ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
森へ行けば、ピチューに会える。
いつの間にか、それはサトシの日常の一部になっていた。
もちろん毎日ではない。
オーキド研究所の手伝いもあれば、別の野生ポケモンを観察する日もある。ハナコとの時間だって大切だったし、波導の練習も欠かしていない。
それでも何日か姿を見せないでいると、次に森へ行った時には――。
「ピチュ!」
「うわっ!」
茂みから勢いよく飛び出してきたピチューが、サトシの足元まで駆けてくるようになった。
「いきなり出てくるなよ。びっくりするだろ」
「ピチュ、ピチュ!」
抗議するような鳴き声。
その瞬間、胸の奥に小さな感情が伝わってくる。
遅い。
待っていた。
以前なら、それが本当にピチューの感情なのか自信を持てなかった。
今は少し違う。
「もしかして、もっと早く来いって言ってる?」
「ピチュ!」
「やっぱりか」
サトシが笑う。
言葉そのものが聞こえるわけではない。
「遅かった」と日本語で頭の中に響いているわけでもなかった。
けれど、ピチューの鳴き声や表情とは別に、その奥にある感情が自然と伝わってくる。
波導。
まだ遠くの相手を自由に探せるわけではないし、細かな意思まで完全に読み取れるわけでもない。
それでも、近くにいる相手なら以前よりずっと分かるようになっていた。
特にピチューは分かりやすい。
単純に表情が豊かだからなのか。
それとも、一緒に過ごす時間が増えたからなのか。
サトシにもまだ分からない。
「今日は何する?」
「ピチュ!」
ピチューが森の奥へ走る。
途中で振り返った。
「ついてこいって?」
「ピチュ!」
「はいはい」
サトシも後を追った。
最近はこんなことが増えた。
最初はサトシがポケモンを観察し、その様子をピチューが眺めているだけだった。
それがいつしか、一緒に森を歩くようになった。
木の実を探したり、野生ポケモンを眺めたり。
時にはただ走り回る。
ピチューが突然木へ登り、サトシが下から見守ることもある。
「無茶するなよ!」
「ピッチュ!」
「この前転んだの忘れたのか?」
「ピチュ!」
忘れてはいないらしい。
だからやる。
そんな感情が伝わってきて、サトシは苦笑した。
「負けず嫌いだなあ」
もっとも、それは嫌いではなかった。
むしろ――。
「俺と似てるかもな」
「ピチュ?」
「なんでもない」
サトシが笑う。
◇
交流を重ねていたのは、ピチューとだけではなかった。
「こんにちは」
サトシが声をかける。
「ガルー」
親のガルーラがこちらを見る。
以前なら緊張が走っていた距離。
今ではサトシが近くにいても、すぐ警戒されることはなくなっていた。
もちろん完全に気を許されたわけではない。
サトシも勝手にガルーラの子供へ触ったりはしない。
けれど、ピチューと遊ぶことは認めてもらえている。
少なくともサトシ自身はそう感じていた。
「ピチュ!」
ピチューがガルーラの子供と一緒に走ってくる。
「ガルー!」
「競争してたのか?」
二匹とも元気に鳴いた。
「じゃあ次、あの木までな!」
サトシが少し離れた木を指差す。
「よーい――」
ピチューが身構える。
ガルーラの子供も身体を前へ傾けた。
「スタート!」
二匹が一斉に飛び出した。
「ピチュ!」
「ガルー!」
「速っ!」
サトシも追いかける。
当然、競争相手はポケモンだ。
簡単に勝てるはずがない。
それでも全力で走った。
やがて三人で地面に座り込み、息を整える。
「はぁ……はぁ……俺が一番遅いじゃん」
「ピチュ!」
ピチューが得意そうに胸を張る。
「その顔ムカつくな!」
「ピチュー!」
笑うような鳴き声。
サトシも笑った。
少し離れたところから、親のガルーラがこちらを見守っている。
穏やかな時間だった。
そして、そんな日々がずっと続くような気さえした。
けれどサトシは知っていた。
