妖怪廻戦 作:テルクニジンジャー
ごく普通の住宅街に、昔ながらの商店街。そして海沿いには、小綺麗なオフィス群が建ち並んでいる。
これらを内包するこの地方都市は、かつては”桜町”と呼ばれていた歴史ある町だ。しかし、幾度かの大規模な再開発を経た現在では、”さくらニュータウン”という少しばかり洗練された名で地図に載っている。
街の中央部に位置する、さくら中央シティ。
その北側に広がる”さくら住宅街”は、地元の小学校を擁することもあって、比較的若い世帯が多く暮らしている。少子高齢化が加速する時代にあって、ここは子育てに適した街としてひそかな人気を保っており、近年は土地の価格もじわじわと上昇しているらしい。
そんな住宅街の川を挟んだ東側──高級住宅や博物館などを擁する”そよ風ヒルズ”。その一角にある、ひょうたん池を近くに見下ろすマンションの一室が、今の俺の住む家である。
どうやら、今世の俺が生まれた星風家というのは、相当なセレブらしい。前世の俺の星風家も、それなりに金はあった。とはいえ、高級ブランドを買い漁るようなタイプの富裕層ではない。むしろ、御三家への劣等感を丸出しにした、妙に中途半端でお堅い感じの家だった。
それに比べると、両親も妹も当たり前のように高級品を身につけている。そうした姿を見るたびに、育ってきた環境による価値観の違いというものを、強く実感する今日この頃である。
ともあれ、そんな環境の中で、俺はようやく訪れた夏休みを満喫しようとしていた。
なにせ、前世は働き詰めだったのだ。
呪霊の討伐、呪詛師への対応、調査報告書、授業、後輩との訓練──具体的には、二人しかいなかった俺の同級生が京都で保守派とやり合って停学を食らったあたりから、その忙しさは倍増していた。
それだけじゃない。
渋谷事変に、死滅回遊に、新宿……家入さんという癒しがなければ、とっくの昔に呪術師なんて辞めていただろう。あと交流会でたまに会う京都校の歌姫先生。
そんな俺が転生して、何も出来ない赤ん坊になって──しばらくして幼稚園に通うようになったあたりで、俺は「何もしないって素晴らしい。普通が一番」ということに、(前世含め)生まれて初めて気が付いたのである。
なに。小学校に通うのも面倒ではあるが、大変ではない。むしろ前世では家内で勉強していたので、小学校に通うという真新しい経験は新鮮でさえあった。
任務もない。
訓練もない。
ただ学校に行って、授業を受けて、給食を食べる。
そんな当たり前が、前世の俺にとっては当たり前ではなかった。だからこそ、そんな何気ない日常こそが、俺にとっては最高の新しい人生だったのである。
そして、そんな俺が学校生活の中でもっとも楽しみにしているのが、夏休みであった。
「今日は二人とも、どうするの?」
「私はお友達と遊ぶつもり」
「俺は……寝てようかな」
「だめ」
ダラダラと過ごす休日ほど尊いものはない。そんな気持ちを込めた返答を、キララがピシャリと切り捨てた。
正直、キララというと前世の同級生の方が先に思い浮かぶのだが、彼は彼で彼女は彼女だ。双子とはいえ、精神年齢では俺の方が上なのもあって、こちらのキララには普通に妹として接していた。
「せっかくいい天気なのだから、外に出て遊んだ方がいいわ」
「えぇ……」
「そうだ。良かったら私と来る?」
「でもお前、友達と遊ぶんだろ。あのいつもの二人と」
「うん」
「やだよ。俺、一組のやつとはほとんど関わりないし」
双子というのは、学校のクラス分けにおいて別々に配置されることが基本らしい。
俺たちは幼稚園の頃から当然のように別クラスへ配置されてきたが、現在キララの在籍する五年一組の生徒たちは、大半がこれまであまり関わったことのない奴らばかりである。
コミュ力は高い方だと自負している。とはいえ、女子小学生というのは、俺にとって今なお未知の生物だった。クラスメイトならともかく、交流する機会がほとんどない以上、わざわざ進んで関わろうとも思えなかった。
「今日はベッドシーツを取り替えたいし、掃除もしたいから、遊びに行ってくれると助かるのだけど」
「んんー……分かったよ。どっか適当にぶらぶらしてるわ。どうせ誰か遊んでるだろ」
しかしそんな思いも虚しく、母親の言葉によって、俺の夏休み初日に惰眠を貪るという崇高な予定は、あっさりと砕け散ってしまった。眼前に座る妹は、こちらの反応など最初から分かっていたとでも言わんばかりに、いたずらっぽく笑みを浮かべている。
