かわらずのいしと、まだ知らない世界   作:未森ましお

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知らない道

 

家を出て、坂を下る。

イーブイは私の左側を、軽い足取りで歩いていた。

右手には、家々の屋根の向こうに海が見える。

 

朝の光を細かく反射して、水面がきらきらと揺れていた。

潮の匂いを含んだ風が坂を上ってきて、頬を撫でていく。

イーブイの首元で、つけたばかりのリボンがふわりと持ち上がった。

 

「旅に出たっていっても、しばらくは知ってる道だね」

「ぶい」

 

道端に咲いている小さな花も、角に立っている少し色褪せた看板も、その先の曲がり道も知っている。

塀の上では、いつものエネコが欠伸をしていた。

 

何度も歩いた道だった。

 

道の脇にオレンのみがなっているのを見つけて、ふたつもいだ。

一つをイーブイに渡して、私も一つかじりながら歩く。

 

「なんか変な感じ」

「ぶい?」

「だって、いつもと同じ道なのにさ」

 

今日は学校へ行くわけでも、買い物へ行くわけでもない。

 

このままずっと歩いていく。

いつもなら曲がる角を曲がらずに。

いつもなら引き返す場所を越えて、その先まで。

 

イーブイが少し先へ走って、振り返った。

 

「ぶい!」

「分かってるって。今行くよー!」

 

追いつくと、イーブイはまた私の左側を歩き始める。

しばらくして、ふと思った。

 

「これから仲間も増えたりするのかな」

「ぶい?」

「どんな子と会うんだろうね」

 

まだ見たこともないポケモン。

行ったことのない街。

知らない景色。

 

考えているうちに、なんだかわくわくしてきた。

 

「楽しみだねー!」

「ぶいっ!」

 

イーブイが勢いよく駆け出す。

 

「あっ、待ってよー!」

 

春の風の中を、二人で走った。

まだここは、知っている道だった。

 

*

 

町を抜けるころには、朝よりも少し日が高くなっていた。

 

「あ、この道知ってる!」

「ぶい!」

「前にみんなで通ったよね」

 

イーブイも覚えているのか、尻尾を揺らす。

 

そのまま歩き続けると、住宅の間隔がだんだん広くなって、道の脇に草や木が増えてきた。

知らない家の庭先で、オラチフが昼寝をしている。

遠くから、何となく聞き覚えのあるポケモンの鳴き声がした。

 

「ここも……知ってる気がする」

「ぶい?」

「たぶん」

「ぶい……」

 

イーブイは眉間に皺を寄せて、少し目を細めた。

 

「その顔なに?」

 

そのまままっすぐ歩き続ける。

舗装された道はずっと続いている。

けれど、いつの間にか見覚えのある建物が一つもなくなっていた。

 

「…………」

 

立ち止まる。

イーブイも数歩先で止まって、こちらを振り返った。

 

「ぶい?」

 

前を見る。

知らない道。

 

後ろを見る。

さっきまで歩いてきた道。

 

「……ここは知らない」

「ぶい」

 

胸の奥が、少しだけざわざわした。

怖い、とはちょっと違う。

でも、さっきまでとは確かに違う。

 

「……ほんとに旅になったね」

「ぶいっ」

 

イーブイの耳がぴんと立つ。

その顔を見たら、ざわざわよりも、わくわくの方が少し大きくなった。

 

「行こっか!」

「ぶい!」

 

*

 

しばらく歩くと、道が二つに分かれていた。

 

「…………」

 

右を見る。

左を見る。

もう一度、右を見る。

 

「……どっち?」

「ぶい?」

「だよねー」

 

リュックを下ろす。

肩から下ろした瞬間、急にずしっと重く感じた。

 

「こんなに重かったっけ……」

 

昨日の夜に詰めて。

今朝イーブイに全部出されて。

もう一度詰め直したリュックだ。

 

