西暦2364年――外宇宙航行艦《スメラギ》・ブリッジ
「前方偵察に出ていた三体、帰還します」
オペレーターの報告を受け、アーミア・リーは正面モニターへ視線を向けた。
暗い宇宙を背景に、三つの銀色の影が《スメラギ》へ接近してくる。
ELS。
かつて人類と敵対しかけ、対話を経て共生する道を選んだ地球外生命体。
あれから、およそ半世紀。
人類は太陽系の外へ進出するまでになった。
そして今度は、人類自身が未知との出会いを求めて宇宙を進んでいる。
外宇宙航行艦《スメラギ》は、そのための船だった。
「情報共有を開始。何か分かりましたか?」
「……いえ」
オペレーターの声がわずかに曇る。
「やはり、分からないようです」
「ELSにも?」
「はい。既知の天体現象、空間異常、その他の観測記録との一致なし。ELS側にも類似する情報がありません」
「そうですか……」
アーミアは艦長席に座ったまま、表示された観測データへ目を通す。
見た目だけなら、十七歳ほどの少女。
短いダークブラウンの髪に、灰色がかった瞳。
だが実年齢は六十七歳。
その右手には、半世紀近く共生してきたELSが存在している。
今は人間の肌へ擬態しているため、外見からそれを見抜くことはできない。
アーミアは数値を追った。
どれも決定的な情報にはならない。
「前進は一度中止します」
「了解」
「現距離を維持したまま観測を継続。ELSもこれ以上近づけないでください」
「了解しました」
即断だった。
未知を恐れているわけではない。
だからといって、分からないものへ無警戒に突っ込む理由もない。
五十年前なら。
こんな時、すぐにあの人を見たかもしれない。
どうすればいいのか。
何が起きているのか。
答えを求めるように。
今は違う。
《スメラギ》の艦長は自分だ。
判断するのも自分だった。
「で、今度は何を見つけたんだ?」
背後から聞こえた声に、アーミアが振り返る。
「先生」
ブリッジへ入ってきたレイナス・レノアークが、露骨に嫌そうな顔をした。
「その呼び方で振り向く生活も長くなったけどな。仕事の匂いがする時だけ妙にはっきり聞こえるんだよ」
「まだ何も頼んでませんよ」
「頼まれる前に来た。後から呼び出されるより、自分から来た方がまだ気分がいい」
「珍しいですね」
「俺だって学習くらいするさ」
レイナスが正面モニターを見る。
その姿は、アーミアが初めて会った頃からほとんど変わっていない。
六十七歳になったアーミアが十七歳ほどの姿を保っていることも十分おかしい。
だが、こちらはさらにおかしい。
以前、何歳なのか尋ねた時など、
『七千……』
と言いかけた。
本人は直後に誤魔化したが。
結局、正確な年齢はいまだに聞き出せていない。
「それです」
アーミアが表示を切り替えた。
「ELSにも正体が分かりません」
「……ELSにも?」
レイナスの表情から軽さが消えた。
「はい。今のところ危険性も不明です」
「なるほど」
少し考えたあと、レイナスは肩をすくめる。
「俺にも分からんな」
「即答ですね」
「分からないものを分かった顔で説明するよりはマシだろ。こっちは専門外だ。そもそも何の専門家に持っていけばいい案件なのかすら分からん」
「それは私も同感です」
「で、どうする?」
レイナスが聞いた。
決定を求めているのではない。
純粋に艦長の判断を確認している。
「現距離を維持します。観測を続けて、危険性が確認されれば離脱。ELSにも接近させません」
「了解。艦長判断に従うよ」
「先生が素直だと少し不安になりますね」
「五十年以上の付き合いで、俺の信用はその程度か?」
「積み重ねた実績の結果です」
「なるほど。反論しづらいな」
アーミアが小さく笑う。
その直後だった。
右手が震えた。
「……?」
アーミアが視線を落とす。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、人間の肌だった右手に銀色の光沢が浮かんだ。
「アーミア?」
レイナスも気づく。
右手のELSが動揺している。
それも、今までほとんど感じたことのないほど強く。
「先生、少し――」
警告音がブリッジを埋め尽くした。
「艦長! 空間異常に変化!」
「距離は!?」
「変化なし――いえ、待ってください!」
