西暦2308年――《ソレスタルビーイング》号・ヴェーダ中枢
巨大な演算設備の中心で、ヴェーダは静かに稼働を続けていた。
青白い光が幾重にも走り、膨大な情報が絶え間なく処理されている。
ティエリアは、その光景を前にしばらく動かなかった。
かつては繋がっていることが当たり前だった。
その感覚を突然失い、どれだけ手を伸ばしても届かなかった存在が、今は目の前にある。
「ティエリア」
スメラギの声で、ようやくティエリアが振り返った。
「……分かっている。いきなり接続するつもりはない」
リボンズが少し離れた場所から頷く。
「それが賢明だね」
ティエリアが睨む。
「君が言うと余計に警戒したくなる」
「昨日から何を言っても同じ反応だね」
「原因を考えろ」
「考えているから、反論していないんだけど?」
ティエリアはそれ以上付き合わず、ヴェーダへ視線を戻した。
まず確認するべきなのは、ここが本当に安全なのか。
そして、リボンズが現在どこまでヴェーダへ干渉できるのか。
スメラギも同じ考えだった。
「リボンズ。まずあなた自身の接続状態を見せて」
「僕の?」
「ヴェーダへまだ自由に接続できるんでしょう?」
「ああ」
「なら、それを確認する。私たちはまだ何も触らない」
リボンズは少しだけ眉を上げた。
「慎重だね」
「あなたを連れて敵だった施設の中枢まで来てるのよ。慎重にもなるわ」
「それはごもっともだ」
リジェネが横で小さく笑った。
ヒリングは、そのやり取りを不満そうに見ている。
「リボンズが信用できないっていうの?」
スメラギはヒリングを見る。
「昨日まで敵だったのよ」
「でもリボンズは――」
「ヒリング」
リボンズが止めた。
ヒリングが振り返る。
「何?」
「彼女たちの警戒は当然だよ」
「……リボンズまでそんなこと言うの?」
「僕が逆の立場でも同じことをする」
ヒリングは納得していない。
だが、リボンズ本人に言われ、それ以上は続けなかった。
◆
リボンズが中枢端末の前へ立つ。
手をかざすと認証が走り、表示が切り替わった。
アクセス承認。
管理権限。
現在のヴェーダとの接続状態。
ティエリアは表示された内容を注意深く追う。
「君の権限は残っている」
「ああ」
「昨日の敗北でヴェーダ側から変更されたものは?」
「見た限りではないね」
リジェネも端末を確認する。
「僕から見ても変化はない」
ティエリアがリジェネを見る。
「君も接続できるのか」
「当然。僕もイノベイドだからね」
「リボンズと同じ権限ではないだろう」
「そこまで単純な話ではないけど、少なくともヴェーダへの接続自体はできる」
ティエリアは、その言葉を覚えておく。
今ここには。
自分以外にもヴェーダへ接続できるイノベイドが複数いる。
その事実を無視して、以前と同じ環境へ戻すことはできない。
レイナスが端末を横から見ても、当然内容は分からない。
「で、これだけ見て安全かどうか判断できるのか?」
ティエリアが答える。
「僕だけでは不十分だ」
「だろうな」
スメラギも頷く。
「技術的な確認が必要ね」
そこで初めて。
プトレマイオスへ通信を開いた。
「イアン、聞こえる?」
『聞こえとる。どうした?』
「ヴェーダ中枢まで到着した。今のところ戦闘もトラブルもないわ」
『それで?』
「システムの状態を確認したい。こっちへ来てもらえる?」
少しだけ間が空く。
『ようやく出番か』
スメラギが僅かに笑う。
「最初から全員で入ってくるより安全でしょう?」
『分かっとる。今から向かう』
「案内を一人出してもらえる?」
リジェネが答える。
「僕が行こうか?」
ヒリングが驚く。
「リジェネが?」
「ここにいても今のところすることはないからね」