「……イーブイが出したから、なんか重くなった気がする」

「ぶい?」

「またその顔する!」

 

とぼけ顔のイーブイを横目で見ながら、紙の地図を取り出した。道端にしゃがんで広げる。

風で端がめくれそうになると、イーブイが前足で押さえた。

 

「ありがと」

「ぶい」

 

地図の上を指でなぞる。

 

「えーっと……今いるのが……」

 

指が止まる。

 

「…………ここ?」

「ぶい」

「たぶんここ」

 

イーブイが地図を見る。

私を見る。

 

「大丈夫。たぶん合ってる」

「ぶい……」

「そんな顔しないでよ!」

 

地図には、父がつけた印が残っていた。

 

出発する前に、

 

――初日は、ここまで。

 

そう言って丸をつけてくれた街。

ポケモンセンターもあるから、暗くなる前に着くように。

 

「今日行くのが、ここでしょ」

 

丸を指さす。

そこから今いるあたりまで、道を戻る。

 

「右から行っても……」

 

指を滑らせる。

 

「左から行っても……」

 

もう一度、別の道をなぞる。

どちらも同じ街へ続いていた。

 

「着くね」

「ぶい」

「…………」

 

二人で右を見る。

二人で左を見る。

 

右。

 

左。

 

「どっちにする?」

「ぶい?」

「だよねー」

 

少し考えて、足元を見る。

細い枝が落ちているのを見つけて、拾い上げた。

 

「よし。倒れた方!」

 

「ぶいっ!」

 

地面に枝を立て、指を離す。

 

ぐらり。

ぱたん。

 

枝の先が、右を向いた。

 

「右!」

「ぶい!」

 

地図を畳んで、リュックにしまう。

 

「じゃあ右から行こー!」

「ぶいっ!」

 

イーブイが先に走り出す。

私もそのあとを追った。

旅に出て初めて、自分で決めた道だった。

 

――棒が決めたともいう。

 

*

 

太陽が真上に近づくにつれて、朝の涼しさは少しずつ消えていった。

春とはいえ、歩き続けていると暑い。

 

「つかれたー……」

「ぶい〜……」

 

さっきまで元気に先を歩いていたイーブイも、今は私の横をとことこと歩いている。

 

水筒を取り出し、母が入れてくれたお茶を飲んで、また歩く。

 

道の端に咲いている花を見つけて立ち止まる。

見たことのないきのみを見つけて覗き込む。

 

「これ食べられるかな」

「ぶい?」

「……分かんないからやめとこ」

「ぶい」

 

少しずつ、歩いたことのない景色が増えていく。

知らないものを見つけるたびに足を止めていたら、なかなか前に進まなかった。

それでも、急ぐ理由はまだなかった。

 

風が草の間を通り抜けて、さわさわと音を立てる。

どこか遠くから、キャモメの声が聞こえた。

聞き慣れた声だった。

 

「……おなかすいた」

「ぶい」

 

その声に反応したように、イーブイのおなかが小さく鳴った。

 

「イーブイも?」

「ぶい」

「じゃあお昼にしよっか!」

 

少し先に、大きな木が見えた。

木陰まで歩いて、リュックを下ろす。

歩くのをやめた途端、足が急に重くなった気がした。

 

「はぁ〜……」

 

木の幹にもたれる。

頭の上では葉が風に揺れている。

隙間から落ちた細い光が、地面の上でちらちらと動いていた。

 

「そうだ!お母さんのサンドイッチ!」

「ぶい!」

 

イーブイの耳がぴんと立った。

 

「おやつじゃないよ?」

「ぶい」

「分かってる?」

「ぶいっ」

「ほんとかなぁ」

 

リュックから包みを取り出す。

開くと、サンドイッチが二つ並んでいる。

レタスとトマトの上にカリカリに焼いたベーコン、スクランブルエッグまで挟まっていた。

 

「私の好きなやつだ!」

 

母の顔が浮かんで、さっき別れたばかりなのに少しだけ寂しくなった。

 

「ちゃんと二個入ってるよ!おいしそう〜!」

 

イーブイがすぐ隣まで寄ってくる。

 

「はい、イーブイの分ね」

「ぶいっ!」

 

一つ渡すと、イーブイは嬉しそうに座り込んだ。

私も残った一つを手に取る。

朝から歩いて、走って、道を選んで。

おなかはぺこぺこだった。

 

「いただきまー……」

 

バサバサバサバサッ!

