ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
オーキド博士が主催するポケモンサマーキャンプ。
マサラタウンだけでなく、各地から集まった子供たちがポケモンと触れ合い、その生態について学ぶための催しだ。
会場へ到着したサトシを最初に迎えたのは、聞き慣れた声だった。
「おお、サトシ。来たか」
「オーキド博士!」
白衣を着た老人――オーキド博士が、笑顔でこちらを見ていた。
その姿を目にした瞬間、サトシの胸に言葉では表せない感動が込み上げてくる。
本物だ。
昨日までなら画面の向こうにしか存在しなかった人物が、今は手を伸ばせば届くところにいる。
しかも、これから何年も世話になる相手でもある。
「どうした? わしの顔に何かついておるか?」
「いや……本物だなって」
「本物?」
オーキド博士が首を傾げる。
「なんでもない!」
危ない。
いきなり怪しまれるところだった。
サトシが誤魔化すように笑うと、博士も深く追及することなく参加者たちへ目を向けた。
周囲にはサトシと同年代の子供たちが集まっている。
その近くでは、何匹ものポケモンが自由に過ごしていた。
ポッポが木の枝で羽を休め、コラッタが草の間から顔を出している。少し離れた場所ではナゾノクサが葉を揺らしながら歩いていた。
知識として知っている光景なのに、目が離せない。
ポケモンが息をしている。
歩いている。
鳴いている。
図鑑の絵でもゲームの映像でもない。
本当に生きている。
「すげえ……」
サトシが呟くと、オーキド博士が笑った。
「そんなに珍しいか?」
「うん。もっと近くで見てもいい?」
「もちろんじゃ。ただし、野生のポケモンにはそれぞれ性格がある。こちらに敵意がなくとも、急に近づけば驚かせてしまうこともあるからの」
「分かった!」
返事をすると、サトシは近くにいたポッポへゆっくり近づいた。
真正面から距離を詰めるのではなく、少し離れたところでしゃがむ。
ポッポはこちらを警戒していた。翼がわずかに持ち上がり、いつでも飛び立てるようにしている。
サトシはそれ以上近づかなかった。
「大丈夫。何もしないよ」
しばらく待つ。
すると、ポッポが小さく首を傾げた。
「ポッポ?」
言葉そのものが通じたわけではないだろう。
それでも声の調子から何かを感じたのか、張り詰めていた様子が少しだけ和らいだ。
その瞬間、サトシは妙な感覚を覚えた。
ほんのわずかだが、目の前のポッポが抱いていた警戒心が薄れたことを、表情や仕草を見るより先に感じたような気がしたのだ。
昨日、草むらにいたコラッタの存在を感じ取った時と少し似ている。
だが、今度は確信が持てない。
――気のせいか?
サトシは深く考えず、ポッポの様子を観察することにした。
その姿を、オーキド博士が興味深そうに眺めていた。
「ほう……」
やがてキャンプが始まり、子供たちはオーキド博士からポケモンについての説明を受けた。
サトシにとって知っている内容も多かった。
しかし、だからといって退屈することはない。
むしろ逆だった。
「ポッポは周囲への警戒心が強い。特に野生では――」
博士の説明を聞きながら、実際のポッポを見る。
ゲームでは数字や短い説明として処理していた知識。
アニメでは描かれなかった細かな部分。
それらを今は、生き物の生態として直接見ることができる。
サトシは次々と質問した。
「博士、同じ種類でも得意な技って違う?」
「もちろんじゃ。身体つき、育った環境、経験によっても変わってくる」
「じゃあ、同じポッポでも飛び方に違いがある?」
「あるとも」
「特性も?」
その言葉に、オーキド博士が少し驚いた。
「サトシ、特性について知っておるのか?」
しまった。
この年齢の子供がどこまで知っているのか、まだ把握できていない。
「えっと……本で見た!」
「ほう。勉強しておるんじゃな」
なんとか誤魔化せたらしい。
サトシは小さく息を吐いた。
知識があるからといって、何でも最初から口にしていいわけではない。これからは少し気をつけた方がよさそうだ。
やがてキャンプは、森の中でのポケモン観察へ移った。
オーキド博士やスタッフの指示を受けながら、子供たちは何組かに分かれて森へ入っていく。
木々の間から差し込む陽光。
風に揺れる葉。
どこからともなく聞こえてくるポケモンたちの鳴き声。
サトシは目に入るものすべてに興味を惹かれながらも、参加者たちの中へ何度か視線を向けていた。
――セレナはどこだ?
