朝、目を覚ますと、窓の外は雨だった。
カーテンを開けると、灰色の空から細かな雨が降り続いている。
窓ガラスを伝う雫の向こうで、町の景色がぼんやりと霞んでいた。
「今日は雨かあ……」
昨日のうちに洞窟を抜けて、次の町まで来ておいてよかった。
窓の外を眺めながら大きく伸びをして、それからみんなの朝ごはんを用意する。
「おはよー!朝ごはんだよー!」
「ぶいっ!」
声をかけると、さっそくイーブイが駆け寄ってきた。
朝から元気いっぱいだ。
ミミッキュも少し遅れて、静かにこちらへやってきた。
二人の前にそれぞれのフードを盛ったお皿を置く。
ミミッキュはお皿を抱えると、いつものようにくるりとこちらに背を向けた。
「ラルトスも……あれ?」
いつもなら、呼べばすぐに来るはずのラルトスがいない。
ベッドを見ると、ラルトスはまだ布団の上で丸くなっていた。
「ラルトス?」
近づいて声をかけると、ラルトスはゆっくりと目を開けた。
「……らる」
「どうしたの? まだ眠い?」
ラルトスは身体を起こそうともぞもぞと動く。
しかし、どこかいつもよりも力がない。
「……もしかして、具合悪い?」
「らる……」
昨日は洞窟で何度もズバットと戦ったし、ゴルバットにも吹き飛ばされた。
ただ疲れているだけならいいけれど、もし何かあったら大変だ。
「念のため、ポケモンセンターで診てもらおっか」
抱き上げると、ラルトスは抵抗することもなく、私の腕に身体を預けた。
窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
「うーん……お天気も悪いし、ポケモンセンターも混んでるかもしれないなあ」
足元を見る。
イーブイとミミッキュが、揃ってこちらを見上げていた。
「二人は、ここでお留守番できる?」
「ぶいっ!」
イーブイは迷うことなく返事をする。
「……きゅ」
ミミッキュも、小さく頷いた。
「じゃあ、お願いしようかな」
二人が朝食を食べ終えたお皿を片付けてから、必要なものだけを小さめの鞄に詰め替える。
帰りが遅くなってもいいように、二人分のお昼ごはんも用意しておいた。
テーブルの上に並べてから、壁にかかった時計を指さす。
「お昼は、あの時計の短い針が一番上になったら食べていいからね」
「ぶい!」
イーブイは耳をピンと立てて、元気よく返事をした。
「イーブイ、先に食べたらダメだよ?」
「ぶいっ!」
「……ほんとに大丈夫?」
「ぶいっ!」
妙に自信満々だ。
私は隣にいるミミッキュを見る。
「ミミッキュ、イーブイがつまみ食いしないように、ちゃんと見ておいてね」
「……きゅ」
「じゃあ、よろしくね!」
上着を着て、傘を手に取る。
ラルトスを抱き上げ、部屋の扉を開けた。
「行ってくるね!」
「ぶいっ!」
「きゅ」
二人に手を振って、廊下へ出る。
扉が閉まる直前まで、イーブイはしっぽを揺らしながらこちらを見送っていた。
*
しばらくして、窓の下をひとつの傘が通り過ぎていった。
傘の下には、ラルトスを抱いたトレーナーの姿がある。
イーブイとミミッキュは窓辺に並び、その姿を見送っていた。
傘は雨に霞む通りをゆっくりと遠ざかり、やがて建物の陰に隠れて見えなくなった。
イーブイが先に窓から離れる。
部屋の中には、窓ガラスを細かな雨粒が叩く音だけが残った。
カーテンの開いた窓の向こうには、灰色の空が広がっている。
朝から降り続く雨のせいか、部屋の中もどこか薄暗かった。
イーブイはベッドへ飛び乗ると、前足を伸ばしてくつろぎ始めた。
ミミッキュはしばらく窓のそばに座っていたが、やがていつものように部屋の隅へ移動する。
二匹はそれぞれの場所で、静かに時間を過ごしていた。
やがて、暇になったのか、イーブイがむくりと顔を上げた。
「ぶい?」
少し離れたところにいるミミッキュを見る。
ぴょん、とベッドから飛び降りると、そのまま軽い足取りで近づいていった。
「ぶいっ!」
前足を低くして、お尻を少し持ち上げる。
大きなしっぽが、楽しそうに左右へ揺れた。
ミミッキュは、ぴたりと固まった。
「…………」
「ぶい?」
イーブイが首を傾げる。
ミミッキュは動かない。
「……きゅ」
「ぶい……?」
イーブイはそのまま少し待っていたが、やがて身体を起こした。
もう一度だけ不思議そうにミミッキュを見て、それ以上誘うことなく離れていく。
元いた位置に戻ると、イーブイはぺたんと座り込んだ。
