ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
「アイアンテール!」
「ピッカァァ!」
サトシの声に応え、ピカチュウが地面を蹴った。
硬質な輝きを帯びた尻尾を構え、小さな身体が巨大なイワークへ向かって駆けていく。
先ほどまで戦っていたイシツブテとは、何もかもが違った。
見上げるほどの巨体。その身体を構成する岩の一つ一つだけでも、ピカチュウより遥かに大きい。イワークがわずかに身じろぎするだけで地面には振動が伝わり、正面に立っているだけでも強烈な圧力を感じる。
だが、ピカチュウの足は止まらない。
「イワーク、迎え撃て!」
「グオオオッ!」
タケシの指示に応じ、イワークが巨大な尾を横薙ぎに振るった。
「跳べ!」
「ピカ!」
ピカチュウが地面を蹴る。
直後、巨大な尾がその足元を通過した。
ドンッ、と重い音がジム中へ響き、砕けた石と砂が舞い上がる。
その上を飛び越えたピカチュウが空中で身体を捻った。
尻尾の輝きは消えていない。
「そのまま!」
「ピカ!」
イワークの頭部を狙って振り抜こうとする。
しかし、タケシも黙って待ってはいなかった。
「身体を起こせ!」
「グオッ!」
イワークが頭を大きく持ち上げた。
「ピカ!?」
狙っていた場所そのものが一気に遠ざかる。
アイアンテールは空を切り、ピカチュウはそのまま落下した。
「着地!」
「ピカ!」
身体を丸めて衝撃を逃がし、すぐに立ち上がる。
サトシは追撃を命じなかった。
「やっぱり簡単には当てさせてくれないか」
当然だ。
アイアンテールがイワークへ有効なのは、タケシも一目見れば分かる。
まして、先ほどサトシ自身が覚えたばかりの技だと口にしている。
「今の技……覚えたばかりなんだな」
タケシもそこを見逃していなかった。
「ああ」
「威力はありそうだ。だが、発動するまでに少し時間がかかっている」
サトシは少しだけ笑った。
「やっぱり気づくよな」
「ジムリーダーだからな」
タケシの言う通りだった。
練習では使えるようになった。
『でんこうせっか』から繋げることにも成功している。
だが、実戦は標的へ技を当てる練習とは違う。
相手も動く。
避ける。
こちらの技を見て考える。
覚えたことと、使いこなせることは同じではない。
ならば――。
「ピカチュウ」
「ピカ」
視線が合う。
サトシは波導を通じて、ごく単純なイメージを送った。
今は尻尾を狙わない。
走る。
揺さぶる。
そして、隙を待つ。
言葉にすればそれだけの内容だ。
それでも長く一緒に過ごし、何度も波導による意思疎通を繰り返してきたピカチュウには十分だった。
返ってきたのは、強い了解の意志。
「ピカ!」
「行くぞ。でんこうせっか!」
ピカチュウが白い光を纏う。
一気に加速。
イワークの正面へ向かう。
「イワーク、叩き潰せ!」
巨大な尾が落ちる。
今度はサトシが細かく方向を叫ぶより先に、ピカチュウが右へ切り返した。
タケシの眉がわずかに動く。
尾が地面へ激突する。
その横をピカチュウが駆け抜けた。
「そのまま回れ!」
「ピカ!」
イワークの周囲を走る。
右。
左。
再び右。
イワークが追おうと頭を向ければ、ピカチュウは逆へ切り返す。
サトシはただ見ているわけではなかった。
目でイワークの動きを追いながら、同時に薄く波導を広げている。
巨体だからといって、考えていることまで分かるわけではない。
攻撃を未来予知できるわけでもない。
だが、生き物としての存在と動く方向なら捉えられる。
視界だけに頼るより、死角へ入った時の位置を把握しやすい。
そして何より――。
ピカチュウがどちらへ動こうとしているのか。
長年の付き合いと波導が重なることで、それが以前よりずっと自然に伝わってくる。
「速い……」
タケシが呟く。
サトシは笑った。
「ピカチュウの得意分野だからな!」
まだピチューだった頃から、何度走り込んだか分からない。