リボンズが横を見る。
「珍しく働く気になったんだ」
「君に言われたくないな」
リジェネはそのまま中枢区画を出ていった。
◆
イアンが到着するまでの間。
ティエリアはリボンズに、現在のヴェーダ構成について説明させた。
「月の旧施設から移したのは、中枢機能の全てか?」
「主要機能はね。今ここにあるものを失えば、以前の月面施設へ戻れば済むという状態ではない」
「バックアップは?」
「存在する。ただし、今君が目の前にしているものと完全に同等ではない」
「つまり、この《ソレスタルビーイング》号が現在の本体と考えていい」
「ああ」
ティエリアは黙ってヴェーダを見る。
ヒリングが少し苛立ったように言った。
「さっきから取り調べみたい」
レイナスが横を見る。
「実際それに近いだろ」
「リボンズはもう敵じゃないでしょ」
「それを昨日今日で決めるのは早いんじゃないか?」
ヒリングが睨む。
「リボンズは負けを認めた!」
「それと信用できるかは別の話だな」
リボンズがヒリングより先に頷いた。
「彼の言う通りだ」
ヒリングが振り返る。
「また!?」
「君は僕を信用してくれている。それ自体は悪い気はしないよ」
「だったら――」
「でも、彼らが僕を信用する理由にはならない」
ヒリングは黙った。
リボンズも。
そこから先は言わなかった。
◆
しばらくして。
中枢区画の隔壁が開いた。
リジェネと一緒にイアンが入ってくる。
「待たせたな」
イアンは挨拶もそこそこに、巨大なヴェーダ中枢を見上げた。
しばらく。
言葉が出ない。
「……これはまた」
レイナスが横から聞く。
「やっぱり技術屋としては気になるか?」
「当たり前だろうが。目の前にヴェーダの中枢があるんだぞ」
それから。
イアンはようやくリボンズを見る。
「で、お前さんが弄った張本人か」
「随分な紹介だね」
「間違っとらんだろ」
「否定はしないよ」
スメラギが話を戻す。
「イアン。まず閲覧だけ。こちらから変更はしないで」
「分かっとる」
リボンズが操作可能な端末を示す。
イアンはすぐには触らなかった。
まずリボンズから、どの端末が何へ接続されているのか説明を受ける。
「これは?」
「システム状態の閲覧用」
「こっちは」
「管理側。今は触らない方がいい」
「お前さんが自分で言うと怖いな」
「何をしても疑われるね」
「当然だ」
ティエリアが即答した。
リボンズは肩をすくめる。
◆
確認作業が始まった。
イアンが端末でシステム構成を確認し、ティエリアが表示される情報を追う。
スメラギは二人の後ろから状況を見守る。
刹那とアーミアは周囲に異常がないかを確認し、レイナスもリボンズたちから目を離さない。
時間はかかった。
だが。
少なくとも、ヴェーダそのものに大きな異常は見つからなかった。
「演算系は正常」
イアンが言う。
ティエリアも頷く。
「保存領域にも、今見た範囲では致命的な破損はない」
「外部接続は?」
スメラギが聞く。
「そこが問題だな」
イアンが表示を切り替える。
プトレマイオス。
ガンダム。
各種支援設備。
かつて存在していた接続先の多くが切断されたままになっている。
ティエリアの目が鋭くなる。
「これを君が切った」
「ああ」
リボンズは隠さない。
「戻せるな?」
「もちろん」
「なら戻せ」
「一度に全部?」
ティエリアが止まる。
リボンズは画面を見る。
「さっきまで慎重だったのに、ヴェーダを目の前にすると急ぐんだね」
「……」
図星だった。
スメラギがティエリアを見る。
「段階的にやりましょう」
イアンも頷く。
「まず一人だけ試すのがいい」
ティエリアが少し考える。
「僕か」
「ああ」
リボンズが答える。
