第0話 礼【おかわり】
六百人分の昼食が、消えた。
食器は残っていた。
白い皿。スープ皿。小鉢。箸。
それらは配膳された時と同じように、きちんとトレーの上に並んでいる。
ただし、全部空っぽだった。
煮込みハンバーグも、付け合わせの野菜も、ポテトサラダも、スープも、ご飯も。
誰かが丁寧に食べ終えて、食器まで洗い、元の位置に戻したみたいに。
「……一口も?」
「はい」
「六百人分、全部?」
「はい……」
給食部の愛清フウカは、空の皿を持ったまま頷いた。
腕の中の食器は、もう随分冷めている。
それでも手放せないのは、もう一度見れば料理が戻っているかもしれないと思っているからだろうか。
私は、もう一度配膳台を見た。
やっぱり何もなかった。
「先生」
背後から、ひどく穏やかな声がした。
「そのように凝視なさっても、お料理が発生することはありません」
「知ってるよ」
「では、調査を始めていただけますか。先生の食欲については、既に十分な資料がありますので」
「誰が資料にしたの?」
「昨日、シャーレの食費から自動生成された」
「それ資料じゃなくて悲鳴だからね」
振り返ると、金髪の男がにこやかに立っていた。
私の助手。
ということになっている、脳噛ネウロである。
実際には、私がこの男の助手みたいなものだ。
ただ、それを正直に書くと色々な書類が面倒になるので、名刺の上では私の方が偉い。
私――桂木弥子の、今の肩書きは二つ。
一つは探偵。
もう一つが、連邦捜査部シャーレの「先生」だ。
巨大な学園都市、キヴォトス。
数え切れないほどの学校が集まり、生徒たちが銃を持って歩き、通学路の補修工事が砲撃で中断される街。
今朝もシャーレへ来る途中、
『廊下を走る生徒を捕まえるため、廊下そのものを走らせます』
という看板を背負った六本脚の機械が、廊下を時速六十キロで駆け抜けていった。
何を言っているのか分からないと思う。
私も分からない。
ネウロは一度も見なかった。
この街に来てから、そういうことが増えた。
そこで私は、行方をくらませた連邦生徒会長が残した仕事を引き受けている。
引き受けた仕事の範囲に、給食の消失事件まで入っているとは思わなかったけれど。
「桂木先生。こちらが、現在までに確認できた状況です」
書類を差し出したのは、ゲヘナ学園風紀委員会の行政官、天雨アコだった。
きっちり揃えられた資料。
抜けのない現場図。
寝不足を化粧と気合で押し隠した顔。
いつも通りだった。
ただ、右手の端末には、
『第三倉庫で火災』
『消火班と放火犯が交戦中』
『放火犯も消火に参加』
『消火後、放火犯が消火班へ感謝状を要求』
と、一件の事件が人間の尊厳を置き去りにしながら順調に進んでいる。
「十一時五十分、給食部が配膳を完了。直後、配膳室の防犯警報が作動しました」
アコは通知を一括で消しながら説明した。
「職員と生徒は退避。出入口の防爆シャッターが閉まり、配膳台の保護カバーも自動で降下しています」
「誰かが襲ってきたの?」
「その形跡はありません。誤作動か、故意の警報です。安全確認後に解錠したところ、ご覧の有様でした」
彼女が空の皿を示す。
「出入口の監視映像は途切れていません。シャッターの破壊痕もなく、換気口から六百人分の料理を運び出した形跡もない。少なくとも、料理を持った誰かが出ていったわけではありません」
ネウロが資料をめくった。
「素晴らしい」
「……何がです?」
「我々が到着するまでに必要な初動調査がほぼ完了しています」
アコの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「当然です。風紀委員会の行政官として――」
「では追加で、この設備の導入履歴、保守記録、警報系統、納入業者、過去三ヶ月の部品購入記録、給食部予算の差分、支援物資発注履歴を」
「…………」
「アコさんほど優秀な方なら、三十分ほどでしょうか」
「今の『素晴らしい』、前振りだったんですか!?」
「まさか」
ネウロは爽やかに微笑んだ。
「前振りにしては短すぎます」
「問題そこじゃありません!」
ネウロが一枚の紙を追加した。
「こちらに調査項目をまとめておきました」
アコが受け取る。
紙の右上には。
『全八十二項目』
「増えてるじゃないですか!!」
「安心しろ。重複する照会先は統合してある」
「何で急に命令口調なんです!?」
「今のは独り言です」
「私に向かって言いましたよね!?」
ネウロは既にこちらを向いていた。
「先生。現場を」
「切り替え早っ」
後ろでアコが紙を凝視していた。
「……二十八番と三十四番、一括で取れる……四十一から五十六も同じデータベース……」
ぶつぶつ言い始める。
そして数秒後。
「本当に三十分で終わるように作ってあるのが一番腹立つんですが!!」
ネウロは振り返らなかった。
口元だけが、少し上がっていた。
「料理だけが、自分で出ていったとか」
私が言うと、フウカがこちらを見た。
私もフウカを見る。
「……ジュリの作ったものは、今日はまだ配膳していません」
「ごめん」
謝るしかなかった。
ここでは、料理に逃走能力がある場合も、ない場合もある。
その確認から始めないといけないのが、地球との大きな違いだ。
食堂の外で、乾いた発砲音が三つ鳴った。
続いて、
「パンの列に割り込まないでくださーい!」
という拡声器の声。
「外は?」
「緊急の食料配布です。幸い、支援物資の備蓄がありましたので」
アコはそう答え、窓際に立っていた私の肩を、さりげなく壁の方へ押した。
「先生は、こちらへ」
その直後、窓の外を跳弾が走った。
鞄の中の端末が、ぽん、と青く光る。
『先生! 窓から離れていてくださいね!』
「うん。ありがとう、アロナ」
ネウロが跳弾の跡を見た。
「三センチ右なら当たっていたな」
「そういう情報いらない」
「四センチなら髪だけで済んだ」
「さらにいらない」
「五センチなら――」
「細かく刻むな!」
頭の上に光る輪――ヘイローを持つ生徒たちは、私たちの世界の人間より、ずっと頑丈だ。
それでも怪我はするし、痛くもある。
そして、ヘイローのない私には、その頑丈さすらない。
生徒たちと、シッテムの箱の中にいるアロナが気を配ってくれなかったら、探偵を続ける以前に、お昼を迎えられない日がある。
「フウカ。配膳室はこのままにしておける?」