キャンプが始まってから、それとなく探している。
しかし、まだ姿を見つけられていない。
未来を知っているサトシは、この森で何が起こるのかを覚えていた。
セレナは道に迷い、転んで足を痛める。
そして、幼いサトシと出会う。
だからといって、森のどこで迷うのかまで正確に覚えているわけではない。
――探した方がいいよな。
そう思って周囲を見回した、その時だった。
胸の奥に、小さな引っかかりを覚えた。
「……ん?」
足を止める。
音が聞こえたわけではない。
誰かの姿を見つけたわけでもない。
それでも、森の奥が妙に気になった。
第1話でコラッタを見つける直前にも、似たような感覚があった。
ただ、今回は少し違う。
何かがいる。
それだけではない。
胸の奥がざわつくような、落ち着かない感覚が混じっている。
サトシは無意識に胸へ手を当てた。
――なんだ、これ?
自分が不安なわけではない。
むしろ、誰かの不安が薄い膜を一枚挟んで伝わってくるような、不思議な感覚だった。
その感覚はあまりにも曖昧で、方向すらはっきりしない。
それでもサトシは、なぜか無視してはいけないと思った。
「こっち……かな」
森の奥へ足を向ける。
数歩進むと、先ほどの感覚が少しだけ強くなった。
逆方向へ進もうとすると薄くなる。
「……!」
そこで初めて、サトシは確信した。
何かがある。
「サトシ? どこへ行くんじゃ?」
後ろからオーキド博士の声が飛んできた。
「博士! ちょっと向こう見てくる!」
「お、おい! あまり離れるでないぞ!」
「分かった!」
森の奥へ進む。
草をかき分け、木々の間を抜ける。
進むにつれて、胸に伝わる感覚が少しずつはっきりしていった。
不安。
心細さ。
そして、かすかな痛み。
言葉ではない。
声が聞こえるわけでもない。
頭の中に誰かの考えが流れ込んでくるわけでもなかった。
ただ、その感情だけが自然と伝わってくる。
――誰かいる。
サトシは足を速めた。
そして木々を抜けた先で、一人の少女を見つけた。
茶色い髪。
帽子。
地面に座り込み、痛そうに足を押さえている。
その姿を見た瞬間、胸にまとわりついていた不安の正体が分かった。
「いた!」
少女が顔を上げる。
サトシには、彼女が誰なのか一目で分かった。
「セレ――」
名前を呼びかけそうになり、慌てて口を閉じる。
まだ会ったことがない。
「……大丈夫?」
サトシが近づくと、少女は少しだけ安心したような表情を浮かべた。
不思議なことに、それと同時にサトシの胸を覆っていた不安も薄くなった。
――やっぱり、さっき感じてたのはこの子の……?
疑問は残ったが、今はそれより怪我の方が先だ。
「転んじゃって……」
見ると、膝を擦りむいている。
「ちょっと見せて」
サトシはしゃがみ込み、持っていたハンカチを取り出した。
この光景には覚えがある。
原作でも、サトシはこうして彼女を助けた。
だが、未来を知っているから助けるわけではない。
目の前で困っている子がいる。
それだけで十分だった。
「少し我慢して」
「う、うん……」
膝へハンカチを巻き、応急処置をする。
「これで大丈夫。立てる?」
「たぶん……」
少女が立ち上がろうとした瞬間、痛めた足に力が入らず身体が傾いた。
「きゃっ!」
「危ない!」
サトシが咄嗟に支える。
「大丈夫?」
「……うん」
少女は少し恥ずかしそうに俯いた。
サトシは彼女の前へ手を差し出す。
「じゃあ、一緒に戻ろう」
「でも……」
「大丈夫だって。一人じゃ無理でも、二人ならなんとかなるよ」
少女は差し出された手を見つめた後、おそるおそる握った。
「……ありがとう」
「俺、サトシ」
今度こそ、きちんと名乗る。
「君は?」
「セレナ」
知っている名前だった。
それでもサトシは初めて聞いたように笑う。
「セレナか。よろしく!」
「うん……よろしく、サトシ」
二人でゆっくり森を戻っていく。
「痛くない?」
「少しだけ」
「だったらゆっくり行こう」
「うん」
歩きながら、サトシはもう一つ気づいた。
セレナが安心していくほど、自分の中に伝わっていた不安も薄れていく。
やがて完全に消えた。
そこでサトシは、昨日から続く不可思議な感覚について一つの可能性を考え始めた。
――これ、本当に波導なのかもしれない。
そう考えれば辻褄が合う。