──朝食を終えたあと、父は仕事へ出かけた。キララは友達と遊びに行くための準備を始めている。やたらと服装に気を遣っているのは、自身のキャラ作りのためであろう。
俺はというと、やはり特に予定はない。
せっかくの夏休み初日なのだから、昼過ぎまで寝て、起きたら適当にゲームでもして、腹が減ったら何か食べる。その程度の、実に怠惰で平和な一日を過ごしたかったのだが、どうやらそういうわけにもいかないらしい。
まあ、散歩でもするか。
半ば諦めにも似た気分で財布をポケットに突っ込み、俺は家を出た。
ここ、そよ風ヒルズにおける定番の散歩コースといえば、ひょうたん池をぐるりと囲うジョギングコースだろう。池の周囲にはベンチや植え込みも整備されていて、休日ともなれば犬を連れた人やジョギングをする人の姿もそれなりに見かける。
だが、今日は池を通り過ぎた。
そのまま住宅街を抜け、さくら第一小学校の方へと向かう。
さくら第一小学校は、夏休みに入ったことで普段よりずっと静かだった。校舎から子供たちの声が聞こえてくることもなく、登下校する児童の姿もない。
もっとも、完全に無人というわけでもなかった。
グラウンドでは、朝っぱらから何人かの子供たちがサッカーに興じていた。その中には見覚えのある顔も混じっている。クラスメイトの連中だ。
こんな早い時間から元気だなあ。
そんなことを思いながら、俺はグラウンドを横目に通り過ぎる。校舎脇の駐車場をさらに越え、その先へ。
やがて住宅街の景色が途切れ、俺は”おおもり山”へと足を踏み入れた。
途端に蝉の鳴き声が近くなる。木々の間を抜けてくる風は、街中よりも幾分涼しく、額に滲んだ汗をさらっていった。
世界も違えば、時代も違う。今年の夏は、とても過ごしやすい気温になると予想されているらしい。前世の記憶にある夏と比べれば、随分と穏やかな暑さだった。もっとも、小学生の身体ということを考えれば、それでも十分に暑いのだが。
俺はそんなことを考えながら、山道に沿った歩道を進んでいく。しばらく歩くと、石造りの階段が見えてきた。一段、また一段と上っていく。
そうして辿り着いた先に、おおもり神社の境内があった。
朝の境内には人の気配がない。蝉の声と、木々の葉が風に揺れる音だけが聞こえてくる。俺はその静けさを邪魔することもなく拝殿の前まで歩き、作法通りに賽銭を入れる。そして、二度頭を下げ、二度手を打ち、最後に静かに手を合わせた。
どうか、平和に過ごせますように。
この場所へ来た時、神様にそう頼むのが俺の恒例だった。
ここで、どんな神様を祀っているのかは知らない。そもそも俺は特定の宗教を信仰しているわけでもないし、神様の存在を確信しているわけでもない。
それでも、こうして手を合わせる。前世ではこんなことを考える余裕すらなかったからだ。せめて今生くらいは、何事もなく過ごしたい。それだけの願い。多くは望まない。俺にとっては、それで十分だった。
──この世界には、どうやら呪霊というものがいないらしい。
それに気が付いたのは、転生してからそう時間が経っていない頃だった。
初めて明確に意識が芽生えたのは、病院の一室。
生まれて間もない頃のことだ。当時の俺は、目がぼやけているどころか、そもそも自分の意思でまともに開くことすらできなかった。それでも前世の記憶を持って生まれた俺には、周囲の状況を観察するだけのハッキリとした意識はあった。
もっとも、最初の頃は赤ん坊の身体があまりにも不自由すぎて、それどころではなかったのだが……やがて身体が成長し、少しずつ視界が広がっていく。
両親の顔が分かるようになり、家の中を見渡せるようになり、外へ出る機会も増えていった。
そして、俺は気付いた──。
何もいない。
いや、正確には「何も見えない」
病院の中にいる間は、まだ分からなかった。前世だって、病院に低級呪霊が必ずいるわけではない。基本的には居るのだが、例外はある。呪霊が見えない一般人に囲まれている環境なら、何も見えなくても不思議ではない。
だが、外へ出れば話は別だ。町を歩けば、低級呪霊の一匹や二匹くらい、普通に見かけそうなものだった。
人間の負の感情が集まり、それが呪霊としての形を成す。
それが前はあまりにも当たり前のことだった。だからこそ、俺は最初のうち、それを見落としているだけなのだと思っていた。
視力の問題かもしれない。あるいは赤ん坊の身体だから、まだ上手く認識できないだけかもしれないと。あるいは、この世界の呪霊は前世とは少し性質が違うのかもしれない。