「はい。ジュリには、調理室で待っていてもらっています」
「じゃあ、外の様子も見てくるね」
ネウロが一歩、私の後ろについた。
その口元が、僅かに上がっている。
料理がなくなったというのに。
――当然か。
この魔人にとっては、料理がなくなった今の方が、おいしそうなのだ。
◆
中庭には、長い列ができていた。
列の先には、折り畳み式のテーブル。
その上には、個包装のパンと紙パックの飲料。
さらに、その向こうに、笑顔の女の子が一人。
「どうぞ。慌てなくて大丈夫です。全員分、ありますから」
角の根元に細いリボンを結び、胸元に小型カメラをつけている。
腕章には、丸い文字で『給食支援』。
礼堂ミトリ。
以前、シャーレにも備蓄食料の申請書を持ってきた生徒だ。
給食部員ではないけれど、食堂が使えなくなった時の物資配布や、支援活動の記録を、自分から買って出ている。
実際、ゲヘナでは出番の多い仕事だった。
というより、ゲヘナでは「平穏時に備えた緊急用物資」が平穏時に消費されるので、補充の方が緊急業務だった。
「あ、先生! 来てくださったんですね!」
私たちを見つけると、ミトリは嬉しそうに手を振った。
「フウカ先輩、大丈夫そうでしたか?」
「うん。怪我はしてない。ただ、ちょっと落ち込んでるかな」
「そうですよね……。一生懸命作ったものが、全部なくなっちゃったんですもの」
ミトリは眉を下げた。
「今日は私がこちらを担当します。先輩には、ゆっくりしていてもらってください」
「助かるよ」
その瞬間、ミトリの胸元で、小さなランプが点いた。
カメラだ。
私の視線に気づくと、彼女は照れたように笑った。
「活動記録です。こういうの、残しておくと、次の支援をお願いする時にも便利なので」
「なるほど」
横から、ネウロが感心したように頷いた。
「実績を、具体的な形で残していらっしゃるのですね」
「はい! 皆さんの声って、一番大事だと思うんです」
ミトリは次の生徒にパンを手渡した。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ランプが点く。
「礼堂ミトリです。また困ったら、声をかけてくださいね」
その次の生徒にも。
「はい、どうぞ」
「ありがとー」
ランプが点く。
その次の生徒は、パンを受け取るなり、列の外へ走り出そうとした。
ミトリの手が、その子の袋をそっと押さえた。
「慌てなくても大丈夫ですよ」
「あ……すみません」
「うん。それから?」
一拍、間が空いた。
「……ありがとう、ございます」
ランプが点いた。
ミトリは笑って、手を離した。
「どういたしまして」
その子が、今度はゆっくり歩いていく。
私は少しだけ、その後ろ姿を見送った。
「先生にも、どうぞ」
差し出されたパンを受け取る。
「ありがとう。お金は後で――」
「いいんです! こういう時のための支援物資ですから」
ミトリのカメラが光った。
私は袋を開けた。
ネウロが、私の手元を見下ろす。
「調査中ですが」
「調査は口を動かしててもできるから」
「その場合、動かすのは舌であって顎ではないと思いますが」
「両方動かす」
「欲張りですね」
「誰に言ってるの?」
パンは、普通においしかった。
少し乾いていて、飲み物が欲しくなる、備蓄用のパンだった。
「それにしても、大変なことになりましたね」
ミトリが食堂の方を振り返った。
「誰も入っていないのに、料理だけなくなるなんて。原因が分かるまで、給食はお休みにした方がいいかもしれません」
「それは、調べてからだね」
「でも、もしまた起きたら、先輩たちが可哀想です」
心配そうな声だった。
ちゃんと、心配そうに聞こえた。
「無理して作らなくても、こうして配れるものはありますし。皆さん、喜んでくれていますから」
ミトリは、並んだ生徒たちを見た。
正確には。
自分からパンを受け取り、何かを言ってくれる、その瞬間の顔を見ていた。
◆
「……で?」
配膳室へ戻る途中、ネウロが訊いた。
他の生徒がいない廊下では、丁寧な助手は休業する。
「何か見つけたか、ヤコ」
「まだ、見つけたってほどじゃないけど」
私は空になった袋を丸めた。
「あの子、困ってる人を見てる時より、助けた後の人を見てる時の方が、ずっと集中してた」
「ほう」
「パンを受け取った子が、誰の分を取りに来たのかとか、ちゃんと足りてるかとか。そういうのより先に、言ってほしいことがあるみたいだった」
それが、事件と関係があるかどうかは分からない。
親切な人にだって、褒められたい気持ちはある。
お礼を言ってもらえなければ、寂しくなることもある。
それだけで、誰かを犯人扱いするわけにはいかない。
ただ。
「フウカを休ませてあげたいなら、あの子に聞けばいいのに」
「何をだ」
「何をしてほしいか」
ネウロは、丸めたパンの袋を私の手から取った。
そこへ、アコが曲がり角から現れた。
両腕に書類。
肩に端末。
耳にも通信機。
その上、口でペンを一本くわえている。
何かの罰ゲームみたいだった。
「追加照会、終了しました!」
アコは書類を机代わりに差し出した。
「二十八分四十一秒です!」
「遅い」
ペンが床へ落ちた。
「三十分って言ったじゃないですか!!」
「だから二十八分なら余裕があっただろう」
「何の!?」
「二分」
「時間の定義を聞いてるんじゃありません!」
ネウロは資料を一瞥した。
「よくできている」
アコが警戒した。
「……今度は何をさせる気ですか」
「失礼な。純粋な称賛ですよ」
「あなたの純粋ほど信用できないものあります?」
ネウロは、私の手から取ったパンの袋をアコの書類の一番上に置いた。
「これも処理を」
「ゴミ箱は三歩後ろです!!」
「知っている」
「じゃあ捨ててくださいよ!」
「我が輩が三歩歩くのと、貴様が書類を提出する途中で捨てるのとでは、全体の動線が後者の方が六歩短い」
「効率化の対象にゴミ捨てを入れるな!!」
アコは袋を掴み、後ろの屑籠へ投げた。
ネウロが眉をひそめる。
「三歩戻ったな」
「あなたのせいでしょう!?」
「非効率的だ」
「殺しますよ!!」
廊下の向こうを通りかかった風紀委員が、ぎょっとしてこちらを見た。
ネウロは一瞬で柔和な笑顔になった。
「行政官殿は本当に働き者ですね」
「え?」
風紀委員がアコを見る。
「アコ先輩、ネウロさんと仲いいんですね!」
