ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
季節は巡り、マサラタウンを吹き抜ける風も少しずつ暖かくなっていた。
オーキド研究所の裏手に広がる森では、以前より背の伸びたサトシが木々の間を駆け抜けている。その身体には青白い光が薄く纏われ、足場の悪い森の中だというのに速度は落ちない。
前方にはピカチュウ。
「ピカ!」
倒木を軽々と飛び越えた相棒を追い、サトシも地面を強く蹴った。
脚へ流す波導を一瞬だけ強める。
身体が浮き上がり、倒木を越える。そのまま着地すると同時に全身を包む波導を均等に戻し、速度を維持したまま走り続けた。
以前なら、こうはいかなかった。
脚を強化すれば腕の波導が薄れ、着地の衝撃で集中が乱れれば全身を覆っていた波導そのものが消えていた。
今は違う。
波導を纏ったまま走り、必要な瞬間だけ特定の部位へ多く流し、その後すぐ全身へ戻す。
まだ完全に無意識とはいかない。
それでも、立ち止まって集中しなければ扱えなかった頃とは比べものにならなかった。
「まだまだ!」
サトシが速度を上げる。
「ピカ!」
振り返ったピカチュウが楽しそうに鳴き、さらに加速した。
「逃がすか!」
追う。
木々の間を抜け、斜面を駆け上がり、岩を飛び越える。
波導を使えば身体能力そのものは大きく高まるが、だからといって何をしても平気になるわけではない。足を置く場所を間違えれば転ぶし、身体が耐えられないほど無理に出力を上げれば、自分自身に負担が返ってくる。
何度も失敗しながら、サトシはその加減を身体で覚えてきた。
やがて木々が途切れ、視界が開ける。
「今だ!」
最後の一歩だけ脚へ波導を集中させた。
地面を蹴る。
「ピカ!?」
一気に距離が縮まった。
ピカチュウのすぐ横へ並ぶ。
「追いついた!」
「ピカ!」
二人はそのまま森を抜けた。
少し先には、いつもの丘がある。
先に着いた方が勝ち。
言葉にしなくても、お互いが同じことを考えたのが分かった。
「いっけえええ!」
「ピッカァ!」
サトシとピカチュウが同時に加速する。
あと十メートル。
五メートル。
サトシが腕を伸ばす。
ピカチュウが前へ飛ぶ。
そして――。
「ピカ!」
黄色い身体が僅かに先に丘の頂上へ飛び込んだ。
「くっそー!」
勢いを落としながらサトシも到着する。
以前のように草むらへ突っ込むことはない。
波導を弱めながら身体の速度を落とし、最後は自分の脚だけで止まった。
「また負けた……!」
「ピカピカ!」
ピカチュウが胸を張る。
悔しい。
だがサトシの顔は笑っていた。
昔は競争にすらならなかった。
今では、波導を使えばかなり近いところまで追える。
「次は勝つからな」
「ピカ!」
絶対に負けない。
そんな気持ちが流れ込んできた。
「望むところだ!」
息を整えながら拳を突き出すと、ピカチュウも小さな前足を合わせた。
◇
研究所へ戻った頃には、オーキド博士が庭で待っていた。
「遅かったの」
「ピカチュウと競争してた」
「結果は?」
「……聞かないで」
「ピカピカ!」
「言うなよ!」
博士が声を上げて笑う。
以前なら、このままサトシも笑って訓練へ移っていただろう。
しかし今日は違った。
「さて、サトシ」
オーキド博士の声が少し真面目になる。
「そろそろ準備を始めてもよい頃じゃろう」
「準備?」
「旅のじゃよ」
その言葉を聞いた瞬間、サトシの表情が変わった。
肩に乗ったピカチュウの耳もぴんと立つ。
「……もう?」
「もう、ではない。お前が初めて研究所へ来た頃から考えれば、随分と時間が経った」
そう言われて、サトシは研究所を見上げた。
初めてここへ来た日。
オーキド博士に頼み込み、研究所へ通わせてもらうようになった。
森でピチューと出会った。
少しずつ距離を縮め、一緒に暮らし始めた。
ピカチュウへ進化した。
でんきショックを磨き、新しい技を覚え、初めてポケモンバトルを経験した。
波導についても、何も分からなかった頃とは比べものにならない。
気づけば――十歳になる日は、本当に近くまで来ていた。
「ポケモントレーナーとして旅立つなら、必要なものは少なくない。何を持っていくか、どういう経路で進むか、野外でどう過ごすか。知識として知っていることと、自分で準備することは違うぞ」
