風が、頬を撫でていった。
やわらかくて、少しだけ冷たい、春の風だった。
高く突き出した岩の上に腰を下ろして、遠くの景色を眺める。
隣には、イーブイがいる。
風が吹くたび、大きな耳がぴくぴくと動く。
首元に結ばれたリボンも、ふわりと揺れた。
「……いい風だね」
「ぶい」
どこまでも続いていく景色を眺めながら、ふと思う。
「わたしたちが旅に出たのも、こんな朝だったね」
イーブイがこちらを向いた。
「ぶい?」
「覚えてる?」
「ぶいっ」
「ほんとかなぁ」
笑いながら、その頭を軽く撫でる。
「あのときは、こんなに長く旅するなんて思ってなかったなー」
「ぶい」
「ずいぶん遠くまで来たね」
イーブイは何も言わず、また前を向いた。
私も同じ方を見る。
風が吹く。
春の匂いがした。
*
――ごそごそ。
何かの音がする。
――ごそ、ごそごそ。
「…………ん……」
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
まだ眠い。枕元の時計を見る。
目覚ましが鳴るまで、あと少し。
じゃあ、この音は何だろう。
ぼんやりしたまま身体を起こして、音のする方を見る。
「…………」
茶色いお尻とふわふわしたしっぽが揺れているのが見えた。
その周りには、タオル。着替え。地図。小物を入れたポーチ。
昨晩、時間をかけてリュックに詰めたはずの荷物が、見事に散らばっていた。
「…………イーブイ?」
ぴたっ。
茶色いお尻が止まる。
ゆっくりとリュックから顔を出したイーブイの口元には、小さなおやつの袋が揺れていた。
「ぶい」
「ちょっとーー!!」
「ぶいっ!?」
「荷物ーーー!!」
ベッドから飛び起きる。
「昨日せっかく準備したのに!なんで全部出してるのー!」
「ぶ、ぶい」
気まずそうな顔をしたイーブイは、咥えていたおやつの袋をぽとりと落とした。
そして、すっと横を向く。
「……何もしてませんみたいな顔してもダメだからね?」
「ぶい?」
「それ!その顔!」
慌てて床の荷物を拾っていると、
ジリリリリリリ!!
「うわっ!」
「ぶいっ!」
今さら目覚まし時計が鳴り始めた。
止めようと手を伸ばしたところで、部屋の扉が開く。
「あらあら」
母が顔を覗かせた。
散らかった部屋。
ほとんど空のリュック。
側に落ちたおやつ。
その真ん中で固まっている私とイーブイ。
母はにこにこと笑った。
「今日も朝から元気ねぇ」
「イーブイが荷物全部出したの!」
「ぶい!」
「なんで反論してるの!?」
「ふふ。朝ごはんできてるわよ」
「はーい!……ほらイーブイ、これ戻すよ!」
不服そうな顔をしたイーブイが、側に落ちていたおやつの袋を拾おうとする。
それを見つけて、素早く取り上げる。
「おやつはあと!」
「ぶいぃ」
「そんな悲しそうな声出してもダメ!」
旅立ちの朝は、思っていたよりもずっと、いつも通りに始まった。
*
「姉ちゃん、本当に今日出るの?」
「出るよ?」
朝食の席で、弟がパンをかじりながら言った。
「なんか特別感ないなー」
「いいの!普段通りで!」
「ふーん」
向かいから、じーっと顔を見られる。
「……なに?」
「いや」
「なに?」
「本当に大丈夫かなと思って」
「何が!?」
「だって姉ちゃん、どう見ても旅に出る側じゃなくて迷子になる側じゃん」
「失礼なんだけど!?」
斜向かいに座っていた妹まで一緒になって笑う。
「確かに、お姉ちゃんちっちゃいもんね」
「身長は関係ないでしょ!」
「知らない人に『おうちの人は?』って聞かれそう」
「聞かれないよ!!」
むっとしてパンを頬張ると、隣からやけに元気な声がした。
「ぶいぶい!」
見れば、イーブイまで何度も頷いている。
「ちょっと!イーブイまで何!?」
「ぶいっ」
「ほら、イーブイも心配してる」
「違うもん!大丈夫って言ってるんだもん!」
「イーブイが?」
「そう!」
「じゃあ大丈夫なの、イーブイの方じゃん」
「…………」
「姉ちゃん?」
「……イーブイがいれば大丈夫!」
「そこは認めるんだ」
また笑い声が上がった。
「もう!ごちそうさま!」
席を立つ。
なんだか本当に、いつもの朝だった。
でも今日は、このあと学校へ行くわけでも、近所へ遊びに行くわけでもない。
玄関には大きなリュックがある。
これからしばらく、帰ってこない。
――そう思うと少しだけ不思議だったけれど。
「じゃあ、出かけるね!」
