ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
「サトシー! 朝よー!」
階下から聞こえてきた女性の声に、少年はゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと瞬きを繰り返しながら身体を起こす。見覚えのない天井に違和感を覚えたものの、寝起きの頭はまだうまく働かない。
それよりも気になったのは、今聞こえた名前だった。
「……サトシ?」
誰のことだ。
そう思った直後、再び階下から声が飛んでくる。
「早く起きなさい! 今日はオーキド博士のサマーキャンプでしょ!」
「オーキド……博士?」
その名前を聞いた瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。
聞き間違えるはずがない。前世で何度耳にしたか分からない名前だ。
慌てて布団から飛び出すと、今度は自分の身体に強烈な違和感を覚えた。身体が小さい。手も足も、記憶にある自分のものとはまるで違う。
嫌な予感と、それ以上の期待を抱きながら部屋を見回し、鏡を見つけて駆け寄った。
「……嘘だろ」
鏡の中にいたのは、黒髪の幼い少年だった。
何度もアニメで見てきた顔だ。まだ成長する前とはいえ、見間違えるはずがない。
「……サトシ」
確かめるように頬をつねってみれば、当然のように痛みが返ってくる。
「痛っ……夢じゃない」
鏡に手をつき、自分の顔を見つめる。
「俺……サトシになったのか?」
混乱する頭の中で、二つの人生の記憶が重なっていく。
前世の自分は、とにかくポケモンが大好きだった。
アニメは長年追い続け、サトシとピカチュウの冒険を見て笑い、興奮し、時には本気で悔しがった。ゲームも遊び尽くし、タイプ相性だけでなく、特性や技、種族ごとの特徴、進化条件、持ち物、育成方法まで調べて対戦にも熱中した。
強い個体を求めて何度も厳選した記憶だって残っている。
それとは別に、今の身体――サトシ自身がこれまで生きてきた記憶もあった。
マサラタウンで母親のハナコと暮らしてきたこと。そして今日は、オーキド博士が開くポケモンサマーキャンプへ参加する予定だったこと。
そこまで思い出した瞬間、サトシは目を見開いた。
「サマーキャンプ……今日か!」
忘れるはずがない。
幼いサトシにとって、大切な出会いがあった日だ。
森の中で迷子になり、転んで足を痛めてしまった少女。その少女へサトシが手を差し伸べたことから、二人の縁が始まる。
「セレナ……」
後にカロス地方で再会する少女。
そして、幼い日のこの出会いをきっかけに、サトシへ特別な想いを抱くことになる少女だ。
その出来事が、今日起こる。
「ってことは……まだ旅立つずっと前なんだよな」
改めて鏡の中の自分を見る。
これは大きい。
もし10歳の旅立ち当日に憑依していたなら、できることは限られていただろう。しかし今なら、ポケモントレーナーとして旅立つまでに準備する時間がある。
前世の知識を整理できる。身体も鍛えられる。何より、オーキド博士からこの世界のポケモンについて直接学べる。
そして、もう一つ。
「波導……」
サトシは自分の掌へ視線を落とした。
未来を知っているからこそ、自分の中に眠っている可能性も知っている。
サトシには波導の才能がある。
ならば、それを使わない理由はなかった。
「才能があるって分かってるなら、今から鍛えればいい」
旅立った後に偶然才能へ気づくのを待つ必要はない。今日から鍛え始め、10歳になる頃には自在に扱えるようになればいい。
ポケモンについても同じだ。
前世で身につけた知識は間違いなく大きな武器になる。タイプ相性、特性、技、進化、戦術――知っていることは山ほどある。
だが、そこでサトシは一度考えを止めた。
「……いや。ここはゲームじゃないんだよな」
画面の向こう側ではない。
この世界では、ポケモンが本当に生きている。
同じ種類だからといって、すべてが同じ性格をしているわけではない。得意なことも違えば、好きなことや嫌いなこともある。
そして何より、彼ら自身の意思がある。
「だったら、ちゃんと一匹ずつ見ないとな」
前世の知識は使う。
使えるものをわざわざ捨てるつもりはないし、むしろ徹底的に活用する。
ただ、知識だけでポケモンを判断するつもりもなかった。
そのポケモン自身を見て、育てて、鍛えて、一緒に強くなる。
それが一番いい。
「それに……今度は」
頭に浮かんだのは、これからサトシが出会う仲間たちだった。
バタフリー、オコリザル、ピジョット、ラプラス。
原作では、それぞれの事情からサトシのもとを離れていったポケモンたちだ。
もちろん、彼ら自身が別の道を選ぶなら、その意思は尊重したい。
