ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
十歳になった。
ポケモントレーナーとして、自分の足で世界へ旅立つことのできる日。何年も待ち続けてきたその日を翌朝に控え、サトシはいつになく落ち着かない夜を過ごしていた。
旅に必要なものは、すでに何度も確認している。
着替えや雨具はもちろん、携帯食に水筒、応急処置用品やピカチュウの手当に使う道具も入っている。野宿に必要なものについても、オーキド博士と相談しながら本当に必要なものだけを選んだため、今さら確認することなどないはずだった。
それでもサトシは、ベッドへ入ってから何度目か分からないほど身体を起こした。
「……もう一回だけ確認しようかな」
枕元で丸くなっていたピカチュウが、眠そうに片目を開ける。
「ピカァ……」
「分かってるよ。さっきも確認したけど、本当にこれで最後だから」
呆れたような鳴き声を聞き流しながらバッグを開いてみるものの、当然ながら忘れ物など見つからない。サトシはようやく諦めてバッグを閉じると、今度こそベッドへ戻った。
「寝よう。明日は早いからな」
「ピカ……」
ピカチュウはすぐに目を閉じた。
ところがサトシは、なかなか眠れない。
明日から最初に向かうトキワシティ、その先にあるニビシティやハナダシティ。ジムへ挑戦し、まだ見ぬポケモンたちと出会い、やがてセキエイ大会へ辿り着く。
それだけではない。
カントーの外にも広大な世界が待っている。
前世では画面の向こう側にしか存在しなかった場所を、これからは自分の足で歩いていけるのだと思うと、目を閉じても次々と旅の光景が頭に浮かんできた。
「……楽しみすぎて寝られない」
「ピカァ……」
再び目を開けたピカチュウが、前足を伸ばしてサトシの頬を押す。
「はいはい、もう喋らないよ」
小さく笑って目を閉じる。
今度こそ眠らなければならない。
そう思っていたのだが――。
◇
翌朝、マサラタウンには爽やかな朝日が差し込み、空ではポッポたちが鳴きながら飛び交っていた。
町の人々も少しずつ活動を始めている。
しかし、その中でサトシの部屋だけは妙に静かだった。
ベッドではサトシが布団にくるまり、その枕元ではピカチュウまで腹を見せて気持ちよさそうに眠っている。
二人が起きる気配はない。
時計の針だけが無情に進んでいった。
やがて階段を上ってきたハナコが部屋の扉を開け、眠っている息子とピカチュウを見たあと、壁の時計へ視線を向けた。
「あら……」
少しの沈黙のあと、部屋中に声が響いた。
「サトシ! 起きなさい!」
「うわぁっ!?」
サトシが飛び起き、その勢いに驚いたピカチュウまで跳ね上がる。
「ピカァ!?」
「な、何!?」
「何じゃないでしょ! 今日、旅立つ日じゃなかったの?」
「……え?」
寝ぼけたまま時計を見る。
一瞬で眠気が消えた。
「うわああああっ!?」
何年も前から準備してきた。
身体を鍛え、ポケモンについて学び、野宿の練習までして、波導も旅立ちまでに目標としていた段階へ到達した。
それなのに。
「なんで当日に寝坊するんだよ!」
「ピカ!?」
ピカチュウもようやく事態を理解したらしく、慌ててベッドから飛び降りた。
「昨日、何時まで起きてたの?」
「それは……」
サトシが目を逸らす。
「サトシ?」
「ちょっと遅くまで……」
「ちょっと?」
「かなり遅くまで起きてました!」
ハナコが呆れたようにため息をついた。
「もう、あんなに楽しみにしてたのに」
「楽しみだったから眠れなかったんだよ!」
言いながら急いで着替え、前日のうちに準備しておいたバッグを背負う。
「ピカチュウ、行くぞ!」
「ピカ!」
階段を駆け下り、その勢いのまま玄関へ向かおうとしたところで、背後からハナコの声が飛んできた。
