ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
ミシ……ミシミシ……。
暗闇の中で、不気味な音が響いていた。
海底へ沈んだサントアンヌ号。
転覆した船内では床と天井が逆転し、テーブルや椅子、割れた食器などが至るところへ散乱している。非常灯の僅かな光だけが周囲を照らし、その向こうでは船体が水圧を受けるたびに低い軋みを上げていた。
その中で向かい合っているのは、サトシ、カスミ、タケシ。
そして――。
「なんであんたたちと一緒なのよ!」
「こっちの台詞だ!」
ムサシの声に、サトシも思わず言い返した。
「そもそも、この船でポケモンを奪おうとしたのはお前たちだろ!」
「細かいことを気にする男は嫌われるわよ!」
「細かくない!」
「そうだそうだ!」
コジロウもムサシの後ろから顔を出す。
「我々だって好きでこんなところに残っているわけでは――」
「だったら黙って脱出方法を考えるニャ!」
珍しくニャースがまともなことを言った。
「……それもそうね」
「そうだな」
サトシとムサシが同時に頷く。
次の瞬間。
ゴゴゴゴ……!
船全体が大きく震えた。
「きゃっ!」
「うわっ!」
傾いている船内で、全員の身体が一斉に滑る。
「ピカ!」
ピカチュウがサトシの肩へしがみつき、サトシも近くの柱を掴んで踏み止まった。
「だから言っただろ!」
揺れが収まったところで、サトシはロケット団を見る。
「今ここでバトルなんかしたら、本当に全員死ぬぞ」
「……」
さすがのムサシも言い返さなかった。
カスミが腰へ手を当てる。
「今だけ休戦よ。いい?」
「仕方ないわね」
「命には代えられない」
「賛成ニャ」
こうして、普段なら絶対に成立しない一時休戦が決まった。
とはいえ、問題はここからだった。
「それで、どうやって出る?」
タケシの問いに、全員が黙る。
外は海。
普通に扉を開ければ、大量の海水が流れ込んでくる。
しかも船は完全に転覆している。
「……待って」
カスミが周囲を見回した。
「確か……」
「何か分かるのか?」
「昔、この船の模型を作ったことがあるの」
カスミは頭の中で船の構造を思い出しているらしい。
やがて、上下が逆転した船内を指差した。
「今、この船はひっくり返ってるのよね?」
「ああ」
「だったら、元々の船底が今は一番上にある」
サトシは頷く。
知っている。
前世で見た物語でも、それが脱出の鍵だった。
だが、今ここで船の構造を最も理解しているのはカスミだ。
「上まで行ければ、船底から外へ出られるかもしれないってことか」
「そういうこと!」
カスミが頷く。
「ただし、船底まで行くには機関室の方を通らないといけないと思う」
「じゃあ決まりだな」
サトシは立ち上がった。
「カスミ、案内頼む」
「任せて!」
◇
問題は、転覆した船内をどう進むかだった。
本来なら床だった場所は頭上。
廊下は至るところで家具や瓦礫に塞がれ、普通に歩ける状態ではない。
「タケシ」
「ああ。イワーク!」
タケシがモンスターボールを投げる。
白い光とともに巨大なイワークが現れた。
「イワァーク!」
狭い船内で完全に身体を伸ばすことはできないが、その長い身体は十分に足場になる。
「イワークの身体を使って上へ行こう」
「よし!」
まずタケシが登る。
続いてカスミ。
ロケット団。
そして最後にサトシ。
「ピカチュウ、落ちるなよ」
「ピカ!」
慎重に上へ進んでいく。
だが。
パチッ。
突然、残っていた非常灯が消えた。
完全な暗闇。
「きゃあああ!」
ムサシの悲鳴。
「何も見えないニャ!」
「落ち着け!」
サトシはボールを手に取る。
「ヒトカゲ!」
「カゲ!」
現れたヒトカゲの尻尾の炎が周囲を照らした。
柔らかな橙色の光。
「助かった……」
カスミが息を吐く。
「ヒトカゲ、悪いけどしばらく照らしてくれ」
「カゲ!」
ヒトカゲは力強く頷いた。
炎を無闇に大きくする必要はない。
周囲を確認できるだけの明るさを保ちながら、一行はさらに進んでいく。
「右よ」
カスミが先導する。
「この先を抜ければ機関室へ近づけるはず」
だが、その直後。
ミシッ。
嫌な音。
「止まれ!」
サトシが叫ぶ。
次の瞬間――。
ガシャァァン!
