ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
「忘れ物はない?」
玄関先でハナコにそう聞かれ、サトシは背負ったリュックの肩紐を握り直した。
「大丈夫。昨日の夜に確認したし、朝ももう一回見た」
「本当に?」
「本当だって」
「ピカピカ」
足元のピカチュウまで頷くと、ハナコはようやく納得したように笑った。
今日から一泊二日、サトシはマサラタウンから少し離れた場所で野宿の訓練をする。
これまでにも森へ入ったことは何度もあるし、研究所の周辺なら地形も野生ポケモンの生態もかなり覚えている。しかし今回は、夕方になれば家へ帰れる普段の訓練とは違う。
食事も寝床も、自分たちで用意する。
何か問題が起きても、まずは自分で考える。
もちろん完全に放り出されるわけではなく、オーキド博士が安全を確認できる範囲にはいる。それでも博士からは、危険な状況でない限り手を貸さないと言われていた。
「じゃあ、行ってくる!」
「ピカチュウ!」
「行ってらっしゃい。無茶しちゃ駄目よ!」
「分かってる!」
元気よく答えて歩き出したサトシだったが、数歩進んだところで背後からもう一度声が飛んできた。
「サトシ!」
「なにー?」
「ちゃんと歯も磨くのよー!」
「野宿と関係ないだろー!」
ハナコの笑い声を背中で聞きながら、サトシはピカチュウと一緒にマサラタウンを後にした。
◇
今回の目的地は、研究所から歩いて数時間ほどの場所にある森だった。
本当の旅では一日にどれだけ進めるのか分からないため、サトシは最初から急がず、一定の速度を保って歩くことを意識していた。
「走るのと全然違うな」
「ピカ?」
「ずっと歩く方が、地味に疲れる」
身体を鍛えてきたおかげで体力には自信がある。しかし背中には旅を想定した荷物があり、普段の身軽な状態とは勝手が違う。
水、食料、着替え、雨具、寝袋、簡単な調理道具、応急処置用品。
一つ一つは大した重さではなくても、まとめればそれなりになる。
最初は肩に乗っていたピカチュウも、途中から自分で歩いていた。
「旅に出たら、ずっと肩に乗せて歩くのは無理かもな」
「ピカ!?」
「だって重――」
ピカチュウの頬から火花が散る。
「いや、違う! 荷物もあるからって意味!」
「ピカァ……」
疑いの目を向けられた。
「本当だって!」
そんなやり取りをしながらも、サトシは周囲への注意を忘れない。
目で見るだけではなく、波導を薄く広げる。
右側の草むらに小さな生命反応。
木の上にも二つ。
少し離れたところには、それより大きな反応がある。
敵意はない。
「右にコラッタ。上にポッポが二羽……奥のは何だろ」
「ピカ」
ピカチュウも鼻を動かし、周囲を確認している。
旅が始まれば、知っている森だけを歩くわけではない。
だからこそ、波導で感じられたからといって油断しない。姿を確認できるなら目でも確認し、足跡や鳴き声、草木の変化も見る。
オーキド博士から何度も言われてきた。
一つの方法だけに頼るな。
それはポケモンバトルでも、野外活動でも同じだった。
昼前になると、サトシは川の近くで一度休憩を取った。
「ここで水も確認しよう」
「ピカ」
持ってきた水はある。
だからといって、最初から全部使うつもりはない。
長い旅では、どこで補給できるかを考える必要がある。
サトシは川辺へしゃがみ込んだが、そのまま水を飲もうとはしなかった。
流れや濁りを確認し、周囲に不自然なものがないかを見る。
「見た目が綺麗でも、そのまま飲んでいいとは限らないんだよな」
「ピカ?」
「博士に教わっただろ?」
ピカチュウが首を傾げる。
「……お前、あの時寝てたな?」
「ピカ」
目を逸らされた。
サトシは笑いながら、用意してきた道具で飲み水として使えるよう処理する。
手間はかかる。
けれど、こういう手間を面倒がって体調を崩せば、その方がずっと困る。
準備を終えると、自分だけ先に飲むのではなく、ピカチュウにも水を渡した。
「どう?」
「ピカ!」
「よし」
二人で昼食を取り、少し休んでから再び歩き出した。
◇
野宿する場所を探し始めたのは、日が傾くよりずっと前だった。
「暗くなってから探すんじゃ遅い」
サトシは博士から教わったことを口にしながら周囲を見る。