そんな可能性を一つずつ考えた。
しかし、赤ん坊を卒業して幼稚園児になっても。さらに成長して、こうして自由に街中を歩き回れる小学生になっても──ついぞ俺は、呪霊を見つけることができなかったのである。
しかも、おかしなことはそれだけではない。
前世の肉体に宿っていたはずの生得術式も、呪力も、今の俺には残っていた。もちろん、何もかもが前世と同じというわけではない。生まれ変わったばかりの頃から術式を自在に操れたわけではないし、練度だけで言えば、今の俺の生得術式は前世で初めて術式を自覚した頃と大差なかった。
それでも、術式そのものは存在しているし、呪力もある。
呪術師としての常識に照らせば、俺に呪霊が見えない方がおかしいのだ。真希のような天与呪縛でもあるまいし。
ましてや、既に十一年も生きている。
赤ん坊だった頃から、幼稚園児、小学生と生活圏を広げてきた。その間、一度たりとも呪霊を見ていないというのは、さすがに偶然で片付けられる話ではなかった。
であるならば、この世界には呪霊そのものが存在しないのだろう。そう結論付けるほかなかった。
そもそも他人から、まるで呪力を感じられない。俺自身には呪力があるというのに、周囲の人間からはそれらしいものを一切感じない。呪霊が生まれる根本そのものが存在しないのであれば、見えぬ理由にも説明がつく。
少なくとも、俺の知っている世界とは根本から違う。そういう世界なのだと、俺は考えるようになった。
だが、それで全ての疑問が解消されたわけではない。
むしろ、一つだけ、どうしても説明のつかないものがまだ残った。
「……ん?」
ふと、視線を感じた。
誰かに見られている。
そう思って、俺は反射的に振り返った。
しかし、そこには何もない。
木々がある。その向こうに山道が続いている。人影は全くないしらもちろん、呪霊の姿もない──それなのに、確かに何かがいるような気がする。
またか、と深いため息をつく。
道中の自販機で買ったヨカコーラを飲む。キンキンに冷えた炭酸と甘味が、乾いた喉を潤した。
こういうことは、これまでにも何度となくあった。
最初のうちは、単なる気のせいだと思っていた。
子供の頃の感覚なんて所詮は当てにならない。風が吹いて葉が揺れたとか、近くを野良猫や小動物が通ったとか、そういう些細な変化を「何かいる」と勘違いしているだけなのだろう。あるいは、俺が呪霊を警戒しすぎているだけなのかもしれない。
前世ではそれこそ物心ついた頃から、そこら中にいる呪霊を認識して生きてきた。見えないものに注意を向けることが習慣になっていたし、僅かな呪力の揺らぎや気配を察知することも、呪術師として生きていく上では当たり前の技能だ。
だからこそ、この世界でも無意識のうちに「何かいる」と思い込んでいるだけなのではないか。最初の頃は、本気でそう考えていた──けれど、同じことが何度も繰り返される。
一度や二度なら偶然で済ませられる。十回や二十回なら、それでも気のせいだと言い張れるかもしれない。
しかし、十一年だ。
幼少期から現在まで、何度となく同じ感覚を味わい続けている。しかも、その感覚は毎回ほとんど同じだった。
誰かに見られているような感覚。
すぐ近くに何かがいるような気配。
視線を感じて振り返っても、そこには何もいない。
けれど、意識を向けてみれば、確かに何かが存在しているように感じられる。さすがに、これを全部「気のせい」で片付けるのは無理があった。
俺は改めて意識を集中させ、視線の先へ目を凝らした。
何も見えない。人影もない。動物がいる様子もない。もちろん、呪霊の姿も気配ない。
それでも──確かに、そこには何かがいる。
それも、前世で呪霊を探していた時に感じていたものと、どこか似ている。この世界に生まれてから十一年。俺は、数え切れないほどそういう存在の気配を感じてきた。
呪霊ではないだろう。
いや、少なくとも俺の知っている呪霊ではない。
だが、呪霊によく似た何かがいる。それも、たった一体ではない。街を歩いている時にも、家の中でも、学校でも、こうして山に入った時にも、時折、そこかしこから感じる。
尋常ならざる何かが、この世界には確かに存在している──それも、あちこちに。
そこで俺はふと、かつての東京を思い出した。
人間の負の感情から生まれた呪霊が跋扈し、都市そのものが人外魔境と化していた、あの光景。
渋谷、死滅回遊……そして、新宿。
