第30話 少しずつ変わるもの
西暦2308年――プトレマイオス
トリニティが正式にプトレマイオスを拠点とするようになってから、さらに数日が経った。
スローネ三機の独立制御化も進み、最低限の運用には問題がない状態まで戻っている。完全な調整にはまだ時間が必要だが、ヴェーダとの接続が切れただけで停止する心配はなくなった。
艦内の変化は、それだけではなかった。
「アーミア」
「はい?」
アーミアが振り返ると、そこにネーナがいた。
「何してるの?」
「端末の整理です」
「手伝う」
「大丈夫ですよ。私物なので」
「じゃあ見てる」
「……見てても面白くないと思いますけど」
「いいの」
そう言って、ネーナは当然のように隣の席へ座った。
最近、こういうことが増えている。
最初は用事があった。次は質問。その次は食事の時間が重なった。
それがいつの間にか、特に理由がなくてもアーミアの近くへ来るようになっていた。
アーミアは端末へ視線を戻した。
数分経つ。
横から視線を感じる。
「ネーナ」
「なに?」
「暇ですよね?」
「うん」
「やっぱり」
「でもここにいる」
アーミアは少しだけ困った顔をした。
「ミハエルさんと一緒にいなくていいんですか?」
「ミハ兄はツヴァイ見に行ってる。ヨハン兄もイアンのおじさんと話してるし」
「イアンさんですよ」
「分かってるよ」
そう答えながら、ネーナはアーミアの端末を覗き込もうとする。
アーミアはすぐに画面を伏せた。
「これは駄目です」
「何で?」
「私物だからです」
「写真?」
「……それもあります」
「見たい」
「駄目です」
即答だった。
ネーナが頬を膨らませる。
「ケチ」
「そういう問題じゃありません」
アーミアは端末を片付けると、今度はネーナを見る。
「それより、昼は食べました?」
「まだ」
「もう時間過ぎてますよ」
「お腹空いてないし」
「駄目です」
「なんで?」
「後で変な時間にお腹空くでしょう」
ネーナが少し不満そうな顔をする。
「アーミア、最近そういうこと言うよね」
「そういうこと?」
「ご飯食べたとか、ちゃんと寝たとか」
アーミアが一瞬止まった。
言われてみれば、確かに最近はよく確認している。
食事。
睡眠。
整備が長引けば休ませるし、戦闘後なら怪我をしていないかも見る。
ネーナだから特別。
そう意識していたわけではない。
ただ、放っておくと危なっかしい。
「気になるんです」
「何が?」
「いろいろです」
「それ答えになってない」
「じゃあ、ご飯食べに行きましょう」
「誤魔化した」
「行きますよ」
アーミアが立ち上がると、ネーナも当然のように後ろをついてきた。
◆
食堂。
ネーナはアーミアの向かいに座っていた。
その少し離れた場所では、ロックオンとレイナスが二人の様子を見ている。
「ずいぶん懐かれたな」
ロックオンが言う。
レイナスもそちらを見る。
ネーナはアーミアの皿から何かを取ろうとして、手を止められていた。
「それ私のです」
「一個くらいいいじゃん」
「自分のまだ残ってるでしょう」
「こっちの方がおいしそう」
「同じですよ」
「じゃあちょうだい」
「自分の食べてください」
レイナスが少し笑う。
「確かにな」
ロックオンが聞く。
「最初からあんな感じだったか?」
「いや」
レイナスは少し考えた。
「最初はアーミアの方が距離を測ってた」
未来で何をする人間なのか。
それを知っていたから。
だが今は違う。
ネーナが何をするのか。
何を選ぶのか。
アーミアはそちらを見るようになっている。
ロックオンも何となく察したらしい。
「で、今は?」
レイナスは再び二人を見る。
ネーナが自分の皿を空にして、アーミアへ何かを訴えている。
アーミアは呆れながらも、結局少しだけ自分の分を渡していた。
「……あれはもう、だいぶ面倒見てるな」
「姉って感じか?」
レイナスは一拍置いた。
「年齢だけ見れば、もう少し上じゃないか?」
ロックオンが吹き出した。
「本人に聞かれたら怒られるぞ」
「だからここで言ってるんだよ」
◆
午後――プトレマイオス・訓練区画
《アニマ》の訓練も続いていた。
ただし、以前のように自分の中から《アニマ》を見つけ出す段階は、もう終わりつつある。
ロックオン。
アレルヤ。
ティエリア。
三人とも、自分の意思で安定して《アニマ》を発現できるようになっていた。
今は、その力を身体の一部へ流し、実際の身体強化へ繋げる訓練に移っている。
ロックオンが右手へ青白い光を纏わせる。