口から出たのは、いつもとほとんど同じ言葉だった。
*
「忘れ物ない?」
「大丈夫!」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「確認しなさい」
「しました!」
玄関で靴を履きながら答える。
イーブイはとっくに準備万端で、扉の前をうろうろしていた。
「ぶい!ぶい!」
「分かってるって。そんな急かさないでよー」
リュックを背負う。
思っていたよりも、ずっしりとベルトが肩に食い込んだ。
「……こんなに重かったっけ」
「さっき詰め直したからじゃない?」
「イーブイが出すからでしょ!」
「ぶい?」
何のこと?とでも言いたげな表情で、イーブイは首を傾げた。
「もう!またその顔する!」
みんなが玄関に集まってくる。
そのとき。
「……おい」
低い声がした。
振り返ると、父がみんなより少し遅れてリビングから出てきた。
その隣からトゲチックがふわりと飛んでくる。
「ちっく」
「ん?」
小さな手に、包みを抱えていた。
「なにこれ?」
受け取って、包みを開く。
中に入っていたものを見て、思わず声が出た。
「えー!」
ひとつは、小さな石のついたペンダント。
もうひとつは、それよりさらに小さな石のチャーム。
見覚えがある。
「もしかしてこれ、宝物箱に入ってたやつ!?」
父を見る。
「作ってくれたの!?」
「……まあな」
「すごーい!」
チャームの方を持ち上げる。
石には真新しいリボンが結ばれていた。
「こっちはイーブイのだ!」
足元でうろうろしていたイーブイが、名前を呼ばれて私の方を見上げる。
「ぶい?」
「見て!リボンもついてる!かわいい!」
「ぶいっ!」
イーブイも気に入ったらしい。
すぐにしゃがみ込んで、首元につけてやる。
「どう?似合う似合う!」
「ぶい〜!」
「あら」
横から覗き込んだ母が、ペンダントを裏返した。
「裏に名前も入ってるじゃない。素敵!」
「ほんとだ!」
小さく刻まれた文字を見て、もう一度父を見上げる。
父はなんとなく居心地が悪そうに視線を逸らした。
母がにやりと笑う。
「あなた、こういうことするのねぇ」
「……うるさい」
「いつの間に頼んでたの?」
「いいだろ、別に」
「照れてる?」
「うるさい」
「ふふふ」
「お母さん、お父さん困ってるから」
笑いながら、ペンダントを首にかける。
胸元で、小さな石が揺れた。
イーブイの首にも、おそろいの石。
「えへへ、初めてのおそろいだね」
「ぶい」
なんだか嬉しくて、顔を見合わせる。
「あっ!」
突然、母が声を上げた。
「そうだ、サンドイッチ!」
「サンドイッチ?」
「お昼に食べなさい。作ってあるから」
そう言った母の後ろ。キッチンから、ゴーリキーがひょこっと顔を出した。
手にはきれいに包まれたサンドイッチ。
「りき!」
「あっ、ありがとう!」
受け取って、リュックへ入れる。
「……今度こそ本当に忘れ物ないよね?」
「ない!」
「お金は?」
「ある!」
「地図は?」
「ある!」
「薬は?」
「ある!」
「おやつは?」
「ぶいっ!!」
私が答えるよりも早く、イーブイが得意げに胸を張った。
「それはイーブイが一番よく知ってる」
さっきまで笑っていたみんなが、また笑った。
玄関の扉を開ける。
春の朝の空気がふわっと家の中に入ってきた。
一歩、外へ出る。
何度も通った家の前の道。見慣れた景色。
今日から突然、何かが変わって見えるわけじゃない。
それでも、この道をずっと先まで歩いていけば、まだ見たことのない場所へ続いている。
イーブイが隣に並ぶ。
「ぶい!」
「うん」
振り返った。
父と母。
弟と妹と、もう一人の弟。
トゲチックとゴーリキー。
庭でよく遊んでいる野生のワッカネズミたちも、いつの間にか茂みから私たちの方を覗いていた。
いつもの家。
私は大きく手を振った。
「行ってきます!」
そして、イーブイと一緒に最初の一歩を踏み出した。
*
春の風が吹く。
隣に座るイーブイの首元で、色褪せたリボンが揺れた。
あの日は真新しかった石のチャームには、今では小さな傷がいくつもついている。
自分の胸元にあるペンダントを指先でつまむ。
「……懐かしいね」
指先で石を転がす。
「これも、ずいぶん年季入ったよねぇ」
「ぶい」
私は笑って、手を離した。
ペンダントが、胸元に戻る。
また風が吹いた。
――これは、わたしとイーブイが、今に至るまでの物語。