オペレーターが端末を操作する。
「測距不能!」
「観測機器の故障ですか?」
「違います! 座標そのものが……!」
モニターの数字が乱れる。
距離。
方向。
時間。
本来なら互いに関連しているはずの情報が、まったく整合しない。
「後退します。進路反転!」
アーミアが即座に命じる。
「機関最大。異常領域から離脱!」
「了解!」
《スメラギ》が動き始める。
同時に、艦外にいたELSが一斉に散った。
逃げている。
「ELSが本艦から離れます!」
「追わなくていいです! 自由に退避させて!」
アーミアが立ち上がる。
右手が銀色へ変わった。
擬態を維持できなくなっている。
「これは……」
次の瞬間。
アーミアの足元が消えた。
「え――」
床はある。
見えている。
なのに、踏んでいる感覚だけがなくなった。
身体が沈む。
空間そのものへ落ちていく。
「アーミア!」
レイナスが動いた。
伸ばされた腕。
アーミアも反射的に手を伸ばす。
「先生!」
あと少し。
指先が触れる――。
はずだった。
距離が伸びた。
「っ……!」
数十センチしかなかったはずのレイナスの手が、急激に遠ざかる。
《アニマ》を伸ばす。
届かない。
空間の歪みを押し返そうとしても、何に干渉すればいいのかすら分からない。
「アーミア!」
最後に聞こえたのは、レイナスの声だった。
視界が白く染まる。
そして。
《スメラギ》が消えた。
◆
何もない。
上下も。
前後も。
時間の感覚すら曖昧だった。
アーミアは自分の身体を《アニマ》で覆った。
未知の現象を解決するためではない。
そんなことはできない。
何が起きているのかすら分からないのだ。
ただ、自分の身体を守る。
今できることだけをする。
右手のELSからも、まともな反応は返ってこない。
脳量子波を広げても何も捉えられない。
やがて。
遠くに光が見えた。
いや。
近いのかもしれない。
距離という概念が意味を持っているのかさえ分からない。
光が広がる。
アーミアは目を閉じた。
◆
西暦2307年――某都市
レイナス・レノアークは端末を眺めながら歩いていた。
「……これも駄目か」
求人情報を一つ閉じる。
次。
条件を見る。
また閉じる。
「経験不問で実務経験三年以上って、どっちなんだよ」
この世界へ来て、まだ間もない。
当然ながら、ソレスタルビーイングなどという組織には所属していない。
王留美という少女とも、まだ出会っていない。
今のレイナスに必要なのは世界の命運でも、戦争根絶でもなかった。
仕事だ。
生きていくには金が要る。
食事にも。
寝床にも。
何をするにも。
「身元保証、住所、職歴……先に仕事が必要なのか、先に生活基盤が必要なのか。こういうのは世界が変わっても面倒だな」
端末を下ろす。
この世界について調べることは山ほどある。
それでも腹は減る。
現実というものは、世界を越えた程度では待ってくれないらしい。
レイナスが人通りの少ない道へ入った。
その時。
足を止める。
「……?」
妙な感覚がした。
《アニマ》ではない。
それどころか、自分が知っている何とも違う。
レイナスが顔を上げる。
数メートル先の空間が歪んでいた。
「また面倒事か?」
今日は求人を見るだけの予定だった。
できれば日が暮れる前に、安く泊まれる場所も探したい。
そんな慎ましい予定を嘲笑うように、歪みが大きくなる。
白い光。
レイナスが身構えた。
そして。
人間が落ちてきた。
「は?」
少女だった。
「おい!」
考えるより先に身体が動く。
地面を蹴り、落下地点へ入る。
少女の身体を受け止めた。
「っと……!」
軽い。
それ以上に奇妙だったのは、ほとんど落下の衝撃がなかったことだ。
少女の身体を薄い何かが覆っている。
レイナスが眉を寄せる。
「今のは……」
知っている感覚に似ている。
だが、確信できない。
腕の中の少女を見る。
十代後半ほど。
短いダークブラウンの髪。
気を失っている。
「空から人が降ってくる求人なんて応募した覚えはないんだがな……」
とりあえず呼吸を確認する。
生きている。
目立った外傷もない。
「おい、聞こえるか?」
返事はない。
レイナスが少女の肩へ触れようとした。
その瞬間。
少女の右手が動いた。
「ん?」