 

「…………」

 

手元が、軽くなった。

 

「…………?」

 

手を見る。

 

何もない。

 

「……え?」

 

地面を見る。

 

ない。

 

「…………?」

 

隣を見る。

 

イーブイはちゃんと自分のサンドイッチを持っている。

 

「ぶい?」

「……私のは?」

 

イーブイに聞いても分からない。

顔を上げる。

 

少し先の空を、白い翼が遠ざかっていく。

そのくちばしに。

見覚えのあるものが挟まっていた。

 

「…………キャモメ」

「ぶい」

「…………」

 

さっき聞こえていた鳴き声が、遠ざかっていく。

 

「私のサンドイッチーーーー!!」

「ぶいっ!?」

 

立ち上がる。

 

「待ってーー!それ私のーー!!」

 

キャモメは振り返りもしなかった。

海の方へ飛んでいく。

 

「うそぉ……」

 

その場にしゃがみ込む。

 

「楽しみにしてたのに……」

「ぶい……」

「おなかすいた……」

「ぶい……」

 

隣で、イーブイが自分のサンドイッチを見る。

 

私を見る。

 

もう一度、サンドイッチを見る。

 

少し間があった。

 

「…………ぶい」

 

鼻先で、こちらへ押す。

 

「いいよぉ……。イーブイの分だもん……」

「ぶい」

 

また押す。

 

「……半分くれるの?」

「ぶいっ」

 

「イーブイ〜〜!」

 

思わずぎゅっと抱きつく。

 

「大好き〜〜!」

「ぶいぃ」

 

残ったサンドイッチを二人で半分ずつ食べた。

朝、お母さんが作ってくれたサンドイッチ。

半分になってしまったけれど、やっぱりおいしかった。

 

食べ終わって、木の幹に背中を預ける。

葉っぱの向こうに青い空が見える。

 

「……でも悔しい!」

「ぶい?」

「今までキャモメに食べ物取られたことなんてなかったのに〜!」

 

空を見る。

もうキャモメの姿はどこにもない。

 

「旅に出て初日にこんなことある?!」

「ぶい」

 

隣を見る。

イーブイは最後の一口をもぐもぐしていた。

 

「……イーブイは満足そうだね」

「ぶいっ」

「半分だったのに?」

「ぶい!」

「そっか」

 

なら、まあいいか。

 

風が吹く。

木の葉が揺れて、その向こうからまたキャモメの声がした。

 

「…………」

「ぶい?」

「今の、さっきの子じゃないよね?」

「ぶい」

「だよね」

 

*

 

午後になると、道の雰囲気がまた少し変わった。

家はまばらになり、代わりに木々が増えている。

道の片側には背の高い草が続いていた。

 

木陰に入ると、空気が少しひんやりする。

鳥ポケモンの声。

風に揺れる葉の音。

 

どこかで小さなポケモンが草を踏んだような音がして、イーブイの耳がそちらへ動く。

 

「なんかほんとに旅っぽくなってきたね」

「ぶい!」

 

朝よりずっと、知らない場所にいる。

なのに、不思議とさっきほど心細くなかった。

知らない道を歩くことに、少し慣れてきたのかもしれない。

 

「このまま行けば、夕方には着くかな」

「ぶい」

「お父さん、暗くなる前にって言ってたもんね」

 

そのとき。

 

がさっ。

 

「ん?」

 