「どこをどう見たらそうなるの!?」
「いつも信頼して仕事を任せてくださっているようですし……」
「騙されています!!」
風紀委員は困ったように笑って去っていった。
ネウロも笑顔で見送った。
「日頃の行いだな」
「あなたが言うんですか!?」
私はアコの肩を叩いた。
「……そのうち分かってもらえるよ」
「先生はどっちの味方なんです!?」
「もう諦めた側」
「一番嫌な答えです!」
ネウロは何事もなかったように資料へ目を落とした。
「配膳設備の導入記録。今月交換。調達担当――礼堂ミトリ」
アコも一瞬で仕事の顔へ戻った。
「はい。正規の設計図はこちらです。給食部の承認もあります」
「納品時の型番は」
「記載済みです」
「交換部品」
「添付二枚目」
「工事立会者」
「三枚目」
「支援物資の発注時刻」
「四枚目!」
「納品書と申請書の差分」
「五枚目ぇ!!」
ネウロがページをめくる。
「素晴らしい」
「もう騙されませんからね」
「では、これを日付順と品目順と担当者順の三通りに――」
「やっぱり!!」
ネウロは紙の端に番号を書いた。
アコが見る。
眉間の皺が深くなる。
「……この順なら、照会先を四件まとめられますね」
「そうだろう」
「腹立つ……!」
言いながら、もう端末を操作している。
ネウロは満足そうだった。
アコという生徒の尊厳は、仕事の速さと引き換えに削れていた。
たぶん今日だけで三ミリくらい。
配膳室では、フウカが一枚の皿をひっくり返していた。
「先生。これ、やっぱり変です」
「何が?」
「うちの食器じゃありません」
皿の裏を見せられる。
「給食部の皿には、ここに小さな印をつけています。古いものと新しいものを分けて管理するために。でも、残っていた皿には、それがないんです」
「全部?」
「今のところ、確かめたものは全部です。それに――」
フウカは、別の皿を持ち上げた。
その裏には、薄い透明なシールが貼りついていた。
「これは、新品の食器についているものです。最初に洗う時、剥がすので」
私は、空の皿が並ぶ配膳台を見直した。
料理が消えた。
そう思っていた。
でも。
「食べられたんじゃなくて、食器ごと入れ替わった……?」
「その可能性は、あります」
フウカの目が、少し変わっていた。
さっきまで、自分の失敗を探していた目だ。
今は、自分の作ったものがどこへ行ったかを探している。
ネウロが、配膳台を指で叩いた。
こつ。
こつ。
場所を変える。
ごつ。
「フウカさん。この台、下部も保温される仕様ですか?」
「いいえ。保温機構は上の配膳棚だけです。下は回収用の機械と、食器の収納部分で……」
「では、少々確認させていただきます」
ネウロが、私の肩に手を置いた。
嫌な予感がした。
「フウカ。少し離れてて」
「え?」
「機械が、ちょっと独特だから」
私は覚悟を決めた。
ネウロが、私の襟の後ろへ指を差し込む。
そこから、何かを引っ張り出した。
ぐにゅ、と。
見た目を一言で説明するなら。
皮むき器を飲み込もうとして、途中で人生そのものを諦めたナメクジだった。
頭に刃。
腹には、小さな手が何十本もある。
そのうち二本が私に手を振っていた。
「いつ入れたの!?」
「今だ」
「入れないで出して!」
「出しただろう」
「そういう問題じゃない!」
フウカは、何か言おうとしてやめた。
多分、シャーレには聞かない方がいいこともある、と学び始めている。
ネウロは、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「魔界777ツ
異様な生き物が、配膳台の側面へ貼りついた。
刃が走る。
ぺろり、と。
金属の表面が、林檎の皮みたいに剥けた。
ただし、中が壊れたわけではない。
剥かれた部分だけが透明になり、台の内側がこちらに丸見えになった。
配線。
歯車。
二段になった棚。
図面には載っていない、横送り用の機構。
そして、なぜか機械の内部に貼られた、
『安全第一』
というシール。
その真横に、不正改造された巨大な歯車が回っていた。
「安全って何だっけ」
「標語だ」
「意味は!?」
「書いた者の気分を良くする」
「最低限の効果しかない!」
その奥に。
「あ……」
フウカの声が漏れた。
ハンバーグがあった。
ご飯も。
サラダも。
スープも。
料理の載ったトレーが、そっくりそのまま、配膳台の下へ収まっている。
「……あった」
フウカが、一歩近づく。
「まだ、温かい……」
「保温は続いていたようですね」
ネウロの目は、料理ではなく、その脇の制御装置を見ていた。
「なるほど。これは、少々余計な機能がついている」
私は、図面と、透明になった台を見比べた。
言われれば、違いは分かる。
でも、何をどう動かせば、あの短い時間に六百食を入れ替えられるのか。
どの部品が、そのために必要なのか。
それを一目で見抜き、事件の形へ組み上げているのは、私ではない。
「ネウロ」
「分かっている」
魔人は、嬉しそうだった。
新しい街の、新しい機械。
そこに人間が手を加えて、作った嘘。
知っているものを、ただ隠しただけではない。
知らなかった仕組みに、知っている欲望が絡まっている。
この男には、それがご馳走に見えるのだ。
「先生」
ネウロは、また助手の顔になった。
「礼堂さんに、活動記録を見せていただきましょう」
「活動記録?」
「ええ。せっかく残していらっしゃるのです。先生にも、ご覧いただきたいのではないかと」
私を見る目だけが、笑っていなかった。
――ああ。
この顔を知っている。
もう、この魔人は。
どこに噛みつけばいいのか、分かっている。
◆
ミトリは、快く記録を貸してくれた。
「こんなに沢山、見ていただけるんですか?」
嬉しそうに、共有設定を変更してくれた。
動画は、思っていたよりずっと多かった。
パンを配る。
飲み物を渡す。
落としたものを拾ってあげる。
荷物を運ぶ。
そして、そのたびに、誰かが言う。
『ありがとう』
『助かりました』
『ありがとうございます』
カメラは、特定の言葉を拾うと、その前後の映像を自動で保存する仕組みだった。
ミトリは、それを日付ごとに分け、数をつけ、大切に保管していた。
通し番号は、三千を超えていた。
私は、シャーレへ記録の目録を送った。
返事はすぐに来た。
日付別。
時間帯別。
添付資料のあるものと、ないもの。