進化して身体が変わってからも、速さだけで満足せず、止まり方、曲がり方、再加速まで繰り返し練習した。
その積み重ねが今、巨大なイワークを翻弄している。
だがタケシもすぐに対応した。
「イワーク、追うな!」
「グオッ!」
イワークが動きを止めた。
ピカチュウだけがその周囲を走る形になる。
「ただ走らせて疲れさせるつもりなら、付き合わないぞ」
「さすがに乗ってこないか」
サトシは焦らなかった。
これでいい。
タケシがイワークへ無理に追わせないなら、今度はこちらから動かせばいい。
「ピカチュウ、正面!」
「ピカ!」
ピカチュウが軌道を変えた。
巨大なイワークへ真っ直ぐ向かっていく。
「正面から?」
観戦していたカスミが思わず声を上げる。
タケシもすぐ反応した。
「迎え撃て、イワーク!」
「グオオオッ!」
巨大な頭が下がる。
まともに衝突すれば勝負にならない。
それでもピカチュウは走り続けた。
十メートル。
五メートル。
さらに近づく。
その瞬間。
サトシは声を出さなかった。
波導へ一つの動きを乗せる。
――左。
「ピカ!」
衝突する寸前、ピカチュウが鋭く横へ切れた。
イワークの頭が空を切る。
「今だ!」
「ピカ!」
ピカチュウが跳ぶ。
着地したのは地面ではなかった。
イワークの身体。
「何っ!?」
「上まで走れ!」
「ピカ!」
岩の節を足場にしながら、ピカチュウが駆け上がっていく。
「振り落とせ!」
イワークが激しく身体を揺らした。
「グオオッ!」
足場そのものが上下左右へ動く。
「ピカッ!」
ピカチュウの足が滑った。
落ちかける。
だがサトシは叫ばない。
波導を通じて、ピカチュウの焦りと、それでもまだ行けるという意志が伝わってくる。
同時にイワークの動きを見る。
上。
下。
右。
そして――次は上。
「次だ!」
今度は声と同時だった。
「ピカ!」
イワークの身体が跳ね上がった瞬間、ピカチュウも自分から跳ぶ。
振り落とされるのではない。
イワークの動きを跳躍へ利用する。
小さな身体が高く舞った。
「ピカチュウ!」
尻尾が輝く。
「アイアンテール!」
「ピッカァ!」
全身を回転させる。
硬質な尻尾が振り下ろされた。
ガァンッ!
岩と鋼がぶつかるような音が響いた。
「グオオオッ!」
イワークが初めて大きく苦鳴を上げる。
頭部へ直撃。
巨体が沈む。
「入った!」
カスミが身を乗り出した。
「フリィ!」
「ピジョー!」
バタフリーとピジョンも声を上げる。
ピカチュウはイワークの身体を蹴り、距離を取って着地した。
「ピカ!」
「よし!」
サトシも拳を握る。
効いている。
明らかに。
だが、イワークは倒れなかった。
「まだだ、イワーク!」
タケシの声が飛ぶ。
「グ……オオオッ!」
巨大な頭が再び持ち上がる。
サトシの口元が上がった。
「やっぱり一発じゃ無理か」
「当然だ」
タケシも真剣な表情で答える。
「だが、驚いた。あれほどの速度から、覚えたばかりの技を当ててくるとはな」
「ピカチュウが頑張ったからだよ」
「ピカ!」
「なら、こちらも全力で行く」
タケシが腕を振り下ろした。
「イワーク、フィールドごと崩せ!」
「グオオオオッ!」
イワークが身体を大きく持ち上げ――地面へ叩きつけた。
轟音。
フィールドが震える。
「っ!」
サトシも腕で顔を庇った。
大量の砂と細かな石が舞い上がり、一瞬で視界が茶色く染まる。
「ピカチュウ!」
返事は聞こえる。
「ピカ!」
だが姿が見えない。
普通なら、それだけで指示が遅れる。
サトシは目を細め――すぐに波導を広げた。
暗闇の中で光を見るように、というほど鮮明ではない。
姿形まで見えるわけでもない。
それでも分かる。
ピカチュウは前方右。
そして、そのさらに奥から巨大な生命の存在が動いてくる。
「右から来る!」
「ピカ!」
土煙を突き破り、イワークの尾が現れた。
ピカチュウは直前で跳ぶ。
尾が空を切る。
タケシが目を見開いた。
「見えていたのか?」
「見えてないよ!」
答えながら、サトシは意識を集中する。
イワークが動く。
今度は左。