意識はない。
にもかかわらず、右手だけがレイナスから逃げるように離れた。
「……なんだ?」
もう一度近づける。
また逃げる。
明らかに偶然ではない。
「俺、初対面だよな?」
当然、少女は答えない。
レイナスが困ったように息を吐く。
「参ったな。職探しどころじゃなくなった」
その時。
少女の瞼が動いた。
◆
硬い。
最初に感じたのは背中だった。
次に重力。
空気。
風。
アーミアは目を開ける前に、自分の状態を確認した。
身体に大きな異常はない。
《アニマ》も使える。
右手のELSもいる。
《スメラギ》は――。
感じない。
「……聞こえるか?」
声。
アーミアの思考が止まった。
聞き間違えるはずがない。
何十年聞いてきたと思っている。
ゆっくり目を開ける。
「……先生?」
そこにレイナスがいた。
無事だった。
その事実に、胸の奥から安堵が込み上げる。
「先生……!」
身体を起こそうとして。
止まった。
何かがおかしい。
レイナスが自分を見ている。
その表情を、アーミアは知っていた。
知らない相手を警戒しながら観察している時の顔だ。
「……先生?」
二度目。
レイナスの眉間に皺が寄る。
「さっきから気になってるんだが」
その言い方。
その距離。
アーミアの胸に、嫌な感覚が広がっていく。
「俺は君に先生って呼ばれる覚えがない」
「……え?」
「どこかで会ったか?」
アーミアは何も言えなかった。
冗談ではない。
分かる。
五十年以上の付き合いだ。
レイナスが本当に自分を知らない。
「待って……」
周囲を見る。
街。
建物。
走っている車。
広告。
端末。
どれも古い。
アーミアの知る2364年のものではない。
「ここは……」
立ち上がろうとして、少しふらつく。
レイナスが手を伸ばした。
その手から、アーミアの右手が反射的に逃げた。
「あ……」
見慣れた反応だった。
レイナスも自分の手を見る。
「やっぱり避けられてるな。何なんだ、その右手」
いつもなら笑える。
今は笑えなかった。
「先生」
「だから、その先生っていうのは――」
「今は、西暦何年ですか?」
レイナスが黙る。
今度は明らかに怪しまれた。
それでも答えた。
「たしか2307年だったと思うが」
呼吸が止まった。
「……もう一度」
「西暦2307年だ」
間違いない。
聞き間違いでもない。
アーミアは目を伏せた。
2307年。
知っている。
知識としてではない。
自分自身の人生に繋がる時代として。
この時代には、すでにもう一人の自分がいる。
まだ十歳のアーミア・リー。
レイナスとは出会っていない。
《アニマ》も知らない。
右手にELSもいない。
そして目の前にいるレイナスもまた――。
「……そういうことですか」
口から出た言葉とは裏腹に、何一つ分かってはいなかった。
時間を遡ったのか。
別の世界なのか。
それとも、まったく別の現象なのか。
判断できる材料がない。
ただ一つ。
確かなことだけがある。
アーミアはレイナスを見る。
五十年以上を共に過ごした人。
自分が《アニマ》を見せた時、驚いた人。
その後、使い方を教えてくれた人。
何度も戦い、何度も話し、何度も呆れた。
自分にとっては、今さら説明する必要すらないほど近しい存在。
けれど。
「君」
レイナスが慎重に問いかける。
「俺のことを知ってるのか?」
その一言で十分だった。
今の彼にとって。
自分は知らない人間なのだ。
アーミアはしばらく答えられなかった。
六十七年生きてきた。
外宇宙航行艦の艦長として、未知の現象にも向き合ってきた。
それでも。
五十年以上付き合ってきた人から初対面の目を向けられる経験など、あるはずがない。
やがてアーミアは、小さく息を吐いた。
「……知っています」
「そうか」
レイナスの目がわずかに鋭くなる。
「じゃあ、悪いが説明してもらえるか?」
当然の反応だった。
アーミアは目の前の男を見つめる。
何から話せばいい。
どこまで話していい。
そもそも、ここは本当に自分の知る2307年なのか。
答えは出ない。
そして何より――。
アーミアは今になって、嫌というほど理解した。
西暦2307年。
目の前にいるのは間違いなくレイナス・レノアーク。
けれど。
このレイナスはまだ――
アーミア・リーを知らない。