「うん」
「それに、お前には一度確認しておきたいことがある」
「なに?」
博士は肩の上のピカチュウを見る。
「普通なら、新人トレーナーは旅立ちの日に最初のポケモンを受け取る」
サトシは黙った。
もちろん知っている。
そして、この世界で自分が十歳になる年に何が起こるのかも。
フシギダネ。
ヒトカゲ。
ゼニガメ。
本来なら、その三匹の中から一匹を選ぶはずだった。
だが――自分にはもう相棒がいる。
「お前にはピカチュウがおる」
「ピカ」
「正式にトレーナーとして登録される前から共に暮らし、ここまで育ってきた。旅立つ時も、この子と一緒に行くつもりじゃろう?」
サトシはピカチュウを見る。
質問する必要すらなかった。
それでも、口にする。
「ピカチュウ」
「ピカ?」
「俺と旅に出るよな?」
一瞬。
そして。
「ピカチュウ!」
ピカチュウが勢いよく頬へ飛びついた。
「うわっ!」
抱き止めながら笑う。
胸へ流れ込んでくる感情は、これ以上ないほど明確だった。
行く。
一緒に。
どこまでも。
「俺もだ」
額を合わせる。
「一緒に行こう」
「ピカ!」
博士はそんな二人を静かに見守っていた。
◇
「まずは道具じゃな」
研究所の一室。
机の上には、旅に必要になるものが並べられていた。
「全部持っていけばいいってわけじゃないんだよね?」
「当然じゃ。自分で持って歩くんじゃからな」
サトシは一つずつ確認する。
着替え。
雨具。
携帯食。
水。
簡単な応急処置用品。
ポケモン用の手当て道具。
タウンマップ。
その他にも必要なものはいくつもあるが、持てる量には限界がある。
「ポケモンセンターがある町から町へ移動するだけなら問題は少ない。じゃが、野外で予定より長く過ごす可能性も考えておかねばならん」
「食べ物と水は余裕を持って、でも持ちすぎない」
「うむ」
「ピカチュウの分も」
「ピカ」
サトシはメモへ書き込んでいく。
前世では、主人公がバッグ一つで世界中を旅していることを何気なく見ていた。
しかし実際に自分が旅をする側になれば、考えることはいくらでもある。
何日分の食料を持つのか。
水をどこで補給するのか。
雨が降ったらどうするのか。
ポケモンが怪我をした時、近くにポケモンセンターがなければどうするのか。
野生ポケモンの縄張りをどう避けるのか。
「博士」
「なんじゃ?」
「俺、もっと野宿の練習したい」
「ほう?」
「研究所から帰れる距離じゃなくて、ちゃんと自分で一晩過ごす練習」
旅立ってから初めて経験する必要はない。
できることなら、今のうちに失敗しておいた方がいい。
「火の扱いも、食事も、寝る場所の選び方も覚えたい」
「よい考えじゃ」
博士は頷いた。
「なら近いうちに、わしが見守れる範囲で実際にやってみるか」
「うん!」
「ピカ!」
新しい訓練が決まった。
けれど今回は、強くなるためだけではない。
旅をするための訓練だ。
そう思うだけで、サトシの胸は高鳴った。
◇
午後になっても、いつもの訓練は続いた。
旅立ちが近いからといって、急にすべてを変える必要はない。
「ピカチュウ、いくぞ!」
「ピカ!」
庭の反対側には複数の標的。
オーキド博士が合図すると、左右から同時に動き始める。
サトシは声を出さない。
まず一つ。
右奥。
遠い。
ピカチュウへイメージを送る。
黄色い球。
放つ。
「ピカ!」
頬から溢れた電気が集まり、エレキボールが形成される。
以前とは比較にならないほど速い。
放つ。
黄色い球体が右奥の標的へ向かう。
その瞬間、左から別の標的がピカチュウへ迫った。
今度はピカチュウから感覚が流れ込んできた。
――左。
――近い。
サトシは反応する。
「でんこうせっか!」
「ピカ!」
ここは声。
ピカチュウが白い光を纏い、迫る標的の横を抜ける。
そのまま旋回。
サトシは次のイメージを送ろうとして――。
止めた。
ピカチュウから別の意思が届いたからだ。
接近。
頬。
「……!」
サトシは笑う。
「任せた!」
「ピカ!」
ピカチュウ自身の判断で進路を変え、でんこうせっかの勢いを保ったまま標的へ迫る。
頬から電気。
接触。
バチッ!
