妖怪廻戦 作:テルクニジンジャー
──ああ、俺は死ぬんだ。
そう思ったのは、全身を駆け巡っていた苦痛が、まるで快晴の空の下で干した清潔な布団に包まれるように、ふわりと消えてなくなったときだった。
視界はぼやけ、身体はぴくりとも動かない。それでも、長年の経験によって培われた感覚だけはまだ残っている。つい先ほどまで猛烈な殺意と敵意を放っていた、呪いの王。その存在が、確かに消えた。
「……虎杖が……」
どうやら、俺たちは勝てたらしい。
血がどくどくと零れる口から出たのは、もはや掠れた声だけだった。歓声はなかった。壮絶な戦闘によって見る影もなくなった新宿の街並みに、勝利を喜ぶ声は響かない。ただ、その場に残された誰もが、ようやく終わったのだと、深い息を吐いていた。
嗚呼、もう二度とごめんだ。
──両面宿儺とのガチンコ勝負だなんて。
大勢の人間が死んだ。
国は滅茶苦茶になった。
そして、自分を導いてくれた恩師も死んだ。
世のため人のため、なんていう崇高な大義を欠片も持っていたわけじゃない。それでも、邪智暴虐の呪いの王に抗おうと立ち上がった仲間たちを前にして、自分だけが逃げるわけにもいかなかった。だから、ノコノコとこんなところまでやって来てしまった。そのツケが、これだ。
両腕は二本とも綺麗に切断されている。どこかその辺に転がっているだろう。左足は膝から先が消えていた。片目は血で塞がれてまともに見えず、胸には大きな裂傷が走っている。おまけに腹部は、宿儺に殴られた際にできたものだろう、気味の悪いほど大きなえぐれ方をしていた。
我ながら、よく生きているものだと思う。こんな有様でなぜ死なないのか甚だ疑問だった。こんなことなら、反転術式を死に物狂いで使えるようにしておくべきだったか、と僅かに後悔する。
とはいえ、家入さんに聞いても「ひゅーっひょいっ」なんて訳の分からない言葉しか返ってこなかったし、秤は何も分かっていなかった。結局、乙骨ともタイミングが合わず教えて貰うことは出来なかった。
……家入さん。
そうだ。家入さんだ。
虎杖が宿儺に勝利したのなら、もう俺にとって後顧の憂いはないに等しい。仲間たちがどうなるかという心配は残っているが、少なくとも、自分がここで死ぬことによって戦いそのものが覆ることはないだろう。安い命ではない、しかし大きな命でもないと自負している。
ただ、一つだけ。
どうしても心残りがあるとすれば、あの人のことだった。
家入硝子。
高専に入学してから、ずっと好きだった女性。
初めて会ったときから、綺麗な人だと思った。
どこか気怠げで、他人に深入りすることを避けるような態度を取るくせに、いざ誰かが傷つけば誰よりも手を差し伸べる。飄々としていて、何を考えているのか分からない。口も決して優しくはない。それなのに、疲れたときにあの人の顔を見ると、それだけで妙に安心した。
だから、好きになった。
理由なんて、結局それだけだったのかもしれない。単純に顔が好みだったのかもしれない。
告白した回数は、もう覚えていなかった。
会うたびに好きだと言って、ことごとく振られた。デートに誘えば「忙しい」と断られ、用もないのに保健室へ行けば「暇なら帰れ」と追い出された。それでも懲りずに顔を出して、そのたびに呆れたような顔をされる。
歳の差ありすぎでしょ、と五条先生にはケラケラ笑われた。
自分でも分かっている。
俺と家入さんでは、あまりにも歳が離れている。そもそも向こうからすれば、まだ高校生の俺なんて恋愛対象以前の問題だっただろう。
それでも、好きだった。
大人になったら、いつか振り向いてもらえるかもしれない。
そんな淡い期待を、馬鹿みたいに抱いていたのだ。
もっと早く生まれていれば──何度そう思ったことだろう。もしもあと十年、いや、せめて五年早く生まれていたら。彼女と同じ時間をもっと長く過ごせていたら。そんなありもしない「もしも」を、何度も考えた。
でも、今となっては、それも全部終わりだ。
……そういえば。
戦いに向かう前、家入さんと約束をしたんだった。
無事に戻ってきたら、デートに行く。東京はダメになったから、北海道にでも行こう。あの家入さんが、珍しく露骨に嫌そうな顔をしながらも、最後には渋々頷いてくれた。火のついてないタバコを俺の胸に押し付けて、無事に帰ってコレに火をつけろと言ってくれた。
あのときの顔を思い出す。
呆れたような、面倒くさそうな顔。けれど、ほんの少しだけ優しかったようにも思える。
あれが、俺にとって最後の約束になってしまうのか。
そう考えると、胸の奥が妙に痛んだ。もちろん、傷口の痛みとは違う。腕を失ったことも足を失ったことも片目が潰れたことも、今となっては全てどうでもいい。
ただ、もう一度だけ会いたかった。