道の脇の草が揺れた。

イーブイの耳がぴんと立つ。

 

がさがさっ。

 

「ポケモンかな」

 

草の間から、一匹のヤングースが出てきた。

 

「あ、ヤングース」

「ぶい」

 

知っているポケモンだった。珍しくもない。

だから、そのまま横を通り過ぎようとした。

 

「ヤンッ!」

「えっ」

 

振り返る。

ヤングースがこちらを向いていた。

さっきまでとは様子が違う。

毛を逆立てて、歯を剥き出しにしている。

 

「…………」

「…………ぶい」

 

さっきまで軽かったイーブイの声が、小さくなる。

 

風が草を揺らす。

ヤングースは動かない。

私たちも動かない。

 

「……怒ってる?」

「ぶい……」

 

ヤングースが、一歩近づいた。

 

私が一歩下がる。

イーブイも一歩下がった。

 

ヤングースが、また一歩。

 

「…………」

「ぶい……」

 

家の近くにも、野生のポケモンはたくさんいた。

庭に遊びに来る子もいた。

家族でキャンプへ行けば、森の中で野生のポケモンを見かけることだってあった。

 

でも。

 

こんなふうに、まっすぐこちらを見て。

歯を剥き出しにされたことは、たぶんなかった。

 

「…………イーブイ」

「ぶい」

「逃げる?」

「ぶいっ」

「逃げよ!!」

 

二人同時に背を向けた。

 

走る。

 

「ヤンッ!」

「うわっ!」

 

後ろから草を蹴る音がする。

 

振り返る。

 

来てる。

 

「追ってきたーー!!」

「ぶいいぃ!!」

「なんでーー!?」

 

ずっしりとしたリュックが背中で跳ねる。

朝から歩き続けた足で必死に走る。

イーブイも横を全力で走っている。

 

「どうしよどうしよ!」

「ぶいぃ!」

「とりあえず逃げる!!」

「ぶい!」

「なんで追いかけてくるのーー?!」

 

そのとき。

 

「ワニノコ、みずでっぽう!」

 

聞き慣れない声がした。

直後、横から勢いよく水が飛んできた。

ヤングースの目の前の地面に当たり、水しぶきが上がる。

 

「ヤンッ!?」

 

ヤングースが足を止めた。

 

「もう一回!」

「わにゃ!」

 

もう一発。

 

ヤングースはしばらくこちらを睨んでいたけれど、やがて身を翻し、草むらの中へ走っていった。

がさがさと音が遠ざかる。

 

「…………」

「ぶい……」

 

静かになった。

 

私とイーブイはその場に立ち尽くした。

肩で息をする。

 

「大丈夫?」

 

声のした方を見る。

大きなリュックを背負ったトレーナーが立っていた。

私と同い年か、少し上くらい。

その足元で、ワニノコがこちらを見ている。

 

「だ、大丈夫……!」

「ぶい!」

「よかった」

「ありがとう!助かったぁ……!」

「ぶいぶい!」

「わにゃ!」

 

ワニノコが嬉しそうに胸を張った。

 

「でも、ヤングースならそんなに慌てなくても大丈夫だよ」

「……そうなの?」

 

思わず、さっき消えていった草むらを見る。

 

「急に逃げると、追いかけてくることあるよ」

「…………」

 

イーブイを見る。

イーブイも私を見る。

 

「……逃げない方がよかった?」

「ぶい……」

 

トレーナーは小さく頷いた。

 

「たぶん」

 

「…………」

 

さっきまで全力で走ってきた道を、ちらっと振り返る。

 

「……そっかぁ」

 

イーブイと一緒に、そっと目を逸らした。

 

「野生のポケモンに威嚇されるの、初めて?」

「たぶん……」

「ぶい……」

 

家の近くにも野生のポケモンはいた。

キャンプにだって、何度も行った。

だから、自分では野生のポケモンに慣れているつもりだった。

 

