ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
朝の森は静かだった。
木々の隙間から差し込む光が地面を淡く照らし、風が吹くたびに葉の擦れ合う音が聞こえてくる。その中でサトシは目を閉じ、少し離れた場所にいるはずのピカチュウの気配を探っていた。
姿は見えない。それでも今のサトシには、どこにいるのかが分かる。
右前方、およそ二十メートル。大きな木の根元から感じる馴染み深い波導へ意識を合わせれば、楽しそうな感情まで一緒に伝わってきた。
――見つけてみろ。
言葉として聞こえたわけではないが、そんな挑発にも似た気持ちが伝わってきて、サトシの口元が自然と上がる。
「そこ!」
目を開けて右前方の木を指差すと、一瞬の沈黙のあと、幹の陰から黄色い耳がひょこりと覗いた。
「ピカ?」
「もう分かるって」
「ピカァ……」
不満そうな顔で出てきたピカチュウを見て、サトシは笑う。
以前なら近くにいることは分かっても、正確な位置までは曖昧だった。それが今では、よく知っている相手の波導なら、ある程度離れていても方向や距離まで掴めるようになっている。
「次はもっと遠くにする?」
「ピカ!」
「よし。じゃあ――」
ピカチュウが再び走り出そうとしたところで、後ろから声が飛んできた。
「今日はそこまでにしておけ」
「え?」
振り返ると、そこにはオーキド博士が立っていた。
「まだ始めたばっかりだよ?」
「波導の感知訓練は、じゃ」
「……ってことは?」
意味を察したサトシが期待するように見つめると、博士は笑った。
「今日は別のことを試してみようと思ってな」
「やる!」
「ピカ!」
まだ内容すら聞いていないのに即答するサトシと、その隣で同じように声を上げるピカチュウを見て、オーキド博士は呆れたように笑った。
◇
研究所へ戻ると、庭の中央には一枚の厚い木板が用意されていた。
サトシは近づいて持ち上げてみたが、特別な装置が付いているわけでもない、ごく普通の板にしか見えない。
「これで何するの?」
「その前に聞こう。サトシ、お前はこれまで波導で何ができるようになった?」
突然の質問に、サトシは木板を置きながらこれまでの訓練を思い返した。
「生き物の気配を感じられる。知ってる相手なら、ある程度離れてても区別できるし、強い感情なら読み取れる。それに、こっちから簡単な気持ちや動きのイメージを送ることもできる」
「うむ」
「最近はピカチュウになら、簡単な技のイメージも少しずつ伝わるようになってきた」
「ピカ!」
隣でピカチュウが誇らしげに胸を張る。
そんな一匹と一人を見ながら、博士は続けた。
「では、それらに共通しているものは?」
「共通?」
感知、感情、意思伝達。
頭の中で一つずつ並べてみると、これまで自分がやってきたことは、ほとんどが他者の波導を感じるか、自分の意思を相手へ届けるためのものだった。
「……全部、自分の外に向けて使ってる?」
「そうじゃ」
博士は満足そうに頷いた。
「お前は波導を感じ、意識を広げ、他者へ意思を届けることを覚えてきた。しかし、自分自身の波導そのものを意識して扱う訓練は、ほとんどしておらん」
その言葉を聞いた瞬間、サトシの心臓が大きく跳ねた。
博士が何を言おうとしているのか、すぐに分かったからだ。
「波導そのものを……操る?」
「やってみるか?」
「やる!」
またしても即答だった。
「ピカ!」
ピカチュウまで元気よく声を上げたため、博士が苦笑する。
「お前がやるんじゃぞ」
「ピカ?」
「応援してくれるってことだよな」
「ピカ!」
たぶん違う。
◇
「まずは、自分自身の波導を感じるところからじゃ」
庭に座ったサトシは、自分の両手へ視線を落とした。
自分の波導。
それは他の生命を探す時とは正反対の作業だった。普段は意識を外へ広げて周囲の気配を探しているが、今日はそれを自分の内側へ向けなければならない。
目を閉じると、最初に感じたのは呼吸と鼓動、それから身体の中を巡る熱だった。
それ以上は何も分からない。
「……難しい」
「当然じゃ。他者の波導を感じられるからといって、自分のものを自由に扱えるとは限らん」
オーキド博士の声を聞きながら、サトシはもう一度集中する。
隣にはピカチュウが静かに座っているが、そちらへ意識を向けない。研究所のポケモンも森のポケモンも探さず、ただ自分自身だけに集中した。
すると、しばらくして胸の奥に微かな違和感を覚えた。
心臓の鼓動とは違う。体温とも違う。
言葉では上手く説明できない何かが、確かに自分の中に存在している。
「……これか?」
無意識に胸へ手を当てる。
意識を向ければ、その感覚は胸だけに留まっていなかった。肩から腕へ、さらに指先へと続き、足にも身体の中心にも、同じものが巡っている。
「博士」
「感じたか?」
「たぶん……これが俺の波導なんだと思う」