「ピカチュウ、左!」
「ピカ!」
ピカチュウが身を翻す。
巨大な頭がその横を通過した。
視界が塞がれているのはタケシも同じだ。
だがサトシには波導がある。
万能ではない。
攻撃の種類までは分からない。
それでも、どこにいるか分かるだけで十分に大きい。
「でんこうせっか!」
「ピカ!」
土煙の中で白い軌跡が走る。
イワークから離れる。
だが――。
「イワーク、薙ぎ払え!」
タケシも声と振動から位置を読んだ。
巨大な身体が横へ振られる。
「ピカチュウ、上!」
ピカチュウが跳ぶ。
しかし、わずかに遅い。
「ピカァッ!」
身体の一部が直撃した。
小さな身体が土煙の外へ弾き飛ばされる。
「ピカチュウ!」
地面へ落ちる。
一度。
二度。
転がって止まった。
サトシの胸に緊張が走る。
波導を向ける。
痛み。
疲労。
それでも――。
強い闘志。
サトシが感じているのは、ピカチュウの痛みそのものではない。
今どれほど苦しく、それでもまだ戦おうとしているのか。その大まかな状態と意志だ。
「ピカ……」
ピカチュウが腕をつく。
一度、足が震えた。
「無理はするな」
サトシが静かに言う。
ピカチュウが顔を上げた。
「ピカ……チュウ!」
立ち上がる。
そしてサトシを真っ直ぐ見る。
言葉はない。
それでも伝わった。
まだやれる。
勝ちたい。
サトシは一度目を閉じ、頷いた。
「……分かった」
「ピカ!」
「最後まで一緒に行こう」
「ピッカ!」
タケシはそのやり取りを静かに見ていた。
「いい信頼関係だ」
「ああ」
サトシは迷わず答えた。
「最高の相棒だからな」
ピカチュウが頬から小さな火花を散らす。
「ピカ!」
ここからどうする。
サトシはフィールドを見る。
イワークの一撃で地面は大きく崩れ、岩があちこちへ転がっている。
走れる場所は明らかに減った。
先ほどと同じように地面だけを走れば、逃げ道を潰される。
だが――。
サトシは転がっている岩を見る。
使える。
むしろ、足場は増えた。
サトシはピカチュウと視線を合わせた。
今度は声にしない。
波導へ簡単な動きのイメージを乗せる。
岩。
跳ぶ。
次の岩。
さらに上。
最後に――イワーク。
ピカチュウの耳がぴくりと動く。
こちらへ返ってきたのは、迷いのない意志。
分かった。
「……行くぞ」
「ピカ!」
「イワーク、来るぞ!」
タケシも構える。
「でんこうせっか!」
「ピカァ!」
ピカチュウが加速した。
だが今度は平らな地面を走り続けない。
一つ目の岩へ。
跳ぶ。
蹴る。
二つ目。
さらに三つ目。
「岩を足場に……!」
タケシが気づく。
「イワーク、薙ぎ払え!」
巨大な尾が迫る。
サトシはピカチュウを見る。
次の動きは、すでに共有している。
だから叫ばない。
ピカチュウが自分で岩を蹴った。
尾が真下を通り抜ける。
着地。
再加速。
「ピカ!」
サトシは思わず笑った。
これだ。
自分がすべて指示するのではない。
ピカチュウ自身が見て、考え、サトシの考えと重ねる。
二人で戦う。
「イワーク、逃がすな!」
「グオオッ!」
巨大な頭が追う。
ピカチュウはさらに岩を蹴る。
だが、サトシの狙いは逃げ続けることではない。
イワークに攻撃させる。
それも――大きな一撃を。
「正面へ!」
「ピカ!」
ピカチュウが方向を変えた。
イワークの真正面。
「またその手か!」
タケシも覚えている。
先ほどは正面から突っ込み、直前でかわしてイワークの身体へ乗った。
「同じ手は通じない! イワーク、叩き潰せ!」
「グオオオッ!」
イワークが頭を大きく持ち上げる。
そのままピカチュウへ向かって振り下ろす。
サトシは動かない。
ピカチュウも走り続ける。
距離が縮まる。
カスミが息を呑む。
「サトシ……!」
まだ。
サトシはイワークを見る。
ピカチュウも前だけを見る。
まだ。
巨大な頭が迫る。
あと一瞬。
その瞬間、サトシとピカチュウの間で意志が重なった。
――今。
声より早く。
ピカチュウが横へ飛んだ。
ドォンッ!
