ポケットモンスター ―君と目指す頂― 作:あああああ
森を抜けた頃には、空が茜色に染まり始めていた。
「ピチュ!」
サトシの肩に乗ったピチューが、初めて見るマサラタウンを興味深そうに眺めている。
右を見て、左を見て。
家の屋根を見上げたかと思えば、道端を飛んでいくポッポへ視線を向ける。
そのたびに小さな身体が動くものだから、サトシは何度も肩を揺らされた。
「お前、ちょっと落ち着けって」
「ピチュ?」
「いや、楽しいのは分かるけどさ」
注意しても効果はなかった。
今度はサトシの頭へ前足を乗せ、少しでも高いところから町を見ようとしている。
「だから登るなって!」
「ピッチュ!」
楽しそうな声が返ってきた。
サトシは呆れながらも笑ってしまう。
森で何度も会ってきた。
一緒に遊んだ。
少しずつ距離を縮めてきた。
けれど、こうして同じ場所へ帰るのは今日が初めてだ。
肩に伝わる重みが妙に嬉しかった。
「着いたぞ」
自宅の前で立ち止まる。
ピチューが家を見上げた。
「ピチュ?」
「今日から住むなら、ここがお前の家にもなるのかな」
サトシが玄関を開ける。
「ただいま!」
「おかえりなさい、サトシ。今日は少し遅かっ――」
奥から出てきたハナコの言葉が止まった。
視線がサトシの肩へ向く。
ピチューもハナコを見る。
「…………」
「…………ピチュ?」
数秒の沈黙。
そして――。
「サトシ?」
ハナコがにっこり笑った。
笑っている。
笑っているのだが、サトシにはなぜか少し怖く見えた。
「説明してくれる?」
「はい」
素直に答えた。
◇
「なるほどね」
事情を聞き終えたハナコは、椅子へ座ったままピチューを見る。
サトシもその隣に座っていた。
ピチューはサトシの膝の上から、少し警戒するようにハナコを見ている。
「つまり、この子は今までガルーラたちと暮らしていて、その群れから離れたあと、サトシについてきたのね?」
「うん」
「サトシが無理やり連れてきたんじゃなくて?」
「それは絶対してない」
そこだけは強く答える。
「ピチューが自分でついてきたんだ」
ハナコはサトシの顔をしばらく見つめ、それからピチューへ視線を戻した。
「そう」
ゆっくり手を伸ばす。
ピチューの耳が立った。
ハナコは途中で手を止めた。
「初めまして。私はハナコ。サトシのお母さんよ」
「ピチュ……」
すぐには近づかない。
ハナコも無理に触ろうとはしなかった。
「これからよろしくね」
優しく笑う。
ピチューはしばらくハナコを見つめていた。
やがて――。
「ピチュ」
少しだけ身体から力が抜けた。
サトシにも、その変化が分かった。
「大丈夫みたい」
「あら、分かるの?」
「なんとなく」
最近は、こういう小さな感情なら以前より自然に感じ取れる。
それでも決めつけることはしない。
ピチュー自身の表情や行動と合わせて考える。
波導だけに頼るのではなく、目の前の相手をきちんと見る。
オーキド博士からポケモンの観察を学んだことで、それが大切だと分かっていた。
「それで」
ハナコが立ち上がる。
「一緒に暮らすなら、この子の食事も考えないとね」
「いいの!?」
「サトシについてきた子を追い出せるわけないでしょう?」
「母さん!」
「でも、サトシ」
ハナコが人差し指を立てた。
「自分でお世話するのよ?」
「もちろん!」
「ピチュ!」
なぜかピチューまで元気よく返事をした。
ハナコが笑う。
「ふふっ。元気な子ね」
こうしてピチューは、サトシの家で暮らすことになった。
◇
翌朝。
「う……」
サトシは顔に妙な重みを感じて目を覚ました。