「なら急ぐな。その感覚を覚えるんじゃ」
サトシは小さく頷いた。
捕まえようとせず、無理に動かそうともせず、ただそこに存在するものを感じ続ける。そうしているうちに、最初は曖昧だった感覚が少しずつ明確になっていった。
「これが……俺の波導」
小さく呟いた瞬間、隣にいたピカチュウの耳がぴくりと動いた。
「ピカ?」
「分かる?」
「ピカ……」
ピカチュウは不思議そうにサトシへ近づくと、その手に小さな前足を乗せた。
触れた瞬間、二人の波導が重なる。
驚きや好奇心、それに嬉しさまで、普段よりも鮮明に流れ込んできた。
「すごいな……」
自分の波導を意識した状態で触れているからなのか、いつも以上にピカチュウとの繋がりを強く感じる。
その感覚に夢中になりかけたところで、オーキド博士の声が飛んできた。
「では、次じゃ」
「まだあるの?」
「むしろここからじゃよ」
博士が先ほどの木板を指差した。
「今感じている波導を、手へ集めてみい」
サトシの表情が変わる。
「……できるの?」
「それを確かめるんじゃ」
なるほど、とサトシは立ち上がり、自分の右手を見つめた。
身体の内側に感じている波導を、胸から肩へ、肩から腕へ、そして手へ集める。
言葉にすれば簡単だ。
しかし、実際にやってみると――。
「……全然動かない」
何も起こらなかった。
「ピカ」
「分かってるって」
気を取り直し、もう一度試す。
胸から肩へ。
肩から腕へ。
腕から手へ。
流れを思い描きながら何度も繰り返すが、右手には何の変化も現れない。
十分、二十分と時間が過ぎ、三十分近く続けた頃には、身体を動かしているわけでもないのに額から汗が流れ、頭まで重くなってきた。
「くそ……もうちょっとで何か掴めそうなのに」
「サトシ」
「もう一回」
「休憩じゃ」
「まだ――」
「休憩じゃ」
博士の有無を言わせぬ声に、サトシは肩を落とした。
「……はい」
以前にも言われたことがある。
休むことも修行のうち。
分かってはいるのだが、もう少しで何かが掴めそうだと思うと、どうしても続けたくなってしまう。
「難しいなぁ……」
そのまま地面へ仰向けに寝転がると、視界いっぱいに青空が広がった。
直後、ピカチュウがサトシの胸の上へ飛び乗る。
「ぐえっ」
「ピカ?」
「前より重くなったって……」
「ピカ!」
「冗談! 冗談だから!」
頬から小さな火花が散ったのを見て、サトシは慌てて両手を上げる。
「待てって! それは洒落にならない!」
少し離れた場所では、オーキド博士が楽しそうに笑っていた。
◇
それから何日も、同じ訓練は続いた。
もちろん波導だけに時間を使うわけではない。朝には身体を鍛え、研究所ではポケモンの世話や生態について学び、ピカチュウとはこれまで覚えた技と連携を磨く。その合間に感知や意思疎通の訓練を続け、最後に自分自身の波導へ意識を向ける時間を作った。
変化が訪れたのは、そんな日々を重ねたある日のことだった。
いつものように自分の波導を感じ取り、それを右手へ集めようとしていると、ふいに手のひらが温かくなった。
「……ん?」
最初は気のせいかと思った。
しかし違う。
胸の奥に感じていたものが肩を通り、腕を抜け、確かに右手へ流れ込んでいる。
「博士!」
オーキド博士がすぐに近づいてくる。
「どうした?」
「手に……集まってる」
目に見える変化はない。それでもサトシには、そこに波導が集まっていることがはっきりと分かった。
ピカチュウが興味深そうに近づこうとする。
「ピカ?」
「待って」
まだ何が起こるのか分からないため、サトシはピカチュウを止めた。
その判断を見た博士が小さく頷く。
「そのまま維持してみい」
「うん」
十秒。
二十秒。
時間が経つにつれて集中を保つことが難しくなり、額から汗が流れていく。
そして、ほんの少し気が逸れた瞬間――手に集まっていた感覚が消えた。
「あっ……」
サトシは右手を見つめる。
「消えた」
「じゃろうな」
博士は落胆するどころか、むしろ満足そうだった。
「じゃが、初めて自分の意思で波導を動かした」
「……!」
その言葉で実感が湧いた。
できた。
ほんの少しの時間で、目に見えるものすらなかったが、それでも確かに自分の意思で波導を動かした。
「できた……!」
「ピカ!」
喜びを爆発させたピカチュウが飛びついてきて、サトシは慌てながらもしっかりと受け止める。
「うわっ! ……ははっ、やったぞピカチュウ!」
「ピカピカ!」
たった数十秒。
それでもサトシにとっては、大きな一歩だった。
◇
さらに日が過ぎていく。
一度成功したからといって、波導を手へ集めることがすぐに簡単になったわけではない。
次の日には何度やっても上手くいかず、その翌日は驚くほど簡単にできることもあった。体調や集中力によって結果が大きく変わるらしく、サトシは失敗するたびに自分の状態まで意識するようになっていった。