くだらない話をして、いつものように呆れられて、それでも懲りずに好きだと言いたかった。
できれば、約束したデートにも行きたかった。
……クソ。
こんな状態じゃ、デートどころか数分後の呼吸さえ怪しい。
本当に馬鹿なことをした。
宿儺との正面戦闘なんて虎杖や真希たちに任せて置けばよかったんだ。でも、後輩に任せっきりなんて格好悪い、と自分を鼓舞してしまったのだからどうしようもない。
これでは、死んでも死にきれないな。
そう思ったところで、意識がふっと遠のいていく。
視界がさらに暗くなる。音も遠ざかっていく。
そして、まるで堰を切ったように、これまでの記憶が脳裏を駆け巡り始めた。
走馬灯のように、俺の人生が──。
■■■
身体が揺れる。
ひやりとした冷気が露出した肌に触れ、無意識に布団を探した。脇へ追いやられていた布団を手繰り寄せ、目を閉じたまま頭まで深く覆う。
「ヤマト、起きて。もうご飯できてるわよ」
布越しに聞こえてくる少女の声に、俺はゆっくりと瞼を開いた。
薄暗い。
まだ夜なのかと思ったが、どうやら違うらしい。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、薄暗い部屋の中をぼんやりと照らしている。
……ああ、布団を被っているからか。
そう思ったところで、ようやく自分がベッドの上にいることをようやく認識した。
妙に身体が重い。いや、それ以上に眠い。
「ヤマト。起きてってば」
「……ん」
肩を揺すられ、もう一度目を擦る。
そこでようやく、さっきまで見ていたものが夢だったのだと気づいた。
──前世の記憶。
両腕を失い、左足を失い、血まみれになりながら新宿で死んだ、あの日の夢だ。
随分と久しぶりに見た気がする。
いや、もしかすると、前世の最期をここまで鮮明に夢に見たのは初めてかもしれない。宿儺との戦いも、仲間たちのことも、そして最後に考えていた家入さんのことまで、やけに生々しく思い出せる。
……約束、守れなかったな。
そんなことを覚めていない頭でぼんやり考えていると、布団を被っていた俺へ、少女が呆れたような声を投げかけてきた。
「もう、またクーラーの温度低くして寝てるの? 今日から夏休みだっていうのに、風邪ひいても知らないよ」
「……眠てぇ」
「どうせ夜遅くまで宿題やっていたんでしょ。自業自得よ。二ヶ月も休みがあるんだから、ゆっくりやればいいのに。まったく」
布団から顔を出し、声の主へ視線を向ける。
ぼやけていた視界が、次第に鮮明になっていく。
ベッドの横に立っていたのは、”今世”の双子の妹だった。
明るい髪を水色のリボンでまとめ、小綺麗な服に身を包んでいる。朝っぱらから妙にしゃんとしているその姿は、寝起きの俺には眩しいくらいだった。
「キララ、早起きは健康に悪いんだぞ」
「何を言ってるの……? ほら、早く起きなさい。お母さんに呼んで来いって言われたんだから、起きるまで動かないわよ」
「それは勘弁……」
どうやら逃げ道はないらしい。
「ふぁぁ……おはよう」
観念して布団を押し退け、ゆっくりと上体を起こす。大きく欠伸をして目を擦るが、眠気はまだ抜けきらない。
しかし、不思議なものだ。
さっきまで夢の中で、俺は死んでいた。それも、ただ死んだのではない。呪いの王と殺し合い、身体を滅茶苦茶にされ、もう助からないと悟りながら、それでも最後まで生きようとしていたのだ。なのに目を覚ませば、そこにあるのは見慣れた自分の部屋と、朝っぱらから俺を叩き起こしに来た妹の姿である。
夢というものは、本当に妙なものだと思う。
──いや、奇妙なのは俺そのものか。
何しろ俺は、一度死んでいる。
宿儺との戦いで確かに死んだはずなのに、気がつけば別の人生を生きていた。しかも、目を覚ましたときにあったのは、死にかけの身体でもなければ、見慣れた高専の保健室の天井でもない。赤ん坊だった。
しかも自分が生まれた場所は、それまで聞いたことも見たこともないような町だった。
〈さくらニュータウン〉。そんな妙にスタイリッシュな名前の地域があるなら、これまでどこかで目にしていそうなものだが、少なくとも記憶にはない。
自分が赤ん坊になっていると気づいたときは、それはもう大層驚いた。何かの勘違いではないかと思ったし、もしかすると死ぬ間際に見た幻覚か、あるいは走馬灯の類なのかとも考えた。もっとも、そんな考えも長くは続かなかった。
愛しげにこちらを見る、見知らぬ女や男の腕に抱かれているうちに、どうやらそういう単純な話ではないらしいと分かってきたからだ。
それでも、最初のうちは別の可能性を疑っていた。
もしかすると、あのツギハギ呪霊が実はまだ生きていて、最後っ屁に俺の肉体をどうにかしやがったのではないか、とか。あいつならやりかねない。いや、流石にそれはないだろうとは思ったが、あの状況では何が起きてもおかしくなかった。