前方の通路が崩れ落ちた。
「危なっ!」
目の前に大きな隙間ができる。
下には折れた配管や金属片。
落ちればただでは済まない。
「どうするのよ、これ」
ムサシが覗き込む。
「飛び越えるには広すぎるな」
タケシが言う。
サトシはすぐにボールを取り出した。
「フシギダネ!」
「ダネ!」
「向こう側へ『つるのムチ』!」
「ダネ!」
二本の蔓が伸びる。
先端が反対側の丈夫な配管へ巻きついた。
「よし」
サトシが引っ張って強度を確認する。
「これを使って渡ろう」
「私たちも?」
ムサシが聞く。
「嫌なら残れば?」
「渡るわよ!」
即答だった。
一人ずつ慎重に隙間を越えていく。
最後にニャースが渡り終えると、深いため息をついた。
「敵に助けられるなんて屈辱ニャ……」
「じゃあ戻るか?」
「絶対嫌ニャ!」
カスミが呆れたように笑った。
「こんな時でも変わらないわね、あんたたち」
◇
機関室へ近づくほど、船体の軋みは大きくなっていった。
時折、小さな亀裂から水が吹き出している。
「急いだ方がいい」
タケシが言う。
「船がいつまで保つか分からない」
「分かってる」
カスミも表情を引き締める。
やがて。
「ここ!」
大きな機械が並ぶ空間へ辿り着いた。
「この辺りなら船底に近いはず」
カスミが天井――本来なら船底に当たる部分を見上げる。
「ここを抜ければ外よ」
「でも、外は海ニャ!」
「穴を開けた瞬間に水が入ってくるぞ」
コジロウも青ざめる。
「だから、準備してから開ける」
サトシが答える。
まず全員が外へ出る方法を確保しなければならない。
「カスミ、水中は任せられるか?」
「もちろん。私を誰だと思ってるの?」
カスミがモンスターボールを取り出す。
「水ポケモンなら私に任せて!」
タケシも頷く。
サトシはゼニガメを呼び出した。
「ゼニガメ!」
「ゼニ!」
「外へ出たら頼むぞ」
「ゼニ!」
そして。
「ヒトカゲ」
「カゲ?」
サトシは船底の一角を指差した。
「あそこへ『かえんほうしゃ』。でも一気に壊すな。周りを少しずつ焼いて、最後に抜けるようにする」
「カゲ!」
ヒトカゲが息を吸う。
「『かえんほうしゃ』!」
「カゲェェ!」
炎が船体へ浴びせられる。
赤く熱せられていく金属。
場所を少しずつ変えながら、脱出口となる部分を弱らせていく。
「もう少し!」
「カゲ!」
やがて――。
ミシッ。
船体に亀裂が入った。
「止め!」
炎が消える。
サトシは全員を見る。
「準備は?」
「大丈夫!」
「俺もだ!」
「こっちも……たぶん」
ロケット団を見る。
「水ポケモンは?」
「ふっふっふ」
突然、コジロウが得意げに笑った。
「こんなこともあろうかと!」
「嫌な予感がするニャ」
コジロウが一つのボールを掲げる。
「私には最強の水ポケモンがいる!」
ボールが開く。
現れたのは――。
「コイキング!」
「……」
サトシが黙る。
「……」
カスミも黙る。
「……」
タケシも黙った。
「なんだ、その目は!」
コジロウが叫ぶ。
「このコイキングはな! 将来大金を生む素晴らしいポケモンなんだぞ!」
サトシはコイキングを見る。
「コイ……」
力なく跳ねている。
(やっぱり買ったのか)
前世の記憶通りだ。
そしてサトシは、この先に何が起こるのかも知っている。
コイキング。
今は弱いポケモンだと思われている。
だが、その進化先は――。
「まあ、水ポケモンなのは間違いないけど」
「だろう!」
「泳げるかどうかは別問題だぞ」
「え?」
コジロウの笑顔が固まった。
◇
全員が準備を整える。
「いくぞ!」
ヒトカゲが最後の一撃を加えた。
船底の一部が外へ外れる。
ドッ――!