平らな場所。
水辺に近すぎない。
崖の下ではない。
雨が降った時に水が流れ込むような低地も避ける。
そして何より――。
「野生ポケモンの縄張りじゃないところ」
「ピカ」
波導を広げる。
周囲にはいくつもの生命反応がある。
森なのだから当然だ。
重要なのは、ポケモンがいるかどうかではなく、ここが誰かの巣や生活場所になっていないか。
地面を見る。
足跡。
木の幹についた傷。
食べ残し。
糞。
そうした痕跡も確認する。
一度、条件の良さそうな場所を見つけた。
「ここなら――」
言いかけたところで、サトシは止まる。
木の根元に小さな穴があった。
近づかずに波導を向けると、中から複数の小さな反応を感じる。
「……やめよう」
「ピカ?」
「たぶん誰かの巣だ。邪魔しちゃ悪い」
サトシたちは別の場所を探した。
少し歩いた先で、ようやく条件の良い場所を見つける。
周囲を確認し、問題がないと判断してから荷物を下ろした。
「よし。ここにする!」
「ピカ!」
まずは寝る場所を作る。
ところが――。
「……あれ?」
サトシは持ってきた道具と地面を交互に見た。
「思ったより狭いな」
頭の中では完璧だった。
実際に設営してみると、木との距離が微妙に足りない。
一度やり直す。
今度は地面が僅かに傾いている。
「これ、寝たら絶対そっちに転がる」
「ピカピカ」
「笑うなよ!」
三度目。
ようやく納得できる形になった。
「できた!」
「ピカ!」
思っていたより時間がかかった。
サトシは額の汗を拭う。
知っていることと、実際にできることは違う。
今日だけで何度目か分からないほど、その事実を思い知らされていた。
◇
寝床の次は夕食だった。
火を使う場所を選び、周囲に燃え移るものがないことを確認する。
ここでピカチュウが前へ出た。
「ピカ!」
「駄目」
「ピカ!?」
「電気で無理やり火をつけようとするなよ」
「ピカァ……」
「練習なんだから、普通にやる」
便利だからといって、何でもピカチュウに任せればいいわけではない。
もちろん本当に必要な時なら頼る。
しかし今は、自分一人でも最低限のことができるようになるための訓練だ。
苦戦しながら火を起こし、持ってきた食材で簡単な料理を作る。
豪華なものではない。
それでも、しばらくして温かい匂いが漂い始めると、ピカチュウの鼻がぴくぴく動いた。
「まだ」
「ピカ」
「まだだって」
「ピカァ」
「そんな顔しても駄目」
サトシ自身も腹が減っている。
ようやく完成すると、ピカチュウの分を先に取り分け、十分に冷ましてから渡した。
「はい」
「ピカ!」
ものすごい勢いで食べ始める。
「どう?」
「ピカピカ!」
「そんなに?」
嬉しくなって自分も食べる。
「……」
「ピカ?」
「ちょっと味薄いな」
ピカチュウが食べる手を止めた。
「いや、美味しいけど」
「ピカ」
「その顔やめろよ」
料理も練習が必要らしい。
それでも二人で作って外で食べる夕食は、不思議なくらい美味しく感じた。
食べ終えた後は、片づける。
食べ物をそのままにすれば、匂いにつられて野生ポケモンが来るかもしれない。
火の始末も徹底する。
旅は、食べ終わったら終わりではない。
そうして全部を終えた頃には、森はすっかり暗くなっていた。
◇
昼の森と夜の森は、まるで別の場所だった。
虫の声。
風。
草が揺れる音。
遠くから聞こえるポケモンの鳴き声。
「……こんなに違うんだな」
「ピカ」
小さな明かりの近くで、サトシとピカチュウは並んで座っていた。
怖いわけではない。
けれど家のベッドで眠るのとは違い、完全に気を抜くことはできなかった。
サトシは静かに波導を広げる。
昼よりも視覚に頼れない分、周囲の生命が鮮明に感じられた。
近くに小さな反応が二つ。
少し離れて三つ。
さらに遠くにもいくつか。
敵意や強い警戒は感じない。
「大丈夫そうだな」
「ピカ」
サトシが波導を戻そうとした、その時だった。
「……ん?」
少し離れた場所。
一つの反応がこちらへ近づいてくる。
「ピカチュウ」
声を低くする。
ピカチュウもすぐに察し、立ち上がった。
「何か来る」
草が揺れる。
ガサッ。
ピカチュウの頬から小さな火花が散った。
「まだ攻撃しない」
「ピカ」
サトシは波導へ意識を向ける。
敵意は――薄い。
警戒はある。