柔らかい。
そして温かい。
「なんだ……?」
目を開ける。
黄色い身体。
黒い耳。
「……ピチュー」
「ピチュ……」
寝ている。
しかもサトシの顔の上で。
「お前……なんでそこで寝てんだよ……」
夜は隣に用意した場所で眠っていたはずだ。
いつ移動してきたのか分からない。
そっと持ち上げる。
「ピチュ……?」
ピチューが目を開けた。
「おはよう」
「ピチュ!」
次の瞬間、頬から小さな火花が散った。
バチッ。
「いったぁ!?」
「ピチュ!?」
驚いたピチューがベッドから飛び降りる。
サトシは頬を押さえた。
「寝起きで電気出すなよ!」
「ピチュ、ピチュ!」
悪気はなかったらしい。
慌てている感情が伝わってくる。
サトシはため息をついてから笑った。
「まあ、いいけど」
ピチューはまだ幼い。
電気袋に溜めた電気を、完全には制御できていないのだろう。
なら、これも練習できる。
自分は世界最強のトレーナーを目指す。
ピチューがこれからも自分と一緒にいてくれるのなら、ただ仲良く暮らすだけでは終わらない。
一緒に強くなりたい。
ただし、それを決めるのは自分だけではない。
「ピチュー」
「ピチュ?」
「今日、博士のところ行こう」
まずはピチュー自身に聞いてみよう。
◇
「ほう。本当についてきたのか」
オーキド博士は、サトシの肩に乗ったピチューを興味深そうに眺めた。
「うん」
「ピチュ!」
「これは驚いたのう」
博士はしゃがみ込み、ピチューと目線を合わせる。
ピチューは少し警戒したものの、逃げようとはしなかった。
「サトシ」
「なに?」
「このピチューをどうするつもりじゃ?」
サトシは少し考えた。
「一緒にいたい」
まず、それを答えた。
「でも、それだけじゃなくて……俺はいつか旅に出る。世界中のポケモンと戦って、世界で一番強いトレーナーになりたい」
肩のピチューを見る。
「だから、ピチューが嫌じゃなかったら、一緒に強くなりたい」
「ピチュ?」
サトシはピチューを地面へ降ろし、向き合った。
「俺と一緒に、バトルの練習する?」
ピチューが首を傾げる。
サトシは研究所の庭で練習しているポケモンたちを指差した。
ポッポが飛行の練習をしている。
少し離れた場所では、別のポケモンが技を使っていた。
「強くなるための練習」
「ピチュ……」
ピチューがそちらを見る。
興味。
好奇心。
そして、やってみたいという強い気持ち。
胸の奥にそれが伝わってくる。
「やる?」
「ピチュ!」
ピチューが勢いよく頷いた。
サトシの顔に笑みが広がる。
「よし!」
「ピチュ!」
「じゃあ、一緒に強くなろう!」
サトシとピチューが拳と小さな前足を合わせる。
オーキド博士も、その様子を笑いながら見守っていた。
◇
最初に行ったのは、今のピチューが何をできるのかを確かめることだった。
研究所の庭。
少し離れたところに、練習用の的が置かれている。
「ゲームの知識だけで決めつけちゃ駄目だよな」
サトシが呟く。
前世の知識なら、ピチューが覚えられる技はいくつも知っている。
だが、この世界では実際の身体の動きや経験がある。
技も、名前を知っているだけで使えるようになるわけではない。
まずは今のピチュー自身を見る。
「ピチュー。さっきみたいに電気を出せる?」
「ピチュ!」
頬の電気袋から火花が散った。
バチ、バチッ。
サトシは注意深く観察する。
「その電気、前に向かって飛ばせる?」
「ピチュ?」
ピチューが少し考える。
そして、何もない前方へ身体を向けた。
頬へ電気を集める。
「ピィ……チュウ!」
バチッ!
