近頃、街で噂になっている話がある。毎晩、墓地からナニカが出てきて、ちょっと歩いて消えていく。ただ、毎晩少し、ほんの少しだけ。進む距離が伸びているとか、なんとか。
コンクリートの森の中、今時珍しい木造建築。大きな家の畳張りの一室で男が二人向かい合っていた。片方は白い髪の優し気の目つきをした男。もう片方は黒髪の鋭い目つきをした男だ。
「薙は聞いてるか、最近の噂話」
先に口を開いたのは黒髪の方だった。薙と呼ばれた白髪の男は、ふむ、と顎に手を当てて考え込む。数秒の思考の後、合点がいったのか、ああ、と声を出した。
「墓地から幽霊が出てくるっていう話かい? 聞いたとも。しかし、弾からそんな話が出てくるとは驚いたね」
「俺だって噂くらいは耳に入る。それに、今回はちょっと気になることもあってな」
薙の口元が少し引き締まる。彼と弾の付き合いは決して浅くない。本気の話か冗談の話かは雰囲気で分かるものだ。
「その出てくる幽霊だが、毎晩歩く距離が伸びてるってのは知ってるか?」
いや、と薙は小さく首を横に振った。そもそも、今の彼に幽霊だとかそういう話を出す人間は少ない。件の幽霊の噂も人が話しているのがたまたま耳に入っただけだ。それも当然のこと、数日前に妹を亡くしたばかりの薙の前でそういった話をする人間はそういない。
「距離が伸びるって聞いて考え得る理由はそう多くねぇ。ただ墓地から離れたいか、自分が死んだことに気づいてないか……」
そこで、一度切って弾は茶を飲んだ。ゴクリ、と喉が動き、はぁ、と息が漏れる。ゆっくり茶器を置いて弾は再度口を開いた。
「どこかに向かってるか、だ」
薙を見ながら弾ははっきりとそう言った。こう言われて、真意が分からないほど鈍感でもない。つまるところ、弾はこういっているのだ。件の幽霊はここに向かっているのだ、と。
「君とは長い付き合いだから、本気なのは分かる。普段、こういう都市伝説だとかそういうものに興味を示さない君が言うのだから猶更ね。ただ……」
信じられない、沈黙は暗にそう語っていた。弾も、それが当然とばかりに頷く。
「だが、心当たりはあるはずだ。なんとなく察してるだろ」
静かに薙は目を伏せた。弾が言わんとすることの全容が見え始めていた。
「その件の幽霊が……僕の妹だと、そう言うつもりかい」
おう、と弾は返した。薙の手に少し力が入る。彼がいくら本気であっても、まだ悲しみが癒えきっていない中、そういう話をされるのは頭に来る。それでも話を切り上げないのは彼の目的が分かっていないからだ。
「結局君はなにがしたいんだい? ただその話をしに来た訳じゃないだろう」
声には若干の不機嫌さが混じっている。その言葉を受けた弾は少しばつが悪そうな顔をした。
「それは、その。幽霊の話を聞いた時から心配でしょうがなくてな。本当に幽霊があいつだった場合、お前は喜んでついていきかねないだろ?」
薙は目を丸くして固まっていた。この男は何も考えずに、ただ心配だから、と駆けつけたのだ。それがなんだかおかしくて、手に込めた力も抜けていく。一拍おいて、部屋に笑い声が響き渡った。
「心配せずとも後追いなんて真似はしないよ。私は。あの子も、そこまでわがままじゃない。確かによく懐いてくれてはいたけれどね」
「ま、それに関しては概ね同意だ。俺も死んでることに気づいてなくてただ帰ってこようとしてるだけだとも思う。だが、万が一を捨てきれない。あいつがこれと決めた時の行動力の怖さはお前が良く知ってるだろう」
まぁね、と薙は答えた。確かにそうだ。どこへ行くにも彼女が一緒だったのは、彼女が自分の手を引いていったからである。素晴らしい景色も、これ以上ない美食も、全てを共有したがるのが彼女だった。