綺麗に整理された一覧の端で、小さな髪の束が、ひらひらと揺れていた。
あかねちゃん。
シャーレの事務仕事を支えてくれている、大切な仲間だ。
見た目について説明すると長くなるので、普段は説明しないことにしている。
『先生、あかねさんからです。設備搬入日の記録を、上にまとめてくれました!』
「ありがとう、二人とも」
アロナが嬉しそうに頷いた。
直後。
『あと、アコさんから資料が二十七件届きました!』
私は画面を見る。
「仕事早いね……」
横からネウロ。
「遅い」
『えっ』
画面の向こうでアロナまで固まった。
少しして、私の端末にアコから一文だけ届いた。
『聞こえています』
ネウロは返信した。
『ならば次は二十五件で済ませろ』
即座に返ってきた。
『件数を減らす話じゃありません!!!!』
ビックリマークが四つ。
相当怒っている。
五つではないあたり、まだ理性は残っていた。
ネウロは、流れていく映像へ戻った。
私には、人の顔とパンの袋が混ざった、ちらちらする帯にしか見えない。
それを、指一本で止める。
「これだ」
画面の中には、暗い配膳室が映っていた。
その頃には、アコの追加照会も終わっていた。
正規の納品書にはない制御装置。
別名目で発注された部品。
工事後、一人で設備の最終確認を行った生徒。
それらの記録を揃えて、アコは短く連絡を入れた。
「ヒナ委員長。捜査に進展がありました。先生から、配置についてお願いがあります」
電話を切った直後。
「それと」
ネウロが言った。
「何です」
「事件解決後、改造設備の撤去申請と再発防止報告書を」
「まだ事件解決してませんよ!?」
「先に書いておけば早い」
「犯人もまだ正式に確保してません!」
「礼堂ミトリ。動機は感謝への異常な執着。証拠は現在揃っている」
「さらっと全部言わないでください!」
「下書きには十分だろう」
「書きませんからね!」
「そうか」
ネウロは残念そうでもなく頷いた。
「では、ヒナへ頼むとしよう」
「書きます!!」
即答だった。
私は思わずアコを見る。
「早いね」
「委員長のお仕事を増やすくらいなら私がやります!」
ネウロが私にだけ聞こえる声で言った。
「扱いやすい」
「聞こえてますからね!!」
「耳も良い」
「褒めるな!」
私は、フウカを見た。
「フウカ。もう少しだけ、料理をそのままにしておける?」
「……取り戻せるんですよね」
「うん」
私が頷くと、フウカも頷いた。
「分かりました。私にできることがあれば、教えてください」
ネウロが、図面の一箇所を指した。
◆
「見つかったんですか?」
配膳室に呼ばれたミトリは、驚いた顔をした。
私たちの他には、フウカとアコ。
食堂の入口は、風紀委員会が押さえている。
配膳台には、相変わらず空の皿が並んでいた。
魔界の皮むき器は、もういない。
「何があったんですか、先生。料理は、どこに?」
「その前に、一つ訂正しないといけないことがあるんだ」
私は、皿を一枚持ち上げた。
「今日、ここに残されたのは、空になった食器じゃない」
裏側を見せる。
「最初から、空だった食器」
ミトリは黙った。
ネウロが、その隣へ立った。
「配膳室から、誰も出入りしていない。それは間違いありません。食べ物も、外へは運び出されていませんでした」
「じゃあ……」
「隠すのに、外へ運ぶ必要がなかったのです」
ネウロが、配膳台を軽く叩いた。
側面に、一筋の線が走る。
金属の皮が持ち上がり、その向こうが透けた。
ミトリの顔から、笑みが消えた。
下段には、六百人分の昼食。
きちんと、皿に載ったまま。
「保護カバーが下りている間に、料理の載った棚を下へ送る。代わりに、下に用意した空の食器を上へ出す。昇降と横送りを組み合わせた、二組の棚の交換です」
ネウロの指が、機械の動きをなぞった。
「監視カメラに映るのは、カバーが閉じる前の料理と、開いた後の空の皿だけ。食器の配置を同じにしておけば、料理だけが消えたように見える」
「……そんな仕掛けが、入っていたなんて」
ミトリが呟いた。
「私、知りませんでした。業者の人が、何か間違えたんでしょうか」
「ええ」
ネウロは、丁寧に微笑んだ。
「間違えました」
一拍。
「自分の犯行を、自分で撮影した」
アコが端末を操作した。
壁のモニターに、映像が映る。
暗い配膳室。
取り外された制御盤。
そこに、別の装置を取りつける両手。
胸元から撮った映像だった。
磨かれた金属の裏蓋に、作業している人物の顔が映り込んでいる。
角。
リボン。
礼堂ミトリ。
「……っ」
映像の中で、試運転が始まった。
保護カバーが閉まる。
棚が動く。
確認を終えた機械が、合成音声で告げた。
『点検へのご協力、ありがとうございます』
そこで、画面の端に、小さな記録マークが灯った。
ネウロが言う。
「あなたのカメラは、機械からの礼も保存するのですね」
ミトリの手が、胸元のカメラへ伸びた。
「それは……」
「ありがとうございます」
ネウロが、もう一度言った。
カメラのランプが点く。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「ええ、大変助かりました。作業の前後が、実に都合よく残っています。注文記録と照合すれば、交換された装置の型番まで確認できる」
「違うんです、それは、設備を――」
「給食部が承認したのは、保護カバーと保温機能を備えた配膳台です」
アコが二枚の図面を並べた。
「棚のすり替えも、警報との不正な連動も承認されていません。追加部品の発注者はあなたです。費用も、支援設備の整備名目で申請されています」
ネウロが横から一言。
「行政官殿が八十二項目も調べてくれましたので」
「そこで私を出す必要あります!?」
「労働には感謝を示すべきだろう?」
アコが一瞬止まった。
私も止まった。
ネウロだけ、いつもの顔だった。
「……先生」
「うん」
「この人、自分で今この事件の犯人みたいなこと言いましたよね?」
「気にしたら負けだよ」
「先生まで!」
ミトリは、図面を見なかった。
映像を見ていた。
画面の隅の、記録番号を見ていた。
「……消せなかったんだね」
私が言うと、ミトリがこちらを向いた。
「見返した時、気づいたんじゃない?」
答えはない。
「でも、消すと、減るから」
ミトリの唇が動いた。
「……一つだけです」