数多の呪霊と呪術師が入り乱れ、人間の暮らす街が戦場へと変わっていった。魑魅魍魎が跳梁跋扈する、まさしく人外の楽園。俺は結局、新宿で宿儺に敗れて死んだ。だから、その後の東京がどうなったのかは知らない。
あの戦いのあと、呪術界がどうなったのか。呪霊がどうなったのか。生き残った連中が、あの世界をどうしていったのか。
俺には知る術がない。ただ、それでも呪霊という存在が、どれほど悪質で、どれほど厄介なものだったのか。その記憶だけは、今もなお俺の脳裏にこびりついている。
だからこそ、この世界にいる「何か」を放置することには、どうしても抵抗があった。
呪霊ではないと、そう思いたい。けれど、もしも自分が知らないだけで、実は呪霊と同じような存在だったとしたら。あるいは、もっと別の何かだったとしたら。
十一年間も見過ごしてきたのだ。
そろそろ、一度くらい確かめてみてもいいだろう。
「……試してみるか」
俺は足元に置いたヨカコーラの空き容器から手を離し、そのまま掌印を結んだ。十一年ぶりの動作。身体に染み付いた記憶は、思っていた以上に鮮明だった。
「──闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
言葉を紡いだ瞬間、周囲の空気が変わった。
空の色が変わる。
青かった視界を覆うように、黒く染まった幕がゆっくりと降りてきた。頭上から、周囲一帯を包み込むように。そして、俺たちのいる空間を外界から切り離すように、帳が下りた。
術式も呪力も前世と同じように使える。
ならば、帳だって使えるはずだ。
そう考えて、十一年ぶりに唱えた帳の詠唱。
結果は予想通りだった。寸分の狂いもなく、帳を下ろすことに成功している。
ただ──。
「……弱いな」
下ろされた帳を眺めながら、俺は思わず呟いた。
何かがおかしい。見た目は間違いなく帳だ。呪力によって空間を覆い、外部からこちらを隔離している。俺はその場から少し歩き、実際に帳へ触れてみた。指先に伝わってくる感触。そこで、先ほどから感じていた違和感が確信へと変わった。
薄い。単純に、薄いのだ。
何の効果も付与していない、ただの帳。呪いを炙り出し、一般人の視線を遮る。その程度の、ごく基本的な帳でしかない。
なのに、前世で使っていたものと比べると、明らかに脆い。
弱いというよりも、まるで何かに支えられていたものが、その支えを失っているような感覚だった。
「……そういうことか」
思い当たる理由は、一つしかない。
天元様だ。
調べても、調べても、この世界には禪院も、五条も、加茂も存在しない。呪術高専すら存在しない。そして、日本の結界術を支える大元──天元様も、当然のように存在していない。
前世の世界では、俺たち呪術師が当たり前のように使っていた結界術そのものが、天元様によって底上げされていた。ならば、その支えが存在しないこの世界で、同じような帳を下ろせるはずがない。
俺が十一年ぶりに使った帳が、前世で使っていたものよりも明らかに薄いのも当然だった。
おそらく、この世界で俺が使える帳には、一般人の視認を遮る──その程度の効果しかない。
条件を付けることも、複雑な縛りを組み込むことも難しいだろう。まるで、初めて帳を下ろした時のような感覚だった。
懐かしいような、それでいて妙に心許ないような。そんな感覚を、今しがた自分が下ろした帳から感じ取っていた。
──ただ、そんなことよりも。
今は確認したいことがある。
俺は帳の向こうへ視線を向けた。
気配は、まだ消えていない。むしろ、先ほどよりもはっきりと感じられる。十一年間、何度も感じてきた、あの気配。
「おい、出てこい」
俺は静かに呼びかけた。
「そこに居るのは、分かっている」
呪力を起こす。身体の内側から引き出したそれを全身に纏わせ、拳を握った。
この、かつてよりも小さく、力もない身体でまともに戦えるかは分からない。
だが、生まれ変わってようやく手に入れた平穏な新しい人生を守るためなら、多少の無茶は致し方あるまい。家族や友人が住むこの街を、前世の東京のようにもしたくない。
睨みつけた先で、茂みがざわりと揺れた。木の葉が何枚か舞い落ち、その向こうから姿を現したのは──。
「……」
口元から白い髭を生やし、くすんだ青いバンダナを頭に巻いた、一人の老人だった。
「あんたか。さっきからずっと俺を見ていたのは。あんた何もんだ。呪詛師か?」
「……呪詛師? 何を言っている。ワシはただの、ガラクタ屋の店主だ」
「あん?」