再び、二匹の間に雨音が戻ってきた。
ぽつぽつ。
ぱらぱら。
窓を叩く一定の音に混じって、時計の針が規則正しく時を刻んでいる。
しばらくして、イーブイが小さく声を漏らした。
「…………ぶい」
イーブイの鼻先が、ぴくりと動く。
顔を上げると、テーブルの上に、出かける前に用意してもらった二匹分の昼ごはんが見えた。
イーブイはじっとそれを見つめる。
それから、壁の時計を見上げた。
昼ごはん。
時計。
もう一度、昼ごはん。
そして、時計。
「…………ぶい」
そろり。
前足が一歩、テーブルへ近づいた。
「……きゅ」
ぴたり。
イーブイの足が止まる。
ゆっくり振り返ると、少し離れたところからミミッキュがこちらを見ていた。
「ぶい……」
「…………」
ミミッキュは何も言わない。
ただ、じっと見ている。
イーブイはもう一度、昼ごはんへ目を向けた。
それから、ミミッキュを見る。
「……ぶい」
しっぽを少し下げて、すごすごとテーブルから離れていった。
ミミッキュの視線が、その後ろ姿を追う。
やがて、その視線があるところで止まった。
イーブイが動くたび、首元で小さなチャームが揺れている。
「…………」
じっと見つめる。
視線に気づいたのか、イーブイが振り返った。
「ぶい?」
首を傾げる。
チャームも一緒に、ゆらりと傾く。
「…………」
「ぶい?」
今度は反対側へ首を傾げる。
それでもミミッキュは何も言わない。
しばらくはミミッキュを見ていたイーブイだったが、やがて気にするのをやめたらしい。
前足をぐっと伸ばし、大きくあくびをすると、部屋の中をきょろきょろと見回す。
「ぶいっ!」
そして、突然駆け出した。
部屋の端まで一直線に走り、壁の手前で急旋回する。
そのまま反対側へ。
だだだだっ。
ベッドに飛び乗り、その勢いのまま向こう側へ飛び降りる。
「ぶいっ!」
また走る。
右へ。
左へ。
床を蹴る小さな足音が、雨音の中に混ざる。
「…………」
ミミッキュはその場に座ったままだった。
ただ、イーブイが右へ走れば右へ。
左へ走れば左へ。
頭だけが、その姿を追いかけている。
「ぶいっ!」
もう一度ベッドへ飛び乗る。
今度はその場でくるりと一周して、また床へ。
だだだだっ。
「…………きゅ」
しばらく部屋中を走り回っていたイーブイだったが、さすがに疲れてきたらしい。
足取りが少しずつ遅くなる。
最後にベッドへ飛び乗ると、そのまま、ばたんと身体を投げ出した。
「ぶいー……」
急に静かになると、さっきまで足音に紛れていた雨の音が、また少し大きく聞こえる。
イーブイはお尻をこちらに向けて寝転がっていた。
ミミッキュがベッドの方を見上げると、ふさふさとした大きなしっぽが目に入る。
パタン。
右へ。
パタン。
左へ。
力の抜けたしっぽが、ゆっくりとベッドの上を行ったり来たりしている。
「…………」
ミミッキュの頭が、少し傾く。
パタン。
パタン。
そのたびに、視線が右へ、左へ。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
「…………きゅ」
やがて、ミミッキュが立ち上がった。
一歩。
そこで立ち止まる。
しっぽは変わらず揺れている。
パタン。
パタン。
もう一歩。
ベッドのそばまで来ると、しばらく大きなしっぽを見つめた。
そっと、手を伸ばす。
ちょん。
しっぽの先に触れた。
「…………」
イーブイの片耳が、ぴくりと動く。
顔は前を向いたまま、目だけが横を向いた。
ミミッキュの手が止まる。
「…………」
「…………」
二匹の視線が、一瞬だけ重なった。
けれどイーブイは何もせず、また目を細めた。
パタン。
しっぽが動く。
ミミッキュの視線がそれを追う。
反対側へ。
パタン。
少し間を置いて、ミミッキュがもう一度手を伸ばした。
ちょん。
パタン。
ちょん。
しっぽが動くたび、少しだけ追いかける。
イーブイはもうミミッキュを見ることもなく、目を閉じていた。
やがて、しっぽの動きも少しずつゆっくりになっていく。
パタン。
…………パタン。
ミミッキュも、いつの間にかベッドへ上がっていた。
イーブイのすぐ後ろ。
大きなしっぽの、となり。
窓の外では、まだ静かに雨が降り続いていた。
*
「ただの疲れだって。大したことなくてよかったねぇ…」
ポケモンセンターの自動ドアをくぐると、腕の中のラルトスに声をかける。