小さな声だった。
「一つだけ、消せばよかったんです。ちゃんと、分かってました。でも」
自分の胸元を握る。
「三千四百二十一が、三千四百二十になるから」
配膳室が静かになった。
フウカが、ゆっくり口を開いた。
「ミトリさん。どうして、こんなことを」
ミトリは、フウカを見た。
下に隠された料理を見た。
それから。
困ったように、笑った。
「先輩が、勿体ないことをしてるからです」
「……勿体ない?」
「こんなに沢山、作ってるのに」
笑顔が、大きくなる。
「先輩、六百人分作ったら、六百回お礼を言ってもらってますか?」
フウカは答えなかった。
「言ってもらってませんよね。みんな適当に食べて、友達と喋って、勝手に帰っていく。『いただきます』なんて、誰に言ってるのかも分からない」
ミトリは、自分の腕章を指で撫でた。
「私なら、一人ずつ渡します」
胸元のカメラに、触れる。
「一人ずつ、ちゃんと聞きます」
もう一度、触れる。
「一人ずつ、私の顔を見てもらいます」
口の両端が、持ち上がっていた。
笑っているのに、目が笑っていない、というのとは違う。
目も。
口も。
指も。
全部が同じものを欲しがっている。
彼女の世界から、食堂が消えていく。
料理も。
空腹も。
フウカも。
そこに残るのは、口だけ。
六百個。
自分へ向かって開き。
同じ言葉を吐くためだけの。
六百個の口。
「困ってない人って、すぐ忘れるんです」
ミトリが、一歩近づいた。
「お腹が空いてて。どうしよう、困ったなって思ってて。そこに、私が来るから」
もう一歩。
「本当に、心から、言ってくれるんです」
彼女の人差し指が、空の皿を一枚ずつ叩く。
かん。
かん。
かん。
「ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう」
一枚。
一枚。
一枚。
皿ではない。
口だ。
まだ喋っていない。
まだ私へ礼を言っていない。
空っぽの口。
「私、誰からもお金を取ってませんよ?」
ミトリは、私に向かって首を傾げた。
「パンも飲み物も無料です。みんな喜んでくれたじゃないですか。困っていた人を助けたんです。いいことをしたんです」
「困らせたのも、あなたでしょ」
「だから、助けられたんじゃないですか!!」
叫び声が、配膳室に響いた。
ミトリの手が、胸元で大きく開く。
「普通に食べられちゃったら、私のところに来ない!」
フウカの肩が、僅かに動いた。
「このまま給食が止まれば、明日も、明後日も、みんな私のところへ来る。六百回です。毎日、六百回。先輩が聞き逃してる分まで、全部、私が――」
「ミトリさん」
フウカが言った。
「その料理を、返してください」
ミトリが、口を閉じた。
「まだ温かいです。今からなら、みんなのお昼に間に合います」
フウカの声は震えていなかった。
「私に何回お礼を言うかは、後でいいです。言わなくてもいい。お腹を空かせている子がいるので」
ミトリは、瞬きをした。
一度。
二度。
何を言われたのか、分からないような顔だった。
「……それじゃ」
ポケットへ、手が入る。
「それじゃあ、私にお礼を言う人が、いなくなるじゃないですか」
小さな操作端末が握られていた。
ミトリの親指が動いた。
配膳台の下で、モーターが唸った。
同時に、奥の搬出口で重いシャッターが開き始める。
アコが即座に無線へ告げた。
「作動しました。予定通りです」
ネウロは、ミトリの手元を見ていた。
「廃棄経路。やはり、そちらも繋いでいたか」
アコがこちらを向く。
「あなた、分かってたなら先に言ってくださいよ!」
「言っただろう。『犯人が最後に料理を処分しようとした時の対策を』と」
「もっと具体的に!」
「貴様なら分かると思った」
アコが一瞬黙る。
ネウロは微笑む。
「信頼している」
「……っ」
アコが顔を赤くした。
「その言い方すれば何でも許されると思わないでください!!」
ただし、怒鳴りながら仕事は完璧だった。
下段のトレーが動き始める。
食堂の残飯を処理設備へ送るための搬送路。
そこへ、まだ誰も食べていない六百食が流れ込もうとしていた。
フウカが走った。
配膳台の脇へ滑り込み、点検蓋を跳ね上げる。
さっき、ネウロが図面で示した場所だ。
中の手動ロックを、両手で引く。
がん、と音がして、棚が止まった。
しかし、奥の搬送装置はまだ動いている。
「無駄です!」
ミトリが叫ぶ。
「そっちは別の電源で――」
建物の外で、短い銃声が鳴った。
壁が揺れた。
続いて、搬送装置の唸りが止まった。
無線から、静かな声がした。
『外の駆動部は止めた。食堂の中に破片は入っていないはず』
「はい、ヒナ委員長!」
アコが答える。
ミトリが搬出口を見た。
シャッターの向こうに、長い白髪が揺れていた。
空崎ヒナ。
ゲヘナの風紀委員長は、銃口を下ろし、壊れた駆動装置を一瞥した。
「先生。そっちは?」
「大丈夫。料理も無事!」
『先生、危ないです!』
アロナの声が重なった。
ミトリが銃を抜いていた。
青い光が、私の前に広がる。
けれど、引き金が引かれる前に。
ネウロの指が、ミトリの手首を掴んでいた。
まるで、握手を途中で止めたみたいに。
「おや」
柔らかい声だった。
「お礼を聞くための耳は、それについていないようですが」
銃が床へ落ちた。
ミトリが後ずさる。
後ろでは、誤作動した防爆扉がゆっくり閉じ始めていた。
彼女は、開いていた点検区画へ身体を滑り込ませた。
「逃げ道、そっちは――」
アコが声を上げる。
「ありません」
ネウロは、丁寧に答えた。
「先生。こちらへ」
私はため息を一つついた。
「フウカ。みんなに、ご飯をお願い」
「はい!」
「アコは」
ネウロが続ける。
「事件報告書の結論部分を」
「今ですか!?」
「現行犯まで追加できるぞ。喜べ」
「何を!?」
私はアコの肩を叩いた。
「……頑張って」
「先生ぇ!?」
その声を背中で聞きながら、私はネウロの後を追った。
点検区画の扉が、私たちの背後で閉まった。
◆
狭い部屋だった。
壁。
工具棚。
点検用の椅子。
出口は、今閉まった扉だけ。
ミトリは、その真ん中に立っていた。
逃げられない。
ようやく、それが分かったらしい。
「……何なんですか」
彼女は、ネウロを見た。
「あなた、先生の助手なんでしょう。何で、そんな……」
「助手?」