「サトシ、朝ご飯は?」
「途中で食べる!」
「歯は磨いたの?」
サトシの足が止まった。
数秒考えたあと、無言で洗面所へ方向転換する。
「……磨いてきます」
「そうしなさい」
その数分後、今度こそサトシはピカチュウと一緒に家を飛び出した。
「行ってきます!」
「気をつけてね!」
「うん!」
研究所へ向かう道を全力で走りながら、サトシは何度目か分からない後悔をする。
「昨日の俺、なんで早く寝なかったんだよ!」
「ピカピカ!」
「ピカチュウだって一緒に寝坊しただろ!」
「ピカ!?」
自分まで巻き込むなと言いたげな相棒と騒ぎながら坂道を上っていくと、研究所の近くが妙に賑やかなことに気づいた。
何人もの人が集まり、その中心には一台の車が停まっている。
そして、そのすぐそばには見慣れた少年が立っていた。
「……シゲル」
今日から同じように旅へ出る、オーキド博士の孫。
これまでも研究所で何度となく顔を合わせてきたが、今日からは同じ新人トレーナーとして、それぞれ別の道を歩き始める。
シゲルもサトシに気づいたらしい。
こちらを見るなり、腕を組んで笑った。
「ようやく来たのか、サトシ」
「シゲル……」
「まさかと思うけど、今日が何の日か忘れてたんじゃないだろうな?」
「忘れてないよ。ちょっと寝坊しただけだ」
サトシが答えた途端、シゲルの笑みがさらに深くなる。
「寝坊?」
「……そうだよ」
「へえ。ずっと研究所に入り浸って、旅に出る準備をしてたサトシ君が、肝心の旅立ちの日に寝坊とはね」
周囲から笑い声が聞こえる。
サトシの眉が動いた。
「うるさいな。ちゃんと来ただろ」
「僕ならこんな大事な日に遅れたりしないけどね」
「ピカ!」
ピカチュウがサトシの隣で抗議するように鳴いた。
シゲルはその姿へ目を向ける。
ピカチュウがまだピチューだった頃からサトシと一緒にいることは、シゲルも知っている。研究所へ頻繁に通っていた二人なのだから、知らない方がおかしい。
「まあ、君は最初のポケモンを選ぶ必要だけはないから、少しくらい遅れても困らないのかもしれないけど」
「ピカチュウは『だけ』じゃないぞ」
サトシがすぐに言い返す。
「俺の相棒だ」
「ピカ!」
胸を張るピカチュウを見て、シゲルは僅かに口元を上げた。
「そうだったね。でも僕も、もう自分のポケモンを受け取った」
そう言って見せたのは、一個のモンスターボールだった。
中にいるポケモンの名前までは口にしない。
サトシには前世の記憶があるため、その中身がゼニガメであることを知っている。
けれど、それをシゲル本人から聞いたことはない。
わざわざ自分から口にする必要もなかった。
「そのうち見せてもらうよ」
「そのうち?」
シゲルが笑う。
「僕に追いつけたらね」
「追いつくだけじゃない」
サトシも笑い返した。
「追い越す」
一瞬、二人の視線がぶつかる。
これまでも互いのことは知っていた。
だが今日からは違う。
同じ日に旅立ち、それぞれがポケモントレーナーとして世界へ出る。
どちらが強くなるのか。
どちらが先へ進むのか。
その答えは、これからの旅で決まる。
「言うじゃないか」
シゲルは車へ乗り込むと、窓から顔を出した。
「せいぜい頑張るんだね、サトシ」
「そっちこそ!」
「ピカ!」
車が走り出し、賑やかな応援の声と共に遠ざかっていく。
サトシはしばらくその背中を見送ったあと、ピカチュウと顔を見合わせた。
「……絶対あいつには負けたくないな」
「ピカ!」
意見は同じらしい。
「でも今は――」
研究所を見る。
「博士のところだ!」
「ピカ!」
二人は再び走り出した。
◇
「遅い!」
研究室へ入った途端、オーキド博士の声が飛んできた。
「ごめんなさい!」
さすがに言い訳する気にはなれず、サトシは素直に頭を下げる。