朝から降り続いていた雨は、少し弱くなっていた。
ポケモンセンターのある通りはこの町の中心部らしく、色とりどりの傘が行き交っている。
私はラルトスを抱き直してから傘を開き、宿へ向かって歩き出した。
「少し休めば、すぐ元気になるって。今日は宿でゆっくりしようね」
「らる」
腕の中のラルトスも、来たときよりは少し元気になったように見える。
「昨日いっぱい頑張ったもんね」
「らる?」
ラルトスはきょとんとした顔で私を見た。
「洞窟でも、ズバットが来るたびに追い払ってくれたでしょ? ねんりきもさいみんじゅつもいっぱい使ってたし」
「らる……!」
「最近のラルトス、本当に頼もしくなったなあって」
そう言うと、ラルトスは少し照れたように笑った。
「でも、頑張りすぎちゃダメだよ?」
「らる」
私の腕の中で、ラルトスが素直に頷く。
傘を叩く雨音は、朝よりもずっと小さくなっていた。
「……そういえば」
宿の方角を見る。
「イーブイとミミッキュ、大丈夫かなあ」
「らる……」
ラルトスも少し気になるのか、腕の中から顔を上げる。
「イーブイ、お昼つまみ食いしてないかな」
「らる」
ラルトスが、くすっと笑ったような気がした。
「……いや、ミミッキュにお願いしたから大丈夫か」
ちゃんと止めてくれているだろうか。
それとも、イーブイの勢いに押されていたりして。
想像すると少し心配になってきた。
「よし。デザートだけ買って、早く帰ろっか!」
「らる!」
私はラルトスを抱き直すと、傘の下で少しだけ歩く速度を上げた。
*
宿に戻り、ラルトスを抱いたまま階段を上がる。
部屋の前まで来ると、私は扉を開けた。
「ただいまー! 二人ともいい子にしてたー?」
…………。
返事がない。
「……あれ?」
部屋の中を覗き込む。
二人は、ベッドの上にいた。
イーブイは、こちらにお尻を向けたまま眠っている。
そして、その大きなしっぽに寄りかかるように、ミミッキュも、眠っていた。
「…………」
思わず、その場で立ち止まる。
「……あれ?」
腕の中から、ラルトスも二人を覗き込んだ。
「なんか……仲良くなってる?」
「らる」
ラルトスは二人を見ると、なんだか嬉しそうに笑った。
「いつの間に……」
起こさないように、そっと部屋の中へ入る。
そのとき、テーブルの上に目が止まった。
「……あ」
出かける前に置いていった昼ごはん。
二つとも、そのままだ。
時計を見る。
「まだお昼食べてないじゃん!」
「ぶいっ!?」
「きゅっ!?」
二人が同時に飛び起きた。
「あっ、ごめん! 起こしちゃった!」
イーブイは何が起きたのか分からない様子で、眠そうな目をぱちぱちさせている。
ミミッキュも、まだぼんやりしているのか、イーブイのしっぽのそばに座ったままだ。
「ちゃんと待ってたんだね。えらいえらい!」
「ぶい!」
「きゅ」
「ちょうどいいや。デザートも買ってきたよ! みんなで食べよっか」
「ぶいっ!!」
イーブイの耳がぴんと立った。
「やっぱりデザートには反応早いねえ」
遅くなってしまった昼ごはんを並べる。
ラルトスも私の腕から降りて席につき、イーブイは待ってましたとばかりに食べ始めた。
そしてその隣に、ミミッキュがちょこんと座った。
「…………」
今までも、みんなで一緒にごはんを食べることはあった。
でも、ミミッキュがイーブイの隣に座るところを見たのは、初めてかもしれない。
「……やっぱり、ちょっと仲良くなった?」
「ぶい?」
「きゅ?」
二人が揃ってこちらを見る。
「ふふ。なんでもない」
向かいでは、ラルトスが二人を見ながらにこにこしていた。
私も席につき、みんなで少し遅い昼ごはんを食べ始める。
ミミッキュはやはり壁の方を向いて食べていた。
それでも、イーブイの隣にいる。
「……あれ?」
買ってきたサンドイッチを食べながら、ふと何かが足りないことに気づいた。
朝からずっと聞こえていた、窓を叩く雨の音。
いつの間にか、聞こえなくなっている。
窓を見ると、ガラスを伝っていた雨粒はもう増えていなかった。
「雨、やんだみたい」
雲の切れ間から差し込んだ光が、濡れた窓ガラスをきらりと照らす。
朝には灰色だった部屋の中も、今はやわらかな光に包まれていた。
窓の外では、雨上がりの町が静かに輝いている。
そんな景色を眺めながら、私たちはのんびりと昼ごはんを食べた。
穏やかな昼下がりだった。