「しかし、噂通りならここまで来るのに時間もかかるだろう。それまでに対策を考えればいいさ。もし間違って帰ってきているのなら、その時は迎え入れて話して、送り返してやろう」
そう言いながら、薙はちらりと外を見た。既に太陽は沈み切っていて、月も今日は見えない。
「今日は泊まっていくといい。幽霊の話なんかしているから怖くなってしまったよ」
「そんな柄でもないだろ、お前」
男二人の笑い声が部屋に響く。親友二人は、平和に眠りについた。幽霊騒ぎなど、とんと忘れて。
ゆらり、とナニカはそこに現れた。かろうじて人の形を保ってはいるが、それ以上の情報は無い。ただ、ひっそりと歩を進め始めるのみだ。一歩、二歩と歩む。ある二人を想いながら。三歩、四歩、歩む。寂しさをより早く忘れられるように。五歩、六歩。昨日はここで歩みを止めた。まだ機では無かったから。七歩、八歩、九歩、十歩。歩みが止まるkとは無い。今日は機であるから。ゆっくりと、されど確実に。ナニカは歩みを進めていた。
ふと、弾は目を覚ました。音がしたわけでもなんでもない。ただ、意識が持ち上がった。横を見れば薙はまだ夢の中だ。水でも飲もうと立ち上がる。この家は無駄に大きいから台所まで行くにも一苦労だ。くぁ、とあくびをしながら静かな廊下を進む。歩いている途中、玄関の方から気配がした。ここに来た理由を思い出す。幽霊が来た?いや、早すぎる。墓地からここまで数キロはある。少しずつしか進めないのなら、あと数か月はかかってもおかしくない。嫌な汗が背筋を伝う。横開き式の戸が動く様子はない。だが、依然として気配はあった。そういえば、幽霊はこちらから迎え入れなければ大丈夫だという。ならば、このまま閉めたままにしておけば大丈夫なのだろうか。思考を巡らせていると、かた、と音がした。扉が揺れている。大丈夫だ、このまま閉めておけば、と思った時、寝室から音がした。戸の音で起きたのだろうか。こちらに向かってくる足音。嫌な予感がした。薙は霊を迎え入れるつもりでいた。今ここに来たらまずい、と来る人影を手で制す。「薙、開けるな! 多分、ダメな奴だ。妹ですらないかも……」
「いいや、あの子だよ」
薙の足は止まらなかった。まるで本当に妹が帰ってきたように玄関へ行き、自然に戸を開ける。馬鹿、という暇すらなかった。ただ戸の前にいるナニカが目に入って、意識が薄れていく。悲し気な目つきでこちらを見る薙の顔が最後に目に映った。
「すまないね」
倒れ伏した弾を見ながら、薙は呟く。戸は依然開いたままだがナニカは既にこの家への興味を失ったようだった。
「行くのかい」
ナニカに背をむけたまま、薙は声を掛けた。返答はない。ただ発声する手段がないのか、それとも興味が無いのか、どちらなのかは分からない。ひとりでに戸が閉まった。これで本当にお別れだ、と薙は思う。既に冷たくなった弾を見ながら薙は口を開く。
「君はあの子が私を連れていこうとしている、と考えていたようだけれど、とんだ勘違いだ。あの子が欲しかったのは君だよ。生前からずっとね。色々下見には付き合わされたけれど、全て君のためだ。」
簡単な話、彼女は恋慕していたのだ。いつからかは分からないが、長い間、ずっと。幽霊の噂を聞いた時もあの子がやっているだろうことは察しがついたし、狙いもなんとなくわかった。噂になれば、きっと彼はここにくるだろうと考えて、わざと少しずつ進んだ。ここにこさせたのは、僕は手伝うだろうと考えていたから。実際、妹を守り切れなかった後悔は彼女の作戦に加担させるのに十分だった。
「うん、あの世の下見には付き合えなかったけれど……きっといい旅になるだろうね。二人が一緒なら」
怖い話についてを授業で習った事を思い出して書いてみた作品です。一端の創作者としては恥ずかしい話なのですが、怖い話が苦手で、ほとんど読まずに今まで生きてきました。なので、かなり雰囲気で書いています。