ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
クサイハナとのバトルを終えた翌朝。
まだ太陽が昇りきっていないマサラタウンの道を、一人の少年と一匹のピカチュウが走っていた。
「はっ……はっ……!」
「ピカ! ピカ!」
サトシの額から汗が流れる。
隣を走るピカチュウは余裕があるらしく、時折こちらを振り返っては「遅い」とでも言いたげに鳴いていた。
「分かってるって……! まだ、いける!」
呼吸を整え、足を前へ出す。
昨日までと大きく変わったわけではない。ピカチュウの技も波導の訓練も、これまで通り続けていく。
それでもクサイハナとの戦いを経験して、サトシは改めて考えた。
――ピカチュウだけを強くして、それでいいのか。
答えはすぐに出た。
そんなわけがない。
旅が始まれば、自分の足で何時間も歩く。山を登り、森を抜け、時にはポケモンから逃げなければならないことだってあるだろう。
アニメで見ていたサトシは、とんでもない身体能力を見せることが何度もあった。
しかし、今の自分が同じことをできるとは限らない。
この身体には確かにサトシとしての素質がある。
なら、それを鍛えない理由はなかった。
「よし……あと一周!」
「ピカ!」
「競争するか?」
ピカチュウの耳が立った。
「ピカ!」
「よーし……あそこの木まで!」
二人が並ぶ。
「よーい――スタート!」
「ピカ!」
ピカチュウが飛び出した。
「速っ!?」
一瞬で差が開いた。
「待てえええ!」
必死に追いかけるが、追いつけるはずもない。
ピカチュウは木へ到着すると余裕たっぷりに振り返り、サトシが遅れて到着するのを待っていた。
「はぁ……はぁ……絶対、いつか……追いついてやる……」
「ピカピカ」
「笑ったな!?」
朝のマサラタウンに二人の声が響いた。
これが、サトシの新しい日課になった。
◇
走り込みを終えれば朝食を食べ、その後はオーキド研究所へ向かう。
研究所に到着したからといって、すぐバトルの練習を始めるわけではない。
「サトシ、その餌はそっちじゃないぞ」
「え?」
オーキド博士の声に手元を見る。
「……あ」
ポケモンごとに分けられた餌を確認し、サトシは苦笑した。
「危なかった」
「ピカピ」
「ピカチュウ、今笑っただろ」
「ピカー?」
知らないふりをする相棒を横目に、サトシは正しい餌を持ち直した。
研究所へ通い始めた頃から続けているポケモンの世話も、立派な勉強だった。
餌。
体調管理。
身体の手入れ。
怪我の確認。
性格による接し方の違い。
同じ種類のポケモンでも、好むものや嫌がるものが少しずつ違う。
前世で知っていた知識だけでは分からないことが、ここには山ほどあった。
「博士」
「なんじゃ?」
「旅してるトレーナーって、ポケモンの体調が悪くなったらどうやって判断するの?」
「よい質問じゃな」
オーキド博士は一匹のコラッタを示した。
「ポケモンは必ずしも自分から不調を訴えてくれるとは限らん。食欲、動き方、鳴き声、毛艶、普段との行動の違い……そうした小さな変化を見ることじゃ」
サトシは真剣に聞く。
ゲームなら体力は数字で表示された。
状態異常も画面を見れば分かった。
この世界では違う。
ポケモン自身を見る必要がある。
サトシはしゃがみ、コラッタを観察した。
「こいつは?」
「自分で考えてみい」
目。
呼吸。
毛並み。
歩き方。
餌への反応。
しばらく観察してから答える。
「元気……だと思う」
「理由は?」
「餌をちゃんと食べてるし、動きにも変なところはない。呼吸も苦しそうじゃない」
「うむ。正解じゃ」
「よし!」
小さく拳を握る。
こういう勉強も面白かった。
世界最強になる。
その目標は変わらない。
だが強い技を覚えさせ、バトルに勝つことだけがトレーナーではない。
旅をするなら、ポケモンの命を預かることになる。
その責任も含めて、十歳になるまでに学べるものは全部学ぶつもりだった。
◇
午後。
研究所の庭では、ピカチュウの特訓が始まった。
「でんこうせっか!」
「ピカ!」
白い光を纏ったピカチュウが走る。
目標へ一直線に向かうのではなく、途中に置かれた障害物を次々とかわしながら速度を維持する。
クサイハナとの戦いで成功した方向転換を、偶然の一回で終わらせないための練習だ。
右。
左。
急停止。
再加速。
「そのまま、ほっぺすりすり!」
「ピカ!」
最後に置かれた練習用の的へ身体を寄せ、電気を帯びた頬をすりつける。
バチッ!
