ここにやってきてから数日経った。
アナタは明朝に目が覚め、鉄格子のロックが解除されると氷上を起こさないよう静かに部屋を出る。朝の静けさと冷気に満ちた地下の廊下は少々肌寒く、眠気覚ましとして丁度良い。
一階へと向かい、食堂に入る。備え付けのバットから幾らかの料理をプレートに盛り、適当な席に座る。
独り占めの食堂は気分の良いものだった。
牢屋敷の料理はとても不味い。流動的だったりパサついていたりするそれらは、軍事レーションのような風貌とも言えた。
あくまでこれしか無いから食べる。これが一同の共通認識であった。
アナタは流し込むようにそれらを胃に収めようとする。
こんな朝早くからさっさと朝食を終えるのには理由があった。
端的に言うと、アナタは一人だ。
初日の一件から、様々な場面で甲斐甲斐しく世話を申し出る二階堂に問題ないと伝えることや、自室での氷上との少しの会話以外、アナタは人と会話をしない。
黙々と左手でぎこちなくスプーンを口に運ぶ。味を気にしだしたらもう駄目なのでさっさと飲み込んでいく。
そうしてしばらくの間食事をしていると、食堂の扉が開いた。
「あっ…」
初日のラウンジで角の方に丸まっていた──夏目アンアン、と名乗った白髪の少女が、アナタに気づき驚いた様子を見せた。
アナタはぼっちだとさっき言ったが、何もアナタだけのことではない。夏目もまさにそうだ。
スケッチブックを用いた筆談を会話手段とし、いかにも話しかけるなオーラを丸出しにする彼女は、アナタと同じく同室の城ケ崎ノア以外とはあまり話している様子は無かった。
(どうも)
目が合ったがアナタは口に物を入れていたので、心のなかでつぶやきながら軽く会釈する。。夏目もその様子に返すようにたどたどしく小さく頭を下げ、目的だった朝食を取ろうとする。
「えっ」
アナタは思わず声を出す。夏目はそれに気づき、少し眼光を睨ませアナタを見ている。
「…なんだ」
「いや、足りるかなって…それ」
夏目のプレートに乗せられた料理は、あまりにもちんまりとしていた。
「足りる」
「そ、そう…」
「あまりジロジロ見るな」
反抗的に言い切る夏目に、アナタは怯む。それ以上会話は無く、先に食べ終わったアナタは食器を片付け食堂を後にした。
─────────
放課後、掃除の時間。アナタは通常教室が並ぶ場所から離れた、音楽室前の廊下当番であった。
五人は居るはずの当番だが、ここにはアナタ含め二人しか居ない。いつもの事だ。サボりである。
アナタともう一人はすっかり受け入れ、今日も特に話すことはなく箒で掃いていた。
ある程度の年季が入った校舎なので、そこまで掃除する気力はわかない。生憎この場所は職員室からも離れているので、教員が出来を確認しに来ることもあまりない。
音楽室の中では、別の班が掃除をしている。全開の窓は十全に風を受け付け、黄色のカーテンが大きくなびく。
扉の窓から、大きな黒色のグランドピアノが常に黒板の前に見えた。アナタは何度かそれに憧れ、弾いている姿を妄想する。
鍵盤上でアナタの指が踊る様子。右手と左手が独立し跳ね、ギリギリの綱渡りのようなメロディを奏でる。
「先行くよ」
アナタたちも、音楽室の者たちも掃除を終え、部活があるものは部活に赴き、無いものは帰る。
アナタはもう少しだけ空想のピアニストとして、もう一人に手を振る。
もしも、幼い頃からピアノを教わっていたら、自分はどれほどの技巧を持ち合わせていただろうか。意味のないタラレバを、褪せた眼差しで眺めながら考える。
「弾けるんですか?」
───鈴だろうか。ちりん、と小さな音色が響く。アナタの横に、一人"追加"された。
その少女は最初から居たように、同じくグランドピアノを眺めている。アナタは思わず距離を取り、誰?と問うが、一向に答える気配はない。
少しだけ沈黙が二人の間に流れ、アナタは諦めたように言う。
「…弾けないよ、まったく」
「そうでしたか」
腰のあたりまであるクセのない白色の髪は雪の様だった。
彼女のいる場所は世界から切り離されたみたいに空気が澄んでいて、アナタの一回り小さい身体がやけに儚い。