「ここまでは普通に出るようになったんだがな」
アーミアが見る。
「じゃあ、そのまま腕全体へ広げてください」
「簡単に言うなあ」
「身体の中に流す感覚はもう分かってるでしょう?」
「分かってるのと上手くできるのは別だろ」
それでもロックオンは集中する。
指先。
掌。
手首。
青白い光が少しずつ前腕へ広がる。
途中で一度揺らいだが、今度は消えなかった。
「……お?」
「そのまま」
肩まで。
右腕全体を淡い光が包む。
アーミアが頷く。
「できてます」
ロックオンが腕を動かしてみる。
軽い。
力を入れた感覚よりも、身体そのものが底上げされている。
「なるほどな。こういう感じか」
「無理に力を入れなくても、普段より強く動けるはずです」
ロックオンは握った拳を見た。
「MSに生身で殴りかかる気にはならねえけどな」
少し離れたところでレイナスが言う。
「その判断は正しいよ。できるようになっても、普通はやらない方がいい」
ロックオンがレイナスを見る。
「経験者が言うと説得力がねえな」
「俺がやるのと勧めるのは別の話だ」
◆
アレルヤは両腕へ《アニマ》を流していた。
以前は左右で出力差があった。
今はまだ完全に同じではないが、両方を安定させられる。
「次は脚もやってみます」
アーミアが言う。
「一度に?」
「難しかったら片脚ずつで」
「分かった」
アレルヤが呼吸を整える。
両腕へ流していた《アニマ》を少し弱め、その一部を脚へ移していく。
最初は右脚。
次に左。
青白い光が足元まで広がった。
「……身体が軽い」
「少し動いてみてください」
アレルヤが一歩踏み出す。
そのまま軽く床を蹴った。
予想より前へ出た。
「わっ」
慌てて着地する。
ロックオンが笑う。
「飛びすぎだろ」
「思ったより強く出たんだよ」
アーミアも少し笑う。
「最初はそうなります。出力を上げるより、必要な量に抑える方が難しいですから」
◆
ティエリアは少し違っていた。
右腕。
左腕。
右脚。
左脚。
順番に《アニマ》を通した後、全身へ薄く広げようとしている。
最初に分析しすぎて発現そのものに苦戦していた頃とは逆だった。
一度感覚を理解してからは、再現が速い。
青白い光が四肢から胴体へ繋がっていく。
アーミアが感心したように見る。
「ティエリア、もう全身までいけそうですね」
「一度経路を把握すれば、各部を個別に扱い続ける必要はない」
壁際にいたレイナスが口を挟む。
「ずいぶん言うようになったな。最初は考えすぎて何も出なかったのに」
ティエリアがレイナスを見る。
「過去の失敗をいつまで持ち出すつもりだ」
「別に責めてないよ。むしろ、そこからここまで来たんだから大したもんだろ」
ティエリアが少し黙る。
「……なら最初からそう言え」
「それじゃ少し味気ないだろ」
アーミアがレイナスを見る。
「先生」
「分かった。ここまでにしとく」
◆
刹那は、さらに先へ進んでいた。
エクシアは使わない。
今日は純粋な《アニマ》の訓練だった。
身体強化。
自分の肉体だけへ《アニマ》を巡らせる。
青白い光が、刹那の身体を薄く包んでいる。
腕。
脚。
胴体。
全身。
以前より明らかに安定していた。
アーミアが正面に立つ。
「歩いてみてください」
刹那が一歩。
二歩。
光は乱れない。
「次は少し速く」
刹那が床を蹴る。
一気に加速した。
訓練区画の反対側まで走り、止まる。
以前なら出力が脚へ偏っていた。
今は違う。
脚だけではなく、姿勢を支える胴体や着地を受ける全身へ《アニマ》が通っている。
レイナスもその様子を見ていた。
「かなり馴染んできたな」
刹那が振り返る。
「まだ上げられる」
「上げるだけならな」
レイナスは壁から離れる。
「でも今やってるのは、どこまで強くできるかを見る訓練じゃないだろ」
刹那が見る。
「安定させる」
「そういうことだ。必要な時に必要な分だけ出せた方が、使い道は増える」
アーミアが頷く。
「今度はその状態を維持したまま動いてみてください。走るだけじゃなくて、止まる、曲がる、跳ぶ。普通に身体を動かす感覚で」
「分かった」
刹那が再び動き出す。
加速。
停止。
方向転換。
跳躍。
着地。
繰り返すたびに、青白い光の揺れが少なくなっていく。
その時だった。
「……?」
アレルヤが顔を上げた。
アーミアが気づく。
「どうしました?」
「刹那から……また感じる」
弱い。
だが確かに存在する。
脳量子波。
以前より、さらに輪郭がはっきりしている。
刹那が動きを止め、こちらを向いた。
