ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
「もっと薄く……全身に均等に……」
朝のオーキド研究所、その庭の中央でサトシは静かに呼吸を整えていた。
右手だけなら、もう難しくない。両腕や両脚へ同時に流すことも、以前ほど集中を必要としなくなった。
問題は全身だった。
胸の奥から広げた波導を肩、腕、腰、脚へと巡らせ、どこか一か所だけを強くするのではなく、身体全体を薄い膜で包むように意識する。
青白い光がサトシの身体に滲んだ。
「……よし」
一歩。
光は消えない。
二歩、三歩と歩いてみても維持できている。
少し離れた場所で見守っていたピカチュウの耳が立った。
「ピカ!」
「まだだよ」
サトシは笑いながら、今度は軽く走り始める。
最初はゆっくりと。
一歩ごとに波導の流れを確認し、身体の動きに合わせる。
右足を出す。
左足。
腕を振る。
身体を捻る。
止まっている時なら全身へ広げられても、動き始めると途端に難しくなる。少し意識を逸らしただけで右腕の波導が薄くなり、慌ててそちらへ集中すれば今度は脚の方が乱れてしまう。
「っ……!」
青白い光が揺れた。
それでも止まらない。
サトシは速度を少し上げる。
十メートル。
二十メートル。
額から汗が流れ始めた。
そして三十メートルほど走ったところで、全身を覆っていた光が一気に消える。
「はぁ……っ、はぁ……!」
その場で膝に手をついた。
「ピカ!」
ピカチュウがすぐに駆け寄ってくる。
「大丈夫……ちょっと疲れただけ」
顔を上げると、ピカチュウが心配そうに覗き込んでいた。
それと同時に、波導を通じて不安が伝わってくる。
サトシは笑って頭を撫でた。
「無茶してないって。前よりずっと長くできた」
「ピカァ……」
完全には信用されていないらしい。
そこへ、記録を取っていたオーキド博士が歩いてきた。
「三十二秒じゃ」
「三十二秒?」
「全身へ波導を広げたまま、走り続けた時間じゃよ」
サトシの顔が明るくなる。
「昨日より長い!」
「昨日は二十六秒じゃったからな。ただし――」
「休憩だろ?」
先回りすると、博士が眉を上げた。
「分かっておるではないか」
「何回言われたと思ってるんだよ」
「言われる前に休むようになれば一人前じゃな」
「……それはそのうち」
「ピカ」
ピカチュウが呆れたように鳴いた。
「なんでピカチュウまで博士側なんだよ」
「ピカピカ」
二対一。
勝ち目はなさそうだった。
◇
身体を休ませた後は、ピカチュウの訓練へ移った。
庭には複数の標的が置かれている。
高さも距離も違い、中にはオーキド博士が簡単な仕掛けで動かせるものまであった。
サトシはピカチュウから少し離れた場所に立つ。
「今日は技の練習だけじゃない」
「ピカ?」
「俺が技名を言わない」
ピカチュウが首を傾げた。
「波導だけで、どこまで伝わるか試そう」
以前、ほっぺすりすりのイメージを送ることには成功している。
だが成功率はまだ高くない。
それに止まった状態で一つの技を伝えるのと、動き続けながら複数の選択肢から一つを伝えるのとでは難しさがまるで違う。
サトシは目を閉じず、ピカチュウを見る。
「いくぞ」
「ピカ!」
博士が標的を動かした。
一つ目が右へ走る。
サトシは言葉を使わず、波導へイメージを乗せた。
――追う。
――白い光。
――一気に距離を詰める。
ピカチュウの耳が動く。
「ピカ!」
白い光を纏って飛び出した。
でんこうせっか。
「よし!」
だが、まだ終わらない。
二つ目の標的が左側から現れる。
サトシはすぐ次のイメージを送った。
電気。
一直線。
遠くへ。
「ピカ……!」
ピカチュウの頬で火花が散った。
一瞬だけ迷い――。
「ピカチュウ!」
でんきショックが放たれる。
電撃が二つ目の標的へ命中した。
「二つ連続!」
サトシが思わず声を上げる。
喜んだ瞬間、三つ目が飛び出した。
「あっ!」
集中が途切れた。
サトシは慌てて次の技を送ろうとするが、焦ったせいでイメージがまとまらない。
球。
電気。
飛ばす。
同時に、接近するイメージまで混ざってしまった。
「ピ、ピカ?」
ピカチュウが混乱する。