「弾きたいならば、弾いてみては?」
「……」
初対面の男にずけずけと話しかけることができる彼女のような行動力があるなら、それも出来るんだろうなとアナタは心のなかで毒づく。
もう一度、音楽室に目をやる。グランドピアノは一層霞がかった古き思い出のように、褪せた写真のなかにあるみたいだった。
気がつくと、もう少女は居なかった。
─────────
筆を洗う水入れが濁りきっていた。ひっくり返して、新しく水を入れていく。そんな気分だった。
忌々しいこの魔法は変わらずこびり付いているとしても、これほどまでの劇的な環境の変化が、錆びきっていた心に油を差したのは確かだった。
「…ノア」
「んー?」
「呼んでみただけだ」
「えー?…アンアンちゃん、へんなの」
「…ふふふ」
意味はない。意味はないやり取りなのに、心を柔らかく包んでくれて、温かい。
純真無垢な彼女に、照らされるように暗がりの過去もやがて眩しく見えなくなっていく。
「…ノア」
「なーに?」
「ノアは、ここから出たいか?」
「んー…どっちでもいいかな」
「どっちでもいい、か」
「のあは絵が描けたらどこでもいいや」
眠る前の少しのおしゃべり。
ノアはそういう子だな、と改めて思う。きっぱりここに居たい、と言ってくれたらもう少し嬉しかったが、出ていきたい、と言われるよりは十二分にマシだった。
「でも、みんなは違うかも」
「……」
分かっている。大半の人間は故郷に残してきたものがある。
満ち足りることを、願っても良い人間たちなのだ。
「…ノア」
「うん」
「…いっしょに、居てくれるか?」
「…?うん」
ノアはいまいち要領を得てない様子だった。しかし、同時に聡い子でもある。
これ以上の感情の吐露は、自分自身がそれに気付くことを恐れ、出来なかった。
─────────
今日は寝付けなかった。
地下に満ちる冷気が、増して骨身に染みる。
ノアはまだ眠っていた。三つ編みのカラフルなツインテールは、ベッドに無造作に投げ出されている。
ノアは二階堂ヒロに身体を洗ってもらっているらしい。
頼んだらわがはいもやってくれるだろうか。
備え付けの洗面器の蛇口を少し捻る。滑らかに流れていく水にそっと指先を合わせると、冷たさで脳が覚めていくように感じた。
鉄格子を抜け、苔むした廊下に出る。
ふと溢れる欠伸を噛み締め、滲む涙をさっと払う。他に起きているものも居るだろうが、暗黙の了解のように依然として静寂を成していた。
「あっ」
─────食堂には先約がいた。目が合い、気まずい時間が流れる。
包帯が巻かれた右腕は、初日のことを安々と思い出させる。
ぺこり。一礼をして来た。
勝負事ではないが、先手を打たれたように感じ、慌てて返す。それによって気まずい雰囲気はどこかにいったようで、すんなり朝食を取りに行けた。
「えっ」
プレートに盛り付け終えた様子を見ていたのだろう。気の抜けた声が後ろから聞こえる。
「…なんだ」
「いや、足りるかなって…それ」
「足りる」
「そ、そう…」
「あまりジロジロ見るな」
少し語気を強めて釘を差す。不躾に見られると腹が立つ。
適当に席に座り食べ始めると、それ以上会話が交わされることはなかった。
やがて、先に食べ終えたあいつは多少手間取りながらも食器を片付けていく。
あまりジロジロ見ても、さっき言った言葉がブーメランになると思い、食事に集中する。
やつはそのまま扉を開け、出ていった。
「………」
ぽつんと食堂に一人になる。自分の食器の音と咀嚼音だけが響く。
からん、とスプーンを落とした。ため息を吐き、下をのぞき込む。机の足元に転がっていたそれを拾い上げる。
そこで完結する動作だ。
「……あ、れ…?」
視界が滲む。
自覚する。寂しいのだと。
嗚呼、夏目アンアンよ。それほどまでに人肌恋しいか。
ノアは、この
「…はは」
己のあさましさ。卑しさ。見苦しさに、みっともなく笑ってしまう。
分かっている。この屋敷に縛られるべきは、一人だ。
…なのに。
「…夏目、だよね…?」
「……は?」
自信なさげに、あいつは戻ってきた。
─────────
(名前間違えたか?)