アーミアの表情が変わる。
刹那の瞳が。
金色になっていた。
「刹那」
「何だ」
本人はまだ気づいていない。
ロックオンが刹那の顔を見る。
「お前、また目が金色になってるぞ」
刹那が僅かに眉を寄せる。
「また?」
アーミアが近づく。
「はい。前よりはっきりしています」
刹那は自分の手を見る。
全身を覆っている《アニマ》は安定したまま。
苦痛もない。
身体に異常がある様子もなかった。
アレルヤは集中したまま言う。
「脳量子波も前より強い。でも、まだすごく弱い」
ティエリアが刹那を見る。
「《アニマ》の身体強化と連動しているのか?」
アーミアは少し考える。
「可能性はあります。でも、まだ断定できません」
刹那が聞く。
「俺もイノベイターになるのか」
アーミアはすぐには答えなかった。
「私が知っている未来では、刹那はイノベイターになります」
そこは、すでに隠している情報ではない。
「ただし、私の知っている歴史で刹那が覚醒する過程に《アニマ》はありませんでした。今起きていることが、その覚醒へ繋がっているのか。それとも別の変化なのかは分かりません」
刹那は数秒考えた。
「なら、もう少し続ける」
「今日はここまでです」
アーミアが即答する。
刹那が見る。
「まだ余裕はある」
「分かってます。でも、分からない変化が出た状態で続ける必要はありません」
「身体に異常はない」
「今は、でしょう」
アーミアは引かなかった。
刹那も黙る。
少し離れたところからレイナスが口を挟む。
「今日はアーミアの言うことを聞いとけ」
刹那が見る。
「まだできる」
「それは見れば分かるよ」
レイナスは落ち着いた声で続ける。
「できるからって、今やらなきゃいけないわけじゃない。何が起きてるか分からないなら、確認してから続ければいいだろ。明日には逃げない」
刹那はしばらく黙った後、《アニマ》を解除した。
青白い光が消える。
それに少し遅れて、金色だった瞳も元へ戻った。
「……分かった」
アーミアが小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
◆
その日の訓練が終わる頃には、ロックオンとアレルヤも四肢への《アニマ》の流し方をある程度掴み、ティエリアは短時間なら全身へ薄く巡らせられるようになっていた。
まだ戦闘で自在に身体強化を使えるほどではない。
それでも、掌に光を出すだけだった数日前とは明らかに違う。
刹那だけが先へ進んでいる状態も、少しずつ変わり始めていた。
◆
訓練区画を出たところで、ネーナが待っていた。
アーミアが足を止める。
「ネーナ?」
「終わった?」
「終わりましたけど」
「じゃあ一緒に行こ」
「どこへ?」
「食堂」
アーミアが時間を見る。
「まだ夕食には少し早いですよ」
「お腹空いた」
「昼ちゃんと食べたでしょう」
「食べた」
「じゃあ少し我慢してください」
「えー」
「えー、じゃありません」
ネーナがアーミアの袖を掴む。
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「アーミア」
「駄目」
ネーナがしばらくアーミアを見る。
「……お母さんみたい」
アーミアが止まった。
ネーナ自身も、口に出した後で少しだけ止まる。
「……嫌だった?」
アーミアはすぐには答えなかった。
六十七年生きてきた。
いろいろな人と出会った。
けれど、そういう言葉を向けられたことはない。
不思議な感じはする。
それでも。
「嫌ではないです」
ネーナが顔を上げる。
「じゃあいい?」
「何がです?」
「食堂」
「それとこれとは別です」
「やっぱりお母さんじゃん」
「違います」
少し離れたところでは、レイナスとロックオンが二人を見ていた。
「もう姉って感じでもねえな」
ロックオンが言う。
レイナスは一拍置いた。
「……まあ、本人が気づくまでは黙っといた方がいいだろ」
「言わねえの?」
「言ったらこっちに話が飛んでくる。今のところ、巻き込まれる理由がない」
「その辺だけ妙に現実的だな」
「面倒事に自分から入っていくほど若くないんだよ」
その前では、ネーナがまだアーミアの袖を掴んでいる。
アーミアは困った顔をしながらも、最後には折れた。
「……飲み物だけですよ」
「やった!」
嬉しそうに笑うネーナを見て、アーミアも小さく笑う。
自分が少しずつ。
ネーナを見る目を変えていることに。
本人だけが、まだはっきりとは気づいていなかった。