イワークの頭が地面へ激突する。
ジム全体が震えた。
そして、その巨体が一瞬だけ止まる。
「今だ!」
今度は声に出す。
「ピカ!」
ピカチュウが着地と同時に加速した。
「でんこうせっか!」
「ピカァ!」
イワークの側面へ回り込む。
「イワーク、起きろ!」
タケシが叫ぶ。
イワークが頭を上げようとする。
だが、その一瞬があれば十分だった。
「跳べ!」
ピカチュウが岩を踏む。
一つ。
二つ。
最後の岩を蹴る。
高く。
イワークの頭よりさらに上へ。
サトシとピカチュウの視線が交わった。
波導を通じて、最後の一撃のイメージが重なる。
尻尾へ力を集める。
硬質な光。
身体を捻る。
今度は迷いも、余計な力みもない。
「これで決めるぞ!」
「ピカ!」
「アイアンテール!」
「ピッカァァァァッ!」
空中で身体を回転させる。
『でんこうせっか』で生み出した勢い。
岩を蹴って得た高さ。
落下する力。
そして、何度も失敗しながら身につけた尻尾への力の集中。
すべてを一つへ繋げる。
輝く尻尾が――イワークの頭部へ叩き込まれた。
ガァァンッ!
「グオオオオオッ!」
イワークの巨体が大きく揺れた。
一度持ち上がりかけた頭が、再び地面へ落ちる。
土煙が広がった。
反動で飛ばされたピカチュウも空中で身体を捻り、着地する。
一歩。
二歩。
地面を滑りながらも、最後には踏ん張った。
「ピカ……!」
サトシは土煙の向こうを見つめる。
波導でも感じていた。
イワークの存在はまだある。
だが動きがない。
煙が薄れていく。
巨大なイワークが倒れていた。
「イワーク!」
タケシが呼ぶ。
「グ……」
頭がわずかに動く。
持ち上げようとする。
だが、上がらない。
やがて完全に力が抜けた。
静寂。
そして――。
「イワーク、戦闘不能!」
その言葉を聞いた瞬間、サトシは拳を強く握った。
勝った。
初めてのジム戦。
バタフリーがイシツブテを倒し。
ピカチュウがイワークを倒した。
誰かに譲ってもらった勝利ではない。
偶然でもない。
仲間たちと積み重ねてきたものをぶつけて、勝ち取った。
「……よっしゃあ!」
声がジムに響く。
「ピカチュウ!」
「ピッカァ!」
ピカチュウが駆けてくる。
サトシも前へ出て、その身体を抱き上げた。
「やったな!」
「ピカピカ!」
「アイアンテール、ちゃんと実戦でも使えたじゃないか!」
「ピッカ!」
ピカチュウが誇らしそうに尻尾を掲げる。
そこへピジョンとバタフリーも飛んできた。
「ピジョー!」
「フリィー!」
「バタフリーもありがとう。最初の一勝、お前が取ってくれたからだぞ」
「フリィ!」
「ピジョンも応援ありがとな」
「ピジョ!」
三匹が集まる。
旅立った時はピカチュウだけだった。
今は違う。
この勝利は、もうサトシとピカチュウだけのものではない。
向こうではタケシがイワークの身体へ手を置いていた。
「よく戦ったな、イワーク」
「グオ……」
労うように身体を撫で、モンスターボールへ戻す。
それからサトシの前へ歩いてきた。
「俺の負けだ」
サトシもピカチュウを肩へ乗せ直す。
「ありがとう。強かった」
「それはこちらの台詞だ。イシツブテへの戦い方も、イワークを相手にした判断も見事だった」
タケシの視線がピカチュウへ向く。
「特にそのピカチュウ。タイプの相性が悪いからといって怯まず、自分の長所を最後まで使い切った。よく鍛えている」
「ピカ!」
「こいつとは長いからな」
サトシがピカチュウの頭を撫でる。
タケシはそこで、少し考えるようにサトシを見た。
「それに……気になったことがある」
「ん?」
「途中から、ほとんど指示を出していない時があったな」
カスミも「あ」と声を漏らした。
タケシは続ける。
「それなのにピカチュウは、お前が指示した時と同じように動いていた。土煙で姿が見えない時も、位置を分かっているようだった」
サトシは少しだけ迷った。
隠す必要はない。
「波導だよ」
「波導?」
「生き物の存在を感じたり、自分の気持ちや簡単な動きのイメージを伝えたりできるんだ」
タケシが驚いた顔をする。
「そんなことが……」