小さな電撃が前方へ走り、地面を叩いた。
サトシの目が輝く。
「博士、今の!」
「うむ」
オーキド博士も頷く。
「まだ未熟じゃが、間違いない。でんきショックじゃな」
「でんきショック……!」
前世では何度も見た技。
けれど今、目の前で相棒が初めて使ったとなれば話は別だった。
「ピチュー、お前、でんきショック使えるぞ!」
「ピチュ?」
本人は技名を知らなかったらしい。
サトシは笑った。
「今やったやつ! あれが、でんきショック!」
「ピチュ!」
自分の技だと理解したのか、ピチューが嬉しそうに跳ねる。
ただし、まだ「使える」と「使いこなせる」は違う。
今の一撃は近くの地面へ落ちただけだ。
サトシは練習用の的を近くへ移動させた。
「じゃあ、次はあれにでんきショック!」
「ピチュ!」
ピチューが的を見る。
頬に電気を集め――。
「ピチュウ!」
でんきショックが放たれた。
しかし電撃は的の横を抜けた。
「ピチュ……」
耳がしゅんと垂れる。
「惜しい!」
サトシはすぐに声をかけた。
「ちゃんと前には飛んでる。次はもっと近くからやろう」
的との距離を縮める。
「威力は気にしなくていい。まずは狙ったところに電気を飛ばすんだ」
「ピチュ!」
二回目。
外れた。
三回目。
的の端をかすめる。
「今の惜しい!」
四回目。
バチッ!
電撃が的に当たった。
「ピチュ!?」
一番驚いたのはピチュー自身だった。
一瞬遅れて――。
「やった!」
「ピッチュ!」
サトシとピチューが同時に飛び跳ねる。
「当たったぞ!」
「ピチュ!」
「もう一回!」
「ピッチュ!」
そこから何度か繰り返した。
だが、サトシは途中で練習を止めた。
「今日はここまで」
「ピチュ?」
まだやりたそうだ。
「電気を使うのも疲れるだろ。続きは休んでから」
ピチューの様子を見る。
呼吸が少し速くなっている。
頬から散る火花も、最初より弱い。
「強くなるために身体を壊したら意味ないからな」
「ピチュ……」
不満そうではあったものの、ピチューも座り込んだ。
オーキド博士が満足そうに頷く。
「それでよい。技の練習は、ただ何度も撃たせればよいというものではないからの」
サトシも頷いた。
まず覚えるべき電気技は、でんきショック。
狙った場所へ当てる。
必要な時に素早く出す。
威力を安定させる。
その三つから始めることにした。
◇
それから、でんきショックは二人の日課の一つになった。
最初は止まった的へ当てる。
「でんきショック!」
「ピチュウ!」
バチッ!
命中。
安定して当たるようになると、今度は距離を伸ばした。
さらに慣れてくれば、サトシが的を動かす。
「右!」
ピチューが身体を向ける。
「でんきショック!」
「ピッチュ!」
電撃が走る。
外れた。
「もう一回!」
今度は左。
サトシが転がした的をピチューが目で追う。
「今!」
「ピチュウ!」
バチッ!
命中。
「よし!」
サトシが拳を握る。
ただ当てるだけでは終わらない。
発動までの時間も短くしていく。
最初の頃は頬へ電気を溜め、狙いを定め、それから放っていた。
それでは実戦で相手に避けられる。
「ピチュー、今度は溜めすぎないでやってみよう」
「ピチュ?」
「走りながら電気を作るんだ」
サトシ自身が庭を走る。
「こうやって動きながら――相手を見て!」
ピチューも走り出した。
「ピチュ!」
頬から火花が散る。
走る。
狙う。
「でんきショック!」
「ピッチュウ!」
電撃が放たれる。
外れた。
それでもサトシは笑った。
「いい! 止まらずに撃てた!」
次。
また次。
何度も繰り返す。
やがて――。
「ピチュ!」
ピチューが地面を蹴った。
走りながら身体を横へ向ける。
頬にはすでに電気が集まっている。
サトシが指示を出すより先に、ピチュー自身が的を捉えた。
「ピッチュウ!」
バチッ!
