向くと、いつからそこにいたのか、暁美ほむらが変身した姿で立っていた。
「……盗み聞き? あまりいい趣味とは言えないわね」
「まどかに呼ばれたの。あなたが断るなら、私は一人で行くわ」
マミは、まどかを見た。まどかは申し訳なさそうに肩をすくめていたが、目だけは逸らさずにマミを見返していた。
マミは、ほむらに向き直った。
「一つ、訊かせてちょうだい。どうして手を貸すの? 新しい魔法少女が増えるのが嫌なら、私がここで倒れたほうが、貴女には都合がいいはずでしょう」
ほむらは、すぐには答えなかった。
「……この魔女は、あなた一人では危ない」
一人では危ない。
その言葉が、胸の真ん中に落ちてきた。さっきまで身体を浮かせていたものが、音もなく沈んでいく。
「根拠は?」
「言えないわ」
「それじゃ、話にならないわね」
「ええ。だから、信じてほしいとは言わない」
ほむらは、結界の奥の暗がりに目をやった。
「ただ、私はあなたを後ろから撃たない。撃つつもりなら、あの夜の公園で撃っていたわ」
理屈は、通っていた。あの夜、自分も撃たなかった。撃てる距離にいて、撃たなかったのはお互い様だった。
マミは、ほむらの顔を見つめた。表情は、公園のときと同じように動かない。ただ、その目の奥に、急いでいるような色があった。何かに間に合わせようとしている人の目だった。この子がそんな目をするところを、マミは初めて見た。
この子は、本気で言っている。ここで私が死ぬかもしれないと、本気で思っている。
鹿目さんも、同じだった。嫌な予感がする、と言ったのは、そういうことだった。
さっきまでの足の軽さが、急に恥ずかしくなった。後ろで見ていてくれる子がいるだけで、何も怖くないような気になっていた。二人とも、その背中を見て、怖がっていたのに。
「……公園でのこと、私は謝らないわよ」
「謝ってほしいなんて、言っていないわ」
マミは、長く息を吐いた。
「わかったわ。今日だけよ」
声は、自分で思っていたよりも低かった。
まどかの顔が、ぱっと明るくなった。ほむらは、小さく頷いただけだった。
「それで十分よ。……一つだけ。とどめを刺したと思っても、気を抜かないで」
「私を誰だと思っているの?」
言い返してから、少しだけ後悔した。沈んだものを、意地で押し戻そうとしているのが自分でもわかった。
ほむらは、答えなかった。
「行きましょう」
結界の最奥に、魔女はいた。
部屋に踏み込んだとき、壁際に置かれた巨大なティーカップの陰から、青い髪がのぞいているのが見えた。さやかだった。膝を抱えて身を縮め、肩の上のキュゥべえと一緒に、こちらをうかがっている。目が合うと、泣きそうな顔で、唇だけを動かした。マミさん、と。
『そこにいて。出てきちゃだめよ』
テレパシーで伝えると、さやかは何度も小さく頷いた。
魔女は、背の高い椅子の上に、ちょこんと座っている。小さな人形のような姿だった。大きな目と、丸い頭。脅威というより、子ども部屋の飾りのように見えた。
その椅子の脚の陰から、小さなものが次々と湧き出してきた。白いナプキンを首に巻いた、小さな給仕のような使い魔たちだった。手に手に、身の丈ほどもあるフォークやナイフを掲げている。十、二十。かちかちと食器を鳴らしながら、部屋の四方から押し寄せてくる。
「鹿目さん、下がって」
マミは、スカートの裾を払うように片手を振った。
宙に、マスケット銃が並んだ。一挺、二挺。十挺を超えたところで、数えるのをやめた。
指を鳴らす。並んだ銃口が、一斉に火を噴いた。先頭の使い魔たちが、粉砂糖を撒いたように白く弾けて消える。
撃ち終えた銃を投げ捨て、次の銃を掴む。くるりと身を翻して、背後に回り込んだ一体を撃ち抜く。リボンが床を走り、跳びかかってきた三体をまとめて絡め取って、天井の飴玉の間に吊るした。
踊っているようだ、と自分でも思った。
ほむらは、部屋の入口に近いクッキーの柱の前に立っていた。腕を組んで、こちらを見ている。手を出す気配は、まるでなかった。目だけが、使い魔ではなく、椅子の上の小さな魔女から一度も離れなかった。
見ていなさい、とマミは思った。一人でも、危なくなんかない。
最後の一体が、フォークを振りかぶった。マミはその額に銃口を当てて、軽く引き金を引いた。
チョコレートの床の上に、白い粉が薄く積もっていた。椅子の上の魔女は、その間じゅう、少しも動かなかった。
マミは一歩前に出て、両手を広げた。
リボンが走る。黄色い帯が魔女の身体を椅子ごと縛り上げ、宙に吊り上げた。マミの手元に光が集まり、身の丈を超える大砲の形を結ぶ。
「ティロ・フィナーレ!」
光の塊が、小さな魔女の胴を正面から撃ち抜いた。
手応えがあった。人形の身体が、ぐにゃりと力を失う。背後で、まどかが息を吐く音がした。
胸の奥で、さっき沈んだはずのものが、また浮き上がってくるのがわかった。やれる。今日は、一人ではない。後ろには見てくれている子がいて、隣には並んで戦おうとしてくれる子がいる。
「巴マミ。ここからよ」
ほむらの声が、背中に刺さった。
撃ち抜かれた人形の口が、大きく開いた。
その奥から、何かが溢れ出してきた。黒くて、長くて、太い。蛇のような胴に、道化の仮面のような顔がついている。人形の小さな身体の、何十倍もの大きさだった。それが一瞬で宙を渡り、マミの目の前に来ていた。
大きく開いた口の中に、白い牙が並んでいるのが見えた。
身体が、動かなかった。
その牙が閉じるのを、マミは見なかった。
気がつくと、マミはさっきとは違う場所にいた。
十メートル以上離れた、クッキーの柱の陰。誰かの腕に抱えられている。見上げると、暁美ほむらの顔があった。
瞬きをした覚えは、なかった。牙の奥の暗さが、まだ目の裏に焼きついている。
「……っ」
声が出るまでに、少しかかった。
「ありがとう、暁美さん。助かったわ」
ほむらは答えず、マミを床に降ろした。
次の瞬間には、もうそこにいなかった。
黒い胴をうねらせていた魔女が、急に動きを止めた。ぶるりと震え、それから内側から膨れ上がる。
轟音が、結界全体を揺らした。魔女の口と、胴のあちこちの裂け目から、熱風と黒煙が一気に噴き出す。巨体がゆっくりと傾き、飴玉の吊り下がった天井を巻き込みながら、床に崩れ落ちた。
結界が、ほどけはじめた。お菓子の壁が色を失い、病院の薄暗い廊下が戻ってくる。
「……終わったわね」
黒煙の中から、ほむらが歩み出てきた。
まどかが駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。ティーカップの陰から這い出してきたさやかも、キュゥべえを肩に乗せたまま、ぽかんと口を開けている。マミも、同じ顔をしていたと思う。
「ほむらちゃん……それ」
「何?」
ほむらは怪訝そうに眉を寄せた。三人とも、何も言えなかった。
沈黙に耐えかねて、マミが口を開いた。
「暁美さん。身体、煤で真っ黒よ」
「え?」
ほむらは、自分の両手を見下ろした。
白かったはずの指先が、真っ黒だった。