「何でも分かるわけじゃないよ。考えてる言葉が聞こえるわけでもないし、相手の技を未来みたいに読めるわけでもない」
サトシは肩のピカチュウを見る。
「でも、こいつとはずっと一緒に練習してきたから、簡単な動きなら声を出さなくても伝えられる」
「ピカ」
ピカチュウも頷く。
タケシはしばらく二人を見つめ、それから小さく笑った。
「なるほど。強いわけだ」
そしてポケットから一つのバッジを取り出す。
灰色を基調とした、ニビジムの証。
「ニビジムのジムリーダーとして、お前の勝利を認める」
サトシの目がバッジへ向く。
「これはグレーバッジだ」
差し出されたそれを見て、一瞬だけ動きが止まった。
前世では何度も見た。
ゲームでも、アニメでも。
けれど今、目の前にあるものはまるで違う。
自分自身が戦った。
バタフリーとピカチュウが戦った。
その結果として認められ、手に入れる。
自分たちの最初のバッジだ。
サトシは手を伸ばした。
「ありがとう!」
掌にグレーバッジが乗る。
小さなバッジ。
それなのに、思っていた以上に重く感じた。
嬉しくて仕方がない。
サトシはピカチュウを見る。
「ピカチュウ!」
「ピカ!」
グレーバッジを掲げる。
「グレーバッジ――ゲットだぜ!」
「ピッカァ!」
「ピジョー!」
「フリィー!」
三匹の声がニビジムへ響き渡った。
一個目。
セキエイ大会まで、まだ道は長い。
世界最強のポケモントレーナーとポケモンマスターを目指すのなら、なおさらだ。
それでも、この一個は間違いなく最初の大きな一歩だった。
◇
ジム戦を終えると、サトシたちはポケモンセンターへ戻った。
戦ったピカチュウとバタフリーはもちろん、タケシもイシツブテとイワークを診てもらう。
幸い、全員に大きな問題はなかった。
ただしピカチュウはイワークの一撃をまともに受けている。今日はもう特訓禁止、とジョーイから念を押された。
「聞いたか?」
「ピカァ……」
「俺が言ったんじゃないからな」
残念そうなピカチュウに笑いながら、サトシはグレーバッジを取り出す。
何度見ても嬉しい。
「そんなに見ても増えないわよ」
隣からカスミが呆れた声を出した。
「分かってるって」
「じゃあ、しまいなさいよ」
「もうちょっと」
「子供ねえ」
「同い年くらいだろ」
「そういう意味じゃない!」
言い返そうとしたところで、少し離れた場所から声が聞こえた。
「勝ったようだな」
顔を上げる。
昼間、練習場所を教えてくれた男が立っていた。
「……さっきの」
サトシは初対面を装う。
だが、その隣にいたタケシは違った。
表情が固まる。
「父さん……?」
「え?」
カスミが男とタケシを交互に見る。
ムノーは気まずそうに頭を掻いた。
「久しぶりだな、タケシ」
「久しぶりって……今までどこにいたんだ」
ジム戦で見せていた冷静な表情は、そこにはなかった。
驚き。
怒り。
そして長い間、胸の奥へ押し込めてきたもの。
ムノーが頭を下げた。
「……すまなかった」
サトシは黙って見守る。
この先に何があるのかは知っている。
それでも、これは自分が口を挟む場面ではない。
ムノーは家を離れていたことを謝った。
タケシが弟や妹たちの世話をしながら、ジムリーダーまで続けてきたこと。
本来なら父親である自分が背負うべきものを、息子へ押しつけてしまったこと。
「今さら戻ってきて、父親面できるとは思ってない」
ムノーは言った。
「でも……もう一度、俺にやらせてくれないか」
タケシは黙っている。
「家のことも、子供たちのことも、今度こそ俺が面倒を見る」
「父さん……」
「お前には、お前のやりたいことがあったはずだ」
タケシの拳がわずかに震える。
やがて、小さく言った。
「世界一のポケモンブリーダーになる」
ムノーが頷いた。
「そうだ。それがお前の夢だっただろ」
タケシはすぐには答えなかった。
ただ、強く握っていた拳が、ゆっくりと開いていった。
◇
翌朝。
一晩休んだことで、ピカチュウもバタフリーもすっかり元気を取り戻していた。
サトシはグレーバッジを大切にケースへ収め、荷物を背負う。
次の目的地はハナダシティ。