そしてある日の午後。
「……よし」
右手へ意識を集中させる。
胸から肩へ、肩から腕へ、そして掌へ。
これまで何度も繰り返してきた流れに沿って波導を集めていくと、今日はいつもと感覚が違った。
温かいだけではない。
右手の周囲で、空気そのものが僅かに揺れているような気がする。
「ピカ……?」
ピカチュウが目を丸くする。
サトシ自身にも見えた。
右手の周囲に、ごく薄い青白い光が滲んでいる。弱々しく、今にも消えてしまいそうだが、それでも確かに目に見える形となって現れていた。
「博士……!」
「集中を切らすな!」
「うん!」
サトシは目の前の木板を見る。
ここまではできた。
身体の中にある波導を感じ、自分の意思で手へ集めるところまでは。
ならば次は――外へ。
そう考えた瞬間、掌を覆っていた青白い光が大きく揺らいだ。
「っ!」
制御が崩れる。
それでもサトシは右手を前へ突き出し、消えてしまう前に外へ押し出そうとした。
次の瞬間、掌から青白い光が離れた。
ほんの一瞬。
僅か数十センチだけ前方へ飛び――木板へ届くより遥か手前で、弾けるように消えた。
辺りが静かになる。
サトシは右手を突き出したまま固まり、ピカチュウも目を丸くしている。
「……出た」
小さな声が漏れる。
次の瞬間、サトシは勢いよく振り返った。
「出た!」
「ピカチュウ!」
「今の絶対出たよな!?」
「ピカピカ!」
「博士!」
興奮する二人とは対照的に、オーキド博士は驚きながらも冷静に頷いた。
「見ておったよ。僅かじゃが、確かに身体の外へ放出した」
「よっしゃあ!」
サトシは思い切り拳を握る。
何日も何日も失敗して、ようやくここまで来た。
そう思った瞬間、次にやることは決まっていた。
「もう一回!」
「待て」
「え?」
「今日は終わりじゃ」
「なんで!?」
納得できずに博士を見ると、呆れたように自分の身体を指差された。
そこで初めて、サトシは息が大きく乱れていることに気づく。右手も微かに震え、全身から力が抜けていくような妙な疲労感まであった。
「……こんなに疲れるの?」
「慣れておらん力を無理に扱ったんじゃ。当然じゃろう」
「でも、あとちょっとで板まで――」
「今日の目的は板を壊すことではない」
博士の言葉に、サトシは口を閉じる。
「自分の波導を意識し、それを集め、初めて身体の外へ出した。それだけで十分な進歩じゃ。焦って無理をして、明日からの訓練ができなくなっては意味がない」
「……うん」
言われてみればその通りだった。
サトシは右手を握る。
もう青白い光は残っていないが、さっきの感覚ははっきり覚えている。
「じゃあ、明日はもっと飛ばす」
「ピカ!」
「明後日はもっと遠くまで」
「ピカ!」
「そのうち自由に使えるようになる!」
「ピカチュウ!」
「だからまず休め」
「……はい」
博士の言葉に肩を落とすサトシを見て、ピカチュウが楽しそうに笑った。
◇
その日の夜。
ベッドに横になったサトシは、右手を天井へ伸ばしていた。
隣ではピカチュウが身体を丸め、眠る準備をしている。
「今日さ」
「ピカ?」
「ほんのちょっとだったけど……嬉しかった」
「ピカ」
この世界で目を覚ましたあの日、道端で初めて生命の気配を感じた時には、何が起きたのかさえ分からなかった。
それからセレナの不安や痛みを感じ、ピチューだった頃のピカチュウと出会い、少しずつ相手の感情を読み取れるようになった。やがて自分から意思を返し、簡単な動きを伝え、バトルの中でも波導を使えるようになってきた。
そして今日、初めて自分自身の波導を目に見える形で身体の外へ放った。
もちろん、まだ完成には程遠い。
自在に放つこともできなければ、身体へ纏わせることもできない。動きながら扱うことなど、今のサトシには想像するだけでも難しい。
けれど、だからこそ面白かった。
今はできないことが、訓練すれば一つずつできるようになる。その感覚は、ポケモンを育てていた前世とはまた違う、この世界だからこそ味わえるものだった。
「旅立つまでには、全部できるようになる」
「ピカァ……」
返ってきたのは、すでに半分眠っているような声だった。
サトシは小さく笑い、伸ばしていた右手を下ろす。
「おやすみ、ピカチュウ」
「ピカ……」
目を閉じれば、明日やるべきことがいくつも頭に浮かぶ。
朝は走り、研究所でポケモンについて学び、ピカチュウと技を磨く。そして自分自身も波導を鍛える。
一日で強くなる必要はない。
今日より明日。
明日より、その次の日。
そうやって積み重ねていけばいい。
十歳になり、ピカチュウと一緒にマサラタウンを旅立つその日までに、今とは比べものにならないほど強くなってみせる。
いつか世界中の強者を相手に、ピカチュウと肩を並べて戦う自分を思い浮かべながら、サトシは静かに眠りへ落ちていった。