だが、一週間、二週間と時間が経ってしまえば、夢でも走馬灯でも呪霊の仕業でもないことくらい、嫌でも分かってくる。目が覚めるたびに同じ天井があり、同じ人間たちがいて、俺は赤ん坊として世話をされている。
昨日と今日で何かが変わるわけでもない。そうして日々を過ごすうち、否応なしに一つの結論へ辿り着いた。
輪廻転生、というやつなのだろうと。
死んだ人間が、別の人間として生まれ変わる。前世の記憶を残したまま、もう一度人生を始める。そんな話は知っていたが、まさか自分が実際に経験することになるとは思わなかった。
とはいえ、他に説明のしようもない。よく分からないけれど、つまりはそういうことなのだろう。
そう考えた辺りで、俺はそれ以上考えるのをやめた。
考えたところで、俺にはどうすることもできなかったからだ。死んだと思ったら生まれ変わっていた。前世の記憶も残っている。だったら、とりあえず今度の人生を生きていくしかない。
そんな具合に、俺は自分の置かれた状況を半ば投げやりに受け入れた。ただ、当時も今も釈然としないことがある。
今世の名前だ。
俺の名前は、前世と一切変わらなかった。
”星風ヤマト”。
姓も同じ。名も同じ。
別の人間として生まれ変わったというのなら、せめて名前くらいは変わっていてもよさそうなものだ。なのにまた同じだった。その事実を知った辺りで、俺はとうとう訳が分からなくなったのである。
しかも双子の妹の名前がキララと来た。
星に由来する苗字といい、奇妙な縁もあったことである。
そもそも輪廻転生というものが本当にあるのかどうかも知らないし、どうして前世の記憶が残っているのかも知らないし、どうして名前まで同じなのかなんて、もっと分からなかった。
けれど、分からないものは分からないでいい。結局のところ俺にできるのは、この人生を生きることだけだった。
そして、気がつけば──今ではもう、この身体で過ごす毎日のほうが当たり前になっている。
前世の記憶は消えていなかった。
こうして夢に見るくらいだ。忘れるはずもないし、きっと永遠に忘れることはないという確信はあるが……我ながら、ずいぶん遠くまで来たものだと思う。
「おはよう。今日の朝ごはんはエッグベネディクトみたいよ。あなたが好きなアボカドサラダもついてる」
「んぁ? そうだっけ」
「うん」
キララの言葉に生返事をしながら、壁に掛けられた時計を見た。時刻は午前七時半を指している。
普段なら、もう起きて着替えている時間だ。しかし今日からは夏休みのはずだ。学校へ行く必要もないのに、なぜこんな時間に起こされなければならないのだろう。
欠伸をしながら恨めしげに妹を見やるも、彼女は俺の勉強机に散らばったノートや日誌を片付け始めており、こちらには背を向けている。
「夏休みの宿題、もう終わったのね」
「日誌は終わらせたけど、習字やら読書感想文やらはまだ残ってるよ」
「二ヶ月もあるんだから、ゆっくりやればいいのに」
「まあ、それはそうなんだけどな」
そう答えながら、俺もベッドから降りる。
「……ていうか、着替えるからどっか行ってろ」
「私は気にしない」
「俺が気にすんだ」
「双子なのに?」
「双子でも男と女だろうが」
「今さらじゃない?」
「今さらでも嫌なもんは嫌なんだよ」
はあ、とため息をつき、クローゼットを開ける。
やたらと星のデザインが強調されたパジャマは、母親の趣味だった。寝間着なんて何でもいいとは思うが、そろそろ普通のものが欲しい。
ジーンズとTシャツを手早く身につけ、その間にも机の上を片付け続けているキララの後頭部を軽く叩いた。
「なによ」
「終わった。メシだメシ」
「はいはい。朝から食欲だけは元気ね」
「腹が減ってるんだから仕方ないだろ」
そう言って俺は部屋の扉へ向かった。
さっきまで見ていた夢のことを、今の俺はもうあまり気にしていなかった。
前世の最期、両面宿儺との戦い──そして、最後まで頭から離れなかった一人の女性。
それらは確かに、俺自身が経験した記憶だ。夢の中で見たものも、そこで感じた恐怖も、悔しさも、家入さんへの未練も恋心も、決して作り物なんかではない。
けれどそれもまた、もう過ぎ去ってしまった人生の話だ。もう戻れない遠い過去の話なのだ。
今の俺には、妹に急かされる朝があり、両親との生活があり、夏休みの宿題があり、そして何より──腹が減っている。
とりあえず今は、朝飯にしよう。
難しいことは、必要になってから考えればいい。
それでいいと、前世の俺は言っていた。
死ぬほど面倒なことを散々経験した前世の自分が、最後に残してくれたものがあるとすれば、たぶんそういうことなのだろう。