それ以上に強いのは。
「……お腹空いてる?」
草むらから一匹のコラッタが姿を現した。
鼻を動かしながら、こちらを見ている。
視線はサトシたちではなく、片づけた食事のあった場所へ向いていた。
「やっぱり匂いか」
「ピカ」
食べ物は片づけた。
だからコラッタは少し周囲を嗅ぎ回った後、残念そうに立ち去ろうとする。
サトシは一瞬、何か食べさせようかと思った。
だが手を止めた。
可哀想だからと毎回食べ物を与えることが、そのポケモンのためになるとは限らない。
人間の食料を目当てに近づく癖がつけば、別の旅人との問題を起こすかもしれない。
「ごめんな」
小さく声をかける。
コラッタは一度振り返り、そのまま森の奥へ消えていった。
「……こういうのも考えないといけないんだな」
「ピカ」
ゲームなら、画面の向こうでは見えなかったこと。
アニメを見ているだけでも、すべてを実感できたわけではない。
この世界で生きるようになってから、そういうことがいくつも増えた。
サトシは隣のピカチュウを撫でる。
「寝ようか」
「ピカ」
◇
ところが。
「……眠れない」
サトシは目を開けた。
どれくらい経っただろう。
横ではピカチュウが丸くなっている。
「ピカ……」
眠っている。
羨ましい。
サトシはもう一度目を閉じる。
ザッ。
「……」
目を開ける。
風だ。
閉じる。
ガサッ。
「……」
今度は何だ。
波導を広げる。
小さなポケモンが通っただけ。
「気にしすぎか……」
家では気にも留めないような音が、夜の森では一つ一つ気になる。
しかも波導を使えるせいで、周囲に生命がいることまで分かってしまう。
便利なはずの力が、逆に眠りを妨げていた。
「ずっと警戒してたら身体がもたないよな」
旅は一日では終わらない。
毎晩こんな状態では、疲労が溜まるだけだ。
サトシは考えた。
波導を完全に広げたまま眠る必要はない。
普段の感知範囲を狭める。
近くに強い敵意や危険が入った時だけ気づけるよう、意識を薄く残す。
「……できるかな」
試してみる。
意識を広げすぎない。
自分とピカチュウ、その周辺だけ。
最初は上手くいかず、何度も範囲が広がった。
それでも少しずつ力を抜いていく。
やがて周囲の細かな気配が遠のき、ピカチュウの馴染み深い波導だけがすぐそばに残った。
「これなら……」
目を閉じる。
今度は眠れそうだった。
◇
どれほど眠っただろう。
突然、ピカチュウの波導が大きく揺れた。
警戒。
サトシの目が開く。
「……!」
ほぼ同時に身体を起こした。
ピカチュウもすでに立っている。
「ピカ……」
暗闇の向こう。
何かがいる。
サトシはすぐに波導を広げた。
一つ。
先ほどのコラッタより大きい。
こちらを警戒している。
サトシは立ち上がったが、ピカチュウへ攻撃命令は出さない。
暗闇へ目を凝らす。
やがて月明かりの中へ、一匹のポケモンが姿を現した。
「……オニスズメ」
「ピカ」
オニスズメはこちらを睨んでいる。
サトシは周囲を見る。
何か理由があるはずだ。
ただ攻撃的な性格だから。
それだけで片づけるつもりはない。
波導から伝わってくるのは警戒。
苛立ち。
そして――。
「俺たち、近すぎた?」
少し離れた木を見る。
暗くて分かりにくい。
しかし波導を向けると、枝の上にもう一つ、小さな生命反応があった。
「……巣か」
昼間に確認した時には気づかなかった。
高い枝。
葉に隠れた場所。
そこに巣があるらしい。
「ごめん」
サトシはオニスズメへ声をかけた。
「気づかなかった。すぐ離れる」
「ピカ?」
ピカチュウがサトシを見る。
「場所を移そう」
夜中だ。
せっかく作った寝床を片づけるのも面倒だ。
だが、自分たちが後から来た。
それなら離れるべきなのはこちらだ。
サトシはゆっくりと荷物をまとめ始めた。
オニスズメは警戒したまま見ている。
ピカチュウも相手から目を離さない。
サトシは波導を通じ、敵意がないことをできるだけ静かに伝えた。
戦う気はない。
巣を奪わない。
離れる。
どこまで伝わったのかは分からない。
それでも、オニスズメは襲ってこなかった。
少し離れた安全な場所まで移動し、最低限の寝床を作り直す。
「まさか夜中に引っ越すとは思わなかった……」
「ピカァ……」
ピカチュウも眠そうだ。