アナタは必死に自己紹介の時の記憶を思い出す。間違ってはないはずなのだが。
夏目はただ分からない、といった表情で目を丸くしていた。
衝動的に戻ってきたアナタは会話の内容を全く考えていなかった。元より考えたところで適切な話題など思いつく気配もないが。
「……なんだ」
数秒の沈黙を経て、夏目はいつもの不機嫌な様子でぶっきらぼうに返す。
「あー…いや」
曖昧な返事で場を繋ぐが、かといってちょうど良く話のネタが思い浮かぶなんてことはない。ただイタズラに時間を浪費していく。
「…ナンパ、か?」
「そ、それだけは違う!」
夏目はわざとらしく身を抱きしめ、汚物を見るような目を送ってくる。
流石に全力で否定しておかないとあとに響きそうだと感じ、アナタは首をブンブンと振る。
「…あーっと」
「…手短にしろ」
夏目はより眉をひそめる。
もうすぐ他の者も食堂にやってくる頃合いだろう。この場を見られるのは、悪い訳では無いが不都合だ。
何か出さねば。
「…ちょっと散歩しない…?」
「……は??」
夏目は間抜けに呟いた。
─────────
アナタは初めて来た花畑の様子に心を踊らせていた。色とりどりの花々が咲き誇る様子は、屋敷の陰鬱さとは懸け離れたものだった。
「綺麗だ」
「……」
どこか不機嫌そうに口を結ぶ夏目を尻目に、アナタは夏目が外にいるところを見たことがなかったなと今更ながら思い出していた。
深呼吸すると、朝の空気が肺を占めていく感覚が癖になる。
「…何故、散歩になんか…」
「…引きこもってそうだったから…?」
「なっ…!」
異議あり、と夏目は納得いかない様子だったが、実際にそうだったので何も言い返せない。
アナタはその様子に苦笑する。
アナタは花畑の中の、比較的花が少ない場所に腰を下ろし、静かに空を眺める。ゆっくりと雲が漂っていく様子が心を穏やかにさせる。
夏目はアナタのゆったりする様に習い、花畑に座る。何重にも重なっている豪奢なスカートが円に、一つの花のようだった。
「…おい」
「ん?」
そのままじっくり時間が過ぎていくと、突然、夏目は顔を伏せ問うてきた。
「…あの時、何故、お前は二階堂ヒロを助けた?」
伏せた顔は、前髪の隙間からアナタの右腕を見ていた。
「…なんでだろう」
あの一瞬で判断したのだ。理由なんてないのかもしれない。
「…気まぐれ、か?」
だとしても、あの看守が鎌を振り上げた時点でこの後のことを想像するのは難しくなかった。だとしたら、本当に気まぐれなのか。
「…理由は、ないかもなぁ」
「……」
「あと、後悔もしてない」
「………ふん」
アナタは何者かになりたかった。何者かになれたら、全てが肯定される気がしていた。そうしたら、このしみったれた根性も性格も、すこしは認めてやれる気がしたのだ。
だからだろうか。"誰かを助けた"、この事実は確かにアナタの中で核となりつつあった。
「…まあ、すこしは自分本位な理由かもね」
それこそ、やらない善よりやる偽善。そうでないと人助けなどやってられないだろう。
「…そうか」
夏目は遠い、塀の奥を眺めているようだった。風がアナタの頬を撫でて通り過ぎていく。
「……お前は、ここに残りたいと思ったときはあるか?」
「え?」
帰れる見込みなどない。このまま何も起こらず一生を過ごすのかもしれない。
しかし、万が一、億が一にでも出れるならば。
帰りたくないと思っているのが自分だけだと、知るのが怖い。
「…いや、忘れろ」
アナタはその強がりが、"教えて"と言っているのだと感じた。
「あるよ」
「……」
夏目はアナタを見つめている。今度はアナタが遠くを眺める。
「…残してきたものはないのか?」
「たくさん置いてきたよ。おかげで肩が軽い」
これは一つの機会だとも感じた。今まで体を縛ってきた鎖が取れて、お前はどうするのか。
「…そうか」
夏目はパチパチと何回か瞬きした後、そう言って笑った。
「わがはいは帰る」
「送ろうか?」
「いらん」
夏目は立ち上がり、スカートのすそを軽く払う。その小さい背中が見えなくなるまで、アナタは微笑んでいた。
・アナタ…夏目にとってのミリアポジになりつつあるかも。
・夏目アンアン…帰りたくない人。