ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
ガルーラの群れの中に、ピチューがいる。
その事実を知ったからといって、サトシは毎日そこへ通うことはしなかった。
オーキド博士から任されているのは、野生ポケモンの観察だ。
ポッポの群れを追う日もあれば、コラッタがどんな場所で餌を探すのか調べる日もある。研究所へ戻ればポケモンたちの世話を手伝い、空いた時間には波導の練習も続ける。
そんな日々の中で、何日かに一度、ガルーラの群れを観察する。
それがサトシの新しい楽しみになっていた。
「……今日も元気そうだな」
木の根元に座り、ノートへ記録する。
少し離れた場所では、ガルーラたちがのんびりと過ごしていた。
そして、その中を小さな黄色い影が走り回っている。
「ピチュ!」
ピチューだ。
ガルーラの子供と追いかけっこをしている。
転んでもすぐに立ち上がり、今度はガルーラの尻尾へ飛びつこうとして失敗していた。
「元気すぎるだろ」
思わず笑ってしまう。
その声が聞こえたのか。
「ピチュ?」
ピチューがこちらを見た。
目が合う。
サトシは何もしなかった。
ただ軽く手を上げる。
「よっ」
「ピチュ……」
ピチューはしばらくこちらを見つめていたが、すぐにガルーラのところへ戻っていった。
それだけ。
最初は、それで十分だった。
◇
次に観察へ来た時も、ピチューはこちらに気づいた。
さらにその次も。
サトシが木の下でノートを書いていると、遠くからじっと見ている。
サトシも気づいていたが、呼び寄せることはしなかった。
未来を知っている自分にとって、ピチューは特別な存在だ。
けれどピチューにとって、サトシはまだ「時々森に現れる人間」でしかない。
ならば、急ぐ必要はない。
むしろサトシが気になったのは、ピチューだけではなかった。
ガルーラたちも、以前ほど自分を警戒しなくなっている。
最初はサトシが少し動くだけでもこちらを確認していた。
今では、遠くで座っている程度なら気にしない。
それはきっと、何度来てもサトシが何もしてこなかったからだ。
近づかない。
追いかけない。
触ろうとしない。
群れの邪魔をしない。
それを繰り返した結果なのだろう。
信頼というにはまだ早い。
ただ、「危険ではない」と認識され始めている。
サトシはそれで十分だと思った。
◇
ある日のこと。
サトシはガルーラの群れから少し離れた場所で、一匹のナゾノクサを観察していた。
「葉っぱの向きが……」
ノートに書き込みながら、ナゾノクサの周囲を確認する。
しばらくすると、背後から小さな物音がした。
カサッ。
サトシは振り返らない。
音は止まった。
少し待つ。
再び――。
カサッ。
今度はさっきより近い。
――なんだ?
波導を使おうとはせず、耳だけで様子を探る。
やがて、木の陰から小さな耳が覗いた。
サトシは思わず笑いそうになった。
「……見えてるぞ」
「ピチュ!?」
ピチューが慌てて頭を引っ込めた。
「別に隠れなくても何もしないって」
返事はない。
サトシもそれ以上構わず、再びナゾノクサの観察へ戻った。
数分後。
また気配を感じる。
ちらりと横を見る。
今度は別の木の陰からピチューが顔を出していた。
目が合う。
「ピチュ」
サトシは何も言わず、ノートへ視線を戻した。
すると今度は逃げなかった。
ピチューは木の陰から出てくる。
まだ距離はかなりある。
それでも、これまでより明らかに近い。
サトシがノートへ何かを書く。
ピチューが首を傾げる。
サトシがナゾノクサを見る。
ピチューもナゾノクサを見る。
「……もしかして、何してるのか気になるのか?」
「ピチュ?」
通じているかは分からない。
それでもピチューは逃げなかった。
しばらくするとナゾノクサが歩き始めた。
サトシは少し距離を取りながら観察を続ける。
すると――。
「ピチュ!」
なぜかピチューまで後ろをついてきた。
「お前も来るのかよ」
サトシが笑う。
ピチューは答えるように鳴いた。
もちろん、まだ隣を歩くほど近くはない。
サトシが数歩進めば、ピチューも少し離れて進む。
サトシが止まれば、ピチューも止まる。
そんな奇妙な時間がしばらく続いた。
やがてナゾノクサが茂みの奥へ消えていく。
「今日はここまでかな」
サトシがノートを閉じた。
その時だった。
「ピチュ!」
突然、ピチューが横へ走った。
「ん?」
少し先に、小さな木の実が落ちている。
ピチューは嬉しそうに駆け寄ろうとして――。
足元の蔓に引っかかった。
「ピチュ!?」
身体が前へ傾く。
その先には、地面から飛び出した太い木の根があった。
「危ない!」
サトシは反射的に駆け出した。
間に合う。
倒れかけたピチューの身体を、両手で受け止めた。
「っと!」
勢いのままサトシも尻餅をつく。
「痛っ……」
腕の中を見る。
「大丈夫か?」
「……ピチュ?」
ピチューが目を丸くしていた。
サトシに抱かれている。
これまで一度も触れたことがない人間に。
