ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
サマーキャンプが終わってから、サトシの生活は大きく変わった。
朝起きて身体を動かし、時間があればオーキド研究所へ向かう。
最初こそハナコから、
「毎日行ったら博士の迷惑になるんじゃない?」
と心配されたものの、オーキド博士本人から許可をもらっていると説明すると、最後には笑って送り出してくれた。
もっとも――。
「サトシ! まずはケンタロスたちの餌じゃ!」
「分かってる!」
研究所へ通うようになったからといって、珍しいポケモンを好きなだけ眺めていられるわけではなかった。
オーキド博士が最初にサトシへ教えたのは、ポケモンの世話だった。
餌を用意し、水を交換する。
身体の状態を確認し、生活している場所を掃除する。
ポケモンごとに食べる量も違えば、好む環境も違う。体調が悪ければ、食欲や動きにも変化が現れる。
前世のゲームでは、ほとんど意識しなかった部分だ。
だからこそ面白かった。
「博士、この子、昨日より餌を食べるの遅くない?」
サトシが一匹のポケモンを見ながら尋ねると、オーキド博士が近づいてきた。
「ほう。よく気づいたの」
博士はポケモンの様子を確認する。
「病気というほどではなさそうじゃが、少し疲れておるようじゃ。今日は無理に運動させん方がよいな」
「やっぱり?」
「ポケモンを強くしたければ、こういう変化に気づけるようになることじゃ」
その言葉に、サトシは真剣に頷いた。
「強い技を覚えさせればいいわけじゃないってことだよな」
「その通りじゃ」
ゲームなら体力が減れば数字で分かる。
状態異常になれば表示される。
だが、この世界では違う。
ポケモン自身を見なければならない。
呼吸。
目。
動き。
鳴き声。
食欲。
そして性格。
小さな変化を見逃さないことも、トレーナーには必要なのだ。
サトシはそれを一つずつ覚えていった。
同時に、波導の練習も続けていた。
サマーキャンプでセレナを見つけた時に感じた、あの不思議な感覚。
最初は目を閉じて無理やり何かを感じようとした。
しかし、当然のようにうまくいかない。
近くにポッポがいると知った状態で目を閉じても、本当に感じ取っているのか、いると知っているからそう思い込んでいるだけなのか区別できなかった。
そこでサトシは方法を変えた。
無理に探そうとしない。
ポケモンの近くで呼吸を整え、目や耳だけに頼らず、その存在そのものへ意識を向ける。
毎日繰り返していると、少しずつ違いが分かるようになってきた。
近くに何かがいる。
落ち着いている。
警戒している。
そんな曖昧な感覚が、ときどき自分の中へ入ってくる。
まだ自由に使えるとは到底言えない。
それでも、最初に比べれば確実に前へ進んでいた。
ある日。
研究所の庭で練習していたサトシは、目を閉じたまま右側を指差した。
「……そこ」
「ポッポ?」
鳴き声が返ってくる。
さらに意識を集中する。
今度は後ろ。
少し離れたところに、別の気配がある。
「後ろにもいる」
「ラッタ?」
サトシは目を開けた。
ポッポとラッタがこちらを見ていた。
「できた……!」
まだ近距離だけだ。
物音などから無意識に判断した可能性も完全には否定できない。
それでも以前より、生命の存在を捉える感覚がはっきりしている。
そこへ、研究所からオーキド博士が出てきた。
「何を一人で喜んでおるんじゃ?」
「博士!」
サトシは少し迷ってから尋ねた。
「博士って、波導のこと知ってる?」
「波導?」
オーキド博士の表情が少し変わった。
「もちろん知っておるが……どうして急に?」
「俺、見なくても近くにいるポケモンが分かる時があるんだ」
サトシはサマーキャンプでの出来事も簡単に説明した。
「それだけじゃなくて、怖がってるとか、安心してるとか……そういうのも、なんとなく感じる時がある」
オーキド博士はすぐには答えなかった。
「なるほどのう……」
「やっぱり波導?」
「可能性はある」
博士はそう答えたものの、断定はしなかった。
「じゃが、今の段階では決めつけん方がよい。ポケモンの仕草や鳴き声を無意識に読み取っておる可能性もあるからの」
「そっか」
「焦る必要はない。続けていれば、そのうちはっきりするじゃろう」
「うん!」
旅立ちまでは、まだ時間がある。
少しずつ確かめればいい。
するとオーキド博士が、一冊のノートを差し出してきた。
「それよりサトシ。明日から、これをやってみるか?」
「なに?」
受け取って開いてみる。
中にはポケモンの名前や発見場所、時間、天候、行動などを書き込めるようになっていた。
「野生ポケモンの観察記録じゃ」
「俺がやっていいの!?」
「研究所の近くにある森だけじゃぞ。危険な場所には入らんこと。見つけたポケモンへ無理に近づかず、遠くから行動を観察して記録するんじゃ」
「やる!」
サトシは即答した。
野生のポケモンを直接観察できる。
波導の練習にもなるかもしれない。
何より、ポケモンについてもっと知ることができる。
断る理由などなかった。
◇
翌日から、サトシは研究所の手伝いに加えて野生ポケモンの観察を始めた。
最初は簡単なものだった。
ポッポが何時頃に餌を探しているか。
コラッタがどんな場所に巣を作るか。
ナゾノクサが日中と夕方でどう行動を変えるか。
前世では知識として知っていたポケモンも、実際に観察してみると知らないことだらけだった。
数日後。