ピチューは、いつまでもこの群れと一緒にいるわけではない。
いつかガルーラ親子と別れる。
そして一人で生きるようになり、その中でピカチュウへ進化する。
未来を知っているからこそ、そのことを考えてしまう。
ただ――。
サトシは、その未来を無理に早めるつもりはなかった。
ましてや、自分がピチューと一緒にいたいという理由でガルーラたちから引き離すつもりもない。
別れを決めるのは自分ではない。
ピチュー自身だ。
◇
ある日の夕方。
サトシは少し離れた場所から、ガルーラ親子を眺めていた。
日が傾き、森の中が橙色に染まり始めている。
親のガルーラのお腹には子供がいる。
そして、その隣にはピチュー。
以前と変わらない光景。
そう思った。
だが、よく見ると少し違った。
「……ピチュー?」
ピチューは親のガルーラを見上げていた。
その視線の先。
ガルーラは自分の子供を大切そうに抱えている。
子供も母親へ身体を寄せていた。
ピチューは静かにそれを見つめている。
寂しい。
胸の奥に、そんな感情が触れた。
だが、それだけではなかった。
嬉しい。
大好き。
そして――。
迷い。
いくつもの感情が混ざっている。
サトシは声をかけなかった。
これは自分が割り込んでいい時間ではない。
ピチューはガルーラの親子を見る。
やがて小さく笑うように鳴いた。
「ピチュ……」
その夜。
サトシはいつもより遅くまで研究所に残っていた。
観察記録を書きながらも、頭からピチューの表情が離れない。
「気になるか?」
声をかけられ、顔を上げる。
オーキド博士だった。
「博士」
「今日はずいぶん静かじゃの」
サトシは少し迷った後、尋ねた。
「博士。ポケモンって、自分から家族と離れることもある?」
「もちろんある」
博士はサトシの隣へ座った。
「種類にもよるが、成長すれば親元を離れるポケモンは珍しくない。群れを離れ、新しい場所へ向かう者もおる」
「寂しくないのかな」
「寂しいじゃろうな」
オーキド博士は即答した。
「じゃが、寂しいことと、離れてはいけないことは同じではない」
サトシは黙って聞く。
「大切だからこそ離れることもある。自分の道を見つけることも、成長の一つじゃ」
「……そっか」
サトシは窓の外を見る。
暗くなった森。
その向こうに、ピチューがいる。
◇
翌日。
サトシが森へ向かうと、いつもの場所にピチューはいなかった。
「ピチュー?」
少し待つ。
返事はない。
嫌な予感がしたわけではない。
ただ、胸の奥が妙に落ち着かない。
目を閉じる。
呼吸を整える。
意識を広げる。
以前よりも自然にできるようになっていた。
草木の向こう。
いくつもの生命の気配。
その中に、知っている感覚を探す。
――いた。
遠くない。
サトシは目を開けた。
「こっちか」
走らない。
森の中を慎重に進む。
やがて木々の間からガルーラたちが見えてきた。
そして――。
「ピチュー……」
ピチューが親のガルーラの前に立っていた。
いつもとは様子が違う。
ガルーラも静かにピチューを見つめている。
サトシは木の陰で足を止めた。
近づかない。
ピチューが何かを伝えるように鳴く。
「ピチュ……ピチュ」
親のガルーラが答える。
「ガルー……」
言葉は分からない。
けれど、波導を意識しなくても伝わってくるものがあった。
感謝。
愛情。
寂しさ。
そして――送り出そうとする気持ち。
サトシは息を呑んだ。
――今日なのか。
未来の記憶が頭をよぎる。
けれど、目の前で起きていることは映像ではない。
本当に生きてきた家族の別れだ。
ピチューが親のガルーラへ飛びついた。
「ピチュ……!」
ガルーラも、小さな身体を優しく抱きしめる。
子供のガルーラも寄っていく。
三匹が身体を寄せ合う。
サトシは動けなかった。
胸が苦しくなる。
自分の感情なのか。
それとも、彼らの感情まで波導を通して感じているのか。
もう分からなかった。
長い時間が過ぎた。
やがてピチューが離れる。
「ピチュ」