だが――。
「一緒にいたいって思ってくれるなら、今度は簡単にさよならしない」
未来を知っている自分なら、原作とは違う選択肢を見つけられるかもしれない。
そのためにも波導を身につけたい。
ポケモンが何を望んでいるのか、できる限り正確に理解できるようになりたい。
そして、何よりも会いたい相手がいる。
「ピカチュウ……いや、今はまだピチューか」
自然と笑みが浮かんだ。
今頃はまだ、ガルーラたちと暮らしているはずだ。
旅立ちの日まで待つ必要はない。この世界のどこかに、未来の相棒はすでに存在している。
前世から大好きだったポケモン。
サトシにとって、誰にも代えられない相棒。
今回はピチューの頃から出会い、一緒に成長することだってできる。
そう考えるだけで、胸が高鳴った。
「楽しみすぎるだろ……!」
せっかくサトシとして生きるのなら、中途半端に終わるつもりはない。
世界最強を目指す。
最初のセキエイ大会だって優勝したい。その先の地方でも強敵たちと戦い、伝説や幻のポケモンに出会ったなら、いつか自分の仲間たちと正面から挑んでみたい。
そして最後には――。
「ポケモンマスターになる」
世界最強になれば、それだけでポケモンマスターなのか。
そうではないことを、前世でサトシの旅を最後まで見届けた自分は知っている。
ならば、その答えも自分自身で探せばいい。
「サトシー! 本当に遅刻するわよ!」
再びハナコの声が響き、サトシは我に返った。
「やばっ!」
考え込んでいる場合ではない。
急いで着替えて階段を駆け下りると、リビングではハナコが朝食を用意して待っていた。
「もう。楽しみにしてたんじゃなかったの?」
「……うん。すっごく楽しみ」
実際に目の前で見ると、不思議な気分だった。
アニメの登場人物ではない。今は本当に、自分の母親としてここにいる。
ハナコはそんなサトシの内心など知るはずもなく、いつものように笑う。
「だったら早く食べちゃいなさい」
「いただきます!」
朝食を食べながらも、気持ちはすでにサマーキャンプへ向かっていた。
今日はセレナに会う。
オーキド博士にも会う。
そして、本物のポケモンたちにも。
食事を終えて準備を整えると、サトシは勢いよく玄関を開けた。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい! オーキド博士の言うこと、ちゃんと聞くのよ!」
「分かってる!」
家を飛び出した瞬間、朝のマサラタウンの空気が全身を包んだ。
あちこちからポケモンの鳴き声が聞こえ、草むらからは何かが動く音がする。頭上では羽音が響き、数羽のポッポが青空を横切っていった。
サトシは思わず足を止める。
「……本物だ」
知識としては分かっていた。
だが、実際に目の前で見る感動はまるで違う。
ポケモンが、本当に生きている。
「すげえ……」
この世界を旅できる。
ポケモンたちと出会い、一緒に戦い、一緒に強くなれる。
その事実を噛み締めてから、サトシは再び走り出した。
ところが、しばらく進んだところで、不意に足が止まる。
「……ん?」
何かを感じた。
道端の草むらへ視線を向ける。
物音が聞こえたわけではない。何かが見えたわけでもない。
それなのに、そこに何かがいるような気がした。
じっと見つめていると、数秒後に草が揺れた。
「コラッ?」
一匹のコラッタが顔を出した。
サトシと目が合うと驚いたように身を翻し、そのまま草むらの奥へ消えていく。
「今の……」
サトシは胸へ手を当てた。
コラッタが姿を見せるより先に、その存在を感じていた。
偶然かもしれない。
まだ自分の意思で再現できるほど、はっきりした感覚でもない。
だが、今のサトシには心当たりがあった。
「波導……なのか?」
もしそうなら、思っていたより早く才能が目覚め始めている。
サトシは小さく拳を握った。
「だったら、絶対に使いこなしてやる」
旅立つ日までに、自分の意思で自由自在に扱えるところまで鍛える。
そして研究所で、この世界のポケモンについてもっと学ぶ。
前世の知識だけでは届かない、本物のポケモントレーナーになるために。
サトシはオーキド研究所のある方向へ顔を向けた。
今日から、すべてが始まる。
セレナとの出会いも。
未来の相棒であるピチューとの出会いも。
そして、数え切れないほどのポケモンたちとの冒険も。
未来を知っていても、同じ未来をなぞるつもりはない。
原作で起こる出来事から逃げるつもりもなかった。
全部経験する。
そのうえで、自分と仲間たちが望む未来を選んでいく。
「よし、行くぞ!」
サトシは笑って走り出した。
目指すは世界最強。
そして――ポケモンマスター。
その長い旅の最初の一日が、今、始まろうとしていた。