博士は呆れたように腕を組んだ。
「何年も前から旅立ちを楽しみにしておった男が、よりにもよって当日に寝坊するとはのう」
「昨日、楽しみすぎて眠れなくて……」
「まったく、子供じゃあるまいし」
「十歳だよ」
「…………」
博士が黙る。
サトシも黙る。
「そうじゃったな」
「博士が忘れないでよ」
「ピカピカ!」
ピカチュウが楽しそうに笑ったので、サトシはすぐに振り返った。
「お前は俺と一緒に寝坊しただろ!」
「ピカ!?」
まるで自分は関係ないと言いたげに目を逸らす。
オーキド博士はそんな二人に苦笑しながら、研究室の奥へ歩いていった。
「まあよい。お前が寝ておる間に、他の新人トレーナーたちはすでに旅立ってしまったぞ」
サトシは、普段なら新人トレーナーへ最初のポケモンを渡す場所を見る。
そこに三匹の姿はなかった。
「フシギダネもヒトカゲもゼニガメも?」
「うむ。それぞれ新しいトレーナーと旅立った」
やはり、そこは前世で知っている流れと同じだった。
けれど今のサトシに、焦りはない。
足元にはピカチュウがいる。
森でピチューと出会い、少しずつ距離を縮め、やがて自分からサトシと一緒に生きる道を選んでくれた。
博士から与えられたわけではない。
最初からトレーナーとポケモンだったわけでもない。
それでも今では、誰よりも信頼できる相棒だ。
「俺にはピカチュウがいるから」
「ピカチュウ!」
「うむ。お前の場合は、新しく最初のポケモンを渡す必要はないじゃろう」
博士はそう言うと、机の上から一つの機械を取り出した。
サトシの目が輝く。
何度も見たことがある。
それでも、実物を自分が受け取るとなれば話は別だった。
「ポケモン図鑑じゃ」
差し出された図鑑を、サトシは両手で受け取った。
手に伝わる重さを確かめるように眺めていると、博士が続ける。
「これまで研究所で多くのことを学んできたお前なら分かっておると思うが、知識だけですべてを決めつけてはいかんぞ」
「うん」
「同じ種類のポケモンでも、性格も得意なことも違う。図鑑を使って調べ、自分の目でもよく観察することじゃ」
「分かってる」
前世の知識があるからこそ、その重要性はこの世界へ来てから何度も思い知らされた。
ゲームでは一つのデータとして表示されていたポケモンも、ここでは一匹一匹が生きている。
知識は使う。
だが、知識だけで目の前の相手を決めつけない。
それがサトシの中では、すでに当たり前になっていた。
続いて博士がモンスターボールを用意する。
「こちらも持っていくとよい」
「ありがとう、博士」
一つを手に取り、じっと眺める。
これから多くのポケモンと出会うだろう。
その中には、一緒に旅をしたいと思う相手も現れるはずだ。
捕まえて終わりではない。
一緒に強くなる。
そして進化する時が来れば、本人がどうしたいのかも確かめる。
ピカチュウと過ごしてきたからこそ、それだけは忘れるつもりがなかった。
正式な手続きを終えれば、今日からサトシはポケモントレーナーだ。
博士が改めてこちらを見る。
「いよいよじゃな」
「うん」
サトシは図鑑をバッグへしまい、ピカチュウを見る。
「俺、色んなポケモンに会ってくるよ。ジムにも挑戦して、バッジを集めて、セキエイ大会に出る」
「ほう」
「出るだけじゃない。優勝する」
迷いはない。
「それからもっともっと強くなって、世界最強のポケモントレーナーになる」
ピカチュウも隣で力強く頷く。
「ピカ!」
「そして、ポケモンマスターになる!」
オーキド博士はその夢を笑わなかった。
長い間サトシを見てきた博士だからこそ、その言葉がただの勢いではないことを知っている。
「ならば、まずは今日から始めることじゃ」
「うん!」
何年も待ち続けてきた旅が、ようやく始まる。
◇
研究所を出たサトシは、受け取った道具を確認しながら坂を下り始めた。