そして、その途中にあるのが――おつきみ山だ。
「ピカチュウ、忘れ物ないか?」
「ピカ?」
「お前に聞いた俺が悪かった」
「ピカァ!」
ピジョンが頭上から鳴く。
「ピジョ!」
バタフリーもその隣で羽ばたいた。
「フリィ!」
「二匹とも大丈夫そうだな」
ポケモンたちの状態を確認してから、サトシは街道へ出た。
カスミも当然のようについてくる。
「じゃあ行く?」
「ああ」
ニビシティを一度振り返る。
最初のバッジを手に入れた街。
ここでピカチュウは新しい技を完成させ、自分たちは初めてのジム戦を経験した。
きっと忘れない。
「次はハナダシティだ!」
「その前におつきみ山でしょ」
「分かってるって」
歩き出そうとした、その時。
「待ってくれ!」
後ろから声が響いた。
サトシたちが振り返る。
大きな荷物を背負った少年が、こちらへ走ってくる。
「タケシ?」
カスミが目を丸くした。
タケシは二人の前まで来ると、一度息を整えた。
それからサトシを見る。
「サトシ」
「うん」
「俺も……一緒に行っていいか?」
カスミがさらに驚く。
「ジムはどうするの?」
「父さんが引き継ぐ。それに弟や妹たちのことも、これからは父さんが見るって約束してくれた」
タケシは背負った荷物の紐を握る。
「だから俺も、自分の夢を追ってみたい」
サトシは答えを知っていた。
それでも本人の口から聞きたかった。
「夢って?」
タケシの表情が引き締まる。
「世界一のポケモンブリーダーになる」
迷いのない声だった。
「もっといろんなポケモンを見たい。いろんな土地を旅して、育て方や食事、身体の違いを知りたい。それでいつか、本当に世界一のブリーダーになりたいんだ」
サトシは笑った。
「いいよ」
迷う理由などなかった。
「一緒に行こうぜ、タケシ」
タケシの顔が明るくなる。
「ああ! ありがとう!」
二人が手を握る。
「ピカピカ!」
ピカチュウも歓迎するように鳴いた。
タケシが手を差し出す。
「これからよろしくな、ピカチュウ」
「ピカ!」
ピカチュウもその手へ小さな前足を乗せた。
カスミはそんな二人を見ながら腕を組む。
「まあ、あたしは自転車を弁償してもらうまでサトシについていくだけだけど」
「まだ言うのかよ」
「当たり前でしょ!」
タケシが首を傾げる。
「自転車?」
「聞いてよ、タケシ! こいつ、あたしの自転車を――」
「ちゃんと弁償するって言ってるだろ!」
「いつよ!」
「そのうち!」
「それが信用できないの!」
二人の言い合いを見て、タケシが苦笑する。
ピカチュウも肩の上で楽しそうに鳴いた。
旅立った時は、サトシとピカチュウだけだった。
そこへカスミが加わり、キャタピーを捕まえ、ピジョンを仲間にし、キャタピーはバタフリーまで進化した。
そして今度はタケシが加わった。
少しずつ、旅が賑やかになっていく。
サトシは街道の先に見える山々へ目を向けた。
次に待つのは、おつきみ山。
そこにはピッピがいる。
月の石がある。
そして――どうせ、あいつらも現れる。
未来を知っているからといって、同じことが起きるとは限らない。
トキワの森でも、すでに知っていた展開から変わった部分はいくつもあった。
だから、決めつけない。
自分の目で見て。
ポケモンたちと考えて。
その時できることを選ぶ。
「よし!」
サトシが一歩踏み出した。
「次はおつきみ山だ!」
「ピカ!」
「今度はちゃんと道を確認してから行きなさいよ」
「その辺は俺が地図を見るよ」
タケシが言う。
カスミが即座に頷いた。
「タケシが来てくれて本当によかったわ」
「どういう意味だよ!」
笑い声が街道へ響く。
グレーバッジ、一個。
セキエイ大会まで、まだ先は長い。
世界最強のポケモントレーナーとポケモンマスターを目指す道なら、その何倍も長いだろう。
それでもサトシは急がない。
ピカチュウと。
ピジョンと。
バタフリーと。
そして新しく旅を共にする仲間たちと。
一戦ずつ。
一歩ずつ。
昨日の自分たちより強くなっていけばいい。
そうしてサトシたちはニビシティを後にし、次なる舞台――おつきみ山へ向かって歩き始めた。