でも、今までと今日では何かが違う。

今日は、お父さんもお母さんもいない。

ゴーリキーもトゲチックもいない。

 

いるのは、私とイーブイだけだ。

 

「まず落ち着けば大丈夫。向こうが威嚇してるだけなら、ゆっくり離れればいいし」

「なるほど……」

「危なそうなら、ちゃんとポケモンに指示出して」

「指示……」

 

イーブイを見る。

 

「イーブイ、技使えるでしょ?」

「使える!」

 

それから、もう一度イーブイを見る。

 

「……よね?」

「ぶい?」

 

「何覚えてるの?」

 

「…………」

「ぶい」

「…………」

 

考える。

 

イーブイと遊んでいて、体当たりされたことはある。

砂をかけられたこともある。

たぶん、それがわざなんだと思う。

 

でも。

 

「イーブイ、なんだっけ?」

「ぶい?」

 

トレーナーが少し困った顔をした。

 

「スマホロトム持ってない?」

「あ、持ってる!」

 

ポケットを開けると、スマホロトムがふわりと飛び出した。

旅に出るからと、買ってもらったばかりのものだ。

 

「それで見れるよ」

「…………見れるの?」

「知らなかったの?」

「買ってもらったばっかりで……」

「ここ開いて」

「ここ?」

「そう。それで――」

 

言われた通りに画面を触る。

見慣れない表示がいくつか出てきた。

 

「あ、待って。どれ?」

「それ」

「これ?」

「そっちじゃなくて、その隣」

「あ、これ!」

 

イーブイも横から顔を寄せる。

 

「出た!」

 

画面に、見慣れた相棒の姿が映っていた。

その下に、いくつかの文字が並んでいる。

 

「えーっと……たいあたり、しっぽをふる、なきごえ、すなかけ……」

「ぶい」

 

「ほんとだ!」

 

思わずイーブイを見る。

 

「イーブイ、たいあたり使えるって!」

「ぶい!」

「知ってた?」

「ぶいっ!」

「そりゃそうか」

 

ワニノコのトレーナーが笑った。

 

「いろんなこと知っててすごいね!」

「いやいや、俺たちもまだ旅に出てから二週間くらいだよ」

「えっ、そうなの?!」

 

私とイーブイは思わず顔を見合わせた。

 

「技だけじゃなくて、いろいろ見れるから。旅するなら使い方覚えといた方がいいよ」

「そうする!」

「ぶいっ!」

 

画面を閉じる。

 

「じゃ、気をつけて」

「うん!本当にありがとう!」

「ぶい!」

「わにゃ!」

 

ワニノコが大きく手を振る。

私たちも手を振り返した。

二人の姿が道の向こうへ小さくなっていく。

 

風が吹いて、草が揺れた。

さっきヤングースが消えていった場所を見る。

もう何もいない。

 

「…………」

「ぶい?」

「イーブイ」

「ぶい」

「私たち、知らないこといっぱいあるね」

「ぶい」

 

少しだけ考える。

 

「……まあ、これから覚えればいっか!」

「ぶいっ!」

 

小さく頷いてから歩き出す。

 

数歩進む。

 

「…………」

「ぶい?」

 

立ち止まる。

 

「どっちだっけ」

「ぶい」

「…………地図見よっか」

「ぶい」

 

またリュックを下ろした。

 

*

 

街が見えてきたころには、空が夕方の色に変わり始めていた。

傾いた光が道を橙色に染めている。

私とイーブイ、ふたりぶんの影が伸びる。

 

朝からずっと背負っていたリュックは、もう肩にずっしり食い込んでいた。

 

「ついたぁ〜〜……!」

「ぶい〜……」

 

坂の向こうに、建物が並んでいる。

知らない街だった。

知らない看板。知らない店。

道を行き交う人も、連れているポケモンも知らない。

朝までいた町とは、聞こえてくる音も少し違う気がした。

 