ネウロの声から、丁寧さが落ちた。
口元が、吊り上がる。
「まあ、そういうことになっている」
ミトリが一歩下がった。
その視線が、ネウロの顔から動かなくなる。
影が伸びていた。
照明の向きとは、関係なく。
細長い首。
鳥を思わせる輪郭。
人間の顔には収まらない、巨大な口。
私は壁際へ寄った。
何度見ても、慣れきるということはない。
ただ、これから何が起きるかは分かっている。
「空腹を作り、恩を売る」
魔人が笑った。
「六百人分の胃袋を、自分への拍手装置へ作り替えたか」
ミトリの喉から、掠れた息が漏れた。
「矮小」
笑みが深くなる。
「実に良い」
暴かれた仕掛け。
崩れた嘘。
隠していた欲望。
それらが作っていた「謎」が、彼女の周囲で形を持ったように見えた。
もちろん、食べられるはずのものじゃない。
人間には。
大きな口が、開いた。
ミトリが悲鳴を上げる。
食べられたのは、彼女ではなかった。
けれど、自分の内側から何かを丸ごと奪われる感覚は、十分に伝わったのだろう。
膝をついたミトリの前で、ネウロは元の顔に戻っていた。
「ご馳走様」
満足そうに、口元を拭う。
私のお腹が、場違いな音を立てた。
「……そっちだけ食べ終わるの、ずるくない?」
「貴様も食べただろう。パンを一個」
「あれは前菜」
「では貴様の胃袋には主菜という概念が存在しないのだな」
「ちゃんとあるよ」
「終わりがないだけか」
「人を永久機関みたいに言うな」
ミトリが床に手をついた。
「助け……」
「助け?」
ネウロが目を細めた。
「そういえば貴様、親切というものには礼が必要だと考えていたな」
嫌な予感がした。
「ネウロ」
「ならば、もっと身近な親切にも気づくべきだろう」
ネウロが指を鳴らす。
「魔界777ツ
何かが、ミトリの影へ潜った。
彼女が立ち上がろうとする。
右膝のあたりから、声がした。
『曲げてあげようか?』
「……え」
『お礼は?』
ミトリの膝に、小さな口があった。
蝶ネクタイまでついていた。
左膝にも。
『伸ばしてあげようか?』
肘にも。
『支えてあげようか?』
手首にも。
『回してあげようか?』
ミトリの顔が真っ白になった。
「な、何、これ……!」
「よく働く手足だ。日頃の感謝を伝えてやれ」
「取って! 取ってください!」
『お願いする態度じゃないなあ』
右肘が言った。
『一言でいいのにねえ』
左手首が同意した。
ミトリが、声を震わせた。
「あ、ありがとう……」
右膝が、かくんと曲がる。
今度は伸びない。
『もう一回』
「ありがとう!」
『誰に?』
「右膝に!」
「ネウロ!」
私は魔人の腕を掴んだ。
「それ、歩けないでしょ!」
「礼を言えば歩ける」
「一歩ごとに会議が始まってる!」
「民主的だな」
「人体を議会制にするな!」
ミトリは、泣きながら自分の左肘に頭を下げようとしていた。
すると、今度は首の付け根から声がする。
『下げてあげようか?』
完全に詰んでいた。
私はネウロを睨んだ。
「少なくとも、普通に歩けるようにして。救護に連れていくから」
「貴様が運べばよかろう」
「ネウロ」
もう一度、名前を呼んだ。
ネウロは少しだけ私を見た。
それから、面倒そうに指を動かす。
膝と首の口が黙った。
ミトリが床へ崩れ落ちる。
「全部戻してよ」
「放っておいても数日で剥がれる。この街の生徒は、外から押しつけられた形を勝手に元へ戻そうとするからな」
「戻るかじゃなくて、戻してって言ってるんだけど」
「呼吸も食事も妨げん。ヘイローにも触れておらん。安心しろ」
「都合のいいところだけ答えるな!」
ネウロは、もう扉を見ていた。
食べ終わった皿に、いつまでも興味はないらしい。
私はアコに連絡した。
「確保したよ。あと、救護の人もお願い」
『怪我ですか?』
「怪我……とは、ちょっと違うんだけど」
『……その人ですか?』
アコの声が一段低くなった。
「うん。その人」
『分かりました。あと先生』
「何?」
『ネウロさんに伝えてください』
一拍。
『報告書の備考欄に「原因・魔人」と書いて提出しますからね』
ネウロが横から答えた。
「それでは分類が粗い。魔界777ツ能力による一時的外因性身体構造改変と書け」
『聞こえてるんですか!?』
「字数制限には収まる」
『そういう問題じゃありません!!』
通信が切れた。
ネウロは何も気にしていない顔だった。
「有能だな」
「だから弄るんでしょ」
「当然だ」
即答だった。
「壊れぬ物は、使わねば損だ」
「本人の前で絶対言うなよ」
扉の向こうから、アコの声がした。
「聞こえてます!!!」
私は天井を見た。
この建物、防音性能は低いらしい。
◆
食堂には、遅い昼食の匂いが戻っていた。
配膳台から取り出された料理は、給食部が状態を確かめた上で、順に生徒たちへ渡されていく。
「熱いので気をつけてください」
「はーい」
「ご飯、大盛りで!」
「順番です! まずは全員に行き渡ってから!」
フウカの声が、食堂を飛ぶ。
その隣では、ジュリがトレーを運んでいた。
今日は運ぶ係に徹しているらしく、鍋の中から何かが這い出してくる気配はない。
それだけで食堂の安全性が四割ほど上がっている気がした。
ヒナは壁際に立ち、食堂の様子を見ていた。
「先生。危ないことは、もうない?」
「今のところはね。ありがとう、ヒナ」
「そう」
短く頷く。
アコが、その隣で報告書をまとめていた。
「改造された設備は使用停止にします。明日以降の配膳方法については給食部と――」
ヒナが、アコの端末をそっと下げた。
「アコ。先に食べよう」
「ですが、委員長」
「続きは、その後」
アコは一瞬、何か言いかけた。
結局、頷いた。
「……はい」
ネウロが、新しい書類を一枚差し出しかけた。
アコは見もしなかった。
「食後です」
「まだ何も言っていませんが」
「あなたが紙を持って私に近づいた時点で仕事です!」
「偏見だな」
「経験です!」
「ならば成長したな」
「あなたに育てられた覚えはありません!!」
ヒナがネウロの紙を見た。
「何の書類?」
「今回の設備改善案です」
アコが固まった。
「え?」
ヒナが受け取る。
「……よくまとまってる。アコ、これなら明日の業者打ち合わせも短くできそう」
「…………」
アコが、ゆっくりネウロを見る。
ネウロはにこやかだった。
「行政官殿の負担軽減になれば幸いです」