大量の海水が一気に流れ込んできた。
「行け!」
カスミの水ポケモンたちが先導する。
サトシはゼニガメにつかまり、ピカチュウをしっかり抱える。
「ゼニ!」
ゼニガメが水を掻く。
海中へ。
船の外へ出た瞬間、サトシは思わず振り返った。
巨大なサントアンヌ号が、暗い海底に横たわっている。
あれほど豪華だった船が、今は静かな海の底で少しずつ沈んでいた。
(すごい光景だな……)
前世では画面越しに見ていた。
だが実際に目の前で見ると、その巨大さも恐ろしさもまるで違う。
ゼニガメが力強く泳ぐ。
上へ。
さらに上へ。
水面が近づく。
「――ぷはっ!」
サトシが海面へ顔を出した。
「ピカァ!」
「ゼニ!」
周囲でも次々と仲間たちが浮上する。
「カスミ!」
「いるわ!」
「タケシ!」
「大丈夫だ!」
ロケット団も――。
「助けてぇぇ!」
「コイキングが全然役に立たない!」
「だから言ったニャ!」
どうにか浮かんでいた。
「とにかく、全員出られたな」
サトシは息を整える。
その背後で。
ゴゴゴゴゴ……。
海中から低い音が響いた。
サントアンヌ号がさらに深い場所へ沈んでいく。
誰も言葉を発さなかった。
巨大な船影が、暗い海の底へ消えていく。
◇
幸い、海面には船の残骸がいくつか浮いていた。
大きな板や壊れた設備を集め、どうにか全員が乗れるだけの即席の筏を作る。
「……助かった」
カスミが仰向けになる。
「もう動けない」
「俺もだ」
タケシも座り込んだ。
「ピカ……」
ピカチュウも疲れてサトシの膝へ座る。
サトシ自身もかなり消耗していた。
だが、周囲を見渡す。
海。
海。
どこまで見ても海。
陸地は見えない。
「まだ安心できないな」
「分かってるけど……」
カスミが身体を起こす。
「どっちへ行けばいいのよ」
サトシはボールを取り出した。
「ピジョン!」
「ピジョォン!」
海上へピジョンが舞い上がる。
「悪いけど、周りを見てきてくれ。島でも船でもいい。何か見つけたら戻ってきて」
「ピジョン!」
翼を大きく広げる。
海風を捉え、一気に高度を上げた。
サトシは遠ざかる姿を見上げる。
障害物のない海上。
強い潮風。
それでもピジョンは安定して飛んでいた。
やがて小さな点になる。
「ずいぶん飛べるようになったわね」
カスミが言う。
「ああ」
サトシも嬉しくなる。
捕まえた頃から飛行能力は高かった。
旅を続け、何度も戦い、風を使う技を磨いてきたことで、その翼はさらに強くなっている。
まだ伸びる。
そう感じさせる飛び方だった。
しばらくすると。
「ピジョォォン!」
声が聞こえる。
「戻ってきた!」
サトシが立ち上がる。
ピジョンがこちらへ飛んでくる。
その後ろ。
海面に何かが浮かんでいた。
「船か!?」
期待する。
しかし。
「た、助けてぇぇぇ!」
聞き覚えのある声。
「ムサシ!?」
「コジロウ!?」
「ニャース!?」
いつの間にか別の残骸へ流されていたロケット団だった。
「……」
「……」
サトシたちは顔を見合わせる。
「放っておく?」
カスミが真顔で聞く。
「さすがに死ぬだろ」
「冗談よ」
結局、ロケット団まで回収することになった。
「助かったぁ!」
「命の恩人だ!」
「この恩は忘れないニャ!」
「じゃあ今後ピカチュウを狙うのやめろよ」
「それとこれは別よ!」
「恩を返せ!」
◇
時間だけが過ぎていった。
太陽が高くなる。
海面から照り返す日差し。
食料はない。
飲み水もほとんどない。
「お腹空いた……」
カスミが呟く。
「俺も」
タケシも力がない。
「ピカ……」
「もう少し我慢してくれ」
サトシがピカチュウの頭を撫でる。
その横では。
「全部お前のせいだ!」
コジロウがコイキングを睨んでいた。
「コイ?」
「大金を生むって言われたから買ったのに!」
「そこから間違ってるニャ」
「泳げない! 役に立たない! 食べようとしても身がほとんどない!」
「コイ……」
サトシの眉が寄る。
「コジロウ」
「なんだ!」
「騙されたのはコイキングのせいじゃないだろ」
「うっ」
「買ったのは自分じゃないか」
「だ、だがな!」
コジロウは空腹と苛立ちで冷静さを失っていた。
「こんなポケモン!」
「やめろ!」
サトシが立ち上がった時には遅かった。
コジロウの足がコイキングへ当たる。
「お前なんか、もういらん!」
コイキングが宙を舞う。
「コイィィ……!」
海へ落ちる。
バシャン!