「よし!」
サトシが駆け寄った。
「今のは途中でほとんど速度が落ちなかった!」
「ピカ!」
第11話でクサイハナへ決めた連携。
でんこうせっかで一気に接近し、その勢いを殺さずほっぺすりすりへ繋げる。
実戦では成功した。
しかし一度成功したから完成、とは考えない。
相手が右へ逃げても。
左へ逃げても。
途中で迎撃されても。
どんな状況からでも繋げられるようになるまで磨く。
「もう一回!」
「ピカ!」
今度はサトシが練習用の的を動かす。
左右へ不規則に移動する標的を、ピカチュウが追う。
「まだ!」
サトシが方向を変える。
ピカチュウも曲がる。
「まだまだ!」
もう一度。
「ピカ!」
追いつく。
「今!」
頬が触れる。
バチバチッ!
成功。
「よし!」
しかし、サトシはすぐ次の課題を考える。
「今度は俺が声を出さない」
「ピカ?」
「クサイハナ戦でできただろ?」
声と波導を使い分ける。
あの感覚も磨かなければならない。
「もう一回いこう」
「ピカ!」
再びピカチュウが走り出した。
サトシは口を閉じる。
相棒の波導を感じながら、動かしている標的を見る。
右。
イメージを送る。
ピカチュウが曲がる。
左。
反応する。
前。
加速。
そして――接触。
今度は技名を叫ばない。
ただ、頬へ電気を集めて相手へ触れる光景を強く思い描く。
「ピカ!」
一瞬、ピカチュウが迷った。
それでも頬から電気が弾ける。
バチッ!
「……!」
サトシの目が見開かれた。
完全ではない。
反応も遅かった。
けれど。
「今、伝わったよな?」
「ピカ!」
サトシが走り寄る。
「技まで!」
今まで波導で伝えていたのは、右、左、前、止まれといった単純な動きが中心だった。
それが初めて、技の発動に近い意思まで伝わった。
「もう一回やろう!」
「ピカ!」
すぐに再挑戦する。
同じイメージ。
接近。
頬。
電気。
――ほっぺすりすり。
「ピカ……!」
今度は途中でピカチュウが止まった。
「あれ?」
「ピカァ」
上手く伝わらなかったらしい。
「やっぱ一回できただけじゃ駄目か」
サトシは落ち込むどころか笑った。
できる可能性がある。
それが分かっただけで十分だった。
◇
ピカチュウが休憩している間、今度はサトシ自身の訓練だった。
庭の端に立ち、深く息を吸う。
目を閉じる。
周囲には研究所で暮らすポケモンたちがいる。
一匹。
二匹。
三匹。
少し離れたところにも。
以前より輪郭が明確になっていた。
そして、その中にはどこにいるのか確認しなくても分かる気配が一つある。
ピカチュウ。
目を閉じていても間違えない。
長い時間を一緒に過ごしてきた相棒の波導は、他のどのポケモンとも違って感じられる。
けれど今日は、そこで終わらない。
サトシは意識をさらに遠くへ広げた。
研究所の庭。
柵の向こう。
草原。
森の入口。
遠くなるほど一つ一つの気配はぼやけていく。
「……っ」
額に汗が浮かぶ。
無理に広げると、近くの気配まで乱れる。
一度戻す。
呼吸を整える。
もう一度。
今度は急がない。
近くから、少しずつ。
波紋が広がるように意識を伸ばしていく。
すると――。
「……いた」
森の方角。
複数の小さな気配。
種類までは分からない。
さらに別方向。
一つ。
少し大きい。
「そこまでじゃ」
声が聞こえ、サトシは目を開けた。
「博士?」
「顔を見てみい」
「え?」
額へ触れる。
汗でびっしょりだった。
「波導も体力と同じじゃ。限界を超えて使い続ければ、集中力が落ちる」
「もうちょっとできるよ」
「できることと、続けるべきことは別じゃ」
サトシは言葉に詰まった。
少し離れた場所で休んでいたピカチュウも、こちらを見ている。
「……分かった」
素直に座った。
オーキド博士が飲み物を渡してくれる。
「焦っておるのか?」
「え?」
「十歳までに波導を使いこなしたいんじゃろう?」
サトシは少し黙ったあと、頷いた。
「うん」
絶対に。
それだけは決めている。
旅立ってから覚えればいいとは思わない。