ヒナが頷いた。
「ありがとう。ネウロ」
「いえ。先生の助手として当然のことです」
アコの拳が震えていた。
ヒナが席へ向かう。
その背中が十分離れた瞬間。
「最初からそれを出せたでしょうが!!」
「何のことだ」
「絶対分かってる!!」
「アコ」
私は肩を叩いた。
「怒るとご飯冷めるよ」
「先生も馴染みすぎです!!」
私は、ようやく受け取れたトレーを持って席を探した。
そこで、中庭で見かけた生徒に会った。
パンを受け取って走り出そうとして、呼び止められた子だ。
「あ、先生」
「もう食べられた?」
「はい。友達の分も、間に合いました」
その子は、二つのトレーを持っていた。
「友達、足を痛めてて。パンだけでも持っていこうと思ってたんですけど」
「そっか」
「……私、ちゃんとお礼、言わなかったから」
生徒が目を伏せた。
「急いでたんです。でも、後から言いました。あの、礼堂さんに」
「うん」
「それでも、駄目だったんでしょうか」
私は、空いていた机に自分のトレーを置いた。
「今日は、お友達のところへ持っていってあげて」
「え?」
「温かいうちに」
その子は、両手のトレーを見た。
それから、食堂の奥を見た。
足を投げ出して座っている子が、こちらへ手を振っている。
「……はい!」
今度は、誰も呼び止めなかった。
私が席につくと、フウカが水を持ってきてくれた。
「先生。本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。いただきます」
ハンバーグに箸を入れる。
柔らかく崩れた中から、湯気が上がった。
ようやく、一口。
――うん。
おいしい。
「……先生?」
「ううん。何でもない」
私はもう一口食べた。
フウカは少しだけ笑った。
食堂の向こうで、誰かが言う。
「フウカー、ごちそうさま!」
別の席からも。
「おいしかったー!」
フウカが振り向いて、手を振る。
全部は聞き取れていなかったと思う。
返事をしながら、次の空いた皿を受け取っていたから。
胸元にカメラはない。
通し番号もない。
それでも、その声が何も残していないようには、見えなかった。
その横で。
「アコさん」
「何です」
「先ほどの資料ですが」
「食事中です!!」
「ならば食べながら聞け」
「せめて猫を被ってください!!」
ヒナが振り向く。
「何かあった?」
ネウロは即座に笑顔になった。
「いえ。アコさんが食事中にも業務の相談へ乗ってくださると」
「言ってません!!」
食堂の生徒たちが一斉にアコを見る。
「アコ先輩って本当に働き者……」
「見習わないと」
「風紀委員会ってすごいなあ」
「違う!! 違うんです!!」
アコの声が食堂に響いた。
ネウロは黙々と水を飲んでいた。
私はハンバーグを食べ続けた。
助ける方法がない時、人は食事に集中するしかない。
◆
三日後。
礼堂ミトリの手足から、余計な口がなくなった。
ネウロの見立て通りだった。
神秘だとか、魔界の法則だとか。
詳しい話は、私にもまだ分からない。
ただ、救護から届いた報告には、
『異常な口腔様構造、消失』
と、
『本人、消失確認後に両膝へ「もう喋らない?」と三度確認』
が別項目で記載されていた。
後者、医療記録に必要だったのかな。
風紀委員会の管理下で、私はミトリと面会した。
彼女の前には、紙が置かれていた。
何枚も書いて、何枚も丸めた跡がある。
「……先生」
「うん」
「手紙を出したら、フウカ先輩は読んでくれますか」
「届けることはできるよ」
「返事は、くれますか」
「それは、フウカが決めることだね」
ミトリは紙を見た。
書きかけの文章には、何度も消した跡があった。
自分にも事情があったこと。
支援活動では本当に助かった生徒もいたこと。
今までの全部が嘘だったわけではないこと。
言いたいことは、沢山あるのだと思う。
私も、それを全部間違いだと言って終わるつもりはなかった。
でも、手紙の最初の一行が、なかなか書けないらしい。
「……謝ったら」
ミトリが、また口を開いた。
「何か、言ってくれますか」
私は少し待った。
ミトリは、私を見ていた。
答えを待っている。
お返しの約束を、待っている。
「今日は、そこまでは約束できない」
そう答えると、彼女は唇を噛んだ。
しばらくして、紙を裏返した。
何も書いていない面が、上になる。
「……もう一枚、ください」
私は、新しい紙を渡した。
それが何になるかは、まだ分からなかった。
◆
シャーレに戻ると、机の上に封筒が置いてあった。
あかねちゃんの髪が、その横で小さく揺れている。
「何これ?」
封筒には、『愛清フウカ』と書かれていた。
開けると、手紙と食券が入っていた。
手紙には、お礼と。
また食堂へ来てほしい、という言葉。
そして、手書きの追伸。
『今度は、事件のない時に食べに来てください』
「……うん。そうしたい」
私は頷いた。
ネウロが、横から食券を一枚抜き取る。
「随分と嬉しそうだな」
「そりゃ嬉しいよ」
「では、この礼状への礼状を書け」
「……え?」
「先方も返事を書くであろう。その礼状にも礼状を送れ。貴様なら無限に仕事を増やせる」
「ミトリに反省させる前に、自分が反省して!」
端末の中から、アロナが顔を出した。
『先生、あかねさんから今日の食費の集計です!』
「あ、待って。それは今じゃなくて」
画面に数字が並んだ。
事件の後、残った備蓄パンを買い取った分まで、きっちり計上されていた。
ネウロが、食券と数字を見比べる。
「足りんな」
「何が?」
「貴様一匹を養うには、六百人分の感謝でも足りんということだ」
「人のお礼をカロリー換算するな!」
その時。
シャーレの端末に、新着メールが届いた。
差出人。
『天雨アコ』
件名。
『今回の事件に関する最終報告書』
「お。アコからだ」
開く。
本文は一行だった。
『二度と私を三十分で八十二項目処理できる前提で扱わないでください。』
その下に、報告書が添付されている。
完璧に整理されていた。
ネウロが時計を見る。
「二十六分か」
「計るなよ」
返信欄を開く。
『次回は二十四分を目標に――』
「送るな!!」
私はネウロの手を叩いた。
しかし既に遅かった。
『送信しました』
「ネウロォォォ!!」
三秒後。
返信。
『今からそちらへ行きます。』
私はネウロを見る。
「……怒ってるよ」
「そうだな」