電撃が的の中央へ直撃する。
「……!」
サトシは一瞬黙った。
それから満面の笑みを浮かべる。
「今のだ!」
「ピチュ?」
「今のでんきショック!」
走りながらでも狙いを外さなかった。
電気を溜める時間も短い。
威力も最初より明らかに上がっている。
「もう一回できる?」
「ピチュ!」
再び走る。
「でんきショック!」
「ピッチュウ!」
命中。
もう一度。
命中。
完全ではない。
距離が離れればまだ外れる。
激しく動きながらなら精度も落ちる。
それでも、もう偶然ではなかった。
サトシはピチューのところへ駆け寄った。
「やったな!」
「ピッチュ!」
飛びついてきたピチューを受け止める。
「これで、でんきショックはちゃんと覚えたな!」
「ピチュ!」
ピチューも嬉しそうだった。
一つ目。
サトシとピチューが一緒に練習し、形にした技。
でんきショック。
まだ小さな一歩にすぎない。
それでも二人にとっては、確かな成長だった。
◇
もちろん、電気技だけを練習したわけではない。
走る。
跳ぶ。
急に方向を変える。
相手から目を離さない。
サトシ自身もピチューと一緒に身体を動かした。
遊びと訓練の境目は、今は曖昧でいい。
ピチューが楽しみながら身体の使い方を覚え、その中で技を磨いていく。
サトシもまた、その動きを観察しながら考えていた。
――速い。
小さな身体は一撃の重さでは不利になる。
その代わり、動きが軽い。
なら、立ち止まって技を撃ち合うより、機動力を活かした方がいい。
相手の攻撃を避ける。
位置を変える。
隙を作る。
そこへ、でんきショックを叩き込む。
前世で培った対戦知識を、そのまま持ち込むのではない。
目の前にいるピチューに合わせて使う。
それが、この世界でのトレーナーの戦い方なのだろう。
そして波導の練習も続いていた。
ある日。
サトシは目を閉じて立っていた。
「ピチュー。好きなところに隠れていいぞ」
「ピチュ!」
小さな足音が遠ざかる。
やがて止まった。
サトシは呼吸を整えた。
音だけを追わない。
周囲へ意識を広げる。
いくつもの生命の気配。
その中から――。
よく知っている、小さな波導。
「……そこ!」
目を開け、後ろの茂みを指差す。
「ピチュ!?」
ピチューが顔を出した。
「当たり!」
「ピッチュ!」
悔しそうに飛び出してくる。
「もう一回やる?」
「ピチュ!」
こうして遊びながら、サトシの波導も少しずつ磨かれていった。
以前は偶然感じるだけだった。
今は意識して近くの生命を捉えられる。
ピチューの波導なら、他のポケモンの中から見分けられることも増えてきた。
まだ距離は短い。
それでも確実に前へ進んでいる。
◇
夕方。
練習を終えた二人は、研究所近くの丘に座っていた。
「疲れたな」
「ピチュ……」
ピチューがサトシの隣へ倒れ込む。
「お前、最後まで全力だからな」
「ピチュ」
「俺もだけど」
サトシが笑う。
遠くにはマサラタウン。
その向こうには、まだ見たことのない世界が広がっている。
カントー地方。
ジム。
ポケモンリーグ。
そして、その先にも数え切れないほどの地方とポケモンたちがいる。
前世では知っていた場所。
今度は、自分の足でそこへ行く。
「なあ、ピチュー」
「ピチュ?」
「俺、10歳になったら旅に出るんだ」
サトシは遠くを指差した。
「いろんなところへ行って、いろんなポケモンに会う。それでいっぱいバトルして、強くなる」
ピチューがサトシを見る。
「その時も、一緒に来てくれる?」
「ピチュ!」
返事は早かった。
ピチューがサトシの肩へ飛び乗る。
「うわっ!」
頬と頬が触れた。
小さな身体から、温かな感情が伝わってくる。
一緒。
行きたい。
もっと見たい。
もっと強くなりたい。
それは文章ではない。
けれど、サトシには十分だった。
「……そっか」
笑みがこぼれる。
「じゃあ決まりだな」
拳を前へ出す。
ピチューが小さな前足を重ねた。
「一緒に強くなろう、ピチュー」
「ピッチュ!」
夕焼けの下。
まだトレーナーですらない少年と、小さなピチューが約束を交わした。
そして、その日から。
サトシが「でんきショック!」と叫べば、ピチューは迷うことなく電撃を放つようになった。
まだ威力も速度も伸ばせる。
もっと遠くへ届かせることもできるだろう。
いつかは、さらに強力な電気技にも挑戦する。
だが、焦る必要はない。
一つ覚えたなら、それを徹底的に磨く。
そして次へ進む。
そうやって二人で強くなっていけばいい。
旅立ちの日まで、一日ずつ。
その積み重ねの先で――。
小さなピチューの身体にも、少しずつ確かな変化が生まれ始めていた。