ほっぺすりすり。
標的が大きく揺れた。
ほぼ同時に、最初に放ったエレキボールが右奥の標的へ命中する。
「よし!」
だが博士は止めない。
今度は三つ。
正面。
右。
背後。
サトシは全体を見る。
ピカチュウからも情報が来る。
危険。
後ろ。
先にそっち。
声と波導。
サトシの判断とピカチュウの判断。
どちらか一方ではない。
「後ろをでんきショック!」
「ピカチュウ!」
振り向きざまの電撃が標的へ直撃する。
正面から来る一つへは、波導で右への回避を伝える。
ピカチュウが跳ぶ。
残る一つ。
「エレキボール!」
「ピカ!」
電気が集まる。
しかしサトシは相手だけを見ていない。
ピカチュウの呼吸。
足の運び。
疲労。
波導から伝わる状態。
まだいける。
「撃て!」
黄色い球体が飛び、最後の標的へ命中した。
すべてが止まる。
静寂。
そして。
「できた!」
「ピッカァ!」
ピカチュウがサトシへ走ってくる。
サトシも両腕を広げ、その身体を受け止めた。
「今の最後、自分でほっぺすりすり選んだだろ!」
「ピカ!」
「分かったぞ!」
「ピカピカ!」
嬉しさがそのまま流れ込んでくる。
以前はサトシが考え、それをピカチュウへ伝えることが中心だった。
今は違う。
ピカチュウも考える。
自分が見えているものを伝える。
やりたいことを伝える。
サトシがそれを受け取り、必要なら任せる。
「いいのう」
オーキド博士が近づいてくる。
「まだ単純な意思が中心じゃが、以前とは明らかに違う」
「うん」
サトシは腕の中のピカチュウを見る。
「もっと速くできる」
「ピカ!」
「もっと色んなことも伝えられるようになる」
「ピカ!」
「旅に出るまでに――」
そこまで言って、サトシは少し考えた。
旅立つまでに完成させる。
ずっとそう思ってきた。
もちろん、その目標を変えるつもりはない。
けれど。
「いや」
「ピカ?」
「旅に出てからも、ずっと強くなればいいんだよな」
十歳は終着点ではない。
始まりだ。
波導を完成させることも、ピカチュウを強くすることも、そこで終わるわけではない。
「まず旅立つ日までに、できるところまでやる。その先は旅しながらもっと伸ばす」
「ピカチュウ!」
オーキド博士が満足そうに頷いた。
◇
その夜。
夕食を終えたサトシは、自分の部屋で荷物の一覧を作っていた。
ベッドの上ではピカチュウが腹ばいになり、退屈そうに尻尾を揺らしている。
「着替え……雨具……」
「ピカァ……」
「退屈?」
「ピカ」
「大事なんだぞ」
「ピカァ」
明らかに興味がない。
サトシは苦笑しながらペンを置いた。
その時、部屋の扉が軽く叩かれる。
「サトシ、入るわよ」
「うん」
ハナコが入ってきた。
机の上に広げられたメモを見ると、少しだけ目を細める。
「旅の準備?」
「博士に、そろそろ始めろって言われた」
「そう」
それだけ答えたハナコは、ベッドへ腰を下ろした。
サトシも椅子を回して母を見る。
「母さん?」
「何?」
「……寂しい?」
聞いてから、少し直球すぎたかと思った。
けれどハナコは笑った。
「寂しくないって言ったら嘘になるわね」
「そっか」
「でも、サトシがずっと楽しみにしてたのも知ってるもの。ピカチュウと毎日頑張ってたことも」
「ピカ」
名前を呼ばれたピカチュウが顔を上げる。
ハナコはその頭を優しく撫でた。
「この子が一緒なら、少しは安心できるし」
「俺がピカチュウを守るよ」
「逆じゃない?」
「なんで!?」
「ピカピカ!」
ピカチュウまで笑い出した。
「俺だって強くなったんだからな!」
「はいはい」
軽く流されてしまい、サトシは不満そうに頬を膨らませる。
そんな息子を見ながら、ハナコはしばらく笑っていた。
やがて、その表情が少しだけ柔らかくなる。
「ちゃんと帰ってきなさいね」
サトシは母を見る。
「もちろん」
「どれだけ遠くまで行っても、たまには連絡すること」
「うん」
「ご飯はちゃんと食べる」
「うん」
「無茶しない」
「……できるだけ」
「サトシ」
「分かった! 分かったって!」
ハナコが笑う。
サトシも笑った。