「最初に君だけ戻す。正常なら次にプトレマイオスとの限定接続。それから必要な範囲を広げればいい」
今度は。
ティエリアも反論しなかった。
「分かった」
◆
リボンズが設定画面を開く。
ティエリア・アーデ。
その識別情報は残っていた。
消されてはいない。
ただ。
接続権限だけが無効化されている。
ティエリアはその表示を見て。
一瞬だけ黙った。
「消さなかったのか」
「何を?」
「僕の情報だ」
リボンズが少し首を傾ける。
「消す必要がなかったからね」
「敵と判断したのに?」
「君が存在しなくなったわけではないだろう?」
ティエリアは何も返さなかった。
リボンズが設定を変更する。
接続制限。
解除。
ティエリアの識別情報が、再び有効になる。
「これで接続できる」
リボンズが一歩離れた。
ティエリアは端末を見る。
それから。
ヴェーダを見上げる。
スメラギが聞く。
「準備は?」
「ああ」
「異常を感じたらすぐ切って」
「分かっている」
刹那も短く言う。
「無理はするな」
ティエリアが刹那を見る。
「ああ」
目を閉じる。
意識を集中する。
そして。
ヴェーダへ触れた。
◆
最初は。
何もなかった。
次の瞬間。
情報が流れ込む。
ティエリアの身体が僅かに強張る。
「……っ」
刹那が一歩動く。
アーミアもティエリアを見た。
だが。
すぐに。
ティエリアの肩から力が抜けた。
ゆっくりと目を開く。
「ティエリア?」
スメラギが呼ぶ。
ティエリアは。
少しだけ息を吐いた。
「……繋がった」
声は静かだった。
だが。
いつものティエリアより僅かに感情が乗っている。
「ヴェーダが僕を認識している」
「異常は?」
イアンが聞く。
「ない」
「変な干渉も?」
「感じない」
ティエリアは再び意識をヴェーダへ向ける。
膨大な情報。
演算。
記録。
以前と全く同じとは言い切れない。
それでも。
間違いない。
ヴェーダだ。
失っていた繋がりが。
戻っている。
リジェネがティエリアを見た。
「そんな顔もするんだね」
ティエリアが横を見る。
「どんな顔だ」
「自分では分からない?」
「分からない」
「ならいいよ」
ティエリアは少し不満そうだったが、今は追及しなかった。
◆
「次へ進める」
ティエリアが接続状態を確認したまま言う。
スメラギが聞く。
「プトレマイオス?」
「ああ。ただし限定的に戻す」
イアンが端末を確認する。
「通信、情報参照、演算支援あたりからだな。艦の主要制御や兵器管制にはまだ繋がん」
「それでいいわ」
スメラギはプトレマイオスへ通信を開いた。
「クリス、フェルト。準備は?」
『できてます』
『こちらもいつでも大丈夫です』
二人の声が返る。
ティエリアはリボンズを見る。
「接続許可の変更は僕にもできるな」
「ああ。権限は戻した」
「なら僕がやる」
ヒリングがリボンズを見る。
リボンズは。
何も言わず一歩下がった。
ティエリアが端末の前へ立つ。
リジェネが、その様子をじっと見ていた。
昨日まで。
ヴェーダを自分のものとして扱っていたリボンズが。
今。
別のイノベイドへ場所を譲っている。
リボンズ自身は気にした様子もない。
ティエリアが設定を変更する。
プトレマイオスからの接続要求。
受信。
識別。
承認。
「接続を開始する」
数秒。
そして。
『来た!』
クリスの声が響いた。
『ヴェーダとの通信復旧を確認!』
フェルトも続く。
『演算支援データ受信。異常ありません』
スメラギが大きく息を吐いた。
「戻った……」
イアンが端末を確認する。
「妙な信号もない。設定した範囲以外は閉じたままだ」
ティエリアもヴェーダを通して確認している。
「正常だ」
刹那が言う。
「取り戻したのか」
ティエリアは少しだけ間を置いた。