その中に、見慣れた赤い屋根を見つける。

 

「あっ!」

 

地図を取り出す。

 

お父さんがつけてくれた丸。

 

目の前のポケモンセンター。

 

交互に見る。

 

「ここだ!」

「ぶい!」

「ちゃんと着いたよ!」

「ぶいっ!」

 

なんだか急に嬉しくなった。

 

朝、家を出て。

知らない道を歩いて。

棒で道を決めて。

サンドイッチを取られて。

ヤングースから逃げて。

知らないトレーナーに助けてもらって。

 

それでも。

 

ちゃんと、自分たちでここまで来た。

 

「……初日からいろいろあったね」

「ぶい」

「明日はもうちょっとうまくできるかな」

「ぶいっ!」

「できるよね!」

 

たぶん。

 

*

 

夜。

 

窓の外から、知らない街の音が聞こえていた。

遠くを走る車の音。

誰かの話し声。

ときどき聞こえる、知らないポケモンの鳴き声。

 

家なら、今ごろ何をしていただろう。

弟たちはまだ起きているかもしれない。

お母さんは片づけをしていて。

お父さんは――

 

「…………」

「ぶい?」

 

隣を見る。

イーブイがベッドの上に座って、こちらを見ていた。

首元には、今朝つけたばかりのリボン。

その先の小さな石。私の胸元にも、同じ石がある。

 

「……今日、楽しかったね」

「ぶい」

「サンドイッチ取られたけど」

「ぶい」

「ヤングースにも追いかけられたけど」

「ぶい……」

「…………」

 

顔を見合わせる。

 

「ふふっ」

「ぶい!」

 

なんだか笑えてきた。

 

「そうだ。今日教えてもらったやつ、もう一回見よ!」

 

枕元に置いていたスマホロトムを取る。

イーブイがすぐ隣に寄ってきた。

肩が触れるくらい近くで、二人で画面を覗き込む。

 

「えーっと……ここだったよね」

「ぶい」

「あれ?」

 

違う画面が開く。

 

「こっち?」

「ぶい?」

「…………」

 

記憶を辿りながら、いくつかの画面を開いては閉じる。

 

「あっ、出た!」

「ぶいっ!」

 

画面に、イーブイの情報が表示される。

 

「たいあたり、しっぽをふる、なきごえ、すなかけ」

「ぶい」

 

指で一つずつ追っていく。

 

「こうげきするときは、たいあたり」

 

イーブイがこくんと頷く。

 

「逃げたいときは……すなかけして、その間に逃げる!」

「ぶいっ」

「よし!」

 

これなら次は大丈夫。

 

……たぶん。

 

「で、しっぽをふるは……」

「ぶい?」

 

イーブイが立ち上がった。

 

ふりふり。

 

尻尾を振る。

 

「…………」

 

ふりふり。

 

「かわいい」

「ぶいっ!」

「……じゃなくて!」

 

慌てて画面を見る。

 

「ちゃんと効果あるんだった!」

「ぶい」

「なきごえは……」

 

説明を読む。

 

「…………なるほど?」

 

「ぶい?」

 

もう一度読む。

 

「…………」

 

「ぶい?」

 

「まあ、明日使ってみよ!」

 

「ぶいっ!」

 

スマホロトムを枕元に置く。

布団に潜り込むと、イーブイもすぐ隣で丸くなった。

 

部屋の明かりを消す。

薄いカーテンの向こうを、車のライトが通り過ぎていった。

 

知らない天井。

知らない部屋。

窓の向こうから聞こえる、知らない街の音。

 

でも。

 

すぐ隣から聞こえる小さな寝息だけは、いつもと同じだった。

 

「おやすみ、イーブイ」

「……ぶい」

 

目を閉じる。

明日は、今日より少しだけうまくできる。

 

たぶん。

 

旅に出て、最初の夜だった。

 

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