「どうするの?」
「どうもしない」
ネウロは席へ座り直した。
「来ると言っているのだ。来させればよい」
「珍しいね。素直に怒られるんだ」
ネウロが私を見た。
「ヤコ」
「何?」
「三年経って多少は人間らしい知能を得たと思っていたが、訂正する必要があるようだな」
「何で!?」
ネウロはもう私を見ていなかった。
机の上の書類を一枚ずらす。
それだけだった。
あかねちゃんが、するすると髪を伸ばした。
玄関前に置かれていた小さな台車を、廊下の中央へ三センチだけ動かす。
「……何してるの?」
ネウロは答えなかった。
その代わり。
机の脇にあった椅子を、ほんの少しだけ斜めにした。
あかねちゃんが、その背もたれへ一枚の紙を置く。
私は紙を見る。
『ゲヘナ学園給食設備・緊急使用停止申請書』
記入済み。
残っているのは。
『風紀委員会行政官確認』
の欄だけだった。
「……ネウロ」
「何だ」
「まさかとは思うけど」
廊下の向こうから。
「ネウロさぁぁぁぁぁん!!」
来た。
速い。
声より先に怒気が角を曲がってきた気がした。
「先生! いますね!? 逃げても無駄ですからね!!」
「逃げてないよー」
私は普通に返事をした。
「そこにいるんですか!?」
足音が速くなる。
ネウロは動かない。
「三」
「え?」
「二」
「何数えてるの?」
「一」
扉が開いた。
「ネウロさん!!」
アコが勢いよく飛び込んできた。
そして。
廊下の中央に置かれた台車へ、足を引っかけた。
「きゃっ――!?」
転ぶ。
――ことはなかった。
台車が滑った。
アコの勢いをそのまま受け止め、車輪が回転する。
アコが両腕を振る。
右手が、斜めに置かれていた椅子の背へ触れた。
椅子が回った。
紙が落ちる。
「えっ」
アコが反射的に掴む。
同時に、滑ってきた台車の端が机へ当たった。
机の上に立ててあった朱肉が倒れる。
判子が転がる。
ころころ。
ころころ。
アコの左手へ。
「は?」
人間には。
咄嗟に何かを掴まされた時、握ってしまう習性がある。
少なくとも。
天雨アコにはあった。
右手。
申請書。
左手。
行政官印。
そして。
椅子が最後に、くるりと半回転した。
ぽすん。
アコは机の前へ座った。
目の前には。
『風紀委員会行政官確認』
だけが空欄になった申請書。
右手に紙。
左手に判子。
「…………」
全員が黙った。
あかねちゃんだけが、髪でインクの蓋を閉めた。
ネウロが言った。
「ついでだ」
「…………」
「押せ」
「押すわけないでしょうがぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
アコが立ち上がった。
その瞬間。
椅子の座面から小さな板が起き上がった。
『立つ前に未処理書類をご確認ください』
「何これ!?」
「事務用品だ」
「絶対違う!!」
アコが板を叩き倒す。
反動で机が揺れた。
机の端に置かれていたペンが転がる。
申請書の、
『確認事項に異議なし』
のチェック欄へ。
カチッ。
見事にチェックが入った。
「…………」
アコが固まった。
私も固まった。
アロナも画面の中で固まった。
ネウロだけが頷いた。
「残りは捺印だけだ」
「最初から全部狙ってましたね!?」
「何のことだ」
「この台車も! 椅子も! 判子も! 書類も!」
「偶然だ」
「偶然が私を行政処理しようとしてるんですが!?」
ネウロは微笑んだ。
「行政官とは、行政処理をするものだろう」
「人を動詞にするな!!」
アコは申請書を握り潰そうとした。
止まった。
眉が動く。
もう一度、内容を読む。
「…………」
私は嫌な予感がした。
アコが、申請書を広げ直す。
「……これ、今日中に出さないと、明日の朝に旧設備へ自動で再接続されるじゃないですか」
「そうだな」
「しかも給食部の業務再開に必要な申請……」
「そうだな」
「…………」
アコが震えた。
「だから私が今日中に確認しないといけないんじゃないですか!!」
「気づいたか」
「先に言ってくださいよ!!」
「貴様が怒鳴り込んで来る方が早かった」
「あなたが怒鳴り込ませたんでしょうが!!」
アコは判子を持ち上げた。
ばん!!
申請書へ叩きつける。
「これでいいですか!!」
「うむ」
ネウロは書類を回収した。
「二十七秒」
「何が!?」
「通常の依頼なら三分かかる処理だ」
「私を高速化するな!!」
「やはり追い込んだ方が性能が上がるな」
「私は機械じゃありません!!」
その時。
あかねちゃんが、机の横からもう一枚の紙を出した。
「……え?」
アコが見る。
『設備再発防止策 確認書』
「…………」
ネウロが言った。
「ついでに」
「嫌です!!」
「ではヒナに――」
ばん!!
「はい終わり!!」
判子が押された。
ネウロが書類を回収する。
「十四秒」
「計るなぁぁぁぁぁぁ!!」
アコの絶叫が、シャーレ中に響いた。
私は椅子に座ったまま、その光景を見ていた。
「……ネウロ」
「何だ」
「最初からアコが来るって分かってた?」
「当然だ」
「それで、これ用意したの?」
「当然だ」
「怒られるの嫌じゃないの?」
ネウロが、心底不思議そうに私を見る。
「何故我が輩が逃げる必要がある」
その向こうで。
「まだ話は終わってませんからね!!」
アコが怒鳴る。
ネウロはそちらを見た。
「では話しながら仕事をしろ」
「増やすな!!」
あかねちゃんが、そっと三枚目の書類を差し出した。
「増えてるぅぅぅぅぅ!!」
アロナは画面の中で両手を合わせた。
『アコさん……頑張ってください……』
「他人事みたいに言わないでください!!」
私は封筒から食券を取り出した。
魔人は謎を食べる。
私は、ご飯を食べる。
そしてアコは。
「先生!! 食べに行こうとしてません!?」
「……バレた」
「助けてください!!」
「ごめん。私にも無理」
「諦めないで!?」
ネウロが四枚目の紙を机へ置いた。
アコの顔が引きつった。
「まだあるんですか……?」
「安心しろ」
ネウロは、極めて優しい声で言った。
「あと七枚だ」
「何を安心しろっていうんですかぁぁぁぁぁぁ!!」
シャーレの窓が震えた。
遠くで、何かが爆発した。
誰もそちらを見なかった。
この街に来てから、よく分かったことがある。
私たちの「おかわり」は。
どうやら誰一人として。
同じものを頼んではいないらしい。