けれど胸の奥には、少しだけ別の感情があった。
この家を出る。
アニメで見ていた時には、旅立ちはただ冒険の始まりだった。
自分で経験する今は違う。
帰る家がある。
送り出してくれる母がいる。
何年も一緒に暮らしてきたピカチュウがいる。
セレナとも、離れてからずっと連絡を取り続けてきた。
オーキド博士から教わったことも数え切れない。
全部を持って旅に出る。
そう考えると、十歳という日は以前とはまるで違う意味を持って感じられた。
◇
ハナコが部屋を出たあと、サトシは窓を開けた。
夜のマサラタウン。
静かな家々。
遠くに見える研究所。
そして、その先に広がる世界。
「もうすぐだな」
「ピカ」
ピカチュウが窓辺へ上がり、隣に座る。
「最初はトキワシティ」
「ピカ」
そこへ向かう途中。
そして、その先で何が起こるのか。
サトシは知っている。
けれど、その未来を避けるつもりはなかった。
この世界で起きる出来事を、前世の記憶だけを理由に消してしまうつもりもない。
起こるべき出会い。
事件。
戦い。
それらを経験したうえで、自分とピカチュウならどう進むのかを選ぶ。
「楽しみだな」
「ピカチュウ!」
ピカチュウの声に、サトシは笑った。
そして、ふと思い出す。
「そうだ」
机へ戻る。
通信機器を手に取る。
ピカチュウが首を傾げた。
「旅立ちが近いって、セレナにも教えないと」
「ピカ!」
画面を操作し、いつもの連絡先を選ぶ。
呼び出し音が響く。
一回。
二回。
三回。
やがて画面が明るくなり――。
『サトシ!』
聞き慣れた少女の声が部屋に響いた。
サトシの表情が自然と明るくなる。
「セレナ!」
『こんな時間にどうしたの?』
「ちょっと話したいことがあってさ」
『話したいこと?』
画面の向こうでセレナが首を傾げる。
サトシは隣へ来たピカチュウを抱き上げた。
「ピカ!」
『ピカチュウもこんばんは!』
「ピカピカ!」
サトシは一度息を吸い、笑った。
「俺の旅立ち、もうすぐなんだ」
画面の向こうで、セレナの表情が止まった。
ほんの一瞬。
けれどサトシには、その小さな変化が分かった。
『……そっか』
以前から知っていたはずなのに、いざその時が近づくと違うのだろう。
少しの寂しさ。
それでも、それ以上に応援したいという気持ち。
遠く離れていて波導で感じ取れるわけではない。それでも長く連絡を取り続けてきたからこそ、表情と声だけで分かることも増えていた。
「セレナ」
『なに?』
「前にも言ったけどさ」
サトシは笑う。
「絶対、また会おう」
セレナの目が少しだけ大きくなる。
やがて、柔らかな笑顔に変わった。
『うん!』
「俺、カントーを旅する。ジムを回って、セキエイ大会に出て――優勝する」
『サトシなら、本当に言った通りにしそう』
「するよ」
迷いなく答える。
「それで、もっと強くなって……いつかカロスにも行く」
その言葉にセレナの表情が明るくなった。
『本当?』
「約束しただろ?」
『……うん』
サトシの頭には、その時にやりたいことがすでにある。
ヒトカゲと出会い、育て、リザードンへ進化させる。
そしてカロスへ渡り、メガシンカについて調べる。
だが今は、まだそれを話す時ではない。
今伝えたいことはもっと単純だった。
「だから待ってて」
『うん。待ってる』
画面越しにセレナが笑う。
その隣でピカチュウも嬉しそうに鳴いた。
「ピカ!」
旅立ちは別れではない。
これから始まる、もっと大きな世界へ向かうための最初の一歩だ。
通信を終えたあとも、サトシはしばらく窓の外を眺めていた。
十歳の誕生日。
トレーナーとして正式に旅立つ日。
そして――前世で何度も見た、あの冒険が始まる日。
ただし今度は、テレビの向こうから見ているのではない。
自分自身が歩く。
幼い頃から共に育ったピカチュウと一緒に。
鍛えてきた身体と波導を携えて。
原作と同じ数々の出会いや事件を経験しながら、その先の未来を自分たちの手で選んでいく。
「世界最強になるぞ、ピカチュウ」
「ピカ!」
二人の声が、静かな夜の部屋に重なった。
旅立ちの日は――もう、すぐそこまで来ていた。