怪しげな動きを見せたら、その場で殺す。
そんな意図を込めて睨みつけたというのに、目の前の爺さんは意に介した様子もない。むしろこちらの言葉の意味が分からないとでも言いたげに首を傾げ、訝しげな目で俺を見返している。
おかしい。
確かに、さっきから妙な気配を感じていたはずだ。だからこそ、呪霊か何かだと思ったのだ。
だが、改めて目の前の老人を見ても、どう見てもただの人間にしか見えない。
呪力はもちろん感じられず、こちらに向けられた悪意もない。呪詛師特有の、あの嫌な気配も感じられなかった。
……俺の早とちりか。
そう判断し、構えていた身体から力を抜く。
「それで? なんの用だよ」
「口が悪いな、坊。なに、足腰を鍛えるために散歩していただけだ。おおもり山は良い場所だからな。そしたら、いきなり辺りが暗くなったものだから、お前さんを見つけて寄っただけだ」
「……あ」
帳の範囲内に居たのか。
てっきり、周囲には人間なんて誰もいないものだと思っていた。まさか自分が帳を下ろした場所に、一般人が一人入り込んでいたとは。
「ふん、まあいい。ところでお前さん、ガラクタに興味はないか」
「ガラクタぁ?」
「生憎、客足もなく素寒貧でな。言ってしまえば、セールスだ」
「小学生相手に押し売りかよ、あんた」
「ただの小学生には見えんがな。……それで、興味はあるか」
「ねぇ」
「そうか……せっかくなら、コレをやろうかと思ったんだが」
そう言って老人が懐から取り出したのは、白を基調とした腕時計だった。
時計の蓋、だろうか。妙に丸みを帯びたフォルムに、普通の腕時計とは少し違う独特なデザインをしている。
だが、俺は時計に興味などない。任務の報酬や実家からの仕送りで多額の金を持っていた前世ですら、食事や誕生日プレゼント以外では滅多に使わなかったくらいなのだ。お小遣い制の今の自分にとってはなおのこと、浪費は避けたい。
そもそも、小学生を相手に突然セールスを仕掛けてくるような怪しい爺さんの言葉に、わざわざ付き合ってやる義理もない。こんなものに関わっている暇があるなら、さっさと帳を解除して、この場を離れた方がいい。
そう思い、意識を帳へと向ける。
その直後だった。
「──これは、普段見えないものを、見えるようにしてくれる優れものだ」
「見えないものを……?」
帳を解除しようとした手が、ぴたりと止まった。
思わず顔を上げる。
「そりゃ、どういう意味だよ」
「言葉の通りだ」
「……」
見えないものを、見えるようにしてくれる。
新興宗教の勧誘ですら、もう少しそれらしい謳い文句を考えそうなものだ。普段の俺なら、「何を馬鹿なことを」と鼻で笑って終わらせていただろう。
だが──そうはいかなかった。
俺の意識も、視線も、いつの間にか老人の手元にあるその腕時計へと吸い寄せられていた。
十一年間何度も感じてきた、正体の分からない気配。
確かに何かがいる。呪霊ではないだろうに、俺にはどうしても「何かがいる」としか思えない、あの感覚。
もし、この腕時計が本当に「見えないものを見えるようにする」のだとしたら。
もしかすると──。
「今なら百円で売ってやる。どうだ、興味が湧いただろう」
「……〜〜っ!」
老人の得意げな顔を見て、俺は思わず頭を掻いた。
怪しい。どう考えても怪しい。だが、ここで見逃すという選択肢も、今の俺にはなかった。
「ああ、もう仕方ねぇな。買うよ、その腕時計!」
「毎度あり」
財布から取り出した百円玉を老人に渡す。ニヤリ、と笑った彼にイラッとしたながらも、俺は腕時計を受け取った。腕時計にしてはサイズが大きく、重さもそれなりにある。ただ、利き腕の手首にベルトを巻くと、驚くほど違和感がなかった。
「それで? どうやって使うんだ──って、あれ?」
腕時計を付けて、顔を見上げる。
しかし、つい今さっきまでそこに居たはずの老人は、いつの間にか姿を消していた。一切の音もなく消えた老人に俺は眉を顰める。
「ほんとに人間か、あの爺さん……?……クソ、使い方くらい教えろよな」
悪態をつきながら、俺は帳を解除した。
周囲の景色がゆっくりと元に戻る。鮮やかな色を取り戻した視界には、深緑の木々と綺麗な青い空が広がっている。
老人はどこにもいない。
もしや俺が話していた相手はただの幻覚で、呪霊への警戒心のあまり見てしまったものではないのか。そんな疑念が一瞬湧いたけれども、腕に巻かれた時計の感触が、それを否定する。
「……見えないものが、見える、ねぇ……」