「ああ」
そして。
はっきりと言った。
「ヴェーダとの接続を取り戻した」
◆
そこからさらに時間をかけて確認が行われた。
限定接続を維持したまま、異常な命令が流れてこないこと。
プトレマイオス側から必要な情報を正常に取得できること。
ヴェーダ側から艦の制御へ勝手に介入しないこと。
全て。
問題なし。
イアンが最後の確認を終える。
「これなら使える」
スメラギが聞く。
「全面的に戻しても?」
「今日やる必要はない」
ティエリアが答えた。
以前なら。
一刻も早く元の状態へ戻したいと考えていたかもしれない。
今は違う。
「必要な範囲から順番に戻す。その方が安全だ」
リボンズが僅かに笑う。
「僕と同じ結論だね」
ティエリアが見る。
「君のおかげで慎重になった」
「それは悪かったよ」
ティエリアが一瞬固まった。
ヒリングもリジェネもリボンズを見る。
レイナスが眉を上げた。
「今、普通に謝ったな」
リボンズが嫌そうに見る。
「全員で確認する必要があるのかい?」
「珍しかったからな」
「失礼だね」
ティエリアがまだリボンズを見ている。
「謝ることもできたのか」
「君まで?」
「意外だった」
「僕を何だと思っているんだい?」
刹那が答える。
「面倒な奴」
数秒。
沈黙。
レイナスが口元を押さえる。
リジェネは完全に笑っていた。
リボンズだけが刹那を見る。
「君は本当に遠慮がなくなったね」
「最初からだ」
「……そうだったね」
◆
ヒリングは。
笑っていなかった。
ヴェーダと接続したティエリア。
プトレマイオス。
そして。
それを自分から許したリボンズ。
「本当に、これでいいの?」
リボンズが見る。
「ああ」
「ヴェーダはずっとリボンズが――」
「ヒリング」
声は穏やかだった。
「僕がヴェーダを独占しなければ、僕ではなくなると思っているのかい?」
ヒリングは黙る。
「僕は僕だよ」
「でも……」
「不満なら、自分で考えればいい」
「またそれ?」
「ああ」
リボンズはヴェーダを見る。
「僕は昨日まで、自分だけが正しいと思っていた」
ヒリングだけではなく。
リジェネたちも聞いている。
「刹那に負けたからといって、全部間違っていたと言うつもりはない。でも」
一度。
言葉を切る。
「何も変えないなら、負けを認めた意味がない」
ヒリングは。
今度は反論しなかった。
リジェネが小さく言う。
「本当に変わったね」
リボンズが横を見る。
「何度も言われると鬱陶しいな」
「そこは変わってなくて安心したよ」
◆
ティエリアは最後にもう一度、ヴェーダの接続状態を確認した。
正常。
プトレマイオスとの限定接続も維持されている。
もう。
失われてはいない。
「今日はここまででいい」
スメラギが言う。
ティエリアも頷いた。
「全面復旧はプトレマイオスへ戻ってから計画を立てる」
「そうしましょう」
イアンも同意する。
「こっちの構成ももう少し詳しく調べたい。急いで全部戻してまた止まったら笑えんからな」
ティエリアはヴェーダを見上げた。
ようやく戻った。
だが。
以前と同じ場所へ戻ったわけではない。
《ソレスタルビーイング》号。
多くのイノベイド。
敗北しながらもここに立つリボンズ。
真のイノベイターへ覚醒した刹那。
そして。
まだリボンズたちへ正体を明かしていないアーミア。
状況は。
以前とは全く違う。
それでも。
ティエリアは静かに言った。
「帰ろう」
スメラギが少し驚いてから。
笑う。
「ええ」
ティエリアは最後にヴェーダを見る。
今度は。
背を向けることに迷いはなかった。
ヴェーダとの繋がりは。
もう戻っている。
そして。
プトレマイオスも再び。
その支援を受けられるようになった。