いつものように森を歩いていたサトシは、大きな足跡を見つけた。
「これ……」
しゃがんで確認する。
自分の手より遥かに大きい。
近くには折れた枝や、踏み倒された草も残っている。
サトシはノートへ記録した。
その日は、それ以上追わなかった。
オーキド博士から、正体の分からない大型ポケモンを一人で追跡するなと言われていたからだ。
研究所へ戻り、足跡について報告すると、博士は少し考えた。
「場所から考えると、ガルーラかもしれんの」
「ガルーラ……」
その名前を聞いた瞬間。
サトシの頭に、一匹のポケモンが浮かんだ。
ピチュー。
未来のピカチュウは、幼い頃にガルーラの親子と暮らしていた。
だが――。
「……いや」
サトシはすぐに期待を抑えた。
ガルーラを見つけたからといって、そこにピチューがいるとは限らない。
未来の知識を持っていても、この世界のすべてを知っているわけではない。
そもそも時期や場所まで正確に覚えているわけでもなかった。
「博士、明日も同じ辺りを観察していい?」
「構わんが、ガルーラだった場合は十分に距離を取るんじゃぞ。子供を守ろうとしておる時は特に警戒心が強い」
「分かった」
翌日。
サトシは昨日より慎重に森へ入った。
足跡があった場所から少し離れたところで待つ。
すぐには何も現れなかった。
一時間近く観察して、その日は終わった。
次の日も見つからない。
さらに次の日。
ようやく遠くから大きな影が見えた。
「……いた」
ガルーラだった。
しかも一匹ではない。
何匹かのガルーラが、森の開けた場所で過ごしている。
サトシは近づかなかった。
木々の陰から観察し、ノートへ記録する。
親のガルーラ。
お腹の袋にいる子供。
群れの動き。
食べているもの。
どのくらい周囲を警戒しているのか。
未来の相棒のことが頭に浮かばなかったと言えば嘘になる。
それでも、焦って探し回ることはしなかった。
今日の目的はガルーラの観察だ。
そして何より、群れを刺激したくない。
しばらく観察を続けていた時だった。
一匹の子供のガルーラが、誰かと遊んでいることに気づいた。
「ん?」
最初は身体に隠れてよく見えなかった。
黄色い何かが跳ねる。
ガルーラの子供が追いかける。
再び黄色い影が現れた。
長い耳。
黒い耳先。
小さな身体。
「……え?」
サトシの手が止まった。
小さなポケモンが振り返る。
「ピチュ!」
その姿を見た瞬間、サトシは息を呑んだ。
知っている。
何度も見た。
いや――。
ずっと会いたかった。
「……ピチュー」
思わず名前を呟く。
心臓が速くなる。
ガルーラの群れ。
その中で暮らすピチュー。
偶然ではない。
きっと、あのピチューだ。
いつか進化し。
オーキド博士の研究所でサトシと出会い。
誰よりも長く隣を歩くことになる未来の相棒。
今すぐ駆け寄りたい気持ちが湧いた。
声をかけたい。
近くで見たい。
できることなら、今すぐ友達になりたい。
けれど、サトシは動かなかった。
目の前の光景を見れば分かる。
ピチューは楽しそうだった。
ガルーラの子供と遊び、親のガルーラの近くへ駆け寄る。
そこに寂しさは見えない。
今のピチューにとって、あのガルーラたちは家族なのだ。
未来を知っているからといって、その時間へ勝手に割り込む権利などない。
「……今日は見るだけだな」
サトシは小さく笑った。
焦らなくていい。
今はまだ、ピチューがガルーラたちと過ごす時間を大切にすればいい。
自分が会いたいからといって、それを壊したくはなかった。
サトシはノートを開く。
少し迷ってから、新しいページに書き込んだ。
――ピチュー、一匹。
――ガルーラの群れと行動。
ペンを止め、もう一度ピチューを見る。
すると――。
「ピチュ?」
遊んでいたピチューが突然顔を上げた。
サトシは反射的に息を止める。
こちらを見たわけではない。
距離もある。
木々にも隠れている。
それでもピチューは、何かを探すように周囲を見回していた。
その瞬間。
サトシの胸の奥に、ごく微かな感覚が触れた。
不安でもない。
警戒でもない。
もっと軽い。
何かが気になる。
そんな曖昧な感覚。
――気づいた?
そう思った直後、ガルーラの子供が鳴いた。
「ガルー」
「ピチュ!」
ピチューはすぐに振り返り、また遊び始めた。
サトシはそれ以上留まらなかった。
静かにその場を離れる。
今日はこれでいい。
会話もしていない。
触れてもいない。
向こうは自分の顔すら知らない。
それでも――。
「いたんだな、本当に」
森を歩きながら、笑みがこぼれる。
ずっと画面越しに見ていた相棒が、この世界で生きている。
それだけで十分だった。
これから研究所の観察を続けていれば、また会う機会はあるだろう。
その時は少しずつ距離を縮めればいい。
未来で自分の相棒になるからではなく。
今ここにいるピチュー自身と、最初から関係を作っていけばいい。
「またな、ピチュー」
もちろん、その声は届かない。
サトシはそのまま研究所へ戻っていった。
一方。
ガルーラの子供と遊んでいたピチューは、しばらくして再び動きを止めた。
「ピチュ……?」
森の一角を見る。
そこにはもう誰もいない。
それでも少しだけ気になったのか、首を傾げる。
やがてガルーラに呼ばれると、ピチューは元気よく駆けていった。
この日。
サトシは未来の相棒を見つけた。
けれど、まだ出会ったとは言えない。
互いの名前も知らなければ、言葉を交わしてすらいない。
本当の出会いは――もう少しだけ先のことになる。