親のガルーラが、優しく背中を押した。
ピチューは数歩進む。
振り返る。
「ガルー」
もう一度前を向く。
それでも、また振り返った。
何度も。
何度も。
やがてガルーラの群れが、ゆっくり森の奥へ歩き始める。
ピチューはその場に残った。
姿が見えなくなっても、ずっと見つめていた。
サトシはすぐには近づかなかった。
一人にしておく。
今はそれが必要だと思った。
どれほど時間が経っただろう。
ピチューが小さく鳴いた。
「……ピチュ」
そこで初めて、サトシは木の陰から出た。
足音に気づいたピチューが振り返る。
「ピチュ……」
「……よっ」
いつもと同じように声をかける。
それ以上は何も言わなかった。
励まさない。
「寂しくない」とも言わない。
寂しいに決まっているからだ。
サトシは少し離れた場所に座った。
ピチューも動かない。
二人で静かに森を見る。
やがて――。
小さな足音がした。
ピチューが歩いてくる。
一歩。
また一歩。
サトシの隣まで来る。
そして、何も言わず身体を寄せた。
サトシは少しだけ迷ってから、優しく頭を撫でた。
「ピチュ……」
胸の奥へ感情が流れ込んでくる。
寂しい。
悲しい。
大好きだった。
でも――。
自分も進みたい。
サトシは目を閉じた。
完全な言葉ではない。
それでも今までで一番はっきりと、ピチューの気持ちが分かった。
「そっか」
それだけ答える。
しばらくして、サトシは立ち上がった。
「俺、そろそろ帰るよ」
ピチューが顔を上げる。
「ピチュ?」
「また明日な」
手を振り、歩き出す。
ピチューはその場に残っていた。
サトシも振り返らない。
自分についてこいとは言わない。
ガルーラと別れた直後に、その場所へ自分が入り込むようなことはしたくなかった。
今日、ピチューがどこへ行くのか。
何を選ぶのか。
それはピチュー自身が決めることだ。
森を抜ける道を歩く。
やがて――。
小さな足音が聞こえた。
サトシは立ち止まる。
振り返った。
「……ピチュー?」
そこにいた。
少し離れた場所で、ピチューがサトシを見上げている。
「ピチュ」
サトシが一歩進む。
ピチューも進む。
「俺についてくるの?」
「ピチュ!」
今度は力強い返事だった。
胸へ伝わってくる感情も、はっきりしている。
一緒に行きたい。
サトシは嬉しかった。
今すぐ抱き上げたいくらいに。
それでも、一つだけ確認した。
「俺のところに来るってこと?」
自分を指差す。
それから森の外を指す。
「俺と一緒に行く?」
ピチューは森を見る。
ガルーラたちが去っていった方向を、しばらく見つめた。
そして――。
サトシへ向き直る。
「ピチュ!」
駆け出した。
サトシの足元まで来ると、勢いよく身体へ飛びつく。
「うわっ!」
慌てて受け止める。
小さな身体。
温かい。
「……そっか」
サトシは笑った。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「ピチュ!」
モンスターボールは使わない。
今はまだ正式なトレーナーですらない。
そんなものがなくてもいい。
ピチューは自分の意思でサトシについてきた。
それだけで十分だった。
「驚くだろうなあ」
「ピチュ?」
「俺の母さん。帰ったら紹介するよ」
「ピチュ!」
サトシの腕から肩へ登ろうとして、途中で服に爪を引っかける。
「痛っ! ちょ、待て待て!」
「ピチュ!」
「そこから登るなって!」
森に二人の声が響いた。
泣いたばかりのピチューが笑うように鳴く。
サトシも笑った。
別れはなくならない。
ガルーラたちが家族だったことも変わらない。
その思い出を消して、新しい家族になる必要もない。
大切なものを胸に残したまま、新しい出会いへ進めばいい。
サトシは肩へどうにか収まったピチューを見る。
「これからよろしくな、ピチュー」
「ピッチュ!」
こうして――。
まだピカチュウではない小さな相棒が、サトシの隣を歩き始めた。