昨日は草むらに隠れていたコラッタの存在を感じた。
今日はポッポの警戒心が薄れる瞬間を感じ、森の中では離れた場所にいたセレナの不安や痛みまで微かに伝わってきた。
ただし、まだ自由に使えているわけではない。
意識して探知できるわけでもなければ、好きな相手の感情を読み取れるわけでもない。
今はただ、強い気配や感情に身体が勝手に反応しているだけなのだろう。
――だったら、ここから練習すればいい。
焦る必要はない。
この感覚を忘れず、少しずつ自分の意思で掴めるようになればいい。
やがて、遠くから声が聞こえてきた。
「サトシー!」
「博士!」
オーキド博士たちと合流すると、博士は呆れた顔でこちらへ歩いてきた。
「まったく、勝手に離れてはいかんと言ったじゃろう!」
「ごめん、博士。でもこの子が迷ってて」
オーキド博士はセレナに気づくと、すぐに表情を変えた。
「おお、見つかったか。探しておったんじゃぞ」
「ご、ごめんなさい……」
「無事ならそれでよい。足を怪我しておるな。戻ってちゃんと手当てをしよう」
その後、セレナはキャンプのスタッフからきちんと治療を受け、大事には至らなかった。
そして夕方。
キャンプの予定が終わり、子供たちが帰る時間になった。
サトシは少し離れた場所にいるセレナを見つけた。
このまま別れれば、原作と同じなら次に会うのはずっと先になる。
だが、同じ出来事を経験したからといって、その後まで同じにする必要はない。
「セレナ!」
「サトシ?」
「もう帰るんだよな?」
「うん……」
少し寂しそうな顔をするセレナへ、サトシは笑いかけた。
「じゃあさ、また話そうよ」
「え?」
「住んでる場所が離れてても、連絡くらいできるだろ?」
セレナが目を丸くする。
「……いいの?」
「もちろん」
その答えを聞いたセレナの表情が明るくなる。
サトシはそれを見てから、自分の夢について話した。
「俺、もっとポケモンのこと勉強するんだ。それで10歳になったら旅に出る」
「ポケモンの旅?」
「うん。いっぱいポケモンと出会って、いっぱいバトルして――世界で一番強いトレーナーになる!」
セレナが驚いた後、小さく笑った。
「サトシなら、なれるかも」
「かも、じゃないぞ。なるんだ!」
「ふふっ。じゃあ私、応援する」
「おう!」
二人はこれからも連絡を取る約束を交わした。
帰っていくセレナは何度も振り返り、そのたびにサトシも手を振り返す。
やがて彼女の姿が見えなくなった。
原作と同じ場所で始まった出会い。
けれど今回は、ここで二人の縁が途切れることはない。
「さて……」
サトシはオーキド博士の方へ向き直った。
今日の経験で、波導について一つ分かったことがある。
今の自分は、波導を「使っている」という段階ですらない。
ただ、生き物の気配や強い感情を無意識に拾っているだけだ。
なら、最初にやるべきことは単純だった。
この感覚を意識して再現できるようになること。
そこから少しずつ範囲を広げ、相手の意思を感じ取り、自分の意思も伝えられるようにしていく。
旅立ちまで時間はある。
焦らず、確実に鍛えていけばいい。
「博士!」
「なんじゃ?」
「俺さ、これから研究所に遊びに来てもいい?」
「研究所に?」
「もっとポケモンのこと知りたいんだ。見るだけじゃなくて、世話とかもやってみたい。バトルのことも勉強したい!」
オーキド博士はしばらくサトシを見つめた後、嬉しそうに笑った。
「もちろんじゃ。ポケモンを知りたいという者を断る理由はないからの」
「本当!?」
「ただし、遊び半分では困るぞ?」
「やる!」
即答するサトシに、オーキド博士は笑いながら頷いた。
「ならば、まずはポケモンの世話からじゃな」
「うん!」
こうして、サトシの日常は少しずつ変わり始めた。
オーキド研究所へ通い、本物のポケモンについて学ぶ。
同時に、まだ芽生えたばかりの波導を少しずつ育てていく。
そして――いつか出会う未来の相棒。
サトシはまだ知らない。
その出会いが、思っているほど遠い未来ではないことを。
マサラタウンから少し離れた森の奥。
親子のガルーラたちに囲まれながら、一匹の小さなポケモンが楽しそうに跳ねていた。
「ピチュ!」
まだサトシを知らない、小さなピチュー。
やがて誰よりも長く隣を歩くことになる二人の出会いは、もうすぐそこまで近づいていた。