幼い今から鍛えられるという大きな利点を、自分から捨てるつもりはなかった。
「でも、博士」
「なんじゃ?」
「焦ってるっていうより……時間を無駄にしたくないんだ」
サトシは自分の手を見る。
この世界に来た日。
森で初めて感じた小さな生命の気配。
セレナの不安と痛みを感じた日。
ピチューだったピカチュウの感情を初めて感じた時。
ラッタとの戦い。
怪我をしたポッポ。
クサイハナとのバトル。
少しずつ。
本当に少しずつだが、できることは増えている。
「俺、十歳になったら旅に出る」
「うむ」
「その時に、もっとやっておけばよかったって思いたくない」
オーキド博士はしばらく何も言わなかった。
やがて笑う。
「ならば一つ覚えておくんじゃな」
「なに?」
「休むことも修行じゃ」
「……それ、母さんも言いそう」
「ハナコ君の方が、お前の扱いをよく分かっておるからの」
「ええ……」
「ピカピカ!」
ピカチュウまで笑う。
「ピカチュウまで!」
サトシも結局笑ってしまった。
◇
それから、日々は積み重なっていった。
朝は走る。
時にはピカチュウと競争し、当然のように負ける。
研究所へ行けばポケモンの世話をし、オーキド博士から生態や体調管理について学ぶ。
怪我をしたポケモンがいれば手当てを手伝い、野生ポケモンを観察する時には生息地や食べ物、群れの行動を記録した。
ピカチュウとは毎日身体を動かす。
でんきショックの命中精度を上げ、でんこうせっかの方向転換を磨き、ほっぺすりすりとの連携を繰り返し、エレキボールは形成速度と移動しながらの安定性を高めていく。
新しい技を覚えることだけが成長ではない。
同じ技でも、半年前と今では使い方がまるで違う。
サトシ自身も成長する。
走れる距離は伸び、疲れにくくなり、森を歩いても以前ほど息を切らさなくなった。
そして波導も。
最初は近くの生命を感じるだけだった。
やがて距離が伸びる。
一つ一つの気配を区別できるようになる。
感情を受け取る。
意思を返す。
単純な動きを伝える。
少しずつ、技のイメージまで伝え始める。
失敗する日も当然あった。
何を送ってもピカチュウに伝わらず、二人で首を傾げることもある。
逆にサトシがピカチュウの感情を読み違え、本人から抗議されることもあった。
それでもやめなかった。
一日で完成しないなら、百日続ければいい。
百日で足りなければ、その先も。
そして――時間は流れていく。
◇
ある日の夕方。
少し背が伸びたサトシは、研究所近くの丘に座っていた。
隣にはピカチュウ。
夕陽に染まるマサラタウンが見える。
「また一年、近づいたな」
「ピカ?」
「旅立ち」
その言葉を聞いた瞬間、ピカチュウの耳が立った。
楽しみ。
早く行きたい。
そんな感情が流れ込んでくる。
「俺も」
サトシは笑った。
その頃には、波導を使わなくてもピカチュウの表情だけで大体何を考えているのか分かるようになっていた。
それでも波導を通じて感じるものは、少し違う。
もっと直接的で、嘘がない。
「カントーを旅して、ジムを回って、セキエイ大会で優勝する」
「ピカ!」
「その先も行く」
ジョウト。
ホウエン。
シンオウ。
イッシュ。
カロス。
アローラ。
そして、その先にある世界。
まだ幼いサトシの頭の中には、あまりにも大きな未来が広がっている。
もちろん、そのすべてが前世で見た通りになるとは思っていない。
自分がいる。
ピカチュウとの出会いもすでに変わった。
セレナとは今も連絡を取り続けている。
ならば未来も変わる。
それでいい。
「俺たちで作ればいいんだ」
「ピカ?」
「俺たちの旅」
「ピカ!」
拳と小さな前足を合わせる。
旅立ちの日は、まだ少し先。
だからこそ、その日までにもっと強くなる。
ポケモンについて学び、身体を鍛え、技を磨き、バトルを経験し、波導を自分の力にする。
サトシは夕陽の向こうへ目を向けた。
世界最強への旅は、十歳になった日に突然始まるわけではない。
この世界で目を覚ましたあの日から――もう、とっくに始まっているのだから。