サトシはすぐに腕を緩めた。
「ごめん。びっくりしたよな」
逃げられるように手を離す。
ピチューは地面へ降りた。
そしてサトシから少し離れる。
「怪我してない?」
「ピチュ……」
サトシは近づかず、その場に座ったまま様子を見る。
歩き方に異常はない。
どうやら怪我はしていないようだ。
「よかった」
ほっと息を吐いた。
その瞬間。
胸の奥に、何かが伝わってきた。
驚き。
戸惑い。
そして、その奥にある小さな安心。
サトシは何も言わなかった。
これはまだ、自分が勝手にそう感じているだけかもしれない。
波導で本当にピチューの感情を感じ取っているのか、確信はない。
だから決めつけない。
ただ、今の感覚を覚えておく。
ピチューは少し離れたところから、サトシを見ていた。
「ピチュ……」
「もう大丈夫そうだな」
サトシが立ち上がる。
服についた土を払う。
「じゃあ、俺は戻るから」
荷物を持ち上げる。
ピチューへ背を向けて歩き始めた。
数歩進む。
後ろから音がする。
トッ。
トッ。
サトシは立ち止まった。
音も止まる。
振り返る。
「……」
「ピチュ」
ピチューがいた。
少し離れたところに。
「どうした?」
「ピチュ」
ピチューは動かない。
サトシが再び歩く。
後ろから小さな足音がついてくる。
「……もしかして」
振り返る。
やっぱりいる。
サトシはしゃがんだ。
「俺についてきてる?」
「ピチュ?」
首を傾げられた。
サトシは笑った。
「まあ、いいか」
しばらく二人で歩いた。
正確には、一緒に歩いているというより、サトシの後ろをピチューが勝手についてきているだけだ。
それでも以前とは違う。
やがて森の奥から鳴き声が響いた。
「ガルー!」
ピチューが立ち止まる。
耳がぴんと立った。
「家族が呼んでるぞ」
サトシが森の方を指差す。
ピチューはそちらを見る。
それからサトシを見る。
「ピチュ……」
「また会えるよ」
意味が通じるかは分からない。
それでもサトシは笑った。
「俺、またこの辺に来るからさ」
ピチューはしばらくその場にいた。
やがて――。
「ピチュ!」
元気よく鳴くと、ガルーラの声がした方へ走っていった。
途中で一度振り返る。
サトシが手を振ると、ピチューは再び走り出した。
その姿が見えなくなるまで、サトシはその場に立っていた。
「……ちょっとは仲良くなれたかな」
嬉しかった。
でも、まだ相棒ではない。
友達と呼んでいいのかも分からない。
それでいい。
昨日より今日。
今日より次。
少しずつ知っていけばいい。
◇
それから、二人の距離は少しずつ変わっていった。
サトシが森で観察していると、いつの間にかピチューが近くにいる。
最初は十数歩離れていた。
それが数歩になった。
やがて、サトシが地面へ座ってノートを書いていても、ピチューは近くの木の根で遊ぶようになった。
サトシから触ろうとはしなかった。
ピチューも必要以上には近づかない。
ただ、同じ場所で別々のことをして過ごす。
そんな日が増えていった。
ある日。
サトシがノートへ記録を書き終え、身体を伸ばしていると――。
「ピチュ」
「ん?」
すぐ隣から声がした。
見ると、ピチューが座っていた。
これまでで一番近い。
サトシが手を伸ばせば簡単に届く距離だ。
けれど、手は出さない。
「今日は近いな」
「ピチュ」
ピチューはサトシを見る。
サトシも見返す。
しばらくして、ピチューがほんの少し身体を寄せた。
小さな身体が、サトシの腕に触れる。
「……!」
サトシは動かなかった。
胸の奥に、柔らかな感覚が広がる。
警戒はほとんど感じない。
穏やかで。
温かくて。
この場所にいても大丈夫。
そんな感覚だった。
サトシはようやく、ゆっくりと手を動かした。
途中で一度止める。
ピチューが嫌がらないことを確認してから、頭へそっと触れた。
「ピチュ……」
逃げない。
小さな頭を撫でる。
柔らかな毛の感触が掌へ伝わってきた。
ずっと会いたかった相棒。
けれど、今触れているのは「未来のピカチュウ」ではない。
目の前にいる、一匹のピチューだ。
「俺、サトシ」
自分の胸を指差す。
何度か繰り返す。
「サトシ」
ピチューは不思議そうに見つめていた。
「ピチュ?」
「そう。俺がサトシ」
今度はピチューを指す。
「お前はピチュー」
「ピチュ!」
「ははっ。それは分かってるみたいだな」
意味を完全に理解しているかは分からない。
それでもいい。
「よろしくな、ピチュー」
「ピチュ!」
その日、サトシとピチューは初めてゆっくり触れ合った。
捕まえてはいない。
一緒に暮らしてもいない。
ガルーラたちのところから連れ出すこともない。
それでも、もう互いを知らない存在ではなかった。
森へ来れば会いたい相手。
姿を見つければ、自然と近づきたくなる相手。
二人の関係は、そんな小さなところから始まっていた。
そしてサトシは知らなかった。
自分が森から帰った後。
ピチューが以前より少し長く、サトシの去った方向を見つめるようになっていたことを。