「でも、これも経験だな」
「ピカ」
今度こそ二人は横になった。
さすがに疲れていたのか、眠りにつくまで時間はかからなかった。
◇
朝。
「……まぶしい」
木々の間から差し込む光で、サトシは目を覚ました。
身体を起こす。
「身体痛い……」
家のベッドとは比べものにならない。
隣ではピカチュウが大きく伸びをしていた。
「ピカァ~」
「お前は元気だな」
「ピカ!」
簡単な朝食を済ませ、寝床を片づける。
ゴミが残っていないか。
火を使った場所に問題がないか。
忘れ物はないか。
自分たちが来る前とできるだけ同じ状態に戻す。
最後に周囲を見渡してから、サトシはリュックを背負った。
「よし」
「ピカ!」
帰ろう。
そう思ったところで、サトシは昨夜の方向を見た。
少し離れた木。
高い枝。
そこにオニスズメがいる。
こちらを見ていた。
「……おはよう」
返事はない。
けれど襲ってもこない。
サトシは小さく手を振り、ピカチュウと歩き出した。
◇
昼前には、オーキド研究所へ戻った。
「おお、帰ったか」
庭にいた博士が二人を迎える。
「ただいま!」
「ピカ!」
「どうじゃった?」
「大変だった」
サトシは即答した。
博士が笑う。
「ほう?」
「寝る場所決めるだけでも時間かかったし、料理はちょっと薄かったし、夜は全然眠れないし、それに途中で野宿する場所を変えた」
「場所を?」
サトシは昨夜のオニスズメについて説明した。
博士は黙って最後まで聞いてから、頷く。
「よい判断じゃったと思うぞ」
「最初に気づけなかったけど」
「だから今回の経験で、次からは上にも注意するようになるじゃろう?」
「……そっか」
失敗した。
そう考えていた。
だが博士の言葉を聞いて、少し見方が変わる。
旅立つ前に失敗するための訓練でもあったのだ。
「他には?」
「水を確保するのも思ったより面倒だった。荷物もずっと背負ってると重いし……あと、波導でずっと周りを警戒してたら眠れない」
「それで?」
「感知する範囲を狭くして寝た。近くに強い危険が来たら気づけるくらいに」
「ほう」
博士の目が僅かに細くなる。
「それは自分で考えたのか?」
「うん」
「なら、大きな収穫じゃな」
サトシは少し嬉しくなる。
「ただし」
「え?」
「一度上手くいったからといって、いつでも安全にできると思うな。疲労が強ければ波導そのものが乱れることもあるじゃろうし、感じ取れない危険がないとも限らん」
「……うん」
「波導は便利じゃ。じゃが、便利な力ほど頼り切れば危険になる」
「分かった」
目。
耳。
知識。
経験。
ピカチュウ。
そして波導。
どれか一つではない。
全部を使う。
サトシはそれを覚えておこうと思った。
「それで博士」
「なんじゃ?」
「次は二泊してみたい」
「もう次の話か?」
「だって今回、一日だけだったし」
「ピカ!」
ピカチュウも賛成らしい。
博士は額へ手を当てた。
「お前たちは本当に……」
呆れた声。
けれど、少し笑っている。
サトシも笑った。
一晩だけの野宿。
それでも、研究所の庭で何日訓練するのとも違うことを学べた。
自分で歩き。
自分で場所を選び。
自分で食事を作り。
夜の森で眠る。
野生ポケモンの生活圏に入る以上、人間側が気をつけなければならないこともある。
旅とは、ジムへ行ってバトルをするだけではない。
次の町へ着くまでの時間も、そのすべてが旅なのだ。
「ピカチュウ」
「ピカ?」
「本番では、もっと色んなことが起きるんだろうな」
「ピカ!」
不安がないわけではない。
けれど、それ以上に楽しみだった。
サトシは遠くに続く道へ目を向ける。
十歳になれば、この道を進む。
トキワシティへ。
ニビシティへ。
その先へ。
前世で知っていた場所を、今度は自分の足で歩いていく。
けれど今日、一晩を森で過ごしたことで、その意味が少しだけ変わった気がした。
旅は、物語の場面から場面へ飛んでいくものではない。
歩いた距離も、食べた食事も、眠れなかった夜も、道端で出会うポケモンたちも――その全部を積み重ねて進んでいくものなのだ。
そして、そのすべてを隣で経験する相棒がいる。
「旅立つまで、あと少しだ」
「ピカチュウ!」
サトシとピカチュウは顔を見合わせて笑った。
本当の旅を始めるための準備は、着実に整いつつあった。