「コジロウ!」
「なによ、ただのコイキングじゃない!」
ムサシが言う。
だがサトシは海面を見つめていた。
「……来る」
「え?」
海中から光が漏れ始める。
「何よ、あれ」
カスミが立ち上がる。
海面が揺れる。
コイキングの身体が白い光に包まれた。
「進化……!」
タケシが息を呑む。
光の中で身体が伸びる。
大きく。
長く。
先ほどまでの小さな魚の姿が、見る間に変わっていく。
そして――。
ザバァァァン!!
巨大な身体が海面から飛び出した。
青い鱗。
大きく開かれた口。
鋭い牙。
凶暴な眼光。
「ギャラァァァァァァ!!」
海面が震えた。
「ギャ、ギャラドス!?」
カスミが叫ぶ。
「やっぱり……」
サトシは見上げる。
知っていた。
それでも実際に目の前で見る迫力は凄まじい。
コイキング。
最弱と馬鹿にされることも多いポケモン。
しかし進化すれば――ギャラドス。
「お、おお!」
コジロウの表情が一変した。
「素晴らしいぞ! さすが私のポケモン!」
「……」
サトシは呆れる。
「さっき捨てたばっかりだろ」
「細かいことは気にするな!」
「ギャラドス! 私の言うことを――」
「ギャラァァァ!」
「ひぃっ!」
ギャラドスの咆哮だけでコジロウが尻餅をつく。
「怒ってるわよ!」
カスミが叫ぶ。
「当たり前だ!」
サトシはすぐに周囲を見る。
海上。
逃げ場がない。
ここで戦うのは危険すぎる。
「カスミ!」
「分かってる!」
「とにかく離れるぞ!」
水ポケモンたちに筏を引かせる。
「ゼニガメ!」
「ゼニ!」
ゼニガメも海へ入り、筏を押す。
少しずつ距離が開く。
だが。
「ギャラァァァァ!」
ギャラドスが空へ向かって咆哮した。
その声に答えるように。
遠くの海面が盛り上がる。
「え?」
一匹。
ザバァン!
二匹。
さらに三匹。
次々とギャラドスが姿を現す。
「ちょっと待って……」
カスミの顔から血の気が引く。
「一匹でも大変なのに……」
筏を囲むように、複数のギャラドスが集まってくる。
「まずいニャ!」
「逃げろぉ!」
「もう逃げてる!」
海面が激しく揺れ始める。
風が巻く。
波が渦を作る。
カスミがそれを見て叫んだ。
「『りゅうのいかり』よ!」
巨大な水の渦が立ち上がる。
「全員、何かに掴まれ!」
サトシがピカチュウを抱き締める。
「ピカ!」
タケシが筏を掴む。
カスミも必死に伏せる。
ロケット団も互いにしがみつく。
だが。
水流が強すぎる。
筏そのものが浮き上がった。
「うわああああ!」
「きゃあああ!」
巨大な水の竜巻。
サトシたちは筏ごと巻き上げられた。
「ピカチュウ!」
「ピカァァァ!」
上下すら分からない。
水。
風。
空。
海。
すべてが混ざり合う。
サトシはただピカチュウだけは離さないよう、強く抱き締めた。
そのまま。
サトシたちの身体は、遥か彼方へと吹き飛ばされていった。
そして彼らはまだ知らない。
その先に待っている場所が――。
普通の島などではないことを。