ピカチュウも当然のように隣を歩いている。
これまでにも二人でマサラタウンの外へ出たことはあるし、野宿だって経験した。
それでも今日は違う。
帰る時間を決めた訓練ではない。
ここから先は、本当の旅だ。
「サトシー!」
聞き慣れた声に振り返る。
坂の下にはハナコがいて、その周囲には見送りに来た町の人たちも集まっていた。
「母さん?」
「せっかくの旅立ちなんだから、お見送りくらいさせなさい」
ハナコが笑いながら近づいてくると、まずサトシの服装を確認し、次にバッグへ視線を向ける。
「着替えは入れた?」
「入れたよ」
「雨具は?」
「ある」
「歯ブラシは?」
「さっきも磨いたし、ちゃんと入ってる!」
「下着は?」
「それもあるって!」
周囲から笑い声が上がり、サトシは少し顔を赤くした。
「もう大丈夫だよ。博士とも何回も確認したから」
「そうね」
ハナコも笑ったが、やがてその表情が少しだけ柔らかくなる。
「でも、無茶はしすぎないこと。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、たまには連絡するのよ」
「うん」
「ピカチュウもサトシをお願いね」
「ピカ!」
「だから俺がピカチュウを守るんだって」
「ピカピカ!」
「また笑ったな!」
最後まで、いつも通りだった。
サトシもそれが嬉しかった。
必要以上に重い別れにはしたくない。
ここは自分の家で、旅を終えればいつでも帰ってくることができる。
だから最後に、サトシは真っ直ぐ母を見た。
「母さん」
「なに?」
「行ってきます!」
ハナコも笑顔で返す。
「行ってらっしゃい、サトシ。ピカチュウもね」
「ピカ!」
◇
マサラタウンの出口まで来たところで、サトシは一度だけ振り返った。
見慣れた町並みの向こうには自分の家があり、その先にはオーキド研究所も見える。
何度も走った道も、ピカチュウと鍛えた森も、全部ここにある。
けれど今日から、自分たちはその外へ行く。
「ピカチュウ」
「ピカ?」
「いよいよだな」
「ピカ!」
サトシが前を向くと、ピカチュウも隣へ並んだ。
最初の目的地はトキワシティ。
その先にはニビシティがあり、初めてのジム戦も待っている。
さらにその先には、前世の自分が知っている数え切れないほどの出会いと事件がある。
けれど、未来を知っているからといって、すべてを自分の思い通りにできるとは考えていない。
自分が変われば、相手の行動も変わる。
ピカチュウも原作とはまったく違う成長をしている。
何より、ここは決められた展開を再生するだけのアニメではなく、ポケモンも人間も自分の意思で生きている世界だ。
だからこそ面白い。
「行こう!」
「ピカ!」
二人はマサラタウンから続く道を歩き始めた。
しばらく進んだところで草むらが揺れ、一匹のポッポが飛び出してくる。
「ポッポ!」
サトシは思わず足を止めた。
研究所の周辺でも何度も見てきたポケモンで、珍しいわけではない。
それなのに、今日見る野生のポッポは少し違って見えた。
「ピカ?」
「いや……本当に始まったんだなって」
ポッポは二人を警戒するように見つめたあと、翼を広げて青空へ飛び立っていった。
サトシはそれを追わず、遠ざかっていく姿を見送る。
これから、たくさんのポケモンと出会う。
戦うこともある。
仲間になるポケモンもいるだろう。
そしてそのすべてが、自分とピカチュウの新しい旅を作っていく。
サトシは隣にいる相棒へ笑いかけた。
「世界最強への第一歩だ、ピカチュウ!」
「ピカチュウ!」
マサラタウンからトキワシティへ続く道を、二人は並んで歩いていく。
幼い頃から待ち続けてきた旅は、もう夢でも未来の予定でもない。
サトシとピカチュウの冒険は――この日、本当に始まった。