「ごめん、エレキボール!」
結局、声で指示した。
「ピカ!」
電気を球状へ集めて放つ。
黄色い球体が飛び、標的を弾き飛ばした。
サトシは小さく息を吐く。
「やっぱり連続だと難しいな」
オーキド博士が頷いた。
「お前自身が何を伝えるか迷えば、受け取るピカチュウも迷う。当然じゃな」
「もっと一瞬で決めないと駄目か」
「それだけではないぞ」
「え?」
「実戦では相手も動く。先ほどのように、次に何をするか考えてから伝えておったのでは遅れる場面もあるじゃろう」
クサイハナとのバトルを思い出す。
あの時は、考える時間などほとんどなかった。
一瞬で判断する。
ピカチュウへ伝える。
相手の次の動きを読む。
さらに、その先まで考える。
「……バトルって本当に忙しいな」
「今さら気づいたか?」
「分かってたけど、やればやるほど分かる」
サトシはピカチュウを見る。
「もう一回やろう」
「ピカ!」
今度は最初から、声を使わないことそのものに拘らない。
間に合うなら波導。
迷ったなら声。
重要なのは無言で格好よく戦うことではなく、ピカチュウへ最も早く正確に意思を届けることなのだから。
◇
訓練は続く。
――接近。
「ピカ!」
でんこうせっか。
――電気を飛ばす。
「ピカチュウ!」
でんきショック。
三つ目。
今度はサトシの中に迷いがない。
黄色い球体が形成される光景を、はっきりと思い描く。
「ピカ!」
ピカチュウの周囲へ電気が集まった。
「……!」
サトシは声を出さない。
ピカチュウもこちらを見ない。
そのままエレキボールを放つ。
命中。
「三つ!」
しかし博士は休ませない。
四つ目の標的がピカチュウのすぐ近くへ飛び出した。
距離がない。
サトシは瞬時に判断する。
――頬。
――触れる。
――電気。
ピカチュウが身体を捻る。
「ピカ!」
電気を帯びた頬を標的へ押し当てる。
バチッ!
ほっぺすりすり。
四つ。
すべて違う技。
すべて波導だけで伝わった。
「やった!」
「ピッカ!」
サトシとピカチュウが互いを見る。
嬉しい。
成功した。
もっとやりたい。
ピカチュウから流れ込んできた感情に、サトシも同じ気持ちを返した。
その瞬間だった。
「……あれ?」
いつもと違う。
サトシは目を瞬かせる。
これまでは、自分が波導へ意思を乗せてピカチュウへ送っていた。
そしてピカチュウから返ってくるのは、主に感情だった。
今は違った。
ピカチュウの感情と一緒に――。
次。
右。
そんな単純なイメージが流れ込んできた。
サトシは反射的に右を見る。
「ピカ?」
そこには次の標的がある。
「今……お前が教えた?」
「ピカ?」
ピカチュウ自身もよく分かっていないようだった。
「もう一回試そう」
サトシの表情が変わる。
これまでの意思疎通は、完全な一方通行ではなかった。
感情は互いに伝わっていた。
しかし、明確な行動のイメージをピカチュウ側から意識的に受け取ったことはほとんどない。
「ピカチュウ。今度は俺に伝えてみて」
「ピカ?」
「右とか左とか、簡単なのでいい。俺に動いてほしい方向を思い浮かべるんだ」
ピカチュウは少し考え、やがて頷いた。
「ピカ」
サトシは力を抜く。
自分から送らない。
受け取る。
ピカチュウの波導へ意識を合わせる。
最初に伝わるのは集中。
次に少しの戸惑い。
その奥から――。
左。
一瞬だけ、左へ動くイメージが浮かんだ。
サトシは左へ跳ぶ。
「こっち!」
「ピカ!」
正解だったらしい。
「もう一回!」
今度は――前。
サトシが一歩踏み出す。
「ピカピカ!」
「分かる!」
思わず笑みが広がった。
今までサトシがピカチュウへ送っていたものを、ピカチュウからも受け取れる。
まだ右、左、前といった単純なものだけだ。
それでも大きな変化だった。
オーキド博士も興味深そうに二人を観察している。
「なるほど……」
「博士!」
「どうやらサトシだけがピカチュウへ意思を伝える段階から、一歩進んだようじゃな」
「これをもっと鍛えたら……」
サトシは考える。
バトル中。
自分から指示するだけではない。
ピカチュウが感じた危険。
ピカチュウが見つけた隙。
ピカチュウ自身がやりたい動き。
それを自分が受け取れるようになったら――。
「もっと一緒に戦える」
「ピカ!」
トレーナーが命令し、ポケモンが従うだけではない。
互いに考え、互いに伝え合う。
サトシが求めていた戦い方に、また一歩近づいた気がした。
◇
しかし、当然ながらすぐに上手くいくほど簡単ではなかった。
「……右!」
サトシが右へ跳ぶ。
「ピカ?」
「え?」
違ったらしい。
「左?」
「ピカ!」
「逆か!」
次は。
「前!」
「ピカァ……」
これも違う。
「分かんなくなってきた……」
地面へ座り込むサトシの前で、ピカチュウも困ったように頭を掻いている。
先ほどは驚くほど自然に伝わったのに、意識して再現しようとすると途端に難しくなる。
オーキド博士が笑った。
「最初から何でもできたら、訓練など必要ないじゃろう」
「それはそうだけど」
「無意識にできたということは、可能性があるということじゃ。それで十分ではないか?」
サトシは少し考え、隣のピカチュウを見る。
「……そうだな」
「ピカ」
できることは分かった。
なら、これも育てればいい。
今までと同じだ。
「明日から練習追加な」
「ピカ!」
「増やしすぎるなよ」
博士から即座に注意された。
「分かってるって」
「その台詞を何度聞いたことか……」
◇
夕方。
家へ帰る前に、サトシは一人で庭に立っていた。
正確には、一人ではない。
少し離れた場所でピカチュウが見守っている。
最後に一度だけ。
全身へ波導を広げる。
胸の奥から、全身へ。
強くする必要はない。
薄く。
均等に。
青白い光が身体を包んだ。
「……よし」
走る。
十秒。
まだ大丈夫。
二十秒。
維持する。
三十秒。
朝なら、そろそろ崩れていた。
それでもサトシは無理に出力を上げず、ただ一定の流れを保つ。
四十秒。
「っ……!」
少し苦しい。
だが波導は消えていない。
五十秒。
一分。
そこまで到達したところで、サトシは自分から速度を落とした。
歩く。
停止する。
そして波導を解く。
青白い光が静かに消えた。
「……一分」
朝の倍近い。
「ピカ!」
駆け寄ってきたピカチュウがサトシの胸へ飛び込む。
「うわっ!」
今度はしっかり受け止めた。
「できたな!」
「ピカピカ!」
喜びが伝わる。
サトシも同じ感情を返す。
そのまま額を合わせた時、ほんの一瞬だけ言葉ではない何かが重なった。
嬉しい。
もっと。
明日も。
一緒に。
どちらの感情なのか、サトシには分からなかった。
自分なのか。
ピカチュウなのか。
もしかすると――両方なのかもしれない。
「……ははっ」
「ピカ?」
「なんでもない」
ピカチュウを肩へ乗せ、研究所を後にする。
帰り道では、夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。
サトシは歩きながら、自分の右手を見る。
感知。
感情。
意思伝達。
放出。
身体強化。
そして今日、初めてはっきりと感じた双方向の意思。
できることは確実に増えている。
それでも、まだ足りない。
旅の中では何が起こるか分からない。
前世で知っている出来事があったとしても、自分の存在によって展開が変われば、その先まで知識通りになる保証などない。
だからこそ、自分自身の力が必要だった。
知識だけではなく、どんな状況でも判断できる経験。
ポケモンを守れる知識と技術。
ピカチュウと共に戦える力。
そして、どんな場所でも波導を自在に扱えるだけの制御。
「十歳までに、絶対完成させる」
「ピカ?」
「波導」
肩の上のピカチュウを見る。
「感じるだけじゃなくて、探すのも、伝えるのも、放つのも、身体に使うのも。全部、考えなくてもできるくらいにする」
「ピカチュウ!」
「それで旅に出よう」
「ピカ!」
約束するように拳を上げると、ピカチュウが小さな前足を重ねた。
旅立ちの日は確実に近づいている。
それまでに、どこまで強くなれるのか。
どこまでピカチュウとの絆を深められるのか。
答えはまだ分からない。
けれどサトシは、それを楽しみにしていた。
世界最強を目指す少年と相棒の修行の日々は、まだ終わらない。
そして季節が巡るたび――